鴨長明のレビュー一覧
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7月28日に熊本で震度7の地震が起こったとき、真っ先に頭に浮かんだのは熊本城の天守閣のことだった。
10年前の地震で崩れた石垣を数年かけて復旧し、ようやく元通りになったのがついこの間だったような気がする。
ニュースで外郭の城壁の一部が崩れる映像を見て、「またしても……」と言葉を失った。
天守閣の石垣は不幸中の幸い再び崩れることはなかったというが、今更ながらいつどこで起こるかわからない地震の恐ろしさを実感した。
震災の被害に遭われた方、避難生活を送られている方に心よりお見舞い申し上げるとともに、復興に尽力されている方がたに遠くからエールを送りたい気持ちである。
さて、方丈記といえば多くの人が、中学や高校の古文の時間に「ゆく川の流れは絶えずして」で始まる冒頭部分を暗誦したのではないか。授業で全文を読んだという人もあるだろう。
天災や人災が続く世の中の無常を綴った随筆文学の古典である。
元暦2年(1185年)に起こった大地震については次のように伝えている。
「又同じころかとよ、おびたゝしく大地震(おほなゐ)振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地(ろくぢ)をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、ひとつとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷(いかづち)にことならず。家の内にをれば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地われさく。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震(なゐ)なりけりとこそ覚え侍りしか。」
一語一語たどっていくと、あたかも「おほなゐ」の現場にいるかのような心地がする。
「方丈記」本文はたいへんに短い。文庫本にしてわずか30ページほどである。読んだことのない人はぜひ一読を、読んだことのある人もぜひ再読三読をお勧めしたい。 -
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「〔一八〕 また、たいそうかわいそうなこともあった。見捨てることのできない妻や、いとしい夫をもっているものは、その愛情が相手より深いほうの人が、きっと先に死ぬのだった。そのわけは、自分は二の次にして、相手をかわいそうだと思うものだから、たまに手に入れた食べ物をも、相手にやってしまうからである。だから、親と子で暮らしているものは、きまったことで、親が先に死ぬのであった。また、母親の死んでしまったのも知らないで、乳のみ子が、いつものように乳房にすいついて、臥しているのなどもあった。」
—『方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』鴨 長明著
「〔二一〕 また、同じころであったろうか。ものすごい大地震があって、ひどくゆれた。そのゆれ方といったら、なみなみのものではない。山はくずれて、川をうずめてしまい、海は傾斜して、海水が陸地をひたした。土が裂けて、水がわき出し、巌石が割れて、谷にころげ込む。海辺を漕ぐ船は波に翻弄され、道を行く馬は立つ足もとが定まらない。京都近辺では、あちらでもこちらでも、お寺の堂や塔が被害を受け、満足に残ったものは一つもない。あるものはくずれおち、あるものはひっくりかえった。塵灰が立ちのぼって、さかんに吹き上げる煙のようである。大地がうごき、家屋が破壊される音は、雷鳴とまったく同じだ。家の中にいると、すぐにでもおしつぶされそうになる。外へ走り出れば、地面が亀裂する。羽がないので、空を飛ぶわけにいかない。竜なら雲にも乗れるが、人間のかなしさ、それもかなわぬ。恐ろしいものの中でも、特に恐れなきゃあならないのは、ただ地震だなあと、しみじみ痛感したことだった。」
—『方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』鴨 長明著
「〔二二〕 こんなにものすごく震動することは、しばらくで止まったけれども、その余震はしばらくはやまない。これが大地震のあとでなく、ふだんならびっくりするくらいの地震が、一日に二、三十回ゆれない日はない。十日、二十日と日がたつと、だんだんに間隔が遠くなって、あるいは一日に四、五回、二、三回、または一日おき、二、三日に一回などいうふうになったが、おおよそ、その余震は三か月ほどもあったろうか。」
—『方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』鴨 長明著
「〔二三〕 仏教で説く四大種の中では、水・火・風の三つはいつも災害を起こすけれど、大地というものは、特別な変化をしないもので、安定しているはずである。昔、斉衡のころであったろうか、大地震があり、東大寺の大仏の御首が落ちなどする、ひどいことなどがあったけれど、その大地震も今度のはげしさにはかなわないということだ。そこで、今度の大地震を経験した人は、みなこの世がつまらないものだということを話しあって、少しは煩悩もうすらぐように見えたけれど、それから月日がたち、年が過ぎたあととなると、大地震のこと、それによって世のはかなさを嘆きあったことなどを、口に出していう人さえいやあしない。」
—『方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』鴨 長明著
「〔二五〕 仮に、自分が人かずにはいらないつまらない身分で、権力者の隣に住むことになったとすると、たいへんうれしいことがあっても、そのままの気持ちをあらわして、大いに楽しむことができない。悲しみが痛烈であっても、あらわに声を立てて泣くことができないのだ。行動すべてについて不安で、何をするにもびくびくしている様子は、たとえてみると、雀が鷹の巣に近づいたようなものだ。仮に、貧乏で、金持ちの家の隣に住んだとすると、朝に晩に、みすぼらしい自分のみなりをはずかしく思い、家への出入りにも、隣のごきげんをとるようなことになるのだ。妻や子が、また召使が隣をうらやましがる様子が目にふれるにつけ、金持ちの家の人が、自分たちをばかにして、いばりくさっている気配を感じとるにつけて、自分の心が、気にすれば、気にするたびに動揺して、一時として、安まることがないのだ。かりに、隣家のたてこんだ土地に住むとすると、近くに火事があった場合に、類焼をまぬがれることができない。かりに、へんぴな土地に居住するとすると、よそへの往来にやっかいで、盗賊におそわれる心配が多い。また、権力のあるものは、欲が深いし、身よりのないものは、他人から軽く見られる。財産があれば、心配が多いし、貧乏なら、人をうらやむ心が強いというぐあいだ。他人にたよると、自分が自分のものでなく、他人の所有になってしまう。他人を世話すると、その人に対する愛情にひかれて、心の自由を保つことができなくなる。世間のしきたりにしたがえば、自主性を失って、窮屈だ。したがわなければ、非常識な狂人みたいに見られる。──どこに住んだら、どんなことをしたら、しばらくの間だけでも、わが身を安住させ、ほんの少しの間だけでも、心の不安を休ませることができるのだろうか。──人間に生まれた以上、とてもできそうもないことだ。」
—『方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』鴨 長明著
「〔三一〕 また、この山のふもとに一軒の柴で葺いた小屋がある。それは、この山の番人の住む所である。そこに、小さい男の子がいる。時々やって来て、顔を見せる。もし、退屈している時だと、この子をつれとして、歩きまわる。かれは十歳、私は六十歳。その年齢はたいへんなちがいだが、散歩で楽しむことは、まったく同じというわけだ。ある時は、ちがやの花芽を抜いたり、苔桃をとったり、ぬかごをかき取り、せりを摘んだりする。ある時は、山すその田にいって、落穂を拾って穂組みをつくったりもする。もし、天気のよい日だと、山の頂上によじのぼって、遠くふるさとの空を眺めたり、木幡山・伏見の里・鳥羽・羽束師を見渡したりする。こんな風光のよい土地でも、持ち主がないのだから、気の向くままに眺めて、だれにもじゃまされずにすむ。歩くのに道がよく、遠くまで行きたい気分の時は、ここから峰つづきに、炭山を越し、笠取を通って、あるいは石間寺に参詣したり、石山寺をおがんだりもする。あるいはまた、粟津の原を通って、蟬歌の翁の旧跡をたずねたり、田上川を渡って、猿丸大夫の墓にまいったりもする。帰り道には、季節季節で、桜を眺め、紅葉をさがし、蕨を手折り、木の実を拾って、仏前にそなえたり、みやげにしたりする。もし、夜になって心さびしい時には、いおりの窓から月をながめて、旧友のだれかれを思い、猿の声を聞いては、感傷の涙を流すこともある。近くの草むらの蛍は、遠いはずの槇の島のかがり火に見まがうこともあるし、夜明け方の雨が、なんとなく、木の葉を吹き散らす嵐みたいに聞こえる時もある。」
—『方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』鴨 長明著
「山鳥がほろほろと鳴くのを聞いて、ふと父か母かと思い、峰の鹿が近く馴れて寄って来るのを見るにつけても、ここが世間から遠く離れているのがわかる。あるいはまた、埋み火をかき立てて、ねむれぬままの老の友とすることもある。恐ろしい深山というのではないから、梟の声もすごい感じはなく、かえって、ものあわれに聞こえるというわけだ。だから、こうして、山の中の情趣は、四季おりおりで変化に富み、興味のつきることがない。私でさえ、こんなふうに感じるのだから、もっと深く考え、高い識見を持っている人にとっては、以上に述べただけに限るわけではないはずだ。」
—『方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』鴨 長明著
「〔三三〕 いったい、人間の友人関係にあるものは、財産のある人を大切にし、表面的に愛想のよいものとまず親しくなるのだ。必ずしも、友情のあるものとか、すなおな性格なものとかを愛するわけではない。そんなことなら、人間の友人なんか作らずに、ただ、音楽や季節の風物を友とした方がましだろう。人の召使というものは、賞与が特別に多く、恩恵をたくさん受けられるのを第一とする。けっして、いたわって使ったり、生活が平穏無事だというようなことをば問題にしないのだ。そんなふうだから、召使なんかなしで、自分自身を召使とした方がましだ。」
—『方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』鴨 長明著
「〔三四〕 いったい、三界といわれる人間の世界は、ただ心の持ちよう次第のものだ。心が、もし安定していなければ、象馬とか七珍とかいわれる宝も、なんの役にもたたないし、宮殿や楼閣のような建物も、あったって仕方がない。今、私の住んでいる閑寂な住まい、それはたった一間の小家ではあるが、私自身でこれを愛しているのだ。何かのついでに都に出ると、わが身が乞食同様の姿になっていることを恥ずかしいとは思うけれど、帰ってきてここにいる時には、世間の人が名利にとらわれて、あくせくしているのを気の毒だと思うのだ。もし、私の言うことをあやしむ人があるなら、魚と鳥との様子を見たまえ。魚は、いつも水中にいて、その水がいやになることはない。魚でなければ、その気持ちはわからないはずだ。鳥は、林に住むことを希望している。鳥でなければ、その本心は理解できないのだ。私の閑寂な住まいの気分も、またこれと同じ道理だ。住んでみないで、だれがこのよさをはっきりつかもうか。わかるわけはないのだ。」
—『方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』鴨 長明著
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原文は想像以上に短い。推敲を重ね、無駄を削ぎ落として残ったものが、方丈記であり方丈庵なのだろう。
「完璧とは、何も足すものがなくなったときではなく、何も引くものがなくなったときに達成されるものである」を思い出した。ドラッカーとかジョブズとか多々引用されてるが、オリジナルは確かサン=テグジュペリだったか。
対句で物事を鮮やかに対比、列挙。繰り返しの語句による独特のリズムが味わい深い。
接続詞の使い方が印象的。語の意味や込められた思いは言うに及ばず、生み出される間が絶妙。冒頭の「しかも」は秀逸。
章分けはもとより段落や句読点も底本にはなさげ。著者が読み易さを考慮して追加か。読点がいい味を出しているが、多用しすぎの感も。
今なら、すわ盗作かと炎上しそうな箇所も少なからずある。解説によると、傑作を巧みに取り込んだ良質のオマージュ。
著者の長明愛が深い。好きすぎて、思い入れ思い込みが強すぎて、独断と偏見に基づく長明贔屓の解釈、推測、空想、妄想が解説に散見される。だが、それがいい。自覚はあるようで、一般には受け入れられていない自説には、定説ではない旨がちゃんと記されている。
なんか語りたくなる文章、超長文になったので以下割愛。 -
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[新訳]方丈記
乱世を生き抜くための「無常観」を知る
著:鴨 長明
編訳:左方 郁子
PHP新訳新書
紙版
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。……」
無常・無常観の文学「方丈記」
平安末期から鎌倉前期に生きた、風流人、鴨長明の作品である
リアリストである、鴨長明が描き出す、災害や災厄の数々
単なる歴史書が描く世界に比べて、臨場感あふれる世界は、死が常に人々の隣にあったことを示すようで切ない
母の命が尽きたのを知らずに、なお、乳を吸いながら眠っている幼い赤子のくだりは、無常ではなく、無情である
下鴨神社の後継者争いに敗れ、妻子を失ったと思われる鴨長明は、和歌と管絃に生きる
60を前に、出家して、草庵に引きこもった彼は、当時も、変人とみられていたようである。
災厄を本書では、不思議と称している。
四季のよそおいとともに、大火、遷都、飢饉、地震などの災害が京都を襲うさまが描かれています。
本人ではままならない移り変わりに、落伍者とみるのか、世捨て人とみるのか、生きることは今も昔も、すさまじきことと感じました。
目次
はじめに
「方丈記」訳文・原文・解説
序 人と住居は無常を競う
1 5つの不思議
安元の大火 不思議の①
治承の旋風 不思議の②
突然の都遷り 不思議の③
エピソード/古京は荒れて新都は成らず
養和の飢饉と疫病 不思議の④
エピソード/さまざまな悲劇
エピソード/死者の数をかぞえる法師
養和の大地震 不思議の⑤
2 方丈に暮らす日々
いかに生きるべきか
遁世のいきさつ
3 終の栖 日野の方丈
組み立て式の草庵
風流三昧の日々
少年と遊び、名所旧跡を歩く
静かな夜なら
わが身のための庵
閑居の楽しみ
結び 自ら問う
各論
鴨長明の生涯
重代のみなしご 下鴨神社の社家に生まれる
歌と管絃に励む前半生
短歌所の寄人に出世
大原に遁世 出家の内的動機
鎌倉への旅と日野の方丈暮らし
数寄と仏道を求めて
災害文学と無常観
大火の体験から
暴風と遷都の体験から
飢饉と地震の体験から
住居の文学
数寄と仏道修行
鴨長明略年譜
おわりに
ISBN:9784569803418
出版社:PHP研究所
判型:新書
ページ数:168ページ
定価:950円(本体)
2012年05月10日第1版第1刷発行 -
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岩波文庫の『方丈記』、まず表紙が良い。年月の経過を感じさせる上品な色合い、大昔の人が書き写した筆文字の上に印で押したような堂々とした「岩波文庫」。他の出版社とくらべても抜群に洒落ている。誰もが知る古典を倉庫の肥やしにせず、かといって変に安っぽく現代風に改変して台無しにするでもなく、しっかり現代に活かす絶妙なデザインではなかろうか。
それに手書き文字を見ていると、活字が発明される以前は本とはずっとこうして人が写して来た物だったのだなとしみじみしてきて、そうなるともう『方丈記』は自分にとって単なる歴史の記録ではなく、かつて自分と同じように、日々起きて寝て食べて、つまらない事にくよくよしたり、好きな事で大いにはしゃいだりしたであろう誰かが愛してきた随筆として、あらためて新鮮に生きてくる気がする。やはり装丁は大事だ。
内容も、鎌倉時代の古典だからと構えて開いたものの、思っていた以上に、すんなり意味が入ってきて面白く読めた。
もちろん1000年近い大昔の文章そのままではなく、現代人が読みやすいような形式にしてあり、全ページに古語や歴史背景の注がついた親切設計だからというのはあるだろう。おかげでちょっと分からなくてもそこを読めば99%普通に読めた。
そしてなんといっても母語なので、慣れ親しんだ表現もあれば、大昔も今も変わらない言葉も多く、言葉のリズムや響きからしてとんでもなく親しみを感じる。そこが大きい。鴨長明の文章と比べると、外国語は本当に外国そのものだ。語順にはめまいを覚えるし、辞書を引いても引いても無限に不明単語とイディオムが出てきて、多少分かるようになってきてもアウェイ感に苛まれる。
『方丈記』の文章が分かりにくいと感じる人たちはおそらく黙読しているのではないかと思う。その昔、読書とは音読だったと聞く。現代人もそれにならい、言葉の響きとリズムを楽しみながら、書かれている情景を思い浮かべ、それこそ鎌倉時代のペースで、ゆっくりゆっくり散歩をするように音読してみれば、見えてくるものは随分違うはずだ。
大地震や大津波等のアポカリプト的大災害が続いている今『方丈記』を読むと、今も昔も変わらない世の中が見えてきて、何があってもそんなに騒いで悲壮感に浸ることもないような気がしてくる。日々滞りないのが一番ではあるが、災害の存在そのものをあってはならない物とみなすのは自然を無視することだ。そもそも造山帯の上にある島国に自然災害が多いのは当たり前であって、温暖湿潤気候という生命豊かな風土と合わせて、自然の恐ろしさとありがたさを観念でなく己の現実として、いわば自然と一体化して生きて来たのがご先祖様たちであったと思う。『方丈記』にも酷い自然災害だけでなく、冒頭だけでも豊かな川の流れや朝露と朝顔の例えのような美しい自然が豊富に現れていて印象深い。なのにその子孫である我々が、自然を完全にコントロールし、征服することで生き延びてきた西洋人たちの思想を明治以降、必死に真似している。それこそ砂漠で履くために作った靴を田んぼで履いているようなもので、国土も人の心も疲弊して当然の話だ。
そこらの自己啓発本やセルフケア本に金を出すより、この600円弱の岩波文庫を買った方が、苛烈な資本主義に無茶苦茶になった現代日本人のメンタルヘルスは回復する。これは間違いない。
ただ、古文の基礎学習を受けていない場合はこれでも難しいかもしれない。国語学習から古文を無くしたら一般庶民はこうした文化の宝にも到達できなくなり、アウェイ感に満ちた舶来物を居心地悪く押しいただくしかない植民地の民になる。やはり基礎教育は国民の意識形成の根幹に関わるものなのだなと思うなどした。
ちなみに解説はあえて読んでいない。人の解釈を読み飛ばして分かった気になるより、直に鴨長明の話を聞いた方が得る物は多いと思う。
美術展覧会などに行っても、目の前にある絵画そっちのけで解説文を読むことばかりに時間をかける人たちがいるが、芸術は鑑賞者が知性や感性でもって作品と感応するという「体験」にこそ価値があるものではないか。古典文学も同じことだ。 -
Posted by ブクログ
方丈記は、鴨長明の無常観を感じ、隠遁生活の中で作られた作品である。本文自体が短く、読みやすかった。その上で、世間の暮らしを忠実に記し、人間の何かに迫られながらする生活を嘆いているように感じた。例えば、死ぬ人と生まれる人、建物を壊しては作る人、人間関係を気にする人がいるが、どれも一定のものではない。移り変わってゆくのである。可変的なものによって保身を図り、欲を満たすのは愚かであると長明は言っている。
私は誰もがこの事実に気づいているのに、見て見ぬふりをしている様に思う。その事実を淡々と語っているので、読者は「方丈記」を読んでいるときだけでも、達観した気分に浸ることができる。少なくとも、心を動かすような煽情的な表現を使っていないところが良いポイントだ。
また、隠遁生活の中で男の子を通じ合う点を見出す点から、気楽な人となら、関わりを持ちたいと長明は考えていたのではないだろうか。
交友関係や住居、見栄、欲望などは、他人と関わり、影響されることで生まれる。これを回避するために、隠遁生活実行する長明には驚かれる。しかし、考え方としては、私にも似たような部分があって、昔も今も人間は変わらないことを痛感できる。