黒原敏行のレビュー一覧
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ネタバレ『すべての美しい馬』とこれと『平原の町』で国境三部作とのこと。
気になる.
そして1995年単行本を読んでいる.
最初に、主人公が夜寝床から起き出して、狼の姿を見守る場面でもう絶対にわたしの好きな物語だと確信したし、読み終わるのがすでにもったいないと思った。
そして読後、すばらしくて、訳わからなくて打ちのめされる。。。
主人公は手に入れたいものを追ってアメリカとメキシコの国境を3回越境する。2回は手に入れたいものが手に入らなかった、3回目は手に入れたけどほしいかたちじゃなかった、といった意味の文章がある。
狼を追っていって戻った後、まだ物語が続いて、なんでだろうと思っていたけれど、読み進めながらじわじわとそうかそうかこれでいいんだなと思う。そういうことなのだよ。
3部作の3作目も読みたい。そして、フォークナーの『熊』も読んでみなければ。 -
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芥川龍之介が書いた作品と伝記的エピソードをコラージュし、この世という地獄を彷徨う作家の姿を描いた〈芥川版ドグラ・マグラ〉のような幻想怪奇小説。
日本在住のイギリス人作家が英訳された芥川作品を使って書いた小説の邦訳、というひねった成り立ちで、発売当時から気になっていた一冊。とにかく黒原敏行の訳文が格好良すぎる! この小説は芥川をそのまま引用してるところも多いけど、だからこそ芥川とピースの文体をつなぐ役割を見事に果たしている訳文に痺れずにいられない。
そしてやはり語りの声こそ、この小説の肝だ。芥川の文章を切り貼りしたコラージュが、いつのまにか呪詛のような、読経のようなグルーヴを持つピースの声に変わったかと思えば、また芥川に戻っている。描きだされるのは芥川が幻視したのかもしれない地獄の世界。そこは、幽界と二重写しになったこの世そのものなのだ。
物語は、「蜘蛛の糸」のカンダタを芥川に入れ替えた「糸の後、糸の前」から始まる。蜘蛛の糸を離した芥川は地獄へ戻り、次の章「地獄変の屏風」では、虚も実も取り混ぜた芥川の前半生が語られていく。ということは、これも地獄の続きなのか? 以降の章は一応時系列どおりに芥川の生涯をなぞっていくが、常に死と滅びの予感が満ち、幽霊はすぐ触れられるところにいる。いや、これはむしろ幽霊の芥川がふらふらと現世を彷徨いながらみている半透明な夢なのかもしれない。だから読んでいて『ドグラ・マグラ』を、胎児がみている夢を書いたあの小説の面影を感じるのだ。
芥川だけでなく、ポーのモチーフも繰り返し現れる。特に名前がでてくるわけではないが、私の頭には『大鴉』のイメージが何度も浮かんできた("ネーモー"にも通じている気がする)。もちろん、漱石をはじめとして、菊池寛、斎藤茂吉、内田百閒ほか明治大正の有名人たちも登場。芥川の創作キャラクターも現実世界に侵食し、ドッペルゲンガーを演じる。
オブセッションに駆られたような"騙り"の呪力が漲る「地獄変の屏風」、漱石のロンドン留学時代とジャック・ザ・リッパーを絡めた「切り裂きジャックの寝室」、〈芥川のキリスト教〉を描いた「黄いろい基督」「悪魔祓い師たち」は特に好きだった。
2年前に初めて芥川作品にしっかりと向き合ったにわかの私には、下敷きになっている作品のうち本当に有名どころのものしかまだわからないが、だからこそ芥川の魔力とピースの魔力のミクスチャーに幻惑され、その暗黒世界にどっぷりと酔い痴れる体験ができたと思う。好き嫌いだけで言ったら、今年読んだなかでは一番好きな小説だ。こんなふうに私好みの地獄に出会いたくて、私は小説を読んでいるのだ。 -
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ネタバレ泣けた。静かに泣けた。夜の切なさに包まれたかのようだ。やはりウールリッチはすごい。
『喪服のランデヴー』に代表される連作短編集のように物語を紡ぎだすウールリッチのスタイルは健在。今回は夫の冤罪を晴らすべく浮気相手の4人の男と妻アルバータの物語として描かれる。
1人目はミアに魂を抜かれた元夫で人生のどん底の貧民街で暮らす男の話。
次はミアを麻薬の運び屋に使っていた違法医師の話でスリラータッチのこの話がもっともぞくぞくした。
3人目の男は資産家の遊び人だがとても魅力的な男との話。
そして最後の男はナイトクラブを経営する裏稼業に足を突っ込んだ男の話。
最初の2人目まではおろおろしながらも勇気を振り絞って犯人かどうかを探る初々しさと危うさが出ていたアルバータだが、3人目からは百戦練磨の女詐欺師の如く、恋は売っても愛は売らず、冷えた頭で犯人かどうかを洞察する女性に成長しているのが面白い。そして一人称で語られるがゆえにその人と成りが実は男を狂わすほどの美貌を持っている事を徐々に悟らせる事となる。
アルバータという主人公の魅力はこの美貌を備えているのにも関わらず、天使の如く純粋な心を捨てきれないところにある。浮気をした夫を刑務所から出すために犯罪まで犯す彼女の不器用なまでの純粋さは、夫の愛を超えた女の意地というものも感じられ、興味深い。
特に白眉なのは3人目の男、ラッド・メイソンの章である。
この男は心底アルバータを愛し、またアルバータも心を許した存在となる。しかし彼女は彼が犯人でない事を知ると去っていくのだ。犯人でない事を願いつつ、それが証明されると去らなければならないジレンマ。
お互いが魂で通じ合っているのに女だけが始まった時から別れがあるのを知っているという事実は胸を苦しませる。
しかし自分が窮地に陥ったときに助けを求めたのが彼だったことから、深く愛していた事を知る。そして衝撃の事実と結末。
切ない。切なすぎる。
メイソンの喪失感は特にふられた事のある者―特に男(もちろん私もそう)―なら痛切に判るだけに胸に鉛のように沈み込んでいく。
そして今回は今まで以上に特に名文が多かったと感じた。ところどころではっとさせられた。
そんな数ある名文の中から最も印象が残ったのはこの文章。
「(前略)ただ上を見るだけ―」(中略)憶い出が行く場所は下ではなく、上なのだ。
私はこの文章にこう続けたい。
だから私は上を向く。でないと涙がこぼれてしまうのだ。
誰もがロマンティストになる小説だと思った。本当にウールリッチは素晴らしい。 -
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登場人物の台詞に時折ぐさっとくることがあるはず。そのくらい現代にも示唆的な小説だった。
シェイクスピアの引用も面白い。そして切ない。
作者は1946年のあとがきで、われわれが権力を分散し、応用科学を人間を手段として使うためではなく、自由な諸個人からなる社会をつくるために利用する道を選ばないとすれば、取りうる選択肢は軍事優先主義もしくはそれがエスカレートした世界、もしくはここに書かれたようなユートピアの2つしかないだろうと言っている。偶然にも前者も未だ現実的であることを思い知らされている現状が世界で起きており、考え込んでしまった。
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2026年3月20日追記
・ポパー『開かれた社会とその敵』を読んでいたら、この本が引用されていることに気がついた。「人間が人間であるかぎり(つまり、『すばらしい新世界』が現実のものとならないかぎり)絶対的にして制約されることのない政治権力など存在しえない。」(カール・ポパー『開かれた社会とその敵 第1巻プラトンの呪縛(下)』21頁)
・そして、改めてこの『すばらしい新世界』のあとがきに目を移すと、私が2022年3月に憂いた「軍事優先主義もしくはそれがエスカレートした世界」だけでなく、応用科学技術によって人間が支配されたユートピアの選択肢までも起こり得る(起こりつつあるのかもしれない)世界が具体的に見えるようになっており、現状に絶望的な気持ちになった。同時にこれは、私たちが意思を持って「自由な諸個人からなる社会をつくるために応用科学を利用する道」をつくっていく必要性と、この本の先見の明および価値を示しているともいえる。 -
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グラントン隊というインディアンの頭皮を狩ることで賞金を稼ぐならず者集団が、殺戮を繰り返しながらただひたすら旅を続ける話。
アメリカ南部の広大な砂漠の自然描写、夜の焚火など、乾ききった風が物語全体から感じ殺戮描写がまるで自然現象のようにあっさりと描写され、殺戮巡礼の旅の合間に時折ホールデン判事が独自の哲学を語る。「人間は何かを懸ける遊戯が大好きであり戦争はその完成された作品だ。最高の作品が最高の語り手を待っていたのだ。」
殺戮と侵略、これがアメリカの歴史であり人類の歴史であるかのようだ。著者は事象のみあるがまま記述し自身の思慕を語ることはない。自然の摂理からすれば生命の倫理なんて人類がでっち上げたものにすぎず永遠の戦争状態こそ人類のあるべき姿だし自然のあるがままの姿なのだろうか。
読んでいると思わずホールデン判事に諭されそうになってしまいそうだが、もし判事の言っていることが正しいのならば、人類が長い歴史の中で永遠と続く闘争を克服しようとしてきたことも事実ある。この事実と判事の主張は矛盾してはいないかと個人的には感じる。(ホールデン判事からは自然の摂理を無理やり捻じ曲げているだけだと喝破されそうだが。)
また、あとがきで著者が語っていた内容が非常に印象的だった。
「流血のない生などない。人類はある種の進歩をとげて、みんなで仲良く暮らせるようになり得るという考えは本当に危険だと思う。そんな考えに取り憑かれた人たちはさっさと自分の魂と自由を捨ててしまう連中だ。そういうことを望む人間は奴隷になり、命を空虚なものにしてしまうだろう。」
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美しい風景描写に救われるが、そこに血の跡を残していくインディアン討伐隊。マッカーシーは汚れつつ生まれたアメリカ開拓期の一面にある、人と命を直視する。
半分ちょっと読み残している「平原の町」が気になるが、これはYasuhiroさんがレビューされた素晴らしい労作に感謝して「Cities of the Plain」を読んで解決したつもりになってます。
ビリーが繰り返す不幸そうな恋愛と、ジョン・グレイディの共演は面白そうですがなんだか気が乗らずおいてあったのですっきりしました。これも又機会があれば読みたいと思っています。
そして取り掛かったのが「ブラッド・メリディアン」でこれは読んでおかないと一応マッカーシーの締めにならないと思って。
あとがきでは「20世紀アメリカ文学屈指の傑作。歴史的現実を尊重するもの」とか。あちこちでこれは傑作だという評があふれています。でもしっかり理解できず多少のもどかしさが残るのです。特に、時を経て判事と少年が再会して何を話して何が起きたのか出会ったところでプツンと終わった理由がよくわからなかった。ここは勝手な想像でいいのだろうか。
少年(the kid)とだけ呼ばれる14歳の主人公は1833年に生まれている。まさにインディアン狩りの渦中に成長している。孤児になった彼は生きるすべとして誘われるままに頭皮狩りの一団に加わる。
文字通り頭の皮をはぐ、頭皮狩りのなんと血なまぐさい、残虐とくれば非道。なぶり殺し、斬り殺し、吊るし、もちろん葬りもしないが、時には穴に放り込んで埋めることはあっても、それは自分たちを守るため。
政府の政策で殺した頭の皮の数で金をもらう、米墨戦争の後兵士たちが仕事にあぶれ、生きるために選んだ仕事がインディアン狩りなのだ。
建国の途上にあったアメリカは、国土拡張路線で各地でインディアン排除の戦いが繰り広げられていた。西部開拓史の始まりは、戦争の歴史で、騎兵隊、インディアンともに名高い戦争英雄の物語を残した。だが人間の暗い行為の歴史の後を残してもいる。
マッカーシーはこの時代のド真ん中に筆をおいて書いている。
批判するでもなく同調するでもなく、登場人物の行為に沿ってリアルな光景を描き出している。
グラントン将軍を頭にした頭皮狩りの一団は、インディアン部落を探して、砂漠を渡り山を越えて、谷間の貧しい集落を襲う。これは実話に基づいていて隊員にはモデルがあったそうだ。
水辺で逃げまどう人々を狙撃し、動物を殺し、大人も子供も頭の皮をはぎ髪でつなぎ、首や耳を戦利品代わりに首にぶら下げて行進する。読み始めは泡立つような不快感があるが哀しいかな不思議に慣れて読んでいく。
中には逆に襲われて命を落とす隊員も出る。
町につくと皮を数えて高値で売り捌き、女と暴力、酔った勢いで手当たり次第の破壊行為、殺人、無法の限りを尽くし、町に入ったときは歓迎の声に迎えられたが、出るときは怯えた人々は顔も見せない。
主な人物は隊長のグラントン、ホールデン判事、元司祭、少年、黒人と白人の同名の二人。斥候に出るデラウェア族のインディアンたち。隊員が殺されたり死んだりして、隊員が減ると街で募集する。
障がい者の弟を連れた兄が加わる。グラントはなぜかその知的障がいをもつ弟を檻に入れて曳かせる。
何を思ったか迷い犬に餌をやりいつも連れている。
ヒューマニズムというものでもない、彼は隊に加えて連れて行き、不要になれば無残に切り捨てていく。
独特の存在感がある身長二メートルをこす無毛のホールデン判事。眉毛もまつげも頭髪も体毛もない禿頭の彼が聳えるように 登場すると不気味な空気に包まれる。外国語を自国語のように話し絵を描き、科学に通じ学識が豊かで、歌もダンスもうまい。何気に隊に加わりインディアンを無感動に殺し、自説をとうとうと述べる。その説や思想は 一面正当にも聞こえる。コーマックはこれ聞き流すように書き続ける。この説が彼の何に起因しているのかはわからないが、判事という人格の一面を著しているには違いない。
生と死に関した彼の説は興味深い。
人間は遊戯をするために生まれて来たんだ。ほかのどんなことのためでもでもなく。子供は誰でも仕事より遊戯の方が高貴であるのを知っている。遊戯の価値とは遊戯そのものの価値ではなくそこで賭けられるものの価値がということもね。
カード・ゲームをする二人の男が命以外に賭けるものを持っていないとしょう。こういう話は誰でも聴いたことがあるだろう。カードの一めくり。この遊戯をする人間にとっては自分が死ぬか相手が死ぬかを決定するその一めくりに宇宙全体が収斂する。一人の人間の値打ちを検証する方法としてこれほど確かなものはあるかね。遊戯がこの究極の状態まで高まれば運命というものが存在することには議論の余地がなくなる。あの人間でなくこの人間が選ばれるというのは絶対的で取り消し不可能な選択であってこれほど深遠な決定に何者の作用もはたらいていないとか意味などないという人間は鈍いとしか言いようがない。負けた方が抹殺される遊戯では勝負の結果は明確だ。ある組み合わせのカードを手にしている者は抹殺される。これこそがまさに戦争の本質であってその遊戯の意味も経緯も正当性も賭けに勝ったものが手に入れることになるんだ。こんなふうに見れば戦争とは一番確かな占いと言えるだろう。それは一方の側の意思を試しもう一方の側の意思を試すがそれらを試すより大きな意思はこの二つの意思を結び合わせるがゆえに選択を強いられる。戦争が究極の遊戯だというのは要するに選択の統一を強いるものだからだ。戦争は神だ。
言い切る判事は狂っているのか。戦争は神だ本能だと言い切る。
彼の信念はゆるぎなく、集まった人々に向かって延々と話し続ける。彼の肩にかけた袋には頭皮と引き換えた金貨や銀貨で膨れている。
神を信じない元司祭が時々反論する。
こういったシーンが多いが、一面狂ったような、しかしある時代にはそれが正義であった生き方を語る中に、難しい命についての論理(そうと言わないまでも一種の哲学)が挟み込まれている。無残に殺される人々は、選んでもいない環境や運命の中でもがいて死ぬ。
空を見上げる、時には雨上がりの霧に方向を見失うような何もない荒れた世界から平和に戻った文化文明は、ただ時の流れとともに人の知恵や力の結果生み出されるものだけだったのだろうか。
10日、半月あるいは何年も飢えや渇きに耐えて生き続け、罪の意識なしに同じ人間の命を奪う。狂った時代に生きた人々の、善悪を超えた論理を書いていく。
討伐禁止令が出て彼らは追われるものになる。
命がけの究極の選択(例えばユタ族との戦いで多くの犠牲を出し逃げる、砂の山を上るか下るか川を渡るのは生か死かというシーン)の中でも、マッカーシーは隊員のエゴそのままの無惨な風景を描写する。光るあるいは澄み切った言葉たちをつかって現実の風景を掬いあげる。続く作品につながる命と一体化した透明なほど美しい言葉が作る宇宙観は、ここから始まったのかと思いながら読む。
ここでも変わらない見事に澄み切った詩的な風景描写。月や星座の巡りや雷鳴や砂の流れや落日の描写だけでも無数にある。
マッカーシーの作品には心理描写がないといわれる中で、こうしたマッカーシーの目を通した風景から浮かび上がってくる、人の心に浮かぶ抒情の反映、優れた自然描写が虚空に繋がり心に訴えかける見事さは、残酷な行為を描いているにしても、時々しんとした静寂に包まれ深い感銘を受ける。
最後のページ
短いエピローグは何を意味するのだろう。大きな視野から見た人間の営みのことだろうか。
判らないたとえ(スパークする鉄球)の、不思議な文章だった。 -
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ネタバレこれは凄い。芥川を愛する著者の二次創作的な作品集かと思っていたけれど、それだけではない。さらに芥川の生涯を追い、死に至るまでを描いていく。
この描き方が半端ではない。その時代、その場所で見てきたのではないかという位リアルでありながら美しく幻想的。
「本当にこうだったのではないか」と思わされてしまう。
彼が魂を擦り減らしながら小説を書いていくのを身をもって感じ、特に終盤、こころを病んでからは剥き出しになった神経を持て余して苦しむ感覚が身に迫ってきて、乾いた筆致でありながら辛くて堪らず、死によって解放される感覚までも追体験してしまった気がした。
断片的に知っていた彼の人生をここまで見事に、彼の小説や彼を取り巻くものを使って描く技は圧巻。とてもきつい読書体験だったけどこういうのが読みたかった、これからモチーフとして使われた作品をまた少しずつ読んでいきたい。 -
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ネタバレいやー長かった。1冊の本にこんだけかかったの久しぶりやわ。本の重み(内容じゃなくて重量)で腕つりそうになるし、肩凝るし…。
話の筋は単純な冒険活劇勧善懲悪もん。地味な時計職人が巻き込まれていく全世界崩壊的悪巧みを防ぐために獅子奮迅の大活躍。
それだけの話にどれだけ盛るんやと…スチームパンクありゴシックありホラーありスパイ小説あり拷問あり格闘あり銃撃戦ありエッチあり百合ありショタあり…
バラエティとかてんこ盛りとか既存の言葉では言い表せんくらいに盛りに盛って、あちこち破たんしまくってそれでもとりあえず、力技で全伏線回収してる(と思うが数えきれんので分からん)
ほんで、これが大事なんだけど、最高にオモロい。書き込みが多すぎて読みづらいくせにオモロい。なんだこのパワー、なんだこの密度、小説家ってのは血筋で強くなったりするのか(作者はジョン・ル・カレの息子)。
ハーカウェイ、見逃せない小説家、遅まきながら発見したぞ!しかし、これよりスゲ―小説書かれたとして、俺の体力がもつのか -
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『彼はある郊外の二階に何度も互いに愛し合うものは苦しめ合うのかを考えたりした。その間も何か気味の悪い二階の傾きを感じながら―芥川龍之介「或阿呆の一生」昭和二年(一九ニ七年)』―『地獄変の屏風 HELL SCREEN』
芥川龍之介の文章から受けるイメージは読むたびにその鈍色(にびいろ)の光沢が薄れるような印象がある。思春期の頃には、まるで外科用の刃物のような鋭い光を放っていると感じたものが、読み返してみると、私生活が半透明の薄皮一枚のすぐ下に透けるような酷く生々しいものに見える気がする。形而上学的な言葉と思えたものが単に陳腐な感情の吐露だと判明してしまったかのようでもある。作家に関する余計な知識を得てしまったことが悔やまれる。にも関わらすまたしても芥川龍之介を題材にした小説を読んでしまう。
例えばそれは、シャーロック・ホームズを愛する推理小説家によるパスティーシュとしての推理小説のようなもの。そう読むならば危うさはそれ程でもない。しかしシャーロキアンがパスティーシュとしてコナン・ドイルの後半生を推理小説的に描いたなら生まれるであろう悲哀(例えば降霊会の逸話など)が、芥川龍之介という作家を描くこの擬似的な小説には溢れ過ぎている。作家自身の境遇、時代の変化、虚ろな大衆、震災、友の病、義兄の死。そういう一人ではどうにもならないものばかりでなく、彼自身に起因する幾つもの悩みが作家を擦り潰していく。書き遺された文章には、作家には必然と見えてしまった破滅的な将来像といつの間にか傾倒していた「神」の遣わされた「徴」の解釈が溢れていることがじわじわと河童というメタファーを通して炙り出される。
その裏側を更に仔細にかつ作家自身が遺した文章を軸に再構築し、その上芥川龍之介を模した文章にされてしまうと、あの銀色の光沢と思えたものの正体がまるで言い訳めいた独りよがりの心情の吐露であったのだと強制されるようで拒絶反応が起こりそうになる。だが、この小説がその諧謔的な構図を二重の翻訳を経て立ち上げていることを考えれば、日本人である自分は立ち向かわざるを得ないとも思う。「文芸的な、余りに文芸的な」と作家が記したように、文章の芸術的価値が話の筋にはないのであればなおさらのこと。作家はこのパスティーシュの価値を大いに認めながら、出来れば放って置いて欲しいとも思っただろう。「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」。結局のところ作家は自尊心の塊のような人であったのだ。
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英国の作家ジョセフ・コンラッドによって書かれた中編小説。20世紀における英語文学の傑作として知られる。仏国の貿易会社に雇われた船乗りマーロウが、アフリカの出張所を訪れるためにコンゴ川を遡行し、やがてクルツという名の代理人を求めて大陸の奥深くへ足を踏み入れるが……というストーリー。背景には当時のベルギー国王によるコンゴ自由国に対する苛烈な植民地支配が存在し、本作にはコンラッドの船員時代の経験が反映されている。
本作では語り手マーロウの出航から帰還までが作中作の形で展開し、プロットを辿れば物語の全体像は把握できるものの、作品を包み込む重厚なーーあたかも倫敦を覆う陰鬱な闇のような雰囲気が、テクストの表面的な読みを妨げている。通常の読書体験は《読者-語り手》という伝聞形態を取るが、本作では多重構造化によって《読者-私-語り手》という「又聞き」の形態を強いられる。我々は物語から一階層引き剥がされ、それゆえ出来事の意味が不明瞭に、闇の奥へと押しやられる形で抽象化されているように感じるのではないだろうか。つまり読者は小説からイベントの配列を読み取るだけでなく、その背後に潜む物事の意味を能動的に掴み取らなければならない。マーロウ自らが注意するように「生の感覚こそが、その経験の真実であり、意味でありーー捉えがたい深い本質」だとすれば、構造外から闇を覗き込んでいるにすぎない我々がその本質を捉えるのは難しいだろう。作中作の形式で書かれた物語は無数に存在するが、文明からの乖離を描いた『闇の奥』では構造化の効果が最大限に発揮されている。本作から「生の感覚」汲み取るためには、自身を取り巻く一切のコードを捨て去らなければならない。理性を失うことなく帰還したマーロウではなく、狂気と闇の深淵で死んでいったクルツのように。
『闇の奥』を帝国主義批判の書、あるいは人種差別的視点から描かれた啓蒙小説とする見方もあるようだが(訳者の黒原氏も述べておられるように)本書はそうした意図を持って書かれた作品と思えない。スウィフトにせよオーウェルにせよ社会批判を目的とするフィクションには特定の思想基盤に依拠する「現実から象徴」への寓話化プロセスが見られるものだが、本作ではあらゆるイデオロギーの上位に実存の不可解さが置かれている印象を受けた。知性による合理主義的な解釈を拒む語りは、むしろカフカの不条理さに通じるものがある。理由もなく毒虫に変身したザムザの姿は、やはり理由もなく近代的な人間性を剥ぎ取られたクルツの姿と被って見えてしまう。あとに残されるのは思想でも知性でもない、人間本来の混沌ーー闇だけである。 -
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ネタバレコーマック・マッカーシーの描く、国境3部作の第1作目。祖父が亡くなって、牧場が人手に渡ることとなってしまい、馬を愛する少年ジョン・グレイディ・コールは、相棒のレイシー・ロリンズとともにテキサスを出てメキシコへ向かう。
マッカーシーの技巧的ながら硬質な文体が、貧困と血と暴力の光景の中で、自然とそこにすむ生き物たちの美しさ、人間存在の確かさと不可解さ、友情の輝き、恋の激しさ、そして悲しさを描き出す。
原題は『All the Pretty Horses』。すべての馬が“Beautiful”でなく“Pretty”――強い印象を与えない好ましさ――であるのは、文中にあるように「馬という生き物は全体でひとつの魂を共有しており一頭一頭の生命はすべての馬たちをもとにしていずれ死すべきものとして作られ」るために「仮に一頭馬の魂を理解したならあらゆる馬を理解したことになる」という考え方のためかもしれないし、あるいは主人公が心から馬を愛しながらも、決して馬と同一化をはかったり神格化したりしない、孤独で高潔な魂の持ち主であるからかもしれない。 -
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ネタバレ長かった。そして大変面白かった。とてもとてもイギリスだと思った。
ミステリで冒険小説でSFで、そして元気なばあちゃん(失礼)が大勢活躍するあたりが実にイギリスっぽいと思ったの。
「モンティ・パイソン」みたいで。
紳士の国だけど労働者の国でもあるイギリス。
取り澄ましたところもあるけれど、下世話なところもあり、ブラックなユーモア(しかも結構なドタバタ)が大好きなのがイギリス人。
そんなわけで、最初は非常にとっつきにくいのです。
そうね、150ページくらいまで。
主人公はまだ30代だというのに、世界の片隅で時計の修理をなどを行う機械職人としてひっそりと生きている。
じーちゃんの技、じーちゃんの教えを忠実に守って暮らす堅実な日々。
そこには、大物ギャングつまり犯罪者であった父への反発も多分にあった。
それが訳もわからないうちに世界的な大陰謀に巻き込まれていくのである。
「何も知らない」と言っても信じてもらえない。
政府機関は、超法規的措置を取りジョーを追いつめる。
ジョーがなにも知らないから、読者も何もわからない。
とにかく世界の真実をすべて明らかにする装置の秘密を、ジョーがもっていることになっているのだ。
世界の真実がすべて明らかになったら、これ以上の争いは起きないだろうというのが開発者の思惑だった。
究極の平和が訪れるはずだった。
しかし人間はそんなに強くはないのである。
真実を受けきれない人々は狂ったり暴動をおこしたり、そしてそれを悪用して神と同じ高みに登るという野望を持つものが現われるに至って、それは世界どころか宇宙すら破壊するほどの最終兵器となる。
ここでまさかの神学的展開。
“しかし神の最も顕著な特徴、神の神らしいところだと誰もが思う側面は、沈黙だ。人間のことに対するあの偉大なる神々しい無関心だ”
“祖父の考えでは、神は(かりに存在するなら)人間が心のなかで何を考えているかなどお見通しで、そんなものになんの感慨も抱かない。そんな信仰よりもっといいのは、自分らしくふるまいつづけて、神になかなかよくやっていると思われるようにすることだ。だからもろもろの教訓や本質は日常生活のあらゆるもののなかに隠れている。世界の形を学べ、そうすれば神の心がわかるだろう。”
神さまは私に『神曲』を読んだからといって安心するな。
もっともっと考えろとおっしゃる(ような気がする)。
友の死の真相を追究するため、祖父が自分に残したものの正体を知るため、そしていろいろなしがらみのため、ジョーは敵に立ち向かう。
これまでの自分を捨てて、やらねばならないことのために自ら危険に飛び込んでい…っているはずなんだけど
“なんでいつもおれが逃げるんだ。(P586)”
思わず噴いた。確かに。
圧倒的に強い、神を目指している敵に対して、ジョーはあまりに普通過ぎて無力。
だから知り合いに、父の仲間だった人たちに、じーちゃんを知っていた人たちに協力を申し出る。
絶対者に対して、元気玉のようにみんなの力を借りるジョー。
国という形が残るならと、国民の犠牲を見てみぬふりをしている国の機関に対しても言い放つ。
“目的は手段を正当化するなんて言い訳はよせ。正当化しないから。目的にたどり着けないから。結局“手段”だけが幅をきかせることになるんだ。それが現状だ。”
祖父の世代からやって来たこと、父がやっていたことなどが現在のジョーに力を与えてくれるのだけど、それがまあ格好いいのよ。
両親がいて、祖父母がいて、仲間がいて、それらがジョーという人間を作っていったのだなあということが、最後の大活劇へと繋がっていくのである。
ただし、読むのは大変しんどいです。
1時間に40ページしか読みすすまない。
何度も登場人物表を読みなおして頭を整理しながら読んだけど、とうとう400ページ辺りで最初から読み直しました。
で、満を持して残り300ページを読みましたが、読み直してよかった。
いろいろすっきりしましたから。
大満足。 -
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ネタバレトラックの行き交うハイウェイの横を馬で南へと進んでいく、そんな印象的なシーンが序盤にあって、ある意味ここら辺から発展を遂げているアメリカに対する主人公の反抗的精神かうかがえる。
古き良きアメリカ――広大な大地を馬で駆け抜ける、そんな憧れが主人公ジョン・グレイディにはあった。
ちなみにジョン・グレイディは16歳。牧場経営の家に生まれ育ち、小さい頃から馬に慣れ親しんできたこともあり、将来は自らが牧場に携わるはずだった。しかし親父が死んでしまい、残された母は牧場を売り払うことを選択してしまう。
だからジョン・グレイディは国境を越えてメキシコに行くことを選んだのである。
そこには何かがあるのだ。それこそ馬に関わる仕事があるのではないか――だから友人のロリンズを連れて馬を走らせ南へと向かっていった。
アメリカの小説だなーと思う。アメリカが歩んだ歴史が下敷きとなり、おそらくアメリカ人はこれにノスタルジーを覚えるのだと思う。
馬を愛し、人間のかけがえのないパートナーとして信頼関係を結んでいく。解らないけれどさ、馬って人を惹きつける何かがあるよね(語りかけたくなるなうな、こちらの何かを察してくれるような気にさせれれる感じのさ……)。
たぶん馬のあつかいの上手い人間って当時は尊敬されたりしたんだろーね。
で、ジョン・グレイディは正しさも誤りもない馬の純粋さを信じていた。作中、そんな内省を語る描写はないけれども、ただ、グレイディは誰よりも馬を上手く扱うことができて、そして誰よりも馬に敬意を示している人間だったのです。ある意味グレイディ自身が純粋そのものだった。たぶんグレイディは馬と共に荒野を駆けまわたかった――そして馬を愛し、馬と共に人の役に立てる仕事を求めていたのかなーと僕は勝手してるんです(というのもマッカーシーの淡々とした描写は、いちいちグレイディの内省を描いたりしないのです。でもグレイディの行動の端々には、そうとしか言いようのない愛情が含まれている)。
メキシコ――グレイディは不法入国でこの国やってきた。
途中、ブレヴィンズという若者が旅の道連れとなった。そしてブレヴィンズの乗っている馬はあまりにも見事な馬だった。
しかし、その馬がメキシコの地で事件を起こすきっかけとなってしまう。グレイディを含めたアメリカからやってきた三人は誤解をされて馬泥棒の汚名を着せられることになる。
メキシコは彼らを放っておいてはくれなかった。彼らは結局、捕まって酷い仕打ちを受けることになる。
グレイディは自分の信念に従って決して折れることはない。時には死を恐れることもなく真っ直ぐに行動したはずだった。事実、馬は自分たちの馬であり、そもそも馬たちの愛すべき場所を求めていただけだった。
しかし事件がひと段落を迎えたころ自分の行動を振り返って、グレイディは自分は馬のように純粋ではなかったことを知る。時に必要のない人間を傷つけてしまったことに苦しんだ。
何故、人間は馬のように生きられないのか――グレイディはそんな人の愚かさを知って嘆いてしまうのです。
読んでいて読者は16歳の若者を苦しめたものの正体を考えてしまうでしょう。
グレイディの考えはおそらく青臭いものなのでしょうね。でも、グレイディの健気さに触れていると、我々は忘れてしまった純粋さを思い出すんですよ。そうだ――確かに、あの頃は何かに真っ直ぐだった。
グレイディほどに実直じゃなかったにしても、似たような理想は持っていたはずだ。
それから情景がいいんですよ。若者と馬と荒野――これがなんとも似合うんですよね。
読み終えて、いい小説だなーと、しみじみしてしまいました。