鴨長明のレビュー一覧
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「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」
というのは、誰も読んだことのある方丈記の書き出し。
これだけ、読んで、分かった気になったのだけど、先日、「徒然草」を読んだ流れで、ついでにこちらも読んでみた。(すみません。ついでで)
これまで、どんな本だと思っていたかと言うと、「世の中は無常だね、世間に住んでいても空しいよね。山に引っ越して住んでみると、自然とか、季節の変るのはいいもんだね。ときどき、昔のことを思い出したり、好きな本を読み返したり。貧しい暮らしだけど、心はそれなりに満たされているね。まあ、こういうのも一つの執着なんだけどね」みたいなことが書いてあるのだろうと思っていた。
が、読んでみると、まさに「世の中無常」がどういうことか、ということを自分の体験した災害などを詳しく書いている。本当に、「世の中にある人とすみか」についての本です。
人やすみかが、いかにはかなく、移り変わって行くか、大火事や地震で、家(すみか)は焼け、こわれ、財宝は消滅し、人が亡くなり、子どもが亡くなり、親は泣き、愛する人のために食べ物を譲った人が先に死に、もやすものがなくなれば、仏像を壊してもやし、こうした悲惨さもときがたつと忘れ、また、同じような営みを繰り返す、というをこれでもか、と。。。
「無常感」といっても、「世の中つらいことばかり」というだけでなく、「常なるものはない、それが自然の流れ」とたんたんと受け止めたり、さらには「常ならぬことこそ美しい」と意味を見出したり、みたいなのがあると思うのだけど、方丈記での無常観は「世の中つらいことばかり」に近いかな?
いわゆる「末法思想」的な厭世観がつよいですね。貴族の時代から武士の時代に大きくかわり、秩序が崩れ、天災も頻発するなかで、人生の条件は厳しいものだったんだな〜、と。
そういうなか、都の生活を儚み、山に小さな持ち運び可能な小屋を立てるわけなのが、その理由がちょっと面白い。都に定住すると、火事の延焼とかあって、災害時には食料も足らなくなるので、山で、小さな可動式の家にすむほうが安全だ、といういう主旨のことが書いてあったりする。
いわゆる、災害に対する都市の脆弱性ということですね。
なんとなく、アメリカの哲学者エリック・ホッファーが、大恐慌時に、ちゃんとした仕事に従事して定住するのは危険で、季節労働者、肉体労働者として、いろいろな土地を動きながら、港湾労働やったり、農場で働くほうが、安定しているのだ、といったこと書いていたのを思い出した。
常識的には、?も多い見解だけど、なるほどの面もたくさんある。
震災後の今読むのに、相応しい本なのかもしれない。
ここから、なにを読み取るかはいろいろあると思う。 -
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鴨長明が源平合戦の頃に著した作品で、『徒然草』、『枕草子』と並ぶ、日本中世文学の代表的な随筆のひとつ。
作者の鴨長明は、古来の名族で上賀茂・下鴨神社の氏神を祖とする鴨一族に生まれ、7歳で従五位下の位階を授けられたが、18歳の頃に父が病死した後、一族の権力争いに敗れ、挫折感を噛みしめる20代を送った。そして、同じ時期に、本作品にも記される、安元の大火、治承の辻風、福原遷都、養和の飢饉、元暦の大地震という天災・人災に遭遇し、こうした体験がベースとなって、晩年に、「無常」をテーマとする本作品を書き綴ることになったのだという。
日本人は、「永遠なるもの」に美を感じ取る西洋人と異なり、「移ろいゆくもの」にこそ価値・美を感じる、即ち、「無常観」は日本人の価値観・生き方の最大の特徴とも言えるが、本作品の「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。」という第一章は、古今の作品の中でも、それを表す最も美しい文章のひとつではなかろうか。
本書には脚注、解説、年表等も付いており、時代背景などの理解に役立つ。 -
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鎌倉時代の歌人・鴨長明が晩年に残した随筆で、日本古典文学屈指の名文。著者が見聞し体験した大火、竜巻、大飢饉、地震と天変地異の記述が多く、日本で起こり得る不幸な出来事がほぼ書いてある。
さて最近、季節の移ろいを感じると、鴨長明や吉田兼好のような「隠者」に憧れを抱くことがある。俗世間を離れながら俗世間と交わる生活をし、出家といっても俗塵にまみれ、乱世に翻弄され、幾多の災害に遭遇し、挫折を味わい、辛酸を嘗める。そんな自分を脇から他者のように眺めることによって、この世の「本質」を深く見つめようとした隠者たち。こと長明の次々と京都を襲った災害などの記述は、優れたルポルタージュだし、優れた時代の観察者でもある。加藤周一の言葉を借りれば「逃避的文学」、言い得て妙なり。 -
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方丈記は以前読んだことがあるのだが、新たに角川ソフィア文庫版で再読した。
地震、台風(竜巻?)、火事、飢饉などの災害の記録として貴重なものだろう。そして平家物語冒頭と同様の無常観が著者のパースペクティヴを支配している。
この無常観はもちろん、仏教由来のものであり、鴨長明は出家して「隠遁」したのであるから、その地点に立っているのは極めて自然だ。
しかし現在の我々は「隠遁」する場所を失ってしまった。
隠遁がゆるされない無常の世界をいま生きている。この本を読みながらそんなことを実感した。
なお、この本は注釈が優れていて、現代語訳をいちいち参照しなくても読み進めることができた。 -
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ゆく川の流れは絶えずして、しかしもとの水にあらず・・・の名文で始まる方丈記は無常観がテーマの古典として有名だが、しかし同時に災害文学の側面ももっている。
昨年の東日本大震災も記憶に新しいが、過去の歴史をひも解いてみれば日本は災害の連続であったことが分かる。
方丈記にも大火や竜巻、飢饉に疫病、そして大地震と平安末期に起きたこれらの災害が記されている。
仏教に大きく影響を受けた鴨長明は、地位や名誉、金品や家などに執着する空しさを語るが、末法の世といわれた時代背景も影響を受けているのかもしれない。
彼の生きた時代は平家が栄華を誇り、そして壇ノ浦で滅亡した。彼ならずともこの世の無常を感じただろう。
現代に生きる我々を取り巻く環境も常なる物ではない。しかしその無常の中にあって変わらない何かを人々は探し続けている。
鴨長明も波乱に満ちた人生の中で、常に心の平安と安らぎを求めていたように・・・。 -
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2012年は、方丈記が書かれてからちょうど800年らしい。
こないだ、8月5日付の朝日新聞で特集があって驚いた。しかも漱石とのつながりで。
24歳の漱石が、ディクソンに頼まれて方丈記を英訳したのは1891年。
その当時の書簡を読んだりすると、どんな心境だったのかわかって面白い。
鴨長明は、たぶんものすごい寂しがり屋だったんじゃないだろうか。
わざわざ隠遁しておきながら、子どもと遊んじゃったりするし。
ほかの本(無名抄)とかでも、まだ歌のことグジグジ忘れらんなくて、かわいいよな。
長明の、人嫌いで、でも人恋しいカンジ。
この味がわからなくては。 -
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とりあえず一般小説というカテゴリに入れたけど違うな(^^;)
それはあとで直すとして・・・
『ゆく川の流れは絶えずして もとの水にあらず よどみに浮かぶ泡沫は かつ消えかつむすびて・・・・』
というフレーズは中学だか高校だか、古文の時間に皆さん一部は触れていると思います。私もそうでした。
当時の私は人付き合いが苦手で友人も中々作れず、ひとの輪に飛び込んでいけないのを美化したかったんでしょうなぁ。
無常とか孤独とかがすごくカッコイイと思っていてこの方丈記の一説がいたくお気に入りでした。
さりとて、全文きっちり読みこなしたわけでもない辺りがお粗末さまでしたー。 -
Posted by ブクログ
身の程を知り、何事にもしがみつかず、自然を愛で、足るを知る生活。
が、多くは「無常」に耐えられなかったのか、余剰生産は搾取を生み出し、もはや引き返せないようになった。
現代の無常観は、「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず」ではなく、「行く川のながれは絶えずして、ほぼもとの水である」という、無常というより空虚に近い。
同じ「むなしい」でも今と昔ではその意味が異なる。
鎌倉時代、大きな火事、嵐、地震を通して、鴨長明は「完全なものなんてねぇな」って思って、無常を知り、足るを知った。
が、現代(の一部)では、そういったことが起きた時に、「完全なものをつくるしかねぇな」と思っている。無常を知らない。