國分功一郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
受動態と能動態、どちらにも当てはまらない中動態について解説しながら人間の意志と責任について考える本。
言語学の部分は知見が少なく読みにくく感じたが、ギリシャ語から流れを読み解いておりとても丁寧に書かれている。
全てのものはお互いに作用し合っていて、最初の始まりを決めることはできない。
でも外部からの刺激をそのまま他に流しているだけではなく、外部からの刺激と、自身の持つ変状する力を掛け合わせて、それを外部へ伝えているという論調がしっくりきました。
全著、『暇と退屈の倫理学』よりも難解に感じました。
特にハイデガーの解説は難しかった…いつかちゃんと原本を読んでみたい。 -
Posted by ブクログ
10年近く前、学生時代に一度読んだはずなのだが、内容はあまり頭に入っていなかった。たぶん、当時はまだ、言語学的な「中動態」の意味をよく理解していなかったことと、本書の中で扱われている思想家についても、あまり理解がなかったために、なるほどー、と思いながら、大部分を読み飛ばしてしまっていたのだと思う。
その後、サンスクリット語の概略を勉強したこともあって、「中動態」の存在について勉強したのと、アレントとデリダについては、けっこうちゃんと勉強したこともあって、かなり本の解像度が上がった。
アレントのところ議論は、アレントの思想が割と好きなこともあって、少し違和感もあった。アレントが、「意思」の概念を重く見る理由は、ホロコーストのようなジェノサイドが、「意思」概念を放棄したような人間たちによって行われたことに対する問題意識があったからだと思う。そこの問題意識の分脈を考慮に入れずに、哲学的な厳密性において「中動態」を武器にアレントの「意思」概念を批判するのは、理論的には合っているのかもしれないが、すごく違和感がある。アレントの理論的な立論には問題があったのかもしれないが、『エルサレムのアイヒマン』とかからおそらく連続していると思われる問題意識を、「中動態」概念で批判する形は、たとえ合っているのだとしても、なんだかピンと来なかったというか、来たくなかった。
そう思っていたからこそ、文庫版の補論として、「責任」概念に対する話が追加でされていたところで、かなり納得のいく結論になった。
中動態を基礎に据えた思想は、意思の概念から必然的に距離を取るから、個人の概念からも一定の距離を取ることになる。それはすなわち、行為者を、過去からも周囲からも完全に独立した決定源とは見なさないということである。本稿の冒頭で、行為はその背景に無限に多くの原因を有しているのだから、一人の行為者によって排他的に所有されることはできず、無数の行為者によって共有されているのだと述べた。中動態の世界として描かれるこのような行為のあり方を指して、「行為のコミュニズム」と呼ぶことにしよう。(p503〜504)
個人の意思という概念は、過去に無限に考えうる様々な関係性や環境による影響を切り離して、その個人にすべての行為の原因を還元するための概念だとされる。こうした行為に対する態度を、筆者は、「行為の私的所有制」と呼んでいて、そこに対抗する概念が、「行為のコミュニズム」になる。
一見すると、行為をその周囲との関係性から見る考え方は、個人の責任をないがしろにするように見える。しかし、筆者によれば、個人の意思を前提としない、この中動態的な行為の把握こそが、むしろ責任という概念を可能にするのだという。
そのメカニズムを、当事者研究を例にあげて、免責による引責として説明しているのであるが、説明が込み入ってくるので、とりあえず、ここでの説明は飛ばしておく。それにしても、この「行為のコミュニズム」という考え方は、自分にとってタイムリーで、とてもしっくりとくる考え方だった。
中動態の世界においては、個人の意思に還元されるという意味における、個人の責任という概念は、成立しなくなる。ある意味、それは、責任の所在を曖昧にするように思われるけれども、そうして一度免責されることを通じて、そのコミュニティの中において選択をした主体として、引責が可能になってくる。中動態の世界というのは、行為の責任を一人に還元せず、全員で責任を取ってくれる空間だからこそ、一人ひとりが安心して、自分の責任を感じられる空間なのだと、自分は解釈した。
何か問題のある行為や出来事が引き起こされたとき、それを全て個人の責任に還元してしまうことが、根本的な解決に繋がらないという事態は、ありふれた事態だと思っている。そうした場において、責任とは、誰が引き受ける事態なのか。同じ出来事が起こらないためには、何を原因として捉えていけばいいのか。こうした事柄を再考するための概念として中動態は、非常に生きてくるのだと感じた。
中動態の世界がもたらす「行為のコミュニズム」という概念は、忘れずに心に刻んでおきたい言葉である。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ哲学の先生に
様々な悩みが届けられ、答えてくれるQandA形式。
悩みに対してズバッと答えてくれるものもあれば
文章から読み取れる人間性をグッサグサに刺してくれたり。笑
新しい形の悩み相談というか。
それはこうですね、こうしましょう。
とか、そういうことではなく
その人自身の根本に着目していて、面白い。
悩み相談って
実際は人が全く違う人について考えるんだから
最適解に出会えることなんて少ないと思う。
その人の周辺情報を知らないと尚更。
でも、文章から感じる人間性を深掘っていく感じが面白い。
悩み相談をして、素直に誰かの意見に従える人は
多分そんなに深刻に悩んでいないと思う。笑
だって、誰かに伝えて答えを教えてもらえばいいだけだもん。
答えにぴったり辿り着けなくても
自分ってこういう人間かも
相手はこういう人間かもって見方を変えると
違う世界が見えてくるかもしれない。
答えを出すんじゃなくて
答えっぽい方向にちょっと方向転換しているというか
自分の固定概念を他者につついてもらえるっていうか。
そんな本です。
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Posted by ブクログ
戦後の憲法学は、日本国民が自ら憲法の価値を理解し、自らの手でこの価値を担うようになること、つまり憲法に対する成熟した態度を養うことを目指してきた。しかし、第二次安倍政権下で憲法が危機に瀕した際に、国民は自らの手で憲法を守ることができず、天皇に頼ってしまった。このことを著者は「天皇への敗北」と表現している。
この主張を一定理解はすれど、そのまま自分の意見とするかどうかには留保があるべきだと感じる。また著者自身もおそらく読者自身が自分で考え、自分の意見を持つことを歓迎するだろう。
哲学講話シリーズを読んできた読者としては、ほとんど哲学への言及がないことに面喰らったが、いま読むべき本ではあると思う。
しかし一方で、「ではどうすれば」という点への踏み込みは限定的であり、読者がそれぞれ考えていかねばいけない問題である。 -
Posted by ブクログ
読む前
利他はほとんど存在しないでしょう
見返りを求めたり、「利他」的な行為をする自分に酔ったりしてるだけなのでは→結局は利己
でも、親が小さな子を守るみたいな行動は利他だといってもいい?
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いずれの章にも共通するものとして、「余白」「うつわ」、つまり自分の意志以外のものの介入を許しているということがあった。逆に、その介入を許さない場合、それは利他ではない
利他が「生まれる」(「する」ではない)時は、自然に、すなわち「オートマチックに」生まれるものであり、それは自分の意志ではなく何か大きな力がはたらいてこそのものである
3章〜5章で論じられていることが利他に結びついているのかあまりわからなかった。そもそも話の構造を理解できてないだけかもだけど
当初の私は利他を否定しつつも、これは利他といえるんじゃないかと思える事例が何個か思いついていたので、「余白」という言葉がしっくりきた -
Posted by ブクログ
難しい!
この本の中では今までの常識を捨てて考えなあかんから読み進めるのに時間がかかった。
日本語を使いながら英語勉強してる時みたいな、量子力学の授業聞いてんのかなとかそんな気分。
途中で著者が分かりやすい例を持ち出してくれた時なんかはちょっと理解できた気がしたけど。
例えば「物思いに耽る」とか「人を好きになる」なんかは能動受動では表せない言葉の例として出てきた。
「責任のある世界は、人が人に応答する世界である」
「銃身からは決して生じえないもの、それは権力である」
何個か熱い文章もあった。
責任を問うときに感じる感情を無碍にしてもいけないし、無罪放免にするわけでもないけど、一旦「近代的な責任」を棚に置いてその背景(行為のコミュニズム)から考察して責任を問わなければ本当の責任は発生しない。
的なことを著者は言ってはったのかな笑
なんにしろ一回では理解しきれないから何回も読んでいくと新しい発見があるように思えます。
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Posted by ブクログ
最近YouTubeで政治系の動画にハマりまくっております
政治おもろい
という訳で、またしても國分功一郎先生に教えを乞う
政治動画を見るときの視点に深みとコクが加わるに違いない
コクってなんやねん
本書は政治哲学の基本概念をホッブズ、スピノザ、ルソー、ヒューム、カントといった先人たちの中に見出していく構成
最も印象に残ったのは國分功一郎先生がカントを評して言った「ヒューモラス」というカタカナ語だったりする
意味はユーモアであるとかってことで、英語で書くと「humorous」
発音の通りにカタカナ語になったわけだが…
「humor」はなんでユーモア?ヒューモアじゃなくて?
「humorous」は「humor」の形容詞なんで、もちろん同じ語源、同じ発音
なんでユーモア?
調べてみたら、なんか後付け臭い理由が出てきたものの、やっぱりなんか気持ち悪い
あ!でもユーモラスとも言うな
普通に言う、むしろユーモラスの方が一般的な気もしてきた
そうなってくるとヒューモラスはなんか、特別感出てきたな
なんかインテリっぽい
國分功一郎先生が使ったからなんだけど、学者っぽい言い回し
よし、これからわいは一貫してヒューモラスを使う
いや、政治哲学一切関係ないことしか、残らんかった
なんかごめんなさい -
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利他に関する論考集。
第一章の伊藤亜紗氏は、合理的利他主義や効果的利他主義といった利他についてのトレンドを概観し、その根底には利他の効果の数値化があること、数値化により漏れてしまったり失われてしまったりすることがあると説く。利他の効果を数値化することは、自らの利他的行為が相手に与える影響を規定することに繋がり、押しつけや他者の支配に繋がる。そうではなく、予測不可能性を受け入れること。予想外の他者の反応によって、自らの方が変わること。これを「うつわ的利他」と表現しているが、相手を享けることのできる利他が、良き利他ではないかと述べている。
第二章では、中島岳志氏が、贈与論から利他を考察している。贈与は暗黙に返礼を要求しがちであり、古来より相手の支配や権力に繋がってきた。利己的でない利他をするためには、返礼を前提とせず、しかし「不確かな未来」による結果論的な間接的互酬性によって、良いことが返ってくることが望ましい。
インドで助けられたときに、ありがとうと言ったらかえって嫌がられたというのは、最近読んだ『ヘタレ人類学者、沙漠をゆく』にも繋がっていて、面白かった。
第三章以降は、民藝・中動態や意思と責任・小説史について論じられる。…が、利他という本書のテーマから見ると、寄せ集め感、取ってつけた感があるというのが正直なところ。「はじめに」で、5名の著者が共同研究しており、単なる論考集ではないと説明されるが、やや無理がある印象。
個人的には第四章の中動態の話は、その考え方のよい導入となったので興味深く読んだ。他の章も、読む価値が無いとは思わない。ただ、本書のテーマからは、やはり乖離がある内容だったとは思う。
なぜ利他が必要なのか、という点をもう一度考えてみたいというのが読後の印象。利他の必要性も、個人と、社会システムなどとでは異なるだろう。「必要」という考え方そのものが、利他とはそぐわないような気もする。
第一章で紹介された効果的利他主義は、共感を排除するという。共感ベースだと、身近な人や見えてる人以外への支援ができなくなってしまうからだという。一面では理解できると思う一方で、それは利他というより政治の領域なのでは?とも思った。政治に期待できないからそういうことになっているのかもしれないけど、でも、寄付や社会貢献的な文脈で利他を語るなら、政治や行政の働きとの区別については気になった。 -
Posted by ブクログ
●意志と責任について、思考の拠り所となる言葉の側面から考え、能動態と受動態の対立からなる思考ではなく、どちらにも属さない中動態から意志と責任をめぐる諸問題を分析した本。
●非常に読み応えのある本だった。本書のキーワードは、「中動態」と呼ばれる聞きなれない言葉だ。現在の文法には、能動態と受動態があるが、かつては受動態ではなく中動態が機能しており、のちに中動態から派生して受動態や自動詞が生まれたと本書では解説している。本書では、意志という概念を否定して、中動態の世界における責任のあり方を提示した。意志とは、何某かの加害行為について帰責性を問うために、突如出現する無根拠な概念であると説明する。このようは意志なるものから生ずるものとは、「誰かのせい」にして責任(のようなもの)を負わせる立場でしかない。このようなものは「責任」と呼べないというのが本書の主張だという理解をした。