英国の作家ジョセフ・コンラッドによって書かれた中編小説。20世紀における英語文学の傑作として知られる。仏国の貿易会社に雇われた船乗りマーロウが、アフリカの出張所を訪れるためにコンゴ川を遡行し、やがてクルツという名の代理人を求めて大陸の奥深くへ足を踏み入れるが……というストーリー。背景には当時のベルギー国王によるコンゴ自由国に対する苛烈な植民地支配が存在し、本作にはコンラッドの船員時代の経験が反映されている。
本作では語り手マーロウの出航から帰還までが作中作の形で展開し、プロットを辿れば物語の全体像は把握できるものの、作品を包み込む重厚なーーあたかも倫敦を覆う陰鬱な闇のような雰囲気が、テクストの表面的な読みを妨げている。通常の読書体験は《読者-語り手》という伝聞形態を取るが、本作では多重構造化によって《読者-私-語り手》という「又聞き」の形態を強いられる。我々は物語から一階層引き剥がされ、それゆえ出来事の意味が不明瞭に、闇の奥へと押しやられる形で抽象化されているように感じるのではないだろうか。つまり読者は小説からイベントの配列を読み取るだけでなく、その背後に潜む物事の意味を能動的に掴み取らなければならない。マーロウ自らが注意するように「生の感覚こそが、その経験の真実であり、意味でありーー捉えがたい深い本質」だとすれば、構造外から闇を覗き込んでいるにすぎない我々がその本質を捉えるのは難しいだろう。作中作の形式で書かれた物語は無数に存在するが、文明からの乖離を描いた『闇の奥』では構造化の効果が最大限に発揮されている。本作から「生の感覚」汲み取るためには、自身を取り巻く一切のコードを捨て去らなければならない。理性を失うことなく帰還したマーロウではなく、狂気と闇の深淵で死んでいったクルツのように。
『闇の奥』を帝国主義批判の書、あるいは人種差別的視点から描かれた啓蒙小説とする見方もあるようだが(訳者の黒原氏も述べておられるように)本書はそうした意図を持って書かれた作品と思えない。スウィフトにせよオーウェルにせよ社会批判を目的とするフィクションには特定の思想基盤に依拠する「現実から象徴」への寓話化プロセスが見られるものだが、本作ではあらゆるイデオロギーの上位に実存の不可解さが置かれている印象を受けた。知性による合理主義的な解釈を拒む語りは、むしろカフカの不条理さに通じるものがある。理由もなく毒虫に変身したザムザの姿は、やはり理由もなく近代的な人間性を剥ぎ取られたクルツの姿と被って見えてしまう。あとに残されるのは思想でも知性でもない、人間本来の混沌ーー闇だけである。