福永武彦のレビュー一覧
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短編八編を収録しています。
「未来都市」は、人間の非理性的な性格を消し去ることが可能になった都市にやってきた一人の芸術家を主人公とする、寓話的な作品です。時代背景を考えると、マルクス主義の芸術観に対する抵抗の意味が込められているのかもしれません。
「廃市」は、ひと夏のあいだ田舎の旧家ですごすことになった大学生の男が、その家に暮らす姉夫婦と妹とのあいだの愛憎劇を目撃することになる話です。
「退屈な少年」は、ひとりで心のなかに思いえがいた「賭け」に熱中する中学二年生の謙二を中心に、彼を取り巻く家族たちをえがいた作品です。端正な文体で、少年から青年になろうとする不安定な時代の心をえがいており、 -
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サナトリウムで療養生活を送ることを余儀なくされた「私」は、おなじ部屋の汐見茂思という男と知りあいます。彼は、周囲の反対を押し切って危険な手術を受けることをきめますが、その結果は彼に死をもたらすことになります。
「私」は汐見から託された二冊のノートを読み、彼がそれまで歩んできた道について知ることになります。そこには、弓道部の後輩である藤木忍と、その妹の藤木千枝子への愛と挫折がつづられていました。
プラトンの説く愛を信じ、それにしたがって藤木を求めた汐見は、そのために藤木を孤独へ追い込んでしまいます。一方、汐見の信じるようなプラトンの愛が現実において成立することを受け入れられない千枝子は、神へ -
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愛と孤独について。
祈りのような、音楽のような、美しい文章。
ああ、もっと、若いころに出会いたかったなあと思う。10代20代くらいの、寂しくて寂しくて仕方なかったころに。孤独と向き合い続けるのは辛いけれども、空っぽは、自分で埋めるより他にどうしようもない。
汐見の思う「愛する」ことについて共感できるところもあるのだけれど、やっぱり本当に藤木きょうだいを愛していたかとなると千枝子の意見に賛成…
「人から愛されることには何の孤独もない」と汐見は言うけれど、愛されていても孤独はなくならない、と思う。藤木くんもそう言ってた。
ふたりが愛を返したとしても、汐見の孤独はそのままそこにあるのだと思う。
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ネタバレかつて、藤本ひとみ氏が、コバルト文庫で活躍していた時代に、私はその作品を千切れるほど愛読していた。
10代の子供だったけれど、藤本さんの作品は少女小説という枠をはるかに超えて、若い読者に対し、愛をするとは、生きることとは、命を尽くすとは、繰り返し考えさせる物語を編んでいた。
本書『草の花』は、若い時代に受けた、あの強いメッセージと葛藤を、少し生き過ぎた私へ、再び、そして立ちどころに蘇らせた。
冒頭に、汐見のダンディズムを強く匂わせながら、彼を退場させ、遺された2冊の「ノオト」で、その過去を、生きる汐見の一人称で、現在として語らせる。この構成の巧みさが素晴らしい。
戦中から戦後に青春を送った彼が -
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画家の渋太吉は一人で旅に出ていた。蜃気楼が見られると言われて行った海の街で若い女性に出会う。自由で陽気で掴みどころがなく奔放。渋はすぐに彼女に惹かれてゆく。渋にはかつて愛した女性があったが、彼女とは不幸に始まり不幸に終わった。その後妻と結婚したが、その愛情は幸福に始まり不幸に終わりつつある。だから今度は幸福に始まり幸福に終わる関係を経験できるのではないか、そんな想いを持った。
だが彼女は安見子(やすみこ)という名前だけを伝えて去った。
(「安見子」は万葉集に出てくる「我もはや安見子得たりみな人の得がてにすとふ安見子得たり」という歌であり、「安見しし」というのは「心安く天皇が国を収めるという意味 -
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蜃気楼を「海市」と呼称するなんて、すてき
というちょっとミーハーなあこがれで読みたかった小説です
これも倉橋由美子さんが例の『偏愛文学館』で究極の恋愛小説とおっしゃっているのですが
ストーリーをありていに言えば
男の友人に失恋した女と結婚してしまった男と
結婚相手のうちの二番手と結婚した女が
ダブル不倫になった・・・ため苦しむ・・・
はあ?
勝手にしてクレい~~!
と言ってしまえば終わりなんで
そんな不合理な恋愛は破綻するってのは、常識
死者が出ますね
でも、不条理だから究極の恋愛物語というわけでして
蜃気楼でなくても幻の城郭をさまよう空想をたまらない楽しみに思う、 -
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「日本霊異記」(伊藤比呂美訳)
訳者あとがきで、伊藤比呂美さんはこの書に惚れ込んだ理由をこう記す。「なにしろエロい。グロい。生き死にの基本に立ち戻ったような話ばかりである。しかしそこには信仰がある。今のわれわれが持て余しているような我なんてない。とても清々しい。しかも文章が素朴で直裁で、飾りなんか全くない。性や性行いについても否定もためらいも隠し立てもない。素朴で素直で単純で正直で明るく猟奇的である。」(469p)
何しろ雄略天皇のセックスをたまたま見た小姓に向かい、天皇は場を取り繕うために「雷神を連れて来い」という話もある(15p)。これが、奈良県飛鳥の里に今もある「雷の岡」の謂れだ -
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堀辰雄の「かげろうの日記」と「ほととぎす」。
ここにはヨーロッパ仕込みの見事な「平安文学の心理小説化」がある。前回配本の森鴎外からもう一歩進んでいる?
平安貴族の生活が生き生きと描写されて、物忌みや、待っていることしか出来ない貴族女性の立場、子供のような道綱(藤原道綱)の振る舞い、揺れ動きながらたまに男を手玉にとる道綱母の行動など、なかなか興味深い。
道綱も成人したころに、夫は他の女に産ませた「撫子」という少女を連れてくる。次第に情が移ってきちんと育て始めたころに、頭の君が撫子を求めてひつこいぐらいに道綱に連絡する。「まだほんの子供ですから」と「いや一目だけでも」何度も何度も同じやりとりを