田坂広志のレビュー一覧
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ネタバレその問いを、深く問い続けていただくために、 思想 / 現実に流されないための錨 成長 / 決して失われることのない報酬 目標 / 成長していくための最高の方法 顧客 / こころの姿勢を映し出す鏡 共感 / 相手の真実を感じとる力量
格闘 / 人間力を磨くための唯一の道 地位 / 部下の人生に責任を持つ覚悟 友人 / 頂上での再会を約束した人々 仲間 / 仕事が残すもうひとつの作品 未来 / 後生を待ちて今日の務めを果たすとき というキーワードをとりあげ、全一〇回のシリーズとしてお話ししました。
「君も、あの高校の悪い評判は聞いているだろう。 それなのに、なぜ君は、あの学校を選んだのかい」 そのときの彼の答えが、いまも忘れられません。 彼は、決して気負うことのない静かな口調で、こう答えたのです。 「たしかにあの学校は、非行や校内暴力が問題になっている高校だよ……。 だけど、そうした学校にこそ、本当の教育が必要なのではないだろうか……」
そして、私は、仕事において困難に直面したとき、 いつも、彼のあの言葉に励まされてきました。 私は、仕事において困難に直面したとき、彼の言葉を思い出します。 そして、思うのです。 それなりの大学を出て、希望すれば好きな学校を選べる立場にあった彼が、 あえて、誰も選びたがらない困難な道を選んだことの意味を。 そして、その彼の後ろ姿が、「なぜ我々は働くのか」という問いを、 私に思い出させてくれるのです。
「最近になって、ようやく仕事が見えてくるようになったよ。 振り返れば、昔は、見えていなかったことがたくさんあったんだな……。 いまは、仕事の裏の動きや、仕事の先の展開が、 いやになるほどよく見えるんだよ……」 「いまは、仕事をどう仕掛ければよいかが、よくわかるようになったよ。
だから、ようやく、やりたい仕事がやれるようになってきたんだ……」 そうした彼の発言を聞いて、私は、 彼が、ひとりのビジネスマンとして、 その能力を急速に開花させていることを感じました。
そして、さらに五年の月日を重ねたころのことです。 また、彼と会う機会がありました。 私自身も、ビジネスマンとしての道を八年も歩んだころのことです。 かつて彼が言っていた「仕事の裏の動きが見えてくる」 「仕事の先の展開が見えてくる」「仕事の仕掛けかたが見えてくる」 ということの意味がわかってきたころでもありました。
「仕事というものは、こころを込めてやれば、何でも面白いよ……」
彼は、その商事会社で、 商社マンという仕事が「天職」であるかのように活躍しています。 仕事においては上司や顧客から信頼され、 職場においては同僚や部下から頼りにされ、 ひとりの熟練のマネジャーとして活躍しています。 その彼の活躍は、いろいろなところから伝わってきますが、 たとえば、あるとき、私は彼の職場の同僚とふとした縁で知りあい、 酒の席で、その同僚から次のような評価を聞いたことがあります。
「あいつは、夢のある奴だよ。そして、あいつは志を持っている。 うちの会社には、いなくてはならない奴だよ……」
「仕事の報酬は、給料である」という世界を超えて、 その向こうに、何かが見えるようになってくるのです。 給料という報酬を超えて それが、おそらく、「仕事の報酬は、能力である」という世界です。 そして、それは、仕事をおぼえることが面白くなってきたときに 見えてくる世界なのです。 仕事の能力を磨くことが楽しくなってきたときに見えてくる世界な
そもそも、「できなかったことが、できるようになる」という体験は、 人間にとって本源的な面白さであり、楽しさなのでしょう。 だから、それが、だんだんと面白くなってくるのです。 とくに、企画力や営業力などの高度なスキルやノウハウが求められる仕事は、 それができるようになるのは大変ですが、ひとたびその能力を身につけると、 大きな喜びを味わうことができます。 新しいスキルやノウハウを身につけることの面白さが味わえるのです。 たとえば、企画力が求められる仕事には、 そもそも、新しいビジョンや戦略を創造するという面白さがあります。
また、営業力が求められる仕事には、 そもそも、生身の人間を相手に商品を納得してもらうことの喜びがあります。 そして、商品を納得してもらうためには、何よりも、 その商品を売ろうとしている人間を納得してもらわなければならない ということに気がついたとき、その喜びがさらに深まっていくのです。
そして、こうして仕事のスキルやノウハウを身につけていくと、 当然のことながら、自分の能力を周囲から認めてもらえるようになってきます。 社内のいろいろなプロジェクトに メンバーとして参加することを求められるようになります。 そして、それはそのまま、 「自分の能力が社内でどれほど必要とされたか」という形での
業績になっていくのです。 もちろん、勤めている会社が典型的な年功序列型の賃金体系であったり、 皆さんが入社したばかりの若手社員である場合には、 そうした業績が、そのまま給料に反映されるわけではありませんが、 自分のプロフェッショナルとしての能力が確実に高まっていくことに対して、 実感と満足感を持てるということはきわめて大切です。
最近、給料の高さだけに目を奪われて企業を選ぶ若い人々が増えていますが、 こういう人々を見ていて心配になるときがあります。 なぜならば、多くの場合、高い給料を与えてくれる企業は、 あまりスキルやノウハウを磨かせてくれないからです。 給料が高いだけ、即戦力的なものを求めるからです。 したがって、いきおい人材育成という視点は弱くなります。 しかし、逆に、給料は低くとも、人材育成という視点を大切にして、 若手社員にじっくりとスキルやノウハウを磨かせてくれる企業があります。
たとえば、自分でやってみたいプロジェクトの企画があったとします。 もし魅力的な企画をつくる能力も、 それを上司や顧客に売り込む能力もなかったならば、 そうしたプロジェクトの企画を実現することは決してできません。 逆に、仕事のスキルやノウハウを磨いていくと、 自分のやってみたい仕事ができるようになっていきます。 自分の企画し、提案したプロジェクトに社内の関係部局が賛同してくれる。 そして、顧客が採用してくれる。 そうしたことを通じて、自分のやりたい仕事をやれるようになってくるのです。 私の友人が語った、
しかし、企画力や営業力などのビジネスマンとしての能力を磨いていくと、 自分にとってだけでなく、会社にとっても、顧客にとっても、 さらには、社会にとっても、有意義な仕事を企画できるようになり、 自分にとって「やりたい仕事」と「やりがいのある仕事」が ひとつになっていくのです。 そして、こうした段階まで能力を磨いていくと見えてくるのが、
「仕事の報酬は、成長である」 すなわち、仕事を一生懸命にやっていると、 仕事のスキルやノウハウが身につき、仕事の能力が磨かれ、 ひとりの職業人として成長していくことは当然ですが、実は、それだけでなく、 ひとりの人間として成長していくことができるのです。 そして、その成長を実感し、その成長の喜びを味わうことができるのです。 では、この「人間としての成長」とは何でしょうか。 それは、「こころの世界が見えるようになってくる」ということです。
なぜならば、「働く」とは、「傍」を「楽」にさせることだからです。 そばにいる顧客や仲間を楽にさせてあげることだからです。 たとえば、顧客に提出する企画書ひとつでも、顧客の要求や希望だけでなく、 顧客が社内で置かれている立場や気持ちがわかっていると、 いわゆる「痒いところに手がとどく」ような企画書が書けるのです。 そして、そのことによって、顧客を楽にしてあげられるのです。
また、職場の仲間と協働して進めるプロジェクトにおいても、 単に仲間の能力や適性だけでなく、仲間の性格や気持ちがわかっていると、 プロジェクトを文字どおり「円滑」に進めていくことができるのです。 そして、そのことによって、仲間を楽にしてあげられるのです。 そして、こうして、顧客や仲間を楽にしてあげられると、 顧客や仲間の喜ぶ顔を見ることができます。 そして、その喜ぶ顔を見ることによって、私たちは、 自分の成長を実感し、成長の喜びを味わうことができるのです。
たとえば、自分でやってみたいプロジェクトの企画があったとします。 もし魅力的な企画をつくる能力も、 それを上司や顧客に売り込む能力もなかったならば、 そうしたプロジェクトの企画を実現することは決してできません。 逆に、仕事のスキルやノウハウを磨いていくと、 自分のやってみたい仕事ができるようになっていきます。 自分の企画し、提案したプロジェクトに社内の関係部局が賛同してくれる。 そして、顧客が採用してくれる。 そうしたことを通じて、自分のやりたい仕事をやれるようになってくるのです。 私の友人が語った、
生活のために毎日自分の労働力を切り売りしているという感覚
これからは、会社で働く俺が、 ジャズを愛するもうひとりの俺を食わせていくんだ……」
「この人は、かならず成長していくだろう」と感じます。 しかし、面白いことに、こうした「成長の方法」というものは、 無意識に身につけていることが多いのですが……。 では、こうした人々を分ける「成長の方法」とは何でしょうか。 実は、「成長の方法」ということには、いくつかの基本的な原則があります。 それをすべて語ると、それだけで一冊の本が書けるほどですが、 ここでは「仕事の思想」という文脈において 最も大切な「成長の方法」を述べたいと思います。 それは、何でしょうか。
それは、「夢」を語り、「目標」を定めることです。 夢を語り、目標を定めることが、 人間が成長していくための最も大切な方法であり、最高の方法なのです。
ハンバーガーをかじりながら話を始めます。 すると、話はすぐにどこまでも広がっていくのです。 スタートしたばかりのこのシンクタンクを、日本一のシンクタンクにしたい、 いや、日本一では目標が低すぎる、めざすならば世界一のシンクタンクだ、
などと、横で聞いている人がいれば 誇大妄想に思われるような話をしていたのです。 しかし、それは、最高に楽しいひとときでした。 ついさきほど肩を落として客先から出てきたことなど、すぐに忘れてしまい、 これから自分たちが創りあげていくシンクタンクの将来の「夢」を 語り続けたのです。
やはり、「夢を語る」ということが、 私たちに生き生きとした目標を与えたのであり、 その生き生きとした目標が、 それに向かって精一杯に力を尽くすエネルギーを生み出したのでしょう。 だから、そうした意味において、 「夢を語る」ということは、最も大切な「成長の方法」なのだと思います。 生き生きと夢を語ることが、 成長していくための最も優れた方法なのだと思います。
仮に、棒高跳びの練習において、目標となるバーを置かずに 「とにかく、飛べるだけ高く飛んでみろ」とやっても、決して記録は伸びません。 これは、走り高跳びでも、何でもそうです。 人間というのは、目の前に明確な目標があるから、 それに向かって力を振り絞れるのであり、 力を振り絞るから、力が伸びていくわけです。成長していくわけです。
「はい、次は、何メートルの高さ。さあ、飛んでみなさい!」 と言われただけでは、本当の力は出ません。 彼が、本当に力を出しきって跳躍するためには、やはり、 その具体的な「目標」であるバーの向こうに「夢」がなければならないのです。 彼は、その跳躍のとき、バーの向こうに「夢」を見ているのです。 それは、ときに「県大会での優勝」であったり、 「歴史に残る記録」であったり、それぞれではありますが、 そこに、たしかな「夢」を見ているのです。 そして、その「夢」があるからこそ、人間は力を振り絞ることができるのです。
だから、このように、人間の成長にとっての 「夢」と「目標」の役割の違いを理解しておくことが大切です。 それらは、どちらも、人間の成長にとって必要不可欠なものです。 しかし、それぞれの持つ意味と役割が違うことを 理解しておかなければなりません。
したがって、もし、誰かが本当にポジティブ・シンキングを行いたいのであれば、 その人に求められるのは、実は、「念の強さ」ではありません。 求められるのは、「無邪気さ」や「純粋さ」なのです。 自分の描く夢の実現を無邪気に信じることのできる力や、 その実現をただひたすら純粋に祈ることのできる力こそが求められるのです。 そして、そうした力は、ときに、「天が与える」とでも呼ぶべき 稀有な能力であることも、またひとつの事実なのです。
すなわち、「理想家」と呼ばれる人物は、 夢を実現するために変えるべき最も重要な現実が 「自分」であることを知っています。 目の前の企業や市場や社会という現実を変えていくために、 真っ先に変えるべきは「自分自身」であることを知っています。 ですから、「理想家」と呼ばれる人物は、 自分を変え、成長させていくための努力を惜しみません。
このことは、逆にも言えます。 すなわち、人前で堂々と夢を語るということは、 おのずとその発言に対する責任を負うことになるため、 自分自身を追いつめていくための優れた方法になるのです。 そして、人間が最も成長するときとは、 自分にとって達成できるかどうかわからないほど難しい課題に、 あえて挑戦し、退路を断って悪戦苦闘するときなのです。
ビジネスマンが若き日に描いた「夢」とは、「初心」にほかなりません。 そして、その「初心」とは、山登りにたとえれば、 「登るべき山を定める」ということです。 生涯かけて登っていく山を見上げ、深く見据え、胸に刻む。 そういうことです。 そして、そのようにして胸に刻まれた「初心」は、 そのビジネスマン人生を通じて、 決して変わらぬものとしてこころの深くにあり続けていくものです。
私の好きな世阿弥の言葉に、あります。 初心、忘るべからず。 ときどきの初心、忘るべからず。 老後の初心、忘るべからず。 この言葉が教えているものも、 「初心」を胸に刻み、生涯抱き続けて歩むことの大切さです。 そして、そのような「夢」や「初心」を胸に刻んで道を歩み始めた人間と、 そのような「夢」や「初心」を持たずに歩み始めた人間とでは、 それからの一〇年を超える歳月を費やして長い道のりを歩んだとき、大きな差がでる
「顧客」です。 仕事における「顧客」が、私たちにとっての「成長の鏡」なのです。 「顧客」こそが、私たちの姿を映し出す「鏡」なのです。
「企画というものは、 顧客に納得してもらって、はじめて『良い企画』と言える」 「企画が顧客に受け入れられないとき、 それを顧客の能力の責任にしてはならない」 この体験を通じて、私は、そのことを学びました。
だから、私たちビジネスマンは、深く理解しておいたほうがよいでしょう。 「厳しい顧客」こそが「優しい顧客」である。 そのことを、理解しておかなければなりません。
「黙って去る顧客」も、こころを澄ませ、注意深く見ていると、 かならずその文句や不満を「無言のメッセージ」として発しています。 たとえば、企画書の説明であれば、説明の最中の表情、頷き方、首の傾げ方、 目の配り方、こちらと目を合わせたときの視線、何気ない質問のニュアンス、 やりとりの呼吸、こちらからの問いかけに対する答え方の雰囲気、 会議全体の空気、最後に別れるときの余韻。 そうした、細やかなものに気を配っていると、 顧客の「無言のメッセージ」は、かならず理解できます。 問題は、私たちに、それを気づく力量があるかどうかです。
なぜならば、そうした「無言のメッセージ」を聞くためには、何よりも、 細やかな気配りや繊細な感受性、さらには鋭い直観力や深い洞察力など、 人間としての高度な能力が求められるからです。 そして、そうした高度な能力を身につけるためには、 たとえば、一回一回の顧客への営業において、 その場に全身全霊で参入するという修練が求められます。
そこで、残念な思いのなかで、私はH課長に対して、 「それでは、明日までに、プロジェクトの企画書を書き直して持ってきます」 と伝え、机の上の資料をかたづけ、その会議を終わろうとしました。 しかし、そのとき、私のこころのなかで、声が聞こえたのです。 「自分は、本当に、顧客に対してベストを尽くしただろうか」 という声です。 そして、その声に続いて、 「いや、まだ、言い残していることがある」 という声が聞こえたのです。
「このプロジェクト企画に関する修正の指示については、了解しました。 明日までに、かならず修正した企画書を持ってまいります。 したがって、このプロジェクト企画についての議論は終わったと理解しています。 ただ、最後に、もう一度だけ、このプロジェクトの社会的意義について 説明させてください。それを説明させていただければ、 それだけで、私は結構です。最後にあと数分だけ、お時間をください」
「以上が、私どもが、このプロジェクト企画を御社に提案した理由です。 そして、結果としては、このプロジェクト企画は委員会のご理解をいただけず、 不採用になりましたが、私どもの信念は変わりません。 このプロジェクトを実施することができるのは、御社だけであり、 また、このプロジェクトを実施することが、御社の将来にとって
かならず有益な結果をもたらすと、いまも信じています。 ただ、私どもは、お客様から仕事をいただく立場の企業です。 最終的には、お客様のご判断に従います。そして、そのご判断もいただきました。 ただ、お客様に対してベストの提案と説明を申し上げるのが、私どもの責任と 思いましたので、最後に、もう一度だけ、そのことを説明させていただきました。 話を聞いていただいて、ありがとうございました。 お約束どおり、明日までに、プロジェクト企画の修正案を持ってまいります」
実は、その理由は、「操作主義」にあります。 営業担当者が「操作主義」に染まってしまっているからです。 営業担当者のこころのなかに、顧客を説得して自由に操作しようという 無意識の「操作主義」があるからです。 営業担当者のこころのなかに、顧客を意のままに動かしたいという 無意識があるからです。
そうした営業担当者のこころのなかにある無意識の「操作主義」は、 顧客も無意識に感じてしまいます。敏感に感じてしまいます。 そして、その結果、顧客はその営業担当者に無意識に反発します。 だから、営業担当者が、こちらの立場で「顧客を説得してやろう」 「顧客を動かしてやろう」と考えているうちは、 顧客は説得されることもなければ、動いてくれることもありません。 ましてや、共感を得ることなど、決してありません。
しかし、不思議なことに、私自身が「万策尽きた」と観念し、 このプロジェクトの実現を諦めたとき、私自身の口をついて出た言葉は、 「こちらの立場」での言葉ではなく、「顧客の立場」での言葉だったのです。
「顧客と共感する」ということは、まず何よりも 「顧客に共感する」ということなのです。 こちらが、顧客の気持ちに共感するという行為が最初にあるべきなのです。 それにもかかわらず、私たちは、しばしば無意識に、 「いかにして顧客からの共感を得るか」 「どうすれば顧客からの共感を引き出すことができるか」 ということを考えてしまいます。
なぜならば、「共感」とは、相手の真実を感じとることだからです。 自分の価値観や世間の常識にとらわれず、 ただ虚心に「相手にとっての真実」を深く感じとることだからです。 しかし、そうした意味で「顧客に共感する」ということができたとき、私たちは、 またひとつ、「こころの成長」の階段を登っていくことができるのでしょう。 そうして顧客に共感することを通じて、 私たちのこころは成長していくのでしょう。
その意味を正しく理解するならば、「人間力」とは、そもそも、 日々の生活の場や仕事の場の「現実」を離れて身につくものではなく、 また、「人間力」の前提となる「人間学」についても、 日常の生活の場や仕事の場での「体験」を抜きにして、 決して学ぶことはできないものであることを、腹に入れておく必要があります。 しかし、それにもかかわらず、最近では、 「人間学」や「人間力」ということまでも、 書物で勉強しようという風潮が強いようです。
二人で酒を飲んでいると、その課長の問わず語りの愚痴話から、 その課長の抱えている「つらさ」が伝わってきたのです。 それは、会社における自分の処遇に対する不満や、 家庭における家族との軋轢の苦しさなどがないまぜになった「つらさ」でした。 この課長のこうした話を聞かされながら、しみじみと感じたことは、 「あのときの女性社員だけでなく、 この課長も、誰もが、つらさを抱えて生きている……」 という切なさでした。
この課長には、この課長の「苦しみ」があることを知りました。 そして、そのとき、この課長のことを「無神経な人間」というひとつの見方で 決めつけて見つめている自分の「浅さ」を感じたのです。 要するに、「裁いて」しまっているのでした。 さまざまな姿を持った人間の「こころ」というものを、単純な見方で決めつけ、 「あの人は、ああいう人」「この人は、こういう人」という決めつけをして、 自分のこころの深くで、人間というものを「裁いて」しまっていたのです。 不思議なほどの豊かさを持った人間の「こころ」というものを、 単純な決めつけで分類してしまっていたのです。
別な表現をすれば、「反面教師」とは「内面教師」なのです。 ほかの誰かの姿に、自分自身の「こころ」の姿が映し出されているのです。 そのことに気がついたとき、私は、「人間学」というものにおいて 最も大切なものが何であるか、すこしわかったような気がしました。 それが、さきほどの言葉です。 「人間」というものを深く見つめること。 そして、この言葉が真に意味しているものは、 決して他人の「人間観察」ではなく、 何よりも自分自身の「内面省察」にほかならないのです。
「人間」というもののそうした裏も表も見えるのが、若手社員の時代なのです。
だから、いま振り返ってみると、私自身、 新入社員の時代や若手社員の時代こそが、 最も豊かな「人間学」の学びの時代であったことを感じます。 逆に、残念なことに、会社においてある程度以上の地位についてしまうと、 ほとんどの人が「良い部分」しか見せてはくれません。 あごでこき使われることもなければ、怒鳴り飛ばされることもない。 そして、人間としての「悪い部分」を見せつけられることも、あまりなくなってしまう
それが人間の世界であるかぎり、エゴとエゴの衝突があります。 そして、そのエゴとエゴのぶつかりあいの結果、私たちは、ときに、 文字どおり「荒砥石」の上で砥がれるような思いにかられることもあります。 また、ときに、それが「切磋磨」という言葉にふさわしい 良き関係を生み出すこともあります。 しかし、いずれにしても、 そうした「荒砥石」の苦しみや「切磋磨」の苦労から逃げることなく、 相手の「こころ」に正対するという修練をしていかないかぎり、 私たちは、本当の「人間力」と呼ぶものを身につけていくことはできないのです。
しかし、人間と正対し、人間と格闘することを抜きにして、 私たちが「人間力」というものを身につけていくことはできないのです。 ひとりの人間として成長していくことはできないのです。 だから、私たちは、この言葉を胸に刻んでおくべきなのでしょう。 人間との格闘こそが、人間力を磨くための唯一の道である。
「たしかに、そうだな……。みんな、愚痴をこぼしているようで、 その責任の重さが、結構、働き甲斐になっているんじゃないのかな……」 この発言で、その場にいた仲間は、それぞれに、何かを感じたようです。
すなわち、これらの社会のエリートたちは、いざとなれば命をするまでに 自分たちの義務と責任に対して強い自覚を持っていたわけです。 しかし、実は、この「ノブリス・オブリージュ」という精神の伝統の 最も優れているところは、単に義務感や責任感が強かったということでは ありません。 その最も優れているところは、もうすこし深いところにあります。 それは、彼らが、その義務や責任を「喜び」としていたということです。
この「ノブリス・オブリージュ」の世界であると思っているからです。 すなわち、企業や組織においてマネジャーという「地位」を得るということは、 やはり義務と責任を負うことであり、そして、何よりも、 そうした義務や責任を負うことを、自分自身の「喜び」とする
しかし、本来、マネジャーを志望するということは、決して、 出世への階段を求めてでもなければ、給料が上がることを期待してでもない。 ましてや、大勢の部下を持って権力を誇示したいからでもないと思うのです。 マネジャーになるということは、 義務と責任を求めてなるものであると思うのです。
もう一つは、義務と責任が、人間を成長させてくれるからです。 マネジャーは、義務と責任を負うことによって、 ひとりの人間として大きく成長できるのです。 しかし、その意味は、さらに二つあります。 一つの意味は、「仕事のリスク」に責任を持つことによって成長できるというもの
ビジネスにおける仕事というものは、かならず何がしかの「リスク」があります。 それは生きた現実の世界であるかぎり、 決して「ゼロ」にすることはできないものです。 そして、決して「ゼロ」にすることのできない「リスク」に対して、 自分自身が最終責任を持つという立場に立つことは、 人間の精神を鍛え、成長させてくれます。 逆に言えば、過去にやってきた仕事において、 まったく「リスク」を取ることなく歩んできたビジネスマンは、 精神的な「甘さ」の抜けない「スポイル」された人材となってしまいます。
マネジャーが「部下の人生」に責任を持つということは、具体的には、 部下としてあずかる人々の、職業人としての成長や人間としての成長を 支えるということです
そのことに尽きると思っています。 マネジャーが、ひとりの職業人として、ひとりの人間として、 どこまでも成長し続けていくこと。 そのことが最も大切なことであると思っています。 そして、もしマネジャーが、どこまでも成長していきたいと願い、 どこまでも成長していくことができるならば、 部下は、黙っていてもその姿から何かを学んでくれるでしょう。
そうした発想の逆転をしたのです。 すなわち、マネジャーの地位につくとは、 逃げようもなく、部下の成長を支える立場に立つことであり、 部下の成長を支えるためには、誰よりも自分自身が、 職業人としての力量や人間としての力量を磨いていかなければなりません。 だからこそ、マネジャーの地位につくことによって、私たちは、 みずから大きく成長していくことができるのです。
地位とは、部下の人生に責任を持つ覚悟にほかならないのです。
「ノブリス・オブリージュ」の精神とは、 かつての「高貴な人の義務」という意味ではなくなっていくでしょう。 そうではありません。 それは、「高貴な人が覚悟する義務」という古い意味ではなく、 その逆の「義務を覚悟する人の高貴さ」という新しい意味を 獲得していくのでしょう。
たしかに、これまでも、 職場のマネジャーが部下の成長に責任を持つと覚悟を定め、 互いに切磋磨し、部下の成長を支えている姿には、 マネジャーが醸し出す「高貴さ」とでも呼ぶべき香りや雰囲気がありました。
マネジャーになるとは、 「責任が重いおかげで、報われる苦労ができる立場」に立つことを 意味しているのです。 それが、私の実感です。
部下の成長を支えることを通じて、 何よりも、自分自身が大きく成長していけるからであり、 それは、誰よりも、自分自身のためなのです。 他人の人生に責任を持つ者が、最も成長できる。 この言葉は、人生の「理」ではないでしょうか。
「いつもながら、不思議なやつだな……。 こんなときに、見透かしたように、ちゃんと現れる……」
「君たちの無期限バリケード・ストライキという主張には賛成できない。 しかし、それは、無期限バリケード・ストライキが難しいからではない。 それが、あまりにも簡単なことだからだ。 大した警備体制も持っていない大学職員の抵抗を押し切って、 教室の机を壊し、遊びごとのようなバリケードを築き、 無期限と称するストライキを打つことなど、実に簡単なことだからだ。 しかし、我々にとって、本当に苦しい戦いがあるとするならば、
それは『バリケード・ストライキ』でも、『国家権力との戦い』でもない。 いま我々が語りあっている『この社会をより良きものにしよう』という思いを、 大学を出たあとも長くこころに抱き続け、その思いを実現するために、 いかなる困難があっても歩み続けることではないのだろうか」 そうした発言でした。そして、彼は、その発言の最後を、こう締めくくりました。 「もし、バリケードを築くのならば、大学のキャンパスにではなく、 自分のこころのなかに築くべきではないだろうか。 もし、君たちが、本当に『この社会をより良きものにしよう』と 考えているのならば、聞きたい。
これから三〇年たったときにも、君たちは、 いまと変わることなく、その思いを持ち続けているだろうか」
顔を合わせることのない友人 これが、「友人」ということです。 何十年もの長き歳月を別々の道を歩み、 そして互いに顔を合わせることがなくとも、 互いに言葉を交わすことがなくとも、 無言の励ましを送りあうことのできる友人。 それが、私にとっての、「友人」ということの意味です。
しかし、私は、こうした「友人」の消息を知っても、 決して連絡をとったり、旧交を温めたりすることはありません。 それは、必要ないのです。 彼らも、また、歩み続けている。 そのことを知っただけで十分なのです。 なぜならば、まだ、私たちは、道半ばだからです。
全一〇回のこのシリーズ・トークも、いよいよ最後に近づいてきました。 第二話では、「仕事の報酬とは何か」について皆さんと一緒に考えてみました。 そして、「仕事の報酬は人間としての成長である」という 私の考えをお話ししました。 私たちが一生懸命に仕事をしたときに与えられる真の「報酬」は、 何よりも「人間としての成長」であるという思想をお話ししました。
「たしかに、君の言うとおりだと思う。 もし、逆に、自分が辞令一枚で鉱山に行かされたならば、 きっと、しばらくは落ち込むだろうと思う。 しかし、もし、それが受け入れなければならない現実であるならば、 自分は、落ち込んだままではいないと思う。 それが鉱山であろうとも、どこであろうとも、 かならず人間がいる。そして、職場の仲間がいる。 人間がいて、仲間がいるかぎり、きっとそこには夢がある。かならず夢がある。 だから、自分は、もし鉱山に行かされたとしても、 そこで夢を語りはじめると思う。その夢を花咲かせようとすると思う。 そして、もし、その鉱山からまた別のところへ行かされたら、
おそらく、そこでも同じことをすると思う。 飛ばされたところで花を咲かせようとするだろう。 我々は、タンポポだ。 どこかに飛ばされたら、そこでまた、大きな花を咲かせればよい。 自分は、そう思う」
「自分は、本当に、そんな生き方ができるのだろうか。 ある日、まったく違った世界に飛んでいって、 そこでまた、タンポポのように花を咲かせることができるのだろうか。 本当に、そんな生き方ができるのだろうか」
ひとつの夢を実現すると、新たな夢が見えてくるのです。 それが、「日本に、まったく新しいタイプのシンクタンクを創ってみたい」 という夢でした。
顧客が満足する商品やサービス。 それは、たしかに、仕事を通じて私たちが創りあげていくべき 大切な作品だと思います。 しかし、同時に、 もうひとつの作品を忘れてはならないでしょう。 夢と共感にあふれた職場の仲間。
かつて、深い縁に導かれ、あるひとつの職場に人々が集まったこと。 それらの人々が、こころをあわせて大きな夢を描いたこと。 その夢を実現するために、力をあわせて困難な仕事に取り組んだこと。 そうした仕事を通じて、それらの人々が、 互いに理解しあい、共感しあう「仲間」になっていったこと。 そして、その職場において、一人ひとりが仕事の喜びを見出し、 職業人として、人間として、大きく成長していったこと……。
かつて、深い縁に導かれ、あるひとつの職場に人々が集まったこと。 それらの人々が、こころをあわせて大きな夢を描いたこと。 その夢を実現するために、力をあわせて困難な仕事に取り組んだこと。 そうした仕事を通じて、それらの人々が、 互いに理解しあい、共感しあう「仲間」になっていったこと。 そして、その職場において、一人ひとりが仕事の喜びを見出し、 職業人として、人間として、大きく成長していったこと……。
そうしたことなど、いつの日か、 誰も思い出すことのないときがやってくるのです。 そして、すべては、忘却の彼方に消え去っていくのです。 すべては、忘れ去られていく……。 しかし、私は、思います。 だから、素晴らしいのではないでしょうか。 だからこそ、この「夢と共感にあふれた職場の仲間」という作品が、 かけがえのない素晴らしい作品なのではないでしょうか。
「いつもながら、不思議なやつだな……。 こんなときに、見透かしたように、ちゃんと現れる……」
顔を合わせることのない友人 これが、「友人」ということです。 何十年もの長き歳月を別々の道を歩み、 そして互いに顔を合わせることがなくとも、 互いに言葉を交わすことがなくとも、 無言の励ましを送りあうことのできる友人。 それが、私にとっての、「友人」ということの意味です。
我々は、タンポポだ。 どこかに飛ばされたら、そこでまた、大きな花を咲かせればよい。 自分は、そう思う」
「自分は、本当に、そんな生き方ができるのだろうか。 ある日、まったく違った世界に飛んでいって、 そこでまた、タンポポのように花を咲かせることができるのだろうか。 本当に、そんな生き方ができるのだろうか」
だから、私たちは、仕事に取り組むとき、 もうひとつの作品を忘れてはならないのです。 私たちの歩みが残す「職場の仲間」という作品を 決して忘れてはならないのです。
いつか誰かが、その夢を実現する。 そのことを、素朴に信じられるようになったからです。 この映画は、私に、そのことを教えてくれました。 たしかに、主人公のマックは 「自由」という夢を実現することなく死んでいきました。 しかし、その夢を受け継いだチーフが、 マックが成し得なかったことを成し遂げ、マックの夢を実現したのです。 そのマックとチーフの姿を通じて、 この映画は、ひとつの大切なメッセージを、私たちに伝えてくれます。
だから、もし、夢を描く私たちが恐れるべきものがあるとするならば、それは、 「夢が破れる」ということではありません。 そうではありません。 私たちが恐れるべきは、 「力を尽くさぬ」ということなのです。
私たちに問われるものは、 「その夢を実現するために、力を尽くして歩んだか」ということなのです。 問われていることは、そのことだけなのです。 だから、私たちは、夢が破れることを恐れる必要はない。 それを恐れることなく、大きな夢を描けばよい。 その夢の実現を、こころの底から信じればよい。 そして、力を尽くして歩めばよい。
そして、力を尽くして歩んだあと、 私たちがなすべきことは、ただひとつ。 未来に思いを馳せることです。 我々が去った後、いかなる夢が花開くのか。 その問いを胸に、未来に思いを馳せることです。
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Posted by ブクログ
運気をよくするための方法が、自分の人生にとって良いことであるのなら、科学的であろうと、なかろうと、それはいい方法だと思います。
説明できないのは、現代の科学ではそこまで発達していないから、そして、多くの宗教がそれを肯定するのであれば、経験的に正しい可能性があるから
田坂広志氏が論ずる世界は、現代科学の地平線に位置している領域なのかなと思いながら、読み進めています。
運気というものは、科学的には証明されていないが、誰もが心の奥でその存在を信じている
よい運気を引き寄せたいのであれば、心の中をポジティブな想念に満たす必要がある、さらにそうするためには、ネガティブが想念が心に思い浮かばないようにしなければならない
■よい運気を引き寄せる方法
①人生の習慣を改める
②人生の解釈を変える
③人生の覚悟を決める
■運気とはなにか
①直観が閃くこと
②予感が当たること
③好機をつかむ
④シンクロニシティ:不思議が偶然の一致が起こる
⑤コンステレーションを感じる 無関係な事柄どおしに、何か別の意味や物語を感じること
●引き寄せの法則 我々の心の状態が、その心と共鳴するものを引き寄せる
■5つの世界
①個人的な意識の世界
②集合的な意識の世界
③個人的な無意識の世界
④集合的な無意識の世界
⑤超時空的な無意識の世界
■なぜ愚痴の多い人から良い運気が去っていくのか
①表面意識の世界がネガティブな想念で満たされていると、我々は、本来、持っている力を発揮できなくなるから
②表面意識の世界がネガティブな想念で満たされていると、その想念が自然にネガティブな言葉となって口をついてでるため、周りの人を遠ざけてしまう
③人間同士のコミュニケーションの8割は、ノンバーバルだから
■個人的な無意識の世界とは
①無意識の世界の状況は我々の意識の世界から明確に自覚できない
②無意識の世界の力は強く、しばしば、それが、意識の世界に大きな影響を与えてしまう
③無意識の世界に働きかけて、それを意識的に変えることは容易ではない
・無意識の中にある自己懲罰意識が自分の人生の選択や行動を支配してしまうから
・人の人間が表面的に表している姿(表面意識の人格)と、その心の奥に潜む姿(無意識の人格)は、多くの場合、かなり異なっている
・人々の心は、深い無意識の世界で、互いにつながっている 枕元にたつ、デジャヴ(既視感)、予知夢、正夢
・未来の記憶:あるときの出来事が、あたかも未来を予見していたかのように感じられる現象
・現代物理学は、過去、現在、未来は同時に存在しているものとされる
■ゼロ・ポイント・フィールド仮説
①この宇宙のすべての場所には、「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ばれるエネルギー場が偏在している
②そして、この「ゼロ・ポイント・フィールド」には、我々の生きるこの宇宙の過去、現在、未来のすべての情報が記録されている
③したがって、我々の心が、この「ゼロ・ポイント・フィールド」に何らかの形でつながったとき、我々は、過去、現在の出来事はもとより、未来に起こる出来事をも予感、予見することができる
・神、仏、天 の実態とは、この、「ゼロ・ポイント・フィールド」に他ならない
・どこかから降りてきた、天啓のごとく与えられた
■なぜ無意識を変える方法では、その世界をポジティブな想念で満たすことができないのか
①我々の無意識の世界には、日々、多くのネガティブな想念が刷り込まれ続けているから
②我々の無意識の世界には、すでに、かなりのネガティブな想念がしみ込んでしまっているから
③我々の無意識の世界は、表面意識の世界と反対の想念が生まれる「双極的な性質」をもっているため、ポジティブな想念を抱こうとすると、逆に、個々の奥深くにネガティブが想念が生まれてしまうから
・人間は生涯において、その潜在能力の数パーセントしか開花できずに人生を終えていく
■心の中をポジティブな想念で満たす3つの技法とは
①無意識のネガティブな想念を浄化していく技法 ⇒ 心の浄化の技法
第1の習慣 自然の偉大な浄化力にゆだねる ⇒自然の中で、瞑想を行うのではなく、瞑想とは起こること
第2の習慣 言葉の密かな浄化力を活かす ⇒ネガティブな日常言葉を使わない ⇒ ポジティブな日常言葉を使う ⇒ 3つの言葉 感嘆、感謝、感動
第3の習慣 和解の想念の浄化力を用いる ⇒すべての人と和解する、心の世界で一人一人と和解する
⇒①結ぼれの内観、②感情の明確化、③相手との和解 ⇒ 心の中で感謝する、心の中で感謝の言葉を述べる
②人生でのネガティブな体験を陽転していく技法 ⇒人生の解釈を変えること
解釈の第一段階 自分の人生には多くの成功体験があることに気がつく
解釈の第二段階 自分が運の強い人間であることに気づく
解釈の第三段階 過去の失敗体験を振り返り、それが実は、成功体験であったことに気がつく
・あなたはいつ成長したのだろう
解釈の第四段階 自分に与えられた幸運な人生に感謝する ⇒天の配剤や、大いなる何かの導きに感謝する
・そもそもこうして生きていることが有り難いこと
・人は必ず死ぬ、人生は一度しかない、人はいつ死ぬのかわからない ⇒そうであるならば、我々の人生、たとえ何があろうとも、生きているだけでありがたい
③究極のポジティブな人生観を体得していく技法 5つの覚悟
1)自分の人生は大いなる何かに導かれている
2)人生で起こること、すべて、深い意味がある
3)人生における問題、すべて、自分に原因があると、引き受けること
4)大いなる何かが、自分を育てようとしていると受け止める 山中鹿之助 「我に、七難八苦を与えよ」、艱難汝を玉にす
・逆境とは、成長の最高の機会、脱皮と飛躍の好機である
5)逆境を越える叡智は、すべて、与えられると思い定める
・なぜ、「志」や「使命感」を抱いて歩む人物は、不思議なほど「良い運気」を引き寄せるのか
・不思議なこととは、直感、予感、好機、シンクロニシティ、コンステレーションである。
結論
なぜなら、われわれの人生は、現象的に何があろうとも、本来大いなる何かによって、必ず、良き方向に導かれる人生だからである。
そして、その大いなる何かとは、我々の心のの奥深くに存在する「真我」と呼ぶべき、我々自身だからである。
人生でおきること、すべて良きこと
目次
序話 非科学的と言われながら、誰もが信じているもの
第1話 「良い運気」を引き寄せるただ一つの条件
第2話 「良い運気」を引き寄せる「心の5つの世界」
第3話 なぜ、従来の「無意識を変える方法」が効果を発揮しないのか
第4話 「無意識のネガティブな想念」を浄化していく技法
第5話 「人生のネガティブな体験」を陽転していく技法
第6話 「究極のポジティブな人生観」を体得していく技法
終話 運気を磨く、心を磨く
謝辞
さらに学びを深めたい読者のために
ISBN:9784334044398
出版社:光文社
判型:新書
ページ数:288ページ
定価:820円(本体)
発行年月日:2019年10月
発売日:2019年10月30日初版第1刷
発売日:2019年11月20日初版第3刷 -
Posted by ブクログ
ネタバレいや、そうではない。実は、人間は、自分の中に「非」や「欠点」や「未熟さ」を抱えたまま、周りの人々と良き人間関係を築いていくことができるのではないか? その関係を通じて、良き人生を歩めるのではないか? それが、六五年の歳月を生きてきた一人の人間の、率直な思いでもある。 それゆえ、本書においては、「非や欠点の無い人間をめざして生きる」という視点ではなく、「非も欠点もある未熟な自分を抱えて生きる」という視点から、「人間を磨く」ということの意味を語り、そのための具体的な技法について語っていこう。 しかし、その本題に入る前に、この「人間を磨く」という言葉とともに、多くの読者が心に抱く疑問に答えておこう。 それは、次の疑問である。
その「小さなエゴ」に処する方法は、ただ一つである。 ただ、静かに見つめること。 それが、唯一の方法である。 例えば、自身の心の中に、誰かに対する「嫉妬心」が生まれてきたとき、「ああ、自分の心の中で、あの人に対する嫉妬心が動いている・・」と、静かに見つめることである。 ただ、このとき大切なことは、「静かに」見つめること。
例えば、一人のビジネスパーソンを考えてみよう。彼は、家庭においては、子煩悩な父親であり、しばしば子供を甘やかしすぎると、妻から苦言を呈されている。しかし、彼は、会社に行くと、辣腕の営業マネジャーとして、部下からも上司からも、一目、置かれている。けれども、ときおり実家に帰って母親と過ごすと、昔ながらの一人息子の顔に戻り、母親にわがままを言って好きな料理を作ってもらう。また、たまに高校の同窓会に行くと、気の置けない仲間と再会し、かつての冗談好きな楽しい雰囲気が表に出てくる。
また、昔から、経営の世界では、「経営者として大成する人間は、悪いことができて、悪いことをしない人間だ」と語られてきた。これは、自分の中に、「悪人」と呼ぶべき人格がありながらも、その人格を御していくことができる、「もう一つの人格」があることの大切さを語っている。すなわち、「悪いことができる人格」を自分の中に抱くからこそ、部下や社員が「悪いこと」に走る心境を察知し、彼らが「悪」に手を染めることを未然に止めることができる。また、取引先や競合企業が「悪いこと」を犯す可能性を考慮し、適切な予防対策の手を打つことができる。「経営者として大成する人間は、悪いことができて、悪いことをしない人間だ」という言葉は、そのことを意味している。
第一の視点 一つの理想的な「統一的人格」を持つ人間をめざすのではなく、自分の中に「様々な人格」を育て、それらの人格を場面や状況に応じて適切に使い分けることのできる人間をめざす。 第二の視点 自分の心の中の「小さなエゴ」を捨て去ろうとするのではなく、その「小さなエゴ」の動きを、静かに見つめることのできる「もう一人の自分」を育てていく。 第三の視点 ただ「理想的人間像」を論じるのではなく、そうした人間像に向かって一歩一歩成長していくための「具体的修行法」を身につける。 では、その「具体的修行法」とは何か? 我々が、この人生において、人間を磨き、人間力を高めていくために、どのような場で、どのような修行をすればよいのか? 端的に述べよう。 日々の仕事や生活における「人間関係」 それが、最高の修行の場であろう。
それは、次の七つである。 第一の技法 心の中で自分の非を認める 第二の技法 自分から声をかけ、目を合わせる 第三の技法 心の中の「小さなエゴ」を見つめる 第四の技法 その相手を好きになろうと思う
第五の技法 言葉の怖さを知り、言葉の力を活かす 第六の技法 別れても心の関係を絶たない 第七の技法 その出会いの意味を深く考える
それは、静かな一言であり、教授の眼差しは、弟子への愛情に溢れていたが、その一言は、私の胸に突き刺さり、生涯、心の中で鳴り響く言葉となった。 「君はね・・、可愛気が無いんだよ・・」 それは、恩師からの終生の教えでもあった。 なぜなら、何年か後に大学院を終え、実社会に出て働き始め、様々な人間関係の問題に直面したとき、いつも自分を救ってくれたのは、この言葉だったからである。
「君は、可愛気が無い」 この言葉は、実に的確に、当時の私の、人間としての「未熟さ」を指摘していた。 それは、私の心の中の「密やかな驕り」とでも呼ぶべきものを指摘する言葉でもあった。 人間であれば、誰でも、非があり、欠点があり、未熟さがある。 それにもかかわらず、「自分には非が無い」「自分には欠点が無い」と思い込み、それを密かに誇る心の姿勢。 教授は、その「密やかな驕り」「無意識の傲慢さ」を、当時の私の姿から感じていたのであろう。
そうした人間の心の中に根を生やしていくのは、「自分に非は無い」「自分に欠点は無い」という密やかな驕りであり、さらには、「自分は優秀だ」「自分は優れている」という無意識の傲慢さであろう。 そして、その密やかな驕りと無意識の傲慢さを伴った「優等生意識」が、人の心を遠ざける。 しかし、あの日、研究室を辞するときに恩師が教えてくれた、「可愛気」という言葉。 それは、素直に、自分の非を認め、欠点を認め、未熟さを認める、「しなやかな心」のことであった。 そして、その「しなやかな心」の大切さを教える「可愛気」という言葉が、三〇歳にして実社会に出た私の人生を支え、導いてくれた。 それから、実社会で三五年の歳月を歩み、この一人の未熟な人間が、有り難い人生を与えられ、いま、振り返って思う。 人は、非があり、欠点があり、未熟であるから、周りの人の心が離れていくのではない。 人は、自分の非を認めず、欠点を認めず、自分には非が無い、欠点が無いと思い込むとき、周りの人の心は離れていく。 しかし、そうした人がいる一方で、人生においては、その逆の姿を示す人もいる。
非もあり、欠点もあり、未熟さも抱えているのに、周りの人から好かれる人物がいる。 それは、なぜか?
このA課長とB社長、その部下や社員に「あのA課長、困った人だね」「あのB社長、嫌にならないかい」と聞いても、おそらく、こうした答えが返ってくるだろう。 「たしかに、あの大雑把な性格は、困るんですが、 あの課長、なんか憎めないんですよね・・」 「それは、怒鳴られた瞬間は、少し頭にきますけど、 あの社長、どこか可愛気があるんですよね・・」 では、なぜ、このA課長とB社長、部下や社員から嫌われないのだろうか?
まず、A課長、彼は、色々と欠点はあるのだが、何よりも自分の欠点を良く知っている。そして、それを、素直に仲間の前で認めている。 それは、会議室に入るなり「すまん、すまん!」と申し訳なさそうに謝る風情にも現れている。そして、「俺、また、やっちゃったな・・」という言葉からも、自分の欠点を自覚していることが伝わってくる。 そして、B社長、彼は、「短気で、すぐ怒鳴る」という欠点が出た後、社員に対して、直接に詫びることはしないが、無言のメッセージで、「怒鳴って、すまなかったな」という反省と謝罪の思いを伝えている。それが、彼なりの「たい焼き」の手土産であり、その無言のメッセージは、給湯室の会話のように、しっかりと社員に伝わっている。 すなわち、このB社長もまた、自分の欠点を、内心、素直に認め、反省している。そして、そのことを社員に対して、無言のメッセージで詫びている。
「経営者として大成する人間は、悪いことができて、悪いことをしない人間だ
このように、A課長やB社長が、人間としての至らぬところ、非や欠点を持っているにもかかわらず、そして、その非や欠点がゆえに周りに迷惑をかけているにもかかわらず、それが職場や会社の人間関係を甚だしく損ねていない理由は、二人が、自分の非や欠点を素直に自覚していることであり、さらに、その非や欠点を、周りの人間に対して率直に認めていることであろう。
なぜなら、仕事や生活において人間関係がおかしくなるときというのは、必ずと言って良いほど、互いに「相手に非がある」「自分には非はない」と思っているからで
あるとき、この先輩と二人で酒を飲みに行き、少し深い酒になったのだが、そのとき、彼が酔った風情で、こう語った。 「有り難いよな・・。俺みたいな、わがままな奴に、 みんな、よくついてきてくれるよな・・」 この言葉を聞いたとき、サークルの仲間が、彼をリーダーとして認め、彼に幾つかの欠点があっても、誰も悪く言わない理由を理解した。 彼は、自分の非や欠点を自覚し、認めているだけではなかった。その非や欠点を含めて、彼を受け容れてくれる仲間に、心の深くで、感謝していた。
感謝は全てを癒す
なぜなら、我々のコミュニケーションというものは、実は、「言葉のメッセージ」で伝わるものが「二割」であり、表情や眼差し、仕草や身振り、態度や雰囲気など「言葉以外のメッセージ」で伝わるものが「八割」だからである。 それゆえ、我々の心の中の「思い」は、「言葉のメッセージ」に表さなくとも、「言葉以外のメッセージ」を通じて、自然に、相手や周りの人々に伝わっていく。 そして、我々の心の中の「自分の非を認める思い」もまた、「言葉のメッセージ」に表さなくとも、自然に、相手や周りの人々に伝わっていく。 それが、この第一の技法として、「心の中で自分の非を認める」ということを述べる理由である。
ちなみに、著者は、若き日に、仕事の経験を通じて、この「心の中の思いは、言葉以外のメッセージを通じて、相手や周りの人々に伝わる」ということを学んだが、それゆえ、会議や会合における「こころの技法」として大切にしてきたことがある。 それは、会議や会合に際して、参加者一人ひとりに対して、心の中で「有り難うございます」と唱えるという技法である。
例えば、商談で、ある会社のA部長、B課長を訪問するとき、その会社のビルに入るとき、心の中で「A部長、有り難うございます。B課長、有り難うございます」と心の中で唱えることを習慣としてきた。 また、社内会議でも、その会議の席に着き、会議が始まる前の数分間、背筋を伸ばし、目を閉じ、参加者一人ひとりに対して、心の中で、「有り難うございます」と唱えるということも習慣としてきた。 こうした習慣は、難しい交渉が予想される商談や、厳しい議論が予想される社内会議において、事前に心を整え、心の中に「感謝の思い」を持つことによって、会議や会合の参加者に対して、ポジティブな「言葉以外のメッセージ」を伝えるために身につけたものである。
人間であるかぎり、誰もが、必ず、「非」や「欠点」や「未熟さ」を抱えて生きている。そうした人間同士が出会うとき、それが、家庭であっても、職場であっても、学校であっても、必ず、互いの感情がぶつかるときや、互いの心が離れるときがある。ましてや、職場とは、互いが、一つの仕事を成し遂げようと懸命に取り組む場。そこでは、なおさら、互いの心の不和や不信、反目や反発、対立や衝突が生じる。 著者もまた、一人の未熟な人間として、そうした人間関係の苦労を味わってきた。そして、おかしくなった人間関係を修復することや、そこから良き人間関係を築くということも、若き日に、その修行を積ませて頂いた。
自分から声をかけることをためらうとき、必ずと言って良いほど、この言葉が心に浮かび、「そうだ、だからこそ、自分から声をかけよう」と思うことができた。先ほど、「生涯、心の中で鳴り響く言葉」と言ったが、著者にとって、この言葉は、人間関係で壁に突き当たったとき、必ず、心の中で鳴り響き、ときに警鐘となり、ときに自分を励ましてくれる鐘の音となった。
気骨もあり、矜持も持ち、聡明な母であった。この息子の語る筋の通らない理屈も、理不尽な言葉も、すべて分かっていたはずである。しかし、母は、私から電話があったとき、必ず、自分から、「すまなかったね・・」と語った。自分に非が無いときでも、「すまなかったね」と語った。そして、深い思いの込められた、この母の言葉を聞くと、私は、いつも、固まってしまった自分の心が、静かに溶けていくことを感じていた。 私は、若き日に、こうした母の姿から、「しなやかな心」の大切さを学んだ。たとえ「自分には非が無い」と思える出来事においても、自分から心を開き、相手に対して声をかけ、ときに、相手に謝ることのできる「しなやかな心」が、相手の心に静かに沁み込んでいくことを学んだ。
そして、私は、実社会に出てから、この母の姿、「自分に非の無い出来事に対しても、自分にも非があると思って、真摯に受け止める心の姿勢」が、「引き受け」という「こころの技法」であることを学んだ。 この技法については、次の第三の「こころの技法」において語ろう。 すなわち、このY教授と母の言葉。人生において、人間関係の壁に突き当たったとき、誰かと心がぶつかったり、離れたとき、いつも、心の奥から聞こえてきたのは、Y教授が語った「君はね・・、可愛気が無いんだよ・・」という言葉であり、母が語った「広志・・、すまなかったね・・」という言葉であった。 そして、このY教授の言葉と、母の言葉が、いつも、自分の背中を押し、自分を励ましてくれた。そのお陰で、未熟な自分も、心がぶつかり、心が離れた相手に対して、「自分から声をかける」ということができたのかと思う。
一つは、こうして、自分の非を認め、自分から声をかけ、謝ることができたとき、ほとんどの場合、相手もまた、自分の非を認め、謝る姿を示すということ。すなわち、しばしば「相手の姿は、自分の姿の鏡である」ということが言われるが、この体験を通じて、その言葉が真実であることを学んだ。 もう一つは、こうして、互いが和解する瞬間とは、ただ、人間関係が元に「修復」される瞬間ではなく、互いが、さらに深いところで結びつく「深化」の瞬間であるということ。すなわち、互いの「小さなエゴ」がぶつかるという体験は、処し方を誤らなければ、互いの関係を、さらに深める好機であるということを学んだ。 そして、この二つのことを学んだことによって、人生を歩むときの大切な覚悟を教えられた。 人とぶつからない人生、心が離れない人生が、良き人生ではない。 人とぶつかり、心が離れ、なお、それを超えて、深く結びつく人生。 それこそが、良き人生である。
なぜなら、人間同士、ぶつかる前は、いかに表面的に良好な関係を築いていても、心の深いところに、「相手は、自分の欠点が出たとき、それも含めて、受け容れてくれるだろうか?」との不安があるからである。 しかし、たとえ、互いの「小さなエゴ」がぶつかり、互いに心が離れ、相手を批判や非難し、心を閉ざしても、それでも、互いに心を開き、謝り、和解するという心のプロセスを辿ることができると、心の深いところに、「相手は、自分の欠点や未熟さも含めて、受け容れてくれた」という安心感が生まれ、「受容感覚」が生まれる。 そして、我々は、誰もが、心の奥深くで、自分自身の欠点や未熟さを知っており、それゆえ、心の深層で、相手や周りの人々に対して「自分の欠点や未熟さも含めて、認め、受け容れてほしい」という密かな願いを持っている。 互いにぶつかった後の和解に伴って生まれる「受容感覚」が、互いの人間関係を、さらに深いところで結びつけるのは、それが理由でもある。
すなわち、その「自己嫌悪」の感情を消していくために、さらに相手の欠点や問題点を探し始めるのである。そして、そのことによって、「ああ、自分があの人を批判し、非難したことは、間違っていないのだ」と、自分の姿を、無意識に正当化しようとするのである。 心理学の世界では、例えば、ある新車の魅力を語ったパンフレットを読みたがるのは、すでにその新車を買った人であり、そのパンフレットを読むことによって、「自分の選択は間違っていなかった」と思おうとすると言われているが、このように、人間の心には、自分の過去の選択や行為を「正当化」しようとする傾向がある。 そのため、誰かと感情がぶつかり、心が離れたとき、その自分の行為を「正当化」するために、無意識に、相手の欠点や問題点を探し始めてしまうのである。 また、我々は、心の深いところに、「相手が、どこかで、自分を批判しているのではないか・・」や「相手は、誰かに、自分の悪口を言っているのではないか・・」といった「他者不安」の感情を抱くと、無意識に防衛本能が働き、「自己防衛」に向かい、その相手に対して、ますます批判的になり、ますます攻撃的になっていく傾向がある。
第一は、人間の心は、我々が思っている以上に、しなやかだ、ということである。 先ほどのエピソードにおいて述べたように、著者は、これまでの人生において、「自分の非を認め、心を開き、ときに、率直に謝る」ということを、自分自身の成長のための「こころの修行」として、様々な場面で行ってきたが、これを行って、相手が心を開いてくれなかった例は、実は、数えるほどしかない。
しかし、我々の心の中には、こうした性質を持つ「小さなエゴ」がある一方、「大きなエゴ」と呼ぶべきものもある。この「大きなエゴ」は、「小さなエゴ」とは逆に、「いまの自分を変え、さらに成長したい」「いまの自分よりも、さらに成熟した人間になりたい」と願っている。
すなわち、我々が、自分の非を認めることができないときとは、自分の心の中で、「小さなエゴ」の「自分は正しい!」「自分は優れている!」「自分は変わりたくない!」という声が「大きなエゴ」の声に勝るときであり、逆に、素直に自分の非を認めることができるときとは、「大きなエゴ」の「自分の至らぬところを認め、さらに成長していこう」「この未熟さを超え、人間として、さらに成熟していこう」という声が、「小さなエゴ」の声に勝るときである。
に従って動く人物からは、人間としての「謙虚さ」が伝わってくるが、逆に、心の中の「小さなエゴ」の声に支配される人物からは、しばしば、「傲慢さ」と呼ぶべきものが伝わってくる。 それは、なぜだろうか?
「人間、自分に本当の自信が無いと、謙虚になれないんですよ」 この言葉を聞くと、すぐに、「それは、逆ではないか?」と感じる読者もいるだろ
著者が過去に出会ってきた様々な人物を振り返ってみても、この河合氏の指摘は、まさにその通り。たしかに、「謙虚さ」を身につけた人物を見ていると、その穏やかな人柄の奥から「静かな自信」とでも呼ぶべきものが伝わってくる。ただし、ここで述べる「謙虚さ」とは、ただ表面的に「謙虚さ」を装って振る舞うことではない。 真の「謙虚さ」とは、まさに、「自分の非や欠点や未熟さを、素直に認められる」ということであり、その非や欠点や未熟さを、一つ一つ克服しながら成長していこうとする姿勢のことである。
そもそも、「本当の自信」を持つ人間は、「俺は負けない!」といったことを口にしない。競争の勝ち負けで、自分という人間の価値が決まると思っていないからである。 しかし、世の中には、競争に勝つことによって、自分が「価値ある人間」であることを証明しようとする人が少なくない。だが、改めて言うまでもなく、人生における「人間の価値」とは、競争での勝敗とは全く違う次元のものである。それは、市場競争の勝者となった経営者が、企業倫理に反することを行い、スポーツ競技で勝者となった選手が、社会倫理に反する行為に手を染める姿からも理解できることであろう。
例えば、世の中を見渡すと、見事なほどの学歴を持っている人が、「本当の自信」を身につけていないという、不思議な姿が目につく。 それは、立派な学歴を持ち、ある年齢に達し、ある社会的地位に立って、なお、その身体から「傲慢さ」を滲ませている人物である。 河合隼雄氏が述べているように、人間というものは、自分に「本当の自信」が無ければ、「謙虚」になれない。 言葉を換えれば、人間というものは、「本当の自信」を持っているならば、自然に「謙虚さ」が醸し出されてくる。逆に、ある年齢と社会的地位に達して、なお、「傲慢さ」を滲ませている人物は、その内面において、「本当の自信」を身につけていないのであろう。
では、なぜ、見事なほどの学歴を持っている人が、その内面に「本当の自信」を身につけていないのか? その「自信」から生まれる「謙虚さ」を身につけていないのか? それは、この国においては、「高学歴」というものが、「競争」に勝つことによって得られるものだからであろう。 改めて言うまでもなく、我が国において「学歴」というものは、激しい受験競争を勝ち抜いて獲得されるものであるため、どれほど、その競争に勝ち続けても、常に、さらに上位の競争に巻き込まれ、常に、他者との比較の世界に置かれ続ける。そのため、常に「敗者となる不安」が、心の奥深くに広がり、決して「本当の自信」は得られない。 例えば、受験競争に勝ち抜いて有名大学に入っても、その大学での成績の競争がある。その競争に勝ち抜いて、仮に中央官庁に就職しても、官庁間の序列がある。主力官庁に就職しても、その中で、昇進を巡っての競争がある。そうした「競争」の世界を歩むかぎり、そして、その「競争」に勝つことを自分の価値と考えているかぎり、競争に敗れることの「不安」と、競争に敗れたときの「劣等感」を味わうことはあっても、「本当の自信」と「真の謙虚さ」は、決して身につかない。むしろ、その見事な学歴や経歴にもかかわらず、心の奥深くに「密やかな劣等感」を持ちながら、周りに対しては、人の心を遠ざける「無意識の傲慢さ」を滲ませる、奇妙な人物が生まれてくるだけであろ
「人間、自分に本当の強さが無いと、感謝ができないんですね」
しかし、もし、目の前にその人がいないとき、一人、心の中で、その人に感謝できるとすれば、それが「本当の感謝」に他ならない。 例えば、長い結婚生活において、誰もが、何がしか、伴侶に対して、「ああして欲しい」「こうしてくれたら」という不満を抱いているだろう。しかし、会社からの帰り道、一人、自宅に向かいながら、心の中で伴侶に対して、「ああ、いつも、自分を支えてくれて有り難う・・」と思えるとすれば、それは、「本当の感謝」であり、まさに河合氏の言う通り、その人の「心の強さ」の現れであろう。 たしかに、我々は、心が強くなければ、もしくは、心が弱っているときは、相手に対して「こうして欲しい」「なぜ、こうしてくれないのか」といった要求や不満の思いを抱くだけで、その相手に対して感謝の思いを抱くことはできない。
そして、実は、我が国には、「大企業の経営者」や「大組織のリーダー」にも、同様の感謝の行を求める言葉がある。 この日本という国に、永く伝わる言葉である。 「千人の頭となる人物は、千人に頭を垂れることができなければならぬ」 これは、「頭」という字を二回使った格言であるが、日本において、リーダーを務める立場の人間ならば、誰もが心に刻むべき言葉であろう。
人間、「謙虚さ」の修行を続けていると、自然に「本当の自信」が身についてくる。
人間、「感謝」の修行を続けていると、自然に「本当の強さ」が身についてくる。 例えば、日々の仕事や生活において、「謙虚さ」の一つの表れである「自分の非を認める」という修行を続けていると、自然に「静かな自信」と呼ぶべきものが身についていく。
「引き受け」 心の中で、すべてを、自分自身の責任として、引き受けること。 その上司は、当時、プロジェクトのトラブルで色々と苦労し、周囲に対して、やり場の無い不満を心に抱いていた私に、その心の姿勢の大切さを、そっと婉曲に教えてくれたのであった。
しかし、その場合においても、心の中で、「自分に責任があったのではないか?」「自分に問われていることがあるのではないか?」と問うこと、それが、この「引き受け」という心の姿勢である。 たしかに、この「引き受け」という心の姿勢で処することは、決して容易ではない。 しかし、もし、我々が、その心の姿勢を大切にして人生の問題に処していくならば、我々は、確実に、一人の職業人として、一人の人間として、成長できる。 逆に、我々が成長の壁に突き当たるときは、この「引き受け」ができない。
「君たちは、明日から、当社の各部署に配属になる。 そこで、一つ、アドバイスをしておこう。 配属になったら、最初に、その職場を見渡しなさい。 そして、その職場で、最も好きになれそうにない人を、見つけなさい。 そして、その人を見つけたら その人を、好きになりなさい」
そして、企業の現場で、そうした「人を好きになる」という努力をしていると、次第に、好き嫌いということは、変えがたい「感情の問題」ではなく、努力次第で変えられる「意志の問題」であることが、身体的に分かるようになってきた。 しばしば、世の中には、「嫌いなものは、嫌い」という言葉を簡単に発する人がいるが、それは、残念ながら「成熟した精神」とは言えないだろう。
もとより、人間には、「どれほど努力しても好きになれない人」というものがあることは否定しないが、「嫌いなものは、嫌い」という言葉は、少なくとも、「好きになる」ための努力を尽くした後に、心から零れ落ちるように出てくるべき言葉であろう。 そして、一人の未熟な人間である著者の人生を振り返ってみても、出会った当初、「この人は好きになれない」と思った人物と、何年かの歳月を共に歩み、不思議なほど深い結びつきになることは、何度もあった。 そして、その歩みの軌跡は、振り返れば、まぎれもなく、自分自身の人間としての成長と成熟の軌跡でもあった。 それゆえにこそ、「その相手を好きになろうと思う」ということを、人間関係に処していく大切な「こころの技法」として、述べておきたい。
人間、「謙虚さ」の修行を続けていると、自然に「本当の自信」が身についてくる。
人間、「感謝」の修行を続けていると、自然に「本当の強さ」が身についてくる。 例えば、日々の仕事や生活において、「謙虚さ」の一つの表れである「自分の非を認める」という修行を続けていると、自然に「静かな自信」と呼ぶべきものが身についていく。
本来、「欠点」は存在しない、「個性」だけが存在する 第一は、「本来、『欠点』は存在しない、『個性』だけが存在する」という視点である。
そして、この「発酵」と「腐敗」の定義についての「人間中心」の視点を見ると、それが、人間の「長所」と「欠点」を論じるときの「自己中心」の視点と似ていることに気がつくだろう。 すなわち、我々は、「発酵」と「腐敗」の定義を論じるとき、人間にとって有益なものを「発酵」と呼び、人間にとって有害なものを「腐敗」と呼ぶが、同様に、我々は、「長所」と「欠点」の定義を論じるとき、自分にとって好都合なものを「長所」と呼び、しばしば、自分にとって不都合なものを「欠点」と呼んでいる。
このように、一人の人物の性格は、それを見る立場と、置かれた状況によって、「長所」にもなれば、「欠点」にもなる。 そう考えるならば、実は、世の中に、本来、人間の「長所」や「欠点」というものは存在しない。 存在するのは、その人間の「個性」だけである。 そして、我々は、その人の「個性」が、自分や周囲に好都合な形で発揮されたとき、それを「長所」と呼び、自分や周囲に不都合な形で発揮されたとき、それを「欠点」と呼んでいるだけにすぎない。 誰かに対して、「彼の、あの欠点が嫌いだ」「彼女の、あの欠点は、我慢できない」といった思いが浮かぶとき、我々は、この「長所」と「欠点」の定義を思い起こすべきであろう。
自分の心を明るく保つのは自分自身であって人に頼ることではない
自分の心の鏡が曇らないように日々自分で意識して磨かなければならない
心の鏡を磨く
例えば、一般に、家庭などで、父親と娘が、よく意見がぶつかるという場合がある。 こうした状況を、よく見てみると、この父親と娘、遺伝的に互いの性格が似ているということが原因になっていることも多い。 遺伝的には、娘が父親の性格に似て、息子が母親の性格に似るということは、しばしば起こると言われるが、この場合には、似た性格だからこそ、互いに父親と娘が、反発するということが起こっている 。
これは、我々人間の心には、「自分の持つ嫌な面を持っている人を見ると、その人に対する嫌悪感が増幅される」という傾向があるからである。そのため、「嫌いな人」の嫌いな部分を深く見つめるならば、自分の中にある嫌いな部分と同じであることに気がつく、すなわち、「自分に似ている」ということに気がつくのである。 これを、心理学の言葉で表現するならば、 「他者への嫌悪の感情は、しばしば、自己嫌悪の投影である」 という言葉になる。
昔から語られる「相手の姿は、自分の心の鏡」という言葉は、この人間心理の機微を語った言葉でもある。 そして、「他者への嫌悪の感情は、しばしば、自己嫌悪の投影である」ということを理解するならば、我々は、もう一つ大切なことを理解しておく必要がある。 自分の中にある欠点を許せないと、同様の欠点を持つ相手を許せない。 この「自分の中にある欠点を許す」ということは、実は、我々の深層意識の世界に関わる、深く難しい課題であり、それができるようになることは、容易ではないが、我々は、この心の機微も、理解しておく必要がある。古典に語られる「自分を愛せない人間は、他人を愛せない」という言葉は、この心の機微の深みを語った言葉に他ならない。
この「賛同」と「同情」と「共感」、いずれも、我々が抱く「良き感情」であるが、「共感」という感情は、「相手の姿が、自分の姿のように思えること」であるため、「賛同」や「同情」という感情に比べて、相手との心の関係を、より深いものにしていく。 それゆえ、我々が、人生において、「好きになれない人」や「嫌いな人」と巡り会ったとき、相手に対して、この意味における「共感」を抱くことができれば、その人を、少しでも「好きになる」ことができるだろう。 例えば、ある人が示す人間としての「未熟さ」を見て、嫌悪の感情を抱くとき、一度、その感情から離れ、「その人もまた、自分の未熟さを抱えて苦しんでいる」ことを理解し、「自分もまた、人間としての未熟さを抱えて苦しんできた」ことを思い起こすことができれば、その人に対する否定的な感情は、少しでも薄れていくだろう。
「相手に正対する」とは、「相手を一人の人間として敬意を持って接する」ことだからである。 そして、我々の心の中の、その「敬意」もまた、無言のメッセージとして、相手に伝わるからである。
他社への嫌悪はしばしば自己嫌悪の投影
自分を愛せない人は他人を愛せない
参道と同情と共感
相手の「孤独」や「寂しさ」を見つめることである。 すなわち、我々人間の誰もが抱えている「孤独」や「寂しさ」を見つめ、その「孤独」や「寂しさ」が相手の中にもあることを知り、その姿を、虚心に見つめることである。
この人生において、我々は、誰もが、 独りで生まれ、独りで去っていく。 それゆえ、この人生において、我々は、 どれほど素晴らしい家族や友人に恵まれても、 心の深いところで、「孤独」を抱え、「寂しさ」を抱え、生きている。 そして、その「孤独」と「寂しさ」がゆえに、 この人生において、我々は、 誰かから愛されたい、誰かから好かれたいと願って、生きている。
この欠点も未熟さも抱えた自分を、 そのまま受け入れてくれる人との出会いを願って、生きている。
は、嬉しいから、笑うのではない。 笑うから、嬉しくなるのだ。 これは、現代の心理学が認める、一面の事実である。 すなわち、人間の「心」(心理的状態)と「身」(身体的行為)とは、実は、表裏一体のものであり、人間には、「心が動く→身が動く」という性質だけでなく、「身が動く→心が動く」という性質も、同時に存在する。
深層意識は「天邪鬼」だからである。 すなわち、我々の深層意識は、表層意識で「こういう想念を深層意識に浸透させよう」と考えた瞬間に、逆の方向に動く傾向があるからだ。
できることならば、誰かを感情的に批判したとき、自身の心の中で、「三つの内省」を行うべきであろう。 第一に、誰かを感情的に批判したとき、自分の心の奥深くに、「自分を許せない思い」や「自己嫌悪の感情」が生まれていることに気がつく。 第二に、相手を感情的に批判した自分を正当化したくなる「小さなエゴ」の動きを見つめる。 第三に、相手の非や欠点をさらに探して、自分を正当化しようとする「小さなエゴ」の動きに気がつく。
彼は、あることで、主君である織田信長の激しい怒りを買い、蟄居(自宅での謹慎)を命じられたとき、蟄居中の屋敷内で、敢えて、飲めや歌えの宴会を催した。信長は、家臣から蟄居中の秀吉の様子を聞き、笑いながら「猿め!」と言ったと伝えられる。 これは、秀吉が人間の心理と信長の人柄を熟知していたからできたことであろう。 秀吉に対して激して叱り、蟄居を命じた信長にしてみれば、心中、秀吉が、自分に対してどのような気持ちでいるかが気になっている。それに対して、宴会を催してみせたのは、「殿、私は、この度、蟄居を命じられたこと、いささかも根に持っておりません」とのメッセージであっただろう。もし、このとき、秀吉の屋敷が静まりかえっていたならば、信長は、「あいつは、何を考えているのか? 良からぬことを考えているのではないだろうな?」という疑心暗鬼に駆られたであろう。 ある意味で、秀吉は、信長の心の中の「他者不安」の感情が増長しないように振る舞ったのである。
日々の人間関係において、何かの摩擦があったとき、この「私は、根に持っていない」「私は、気にしていない」「私は、こだわっていない」というメッセージを相手に送ることは、人間心理の機微を考えるならば、相手に対する、大切な配慮である。
なぜなら、嫌いな人を「誉める」という行為は、誰よりも、まず、自分の心の中を浄化してくれるからだ。 すでに述べたように、我々が、心の中で、誰かに対する「嫌悪感」を持っていると、深層意識の世界に「自己嫌悪」の感情や「他者不安」の感情が生まれ、その否定的な感情が、自分自身を傷つけ、苦しめていく。その意味で、「本人のいないところで誉める」という技法は、それらの否定的な感情を浄化していくという技法であり、自分にとって、極めて重要な意味を持っている。
深夜に、一人、日記に向かい、好きになれない相手に対する「誉め言葉」を書くだけでも、心の中の何かが、大きく変わっていく。 この「深夜の日記」の技法については、拙著、『人生で起こること すべて良きこと』において、「内省日記」の技法として詳しく語ったが、著者自身、若き日に、永年続けた「こころの技法」でもある。
は、相手を好きになるから、好感の言葉を語るのではない。 好感の言葉を語るから、相手を好きになる。
は、相手を好きになるから、好感の言葉を語るのではない。 好感の言葉を語るから、相手を好きになる。
本当に大切なことは、生じてしまった不和や不信、反目や反発、対立や衝突の状況から、ときに自らの非を認め、相手に心を開き、自ら謝り、相手を許し、ふたたび「和解」する心の力を持つことであろう。
愛情とは関係をたたぬことである
わかれたあとも心のなかで関係をたたぬこと
世の中には、「人間関係が下手」と言われる人がいる。 それは、決して「人とぶつかってしまう人」のことではない。 それは、「人とぶつかった後に、和解できない人」のことである。
「愛情」の反意語は、「憎悪」ではない。 「愛情」の反意語は、「無関心」である。
「最近の若い人は、なぜ、『顔も見たくない』という別れ方をするのか? なぜ、そうした『無残な別れ方』をするのか?」 これは、決して、この言葉が語られた時代の「若い人」だけの傾向ではない。 いつの時代にも、互いの心に深い亀裂を残す、「無残な別れ方」をする人間がいる。 「他人に対する好き嫌いの激しい人」 「一時の感情に振り回される人」 「心の中の『小さなエゴ』の強い人」 そうした人は、多くの場合、人と別れるとき、「無残な別れ方」をする。 別れに際して、「心」を残し、「思い」を残すことのできない別れ方をする。 そして、「香り」の無い別れ方をする。 そのため、時間が過ぎゆくにつれ、互いの心が変わり、和解ができる時代を迎えても、和解ができない。 それは、「自分の非を認められない」ことや、「相手を許せない」ためではない。
かつての別れ際に「心」や「思い」を残さなかったため、さらには、別れ際が「無残」であったため、和解しようと思っても、互いの心の間の「深い亀裂」のため、もはや、和解に向かって歩を進める余地が無くなっているからである。
「人間関係が下手な人」とは、「人とぶつかってしまう人」のことではない。 「人とぶつかった後に、和解できない人」であり、 「人とぶつかった後に、和解の余地を残せない人」のことである。
世の中には、「人貧乏」という言葉がある。 なぜか、その人の周りから、人が離れていく。 傍から見ていると、良き人が離れていく。 しかし、本人は、気がつかない。 出世し、財産を築いても、
「周りに集まる人」という財産が貧しくなっていく。 そうした人物を、「人貧乏」と呼ぶ。 その「人貧乏」にならないための大切な心構え。 それが、別れに際して「関係を絶たぬこと」、そして、「和解の余地を残すこと」であろう。
応接の椅子に座るなり、彼が語った言葉が、さらに心に残っている。 「田坂さん、私、最近、あるNPOを立ち上げたんですが、 そのNPOの代表になってみて、初めて、 田坂さんが自分に言おうとしたことが分かったんです。 最近は、リーダーとして壁に突き当たると、いつも 田坂さんなら、どう考えるだろうか、と思うんです・・」
著者が、このエピソードを紹介した理由は、ただ一つのことを、読者に伝えたいからである。 人生において、出会った人と心が離れたとき、 たとえ、自分が、どれほど未熟な人間でも、
心の中で「相手との関係を絶たない」ということを大切に歩んでいると、 人生というものは、ときおり、 「素晴らしい贈り物」を与えてくれる。
「また、いつか、お会いしましょう」 「いつか、笑って、お会いできると良いですね」 「また、お会いするときがあるかもしれません」 どのような言葉でも良い、決して「無残な別れ」にならない言葉を語り、「香り」のある別れをすることができるならば、人生においては、我々が思っている以上に、不思議なことが起こる。 「しなやかな心」とは、その人生の不思議を信じる心のことでもある。
しかし、この時代においても、「墓参り」を通じて、たしかに我々の心の中に生まれる「和解」がある。 それは、自分自身との和解である。 B君は、なぜ、A君の墓参りに行くのか? もとより、彼は、その墓参りを通じて、すでに他界したA君との和解を求めているのであろう。もし、我々の声が、墓参りによって、他界した人に伝わるのであれば・・。 しかし、一方、彼の心の奥深くで、和解を求めている相手は、もう一人いる。 それは、「もう一人の自分」。A君を自殺に追いやった自分自身を責め続ける「もう一人の自分」であろう。彼は、その「自分を許せない自分」との和解を、心の奥深くで求めている。そして、その彼の心の奥深くの思いが、ときおり、彼を、A君の墓参りへと向かわせるのであろう。 いや、これは、B君だけの姿ではない。実は、我々は、誰もが、すでに他界した人に対して、何がしかの自責の念を、心の奥深くに抱いている。
生前、良き関係を結べなかったことへの自責。 支えてあげ、楽にしてあげられなかったことへの自責。 苦しみや悲しみを与えてしまったことへの自責。 苦しみや悲しみを理解してあげられなかったことへの自責。 親孝行をしてあげられなかったことへの自責。 長生きをさせてあげられなかったことへの自責。 我々は、心の奥深くに、すでに他界した人に対する、こうした自責の念を抱いている。 だから、我々は、墓参りに行くのではないか。 人生においては、心の奥深く、深い自責の念を抱いて行く墓参りが、ある。
心の奥深くにいる、自分を責める思いの「もう一人の自分」。 その自分との和解を求め、その自分との対話を求め、 我々は、墓参りに行くときが、ある。
そして、その墓参りにおいて、 「もう一人の自分」との対話が、深く、静かな対話になるとき、 我々の心には、ある「癒された感覚」が訪れる。 そして、その感覚の中で、墓を後にするとき、 生前、和解することのできなかったあの人が、 静かに微笑んでくれているような気がする。 それは、たとえ、他界した人と和解できた瞬間ではなくとも、 心の奥深くの自分が、癒される瞬間ではないだろうか。
なぜ、我々は、墓参りに行くのか? それは、すでに他界した人と、心の関係を絶たぬため。 その人と、そして、自分自身と、深く、静かな対話を続けるため。 それは、我々の心を成長させ、我々の人生に深みを与えてくれる かけがえのない時間に他ならない。
人間だれもが死んだ人にたいしてなにがしかの自責の念を心のおく不覚に抱いている
ぜ、我々は、墓参りに行くのか? それは、すでに他界した人と、心の関係を絶たぬため。 その人と、そして、自分自身と、深く、静かな対話を続けるため。 それは、我々の心を成長させ、我々の人生に深みを与えてくれる かけがえのない時間に他ならない。
愛情とは関係をたたぬことである
「愛情」の反意語は、「憎悪」ではない。 「愛情」の反意語は、「無関心」である。
相手との将来の若いの余地を残す
実は、人生には、過去の「不幸な出会い」と思えるものが、「意味のある出会い」であったことに気づき、「有り難い出会い」であったことに気づくときがある。
もとより、人生において、我々に、人との出会いを与える「何か」が存在するのか否かは、分からない。それもまた、おそらく「永遠の謎」であろう。 しかし、もし、我々が、心の中に、「人生における、人との出会いは、すべて、自分という人間の成長のために、与えられた出会いではないか」との視点を抱くならば、そこから、さらに具体的な、次の問いが生まれてくる。 この人との出会いを通して、そして、この痛苦な体験を通して、 いま、自分が人間として成長するべき課題は何か? いま、何を学べと言われているのか? いま、何を掴めと言われているのか?
読者それぞれに、これまで歩んで来られた人生を、振り返って頂きたい。 そして、この問いを、問うてみて頂きたい。 自分は、いつ、人間として成長することができたか? 人間として成長できたのは、どのような体験においてであったか? その体験は、決して楽しい体験ではなく、痛苦な体験ではなかったか? その痛苦な体験は、人間との出会いによって与えられた体験ではなかったか?
もし、過去を振り返りながら、この問いを問うならば、自然に、次の問いが心に浮かんでくるのではないだろうか? この人物と出会い、この痛苦な体験が与えられたのは、 自分が、いかなる成長を遂げるためなのだろうか?
あの部長の厳しい言葉のお陰で、自分は、プロフェッショナルの道を歩めた。 あの部長の厳しい叱責のお陰で、自分は、大切なことに気づかせてもらった。 いま振り返れば、あの頃の自分には「無意識の傲慢さ」があった。 自分では気がついていなかったが、自分の企画に独りよがりな自信を持ち、この企画を顧客は必ず採用するだろうという思い上がりがあった。 それゆえ、あの部長は、目の前の若いビジネスパーソンの心の奥にある「無意識の傲慢さ」を感じ取ったのであろう。礼儀正しく、丁寧に語っている言葉の奥に、「密やかな驕り」を感じ取ったのであろう。 そして、あの部長は、鬼のような姿を通じて、私に、そのことを気づかせてくれた。 そのお陰で、今日の自分が、ある。
どのような出会いにも、必ず、深い意味がある 著者は、今日まで、こうした体験を重ねてきた。 そして、いつか、一つの思いが、心に定まってきた。 「不幸な出会い」と思えるものにも、必ず、深い意味がある。 それは、ときに、自分が一人の人間として成長するための、大切な体験を与えてくれる。 そして、その真実に気がついたとき、我々の人生の「風景」が変わる。 日本語には、昔から、そのことを教えてくれる言葉がある。 例えば、「荒砥石」。 「あの上司は、いま振り返れば、自分にとっての『荒砥石』だったな。 毎日、仕事のことで、ごりごりと研がれたような気がするよ。 でも、お陰で、自分という人間の角が取れていったんだな・・。 自分は、我の強い人間だったからな・・」
著者は、若き日に、人生の先輩たちから、そういった言葉を、何度か耳にした。 そして、幸い、著者自身も、そういう「荒砥石」と思える人と出会い、その人との葛藤と格闘を通じて、自分の心の中の「小さなエゴ」に気づくことができた。そして、人間としての成長の道を歩ませて頂いた。
しかし、ひとたび、我々が、その「不幸な出会い」に心で正対し、その意味や価値を見つめるならば、不思議なほど、我々の心の奥深くから「人生の解釈力」とでも呼ぶべきものが湧き上がってくる。 その「人生の解釈力」とは、人生で起こった出来事や、人生で与えられた出会いの「意味」を解釈する力のことである。 そして、もし、我々に、その「人生の解釈力」があれば、「不幸な出会い」と思えるものに対しても、先ほどの問いに、自分なりの「答え」を見出していくことができる。
この人との出会いを通じて、そして、この苦痛な体験を通じて、 いま、自分が人間として成長するべき課題は何か? いま、何を学べと言われているのか? いま、何を掴めと言われているのか?
人生における人間関係の問題は、ある意味で、そのほとんどが、関係する双方に非がある。どちらか一方だけに非があるということは、あまりない。 従って、我々が何かの人間関係の問題に直面したときには、相手に相当の非があると思えても、やはり、自分にも何がしかの非がある。自分の欠点や未熟さが原因の一端となっていることも、少なくない。 それにもかかわらず、その人間関係から逃げ、その苦痛から逃げ、自分の人間としての「成長の課題」から目を背けてしまうと、一時的には、その人間関係の問題を解決できたように思うが、気がつけば、以前に巻き込まれた問題と同じような問題に巻き込まれ、自分の「成長の課題」を、ふたたび突き付けられることになる。 すなわち、「卒業しない試験」は、逃げても、必ず追いかけてくる。 いま直面している人間関係が自分に突き付けている「成長の課題」を直視し、向き合い、正対して取り組まなければ、どれほど上手く逃げても、その課題は、別の人間関係の問題として、突き付けられる。
「この店で、車が動かなくなったことには、何か、深い意味がある・・」 そして、その声に続いて、心の中に、一つの思いが浮かんできた。 「そうだ、この店の主人に詫びよう。そのために、この店で、車が故障したのだ・・」 そう思って、店に入ると、その主人、こちらのことを覚えていて、最初、怪訝な顔をしたが、迷うことなく、彼の目を見つめ、心を込めて、こう言った。
著者が、この体験を紹介したのは、著者自身が「不幸な出会い」と思えるものに直面したとき、その出会いと出来事についての「人生の解釈力」が求められた、象徴的な出来事だったからである。 奇しくも、このガソリンスタンドの前で、車が故障したとき、一瞬の戸惑いの後、すぐに心に浮かんだのは、「なぜ、こんなことが起こったのか・・」という思いとともに、「この店で、車が動かなくなったことには、何か、深い意味がある・・。この出来事は、何を教えているのか?」という思いであった。 そして、こうした問題に直面したとき、我々に問われるのは、実は、「どうやって、この問題を解決するか?」「どうやって、先日、口論をしたこの主人に、修理をしてもらうか?」ということではない。 その前に、我々が深く考えるべきは、「なぜ、こうした問題が起こったのか?」「なぜ、よりによって、このガソリンスタンドの前で、車が故障したのか?」という問いである。 そして、人生とは不思議なもので、その問いに正しく答えを出し、出会いの意味、出来事の意味を、正しく解釈すると、なぜか、自然に目の前の問題が解決していく。 すなわち、こうした場面で、我々に真に問われているのは、「問題の解決力」ではなく、「人生の解釈力」に他ならない。
ああ、これは、心がぶつかった人と和解することのできる『しなやかな心』を身につけよと、何かが教えている」との解釈であった。 すなわち、この出来事は、著者にとって、「車を修理してもらうために、仕方なく、その主人と和解した」という出来事ではなかった。 それは、「心がぶつかった人と和解することのできる『しなやかな心』を身につけるために、この主人と口論になり、その店で車が故障した」という出来事に他ならなかった。 このように、我々は、人生のささやかな出会いや出来事においても、何かの問題に直面した瞬間、「人生の解釈力」が問われることがある。そのとき、「どうやって、この問題を解決するか?」という視点で考える前に、「なぜ、こうした問題が起こったのか?」という視点で「出来事の意味」を解釈することができるならば、しばしば、直面している問題は、不思議なほど自然に解決していく。 その意味で、このカナダでの出来事は、ささやかな出来事ではあったが、著者自身が、「人生の解釈力」が問われ、その「解釈力」を深める、有り難い出来事であった。
著者は、「卒業しない試験」は、ときに、十年の歳月を超えて、追いかけてくることがあることも、教えられた。
それは、心の中で「人生の物語」を生み出す力を磨くことである。
我々が問うべきは、「どちらの物語の方が、自分の心に素直に入ってくるか?」であり、さらに言えば、「どちらの物語の方が、自分の心が癒されるか?」「どちらの物語の方が、自分の心が成長できるか?」であろう。 そして、我々は、人生において、こうした「物語」を、意識的、無意識的を問わず、心の中に無数に生み出しながら生きている。
そして、我々が意識的、無意識的に生み出す「人生の物語」は、ときに、自分の人生を否定し、惨めで悲しいものに感じさせていく一方、ときに、自分の人生を力強く肯定し、励まし、癒していく。 「人生の解釈力」とは、ある意味で、人生において与えられた出会いや出来事を前に、そこから「自らを励ます物語」「自らを癒す物語」「自らを成長させる物語」を生み出していく力のことでもある。
かつて、短い人生を駆け抜けていった、ある社会活動家が、 街頭活動での人々との出会いについて、詩のような文章で語っている。 今朝、駅前でビラを配っているとき、 私の手をはねのけて通り過ぎていった、あなた。 我々の出会いは、不幸な出会いであったかもしれない。
我々の出会いは、寂しい出会いであったかもしれない。 でも、あなたと、出会えて良かった。 それでも、あなたと、出会えて良かった。 たしかに、その通りではないか。 たとえ、どのような出会いであっても、実は、有り難い出会い。 なぜなら、「有り難い」とは、 「在り・難い」こと、「起こり・難い」こと。 それは、まさに「奇跡」と呼ぶべき出会いに他ならない。
そして、互いに成長していくために大切なことは、 その出会いの意味を考えること。 この出会いは、自分に、いかなる成長を求めているのか? この出会いは、自分に、何を教えてくれているのか? この出会いは、自分に、何を学べと言っているのか? その意味を考えることであろう。
その前に、我々が深く考えるべきは、「なぜ、こうした問題が起こったのか?」「なぜ、よりによって、このガソリンスタンドの前で、車が故障したのか?」という問いである。 そして、人生とは不思議なもので、その問いに正しく答えを出し、出会いの意味、出来事の意味を、正しく解釈すると、なぜか、自然に目の前の問題が解決していく。
我々が問うべきは、「どちらの物語の方が、自分の心に素直に入ってくるか?」であり、さらに言えば、「どちらの物語の方が、自分の心が癒されるか?」「どちらの物語の方が、自分の心が成長できるか?」であろう。 そして、我々は、人生において、こうした「物語」を、意識的、無意識的を問わず、心の中に無数に生み出しながら生きている。
そして、我々が意識的、無意識的に生み出す「人生の物語」は、ときに、自分の人生を否定し、惨めで悲しいものに感じさせていく一方、ときに、自分の人生を力強く肯定し、励まし、癒していく。 「人生の解釈力」とは、ある意味で、人生において与えられた出会いや出来事を前に、そこから「自らを励ます物語」「自らを癒す物語」「自らを成長させる物語」を生み出していく力のことでもある。
第一の技法 心の中で自分の非を認める 第二の技法 自分から声をかけ、目を合わせる 第三の技法 心の中の「小さなエゴ」を見つめる 第四の技法 その相手を好きになろうと思う 第五の技法 言葉の怖さを知り、言葉の力を活かす 第六の技法 別れても心の関係を絶たない
第七の技法 その出会いの意味を深く考える
本書の冒頭でも述べたが、人間を磨き、人間力を高めるための道は、古典を読むことでもない、山に籠って修行することでもない。日々の仕事と生活において、縁あって巡り -
Posted by ブクログ
哲学のことはあまり詳しくない私であるが、ちょくちょく「アウフヘーベン」など哲学用語を目にすることがあり、少し調べてみた。副題の「ヘーゲルが分かればIT社会の未来が見える」に惹かれたのもある。本書の特徴は弁証法について基礎的なことを具体例を挙げて説明していることだ。正(テーゼ)と反(アンチテーゼ)があり止揚(アウフヘーベン)して合(ジンテーゼ)に至る思考方法が分かる。そして弁証法を活用した思考法とその先にある未来を見る方法を解説している。世の中の進化を螺旋階段に例えているのも分かりやすい。復活や復古と進化の階段を上がるのを繰り返すことが弁証法の肝なのではないかと理解した。2005年の著書なので若干例が古い感じがするが、そこは弁証法的思考でどのように世の中が進化してきたのかを検証する意味で腑に落ちる要因となる。
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Posted by ブクログ
弁証法を理解するのに、大局観を養うのにとてつもない良書だった。
弁証法の根源的な考え方やそこに紐づく法則
・事実の螺旋的発展
・否定の否定による発展
・量から質への転化による発展
・対立物の相互浸透による発展
・矛盾の止揚による発展
事例をベースに解説されておりとてもわかりやすかった。
また、全ての物事には矛盾が含まれその矛盾を解消するのではなく弁証法的に止揚した時に進化が生まれるというのは面白かった。
例えば、「出社vsリモートワーク」、「プロ野球におけるベテラン起用vs若手起用」みたい事象も不満を解消するのではなく止揚することが大事なのだと理解した。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ人間、自分に本当の強さが無いと、感謝ができない
謙虚さの修行=自然に本当の自信へ
感謝の修行=自然に本当の強さへ
引き受け すべてを自分の責任として引き受ける
最も好きそうになれない人を見つけて、その人を好きになる
発酵=人間にとって有益なもの
腐敗=人間にとって有害なもの
自分の欠点、相手の姿に 相手の姿は自分の心の鏡
人間の未熟さ=人への否定的な感情
心で正面から向き合う
心が動く→身が動く
=見が動く→心が動く
心の中で相手を褒める
別れに際して関係を断たず、和解の余地を残す
人との出会いは自分のの成長
いま自分の課題は 何を学ぶ 何を掴むか
問題の解決力ではなく、人生の解釈力 -
Posted by ブクログ
<本のタイトル>
なぜ、優秀な人ほど成長が止まるのか ― 何歳からでも人生を拓く7つの技法
<本の紹介>
序話 なぜ、優秀な人ほど、成長が止まってしまうのか ― 成長を止める「7つの壁」
第1話 【学歴の壁】 「優秀さ」の切り替えができない ― [棚卸しの技法]
第2話 【経験の壁】 失敗を糧として「智恵」を掴めない ― [反省の技法]
第3話 【感情の壁】 感情に支配され、他人の心が分からない ― [心理推察の技法]
第4話 【我流の壁】 「我流」に陥り、優れた人物から学べない ― [私淑の技法]
第5話 【人格の壁】 つねに「真面目」に仕事をしてしまう ― [多重人格の技法]
第6話 【エゴの壁】 自分の「エゴ」が見えていない ― [自己観察の技法]
第7話 【他責の壁】 失敗の原因を「外」に求めてしまう ― [引き受けの技法]
<感想・気づき>
・優秀な人ほど、成長が止まってしまう3つの落とし穴
1、学歴という落とし穴
学歴的優秀さ=勉強ができる=論理的思考力、知識の修得力が高い
職業的優秀さ=仕事ができる=直感的判断力、智恵の修得力が高い
2、実績という落とし穴
自分はそれなりに仕事をできると思うと、無意識の慢心に陥る
3、立場という落とし穴
いまの立場にしがみつき、新しい立場に順応できない
・3つの落とし穴は7つの成長の壁と言い換えられる
1、学歴の壁
2、経験の壁
3、感情の壁
4、我流の壁
5、人格の壁
6、エゴの壁
7、他責の壁
・知識と智恵は異なる
知識:言葉で表現可能、書物やWebで学ぶことができる
智恵:言葉で表現が難しい、経験や人間関係からしか学ぶことができない
・棚卸しの技法
経験から掴んだ智恵の棚卸を行う
1、一定期間の成長を振り返る
2、明確な課題意識を持って振り返る
これからの時代では、専門的な知識の価値が相対的に低下していき
それに対して、職業的な智恵の価値が向上していく。
・職業的な智恵を獲得することの3つの強み
1、職業的な智恵は古くならない
2、職業的な智恵は業種や職種が変わっても役に立つ
3、職業的な智恵は簡単には代替されない
・反省の技法
「直後」と「深夜」の追体験を励行する
1、直後の反対対話の技法(仲間と共にあれこれすぐ振り返る)
2、深夜の反省日記の技法(自分1人で自分の心の動きを振り返る)
優れたプロフェッショナルは「心と技」両方を同時に成長させていく。
書いて文章にすることで、俯瞰的なもう1人の自分から客観性をもたらす。
・心理推察の技法
会議では、参加者の心の動きを深く読む
人間は「理性的な存在」ではなく、「感情的な存在」である。
・能力開発において最もダメなのは自分で限界を決めてしまうこと。
才能が無いとかは関係ない。経験を積めば誰でも一定レベルは成長する。
・逆境を辛いと思いつつも、逆境による成長させてもらえると感謝すること。
・仕事中には複数の人格を使い分けることで、複数の分野で貢献していく。
作業者、管理者、経営者等。人格の使い分けが視座・視野が拡大する。
うまくできないのは才能が無いのではなく、精神的な規則体力が無いだけ。 -
Posted by ブクログ
「深く考える」とは、自分の中にいる「賢明なもう一人の自分」との対話をすること、というお話です。
■「賢明なもう一人の自分」が持つ不思議な能力
①論理思考を超えた鋭い直観力
②データベースを超えた膨大な記憶力
■「賢明なもう一人の自分」
「賢明なもう一人の自分」に出あうための5つの技法
①自分の考えを「文章」にして表してみること
②異質のアイデアを、敢えて結びつけてみること
③自分自身に「問い」を投げかけること
④一度、その「問い」を忘れること
⑤自分自身を追いつめること
「なぜ、我々は、その能力を、日常的に発揮できないのか」
「では、なぜ、我々は、忘却という形で、記憶を取り出せなるのか」
直観力を身につけるためには、実は、論理思考に徹すること
座禅や瞑想という古来伝えられる技法
直観力を研ぎ澄ませるためには、「静寂」を待つ
「正念場」で掴むべき叡智
・江夏の21球にやられた、西本監督、近鉄は、極めて大きな学びの機会を得た。
「敗北した軍隊は、良く学ぶ」
■プロの技
「神は細部に宿る」
一流のプロには、仕事や作品の細部を決して疎かにせず、完璧を期する人が多い。
そして、プロがもっているもう一つの才能、「こだわるべき細部と、こだわらなくともよい細部を見分ける力」
永年の体験と厳しい修練を通じてしか掴むことのできない深い「智恵」を、単なる「知識」として学んだだけで、その「智恵」を身に着けたと思い込んでしまう
顧客に対する話術を学び、資料作成の技術を磨くといった段階を超え、最後にたどり着いた修業は、スキルやテクニックを超えた「心の置き所」と呼ぶ世界があった
「結果」に過ぎないものを「目的」にしてしまう、それは、「現代の病」というべきもの。はたして、優れたイノベーションを興してきた人材は、「イノベーションをおこす」ことを「目的」にしてきただろうか。
「この商品で、世の中の多くの人を喜ばせたい」、「このサービスで、困っている人を助けたい」
そうした深い思いが、我々の心の中にあるならば、そこには、自ずと、仕事への情熱が生まれてくる。
その深い思い。それを、昔から、日本においては、「志」や「使命感」と呼んできた
プロの高度な能力に、「奥義」と呼ぶべきものがあるとするならば、それは、「技に使い方」ではなく、その技の奥にあるべき「心の置き場」にほかならない
昔から、日本では、職人や芸人の道、剣や弓の道は、「技を磨く」、「腕を磨く」という道から始まり、自然に「心を磨く」、「人間を磨く」という道へと深まっていくが、その理由は、この一点にある。
■成功者の不思議な偶然
「成功者」と呼ばれる政治家、経営者、学者や、芸術家において、その自叙伝、回想録にもっとも多く出てくることはとは
「たまたま」、「丁度そのとき」、「ふとしたことから」、そういった偶然の出来事によって人生が導かれたことを語る言葉が最も多く使われていたのである。
成功者が共通に持つ、資質とは、「人生の出来事に、深い意味を感じ取る力」である
■創造という行為の秘密
アイデアとは自分という小さな存在が生み出すものではなく、大いなる何かが与えるものである
■古典の意味
古典を通じて我々が深く学ぶべきは、登るべき「高き山の頂」だけではない。
その頂きに向かってどのように歩んでいくか、その「山道の登り方」を学ぶべきであり、山道を登る時の「心の置き所」をこそ、学ぶできであろう。
■ひきうけ
すべてを、自分自身の責任として引き受けること
人生において、自分に与えられた苦労や、困難、失敗や敗北、挫折や喪失、病気や事故は、自分の成長のために、天が与えたものである
何が起こったか。それが、我々の人生を分けるのではない。
おこったことをどう解釈するか。それが、我々の人生を分ける
死生観を掴むとは、いかなることか。
それは、人生における、「3つの真実」を直視することである。
①人は、必ず、死ぬ
②人生は、1度しかない
③人は、いつ死ぬか、分からない
なぜ、3つの真実を直視することが大成への道となるのか
①人生の「逆境力」が高まる
②人生における「使命感」が定まる
③人生の「時間密度」が高まる
目次
第1部 賢明なもう一人の自分
第2部 深き思索、静かな気づき
第3部 言葉との邂逅
出版社:PHP研究所
判型:A5
ページ数:249ページ
定価:880円(本体)
発行年月日:2018年03月01日第1版第1刷 -
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なぜ我々は働くのか、仕事というものに向き合うための「仕事の思想」書です。
これをよめば、ビジネスマンにとって「仕事」とはどういうものかが理解できる。
<なぜ我々は働くのか>
・働くのは、それは、生活を糧を得るためだけでも、生き残るためだけでもなく、素晴らしい「何か」のために働く
<仕事の報酬とは何か>
・仕事というものは、こころを込めてやれば、何でもおもしろい
・仕事の報酬とは能力、仕事の報酬とは仕事、やりたい仕事、やりがいのある仕事こそが仕事の報酬である、そして仕事の報酬とは成長である
<どうしたら仕事を通じて成長ができるのか>
・夢を語り、目標をもつこと、それに向かって精一杯に力を尽くすこと、「抽象的な夢」から「具体的な目標」をもつこと、そして自分が達成できるかどうかわからない難しい課題にあえて挑戦し、退路を断って、悪戦苦闘すること
<成長のためのもう1つの方法:自分を映し出す鏡を見ること>
・ビジネスマンの鑑とは「顧客」、厳しい言葉を云ってくれる顧客こそが優しい顧客、逆に厳しい顧客とは、黙って去る顧客。
・細やかな気配りや繊細な感受性、鋭い直観力や深い洞察力をもって、「顧客の無言のメッセージ」を全身全霊で観察するという修練を行わなければならない
<どうすれば顧客と共感が得られるのか>
・自分は本当に、顧客にベストをつくしたのだろうか?
・顧客を操作する、動かしてやろうとするのではない。顧客の立場にたって、無条件に顧客に深く共感すること
<人間として成長するにはどうすればいいのか>
・日常の生活や仕事の場にこそ、最高の学びがあり、最高の修練がある、人間を深く観察する
・人と人と真摯に向き合うこと、エゴとエゴとのぶつかり合い、切磋琢磨をする。人間との格闘こそが、人間力を磨くための唯一の方法である。
<部下をどう育成するか>
・ノブリス・オブリージュ。義務や責任を負うことを自分自身の喜びとする。自分自身が成長すること、成長し続けること
・他人の人生に責任を持つものが、最も成長できる。
<友人とどう接するか>
・顔合わせることもなく、言葉を交わすこともない「友人」が、私たちを支えてくれる
・一人ひとり、登っていく道は違っても、めざす頂きはひとつ。いつかその頂上で友人と再会する
<不本意な異動の辞令を受けたら>
・われわれは、タンポポだ。どこかに飛ばされたら、そこでまた、大きな花を咲かせればよい
・若手の夢というが忘れないでもらいたい。ロートルにも夢があるんだ。若手だけが夢をもっているわけはない。
<夢がやぶれたらどうするか>
・たとえ自分が、その夢を実現できなくとも、いつか誰かが、その夢を実現する。
・大事なことは、夢がかなえられなったということではない。我々が恐れるべきは、「その夢を実現するために力を尽くしたかどうか」だ。
目次
はじめに なぜ我々は働くのか
第1話 思想 現実に流されないための錨
第2話 成長 決して失われることのない報酬
第3話 目標 成長していくための最高の方法
第4話 顧客 こころの姿勢を映し出す鏡
第5話 共感 相手の真実を感じとる力量
第6話 格闘 人間力を磨くための唯一の道
第7話 地位 部下の人生に責任を持つ覚悟
第8話 友人 頂上での再会を約束した人々
第9話 仲間 仕事が残すもうひとつの作品
第10話 未来 後生を待ちて今日の務めを果たすとき
謝辞
ISBN:9784569660158
出版社:PHP研究所
判型:文庫
ページ数:272ページ
定価:533円(本体)
発行年月日:2013年04月15日第16刷 -
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・本書は、AIの普及による、知的労働者の大量失業危機を分析するとともに、AI時代に求められる人材のイメージを描いた書である。
・要は、どのような能力をもっていれば、AI時代に生き残れるのかを語っている書である。
・能力とは、単なる業務の遂行能力ではなく、AIに代替されない、より高度な人間的な能力を云う。
氏のメッセージは、次のとおりです。
「これからのAI時代に到来する『AI時代の危機』を読者諸氏が、文字通り『機会』へと転じ、さらには『好機』へと転じ、『3つの能力』を磨くことによってこれまで以上に、『活躍する人材』になっていくことを、切に祈りたい。これから始まるAI時代、さらなるご活躍を」
■重要なテーマ
①能力の急速な陳腐化
社会・市場・産業や、職業の変化によって、修業時代に身に着けた能力が急速に陳腐化してしまう
②学歴社会の崩壊 学校教育で生み出される人材が、必ずしも、社会が求めている人材とは言えなくなっている。
イノベーション力、ネットワーキング力、リーダシップ力
現在のわが国の教育制度は、こうした高度知識社会に必要な人材を育成していないために、
学歴に甘んじることなく自らがこうした高度な能力を身に着けていく必要がある
③AI時代の到来
これまでの業務が、AIによって代替されていく
■AI革命の嵐
・淘汰され、生滅した職業の人に共通の特徴とは、持つべきときに、持つべき危機感を、持たない
・「自分の仕事は不要になる」との危機感を持つ人こそ活躍する
・AI革命の嵐の中で、淘汰されてしまう可能性の高い人材は、「高学歴の人材」である。
・理解すべき点は2点 ①人間に求められている能力は何か ②AIが代替していく能力は何か
■5つの能力
①基礎的能力 知的集中力と知的持続力
②学歴的能力 論暦的思考力と知識の習得力 文献的知識
③職業的能力 直観的判断力と智恵の体得力 智恵とは言葉で表せることができないもの
④対人的能力 コミュニケーション力とホスピタリティ力 非言語能力
⑤組織的能力 マネジメント力とリーダシップ力
■人間がAIにかなわない4つの能力
①無制限の集中力と持続力
②超高速の論理的思考力 (これは「アルゴリズム」ということをいっていると理解)
③膨大な記憶力と検索力 ⇒知識が価値を失うようになった
曖昧検索、類推検索、関連検索 もAIの能力
勘の良い秘書や、執事もAIが代替、知識の習得力、専門的知識もAIに置き換わっていく
④分析力と直観力 ディープ・ラーニングとビッグ・データが直観的判断力を代替していく
・5つの能力のうち、次がAIが代替してしまう可能性のある領域
①基礎的能力 知的集中力と知的持続力
②学歴的能力 論暦的思考力と知識の習得力 文献的知識
③職業的能力 △直観的判断力
・現実に目の前にあるのは、それが合理的であるならば、社員を解雇してでもAI導入に向かう「資本の論理」である。
・資本主義が、現在のような貧富の格差拡大と弱者切り捨てを容認する者である限り、人間働かなくてもよく、ベーシックインカムで生活ができるような「理想郷」は決してやってこない。
・余裕を失ってしまっている企業は社員の「再教育」にコストを投入することで社員を「AI失業」から救ってくれることはない。
だから、AIによって代替できない「高度な能力を持つ人材」への再教育できるのは、自分自身しかない。
・「ピンチ」は「チャンス」であり、「危機」という言葉には「危険(risk)」という言葉と「機会(opportuniry)」という対極の言葉が含まれている。
■これから淘汰されずに生き残る3つの能力とは
・AIが代替できない能力
①クリエイティビティ(創造力)
②ホスピタリティ(接客力)
③マネジメント(管理力)
・5つの能力のうち、つぎの3つ
③職業的能力 直観的判断力と智恵の体得力 智恵とは言葉で表せることができないもの
④対人的能力 コミュニケーション力とホスピタリティ力 非言語能力
⑤組織的能力 マネジメント力とリーダシップ力
■「学歴社会」はすでに崩壊している
・「求められる人材」
人材市場において、ニーズがあり、職に就ける人材
・「活躍する人材」
自分が働く企業や組織、職場や仕事において、リーダーシップが発揮できる人材
・「職業的能力」「対人的能力」「組織的能力」という3つの能力を身につけ、磨いていないかぎり、実社会で活躍することはできない
・3つの能力いずれにおいても「核」となる能力、それは、「人間関係力」である。それは、仕事において関わりを持つすべての人々と、良好な関係を築く能力である。
・高学歴だから、リーダーシップがあると考えている人事部もないし、高学歴だから、出世が約束されている会社など存在しない。
■③職業的能力
・経験や体験を通じてしか掴めない「体験的智恵」であり、AIによって容易に置き換えられない能力
・単なるスキルや、テクニックだけではなく、「技術」と「心得」という2つの能力が組み合わされたもの
・「心得」とは、マインド、ハード、スピリット、パーソナリティと呼ばれるもの、心構え、心の姿勢、心の置き所と呼ばれるもの
・スキルだおれ 「技術」だけでなく、「心得」を同時に身につける必要がある
・本を読めばスキルやテクニックが身につくという幻想を捨てる。⇒本を読んだだけでは、「職業的能力」は身につかない
・知識と智恵を明確に区別しているか。「知識」とは言葉で表せるもの、文献的知識、形式知、「智恵」とは言葉で表せないもの、体験的智恵、暗黙知。
・われわれは語ることよりも、多くのことを知ることができる。
・初級課程 智恵の棚卸と課題克服の努力 中級課程 智恵の体得法を身につけること
・経験だけでは、智恵は身につかない。経験を体験まで深めてないから。そのためには、「反省」をすることである
・反省の進め方 「技術」の振り返り、そして「心得」の振り返り
「直後の反省対話」商談、交渉の直後に上司、同僚と振り返りと反省を行う
「深夜の反省日記」
・最高のスキルやマインドの取得 すぐれた「師」との出会い、模倣と体得による「智恵の伝承」
■④対人的能力
・コミュニケーション力 相手の考えや気持ちを深く理解する力、相手に自分の考えや気持ちを円滑に伝える力
・コミュニケーションの8割は、言語ではなく、目、表情、面構え、仕草、身振り、姿勢、ポーズなどによる
・AIには決して真似できない「共感力」
・共感力とは、相手の共感を引き出すのではなく相手に深く共感する力
・共感力とは、同情や憐憫を行うことではなく、相手の姿が自分の姿のように思えること
・苦労の経験がなければ、苦労している相手に共感はできない、「若い頃の苦労は、買ってでもせよ」
・最善を尽くして、それでもなお与えられた苦労は、我々の成長のために与えられたものだ。
■⑤組織的能力
・管理業務については、その多くがAIに置き換わりつつある。人間にしかできない「究極のマネジメント」とは「心のマネジメント」である
・心のマネジメントとは
①共感協働のマネジメント
②働き甲斐のマネジメント
③成長支援のマネジメント
・現在起きているのは、古い「操作的マネジメント」から、「創発的マネジメント」へのパラダイムシフトである。
部下やメンバーを「操作しよう」とせずに、彼等の自主性を大切にし、その自発的行動を支援することにより、新たな技術・商品・サービス・ビジネスが創発的に生まれてくることを促す
・「心のマネジメント」とは、部下やメンバーの心を、マネージャーやリーダーの都合のより方向に変えていくのではなく、部下やメンバーの視点にたち、その心が自然に互いの共感力を高めたり仕事に働き甲斐を漢字たりできるように支援すること。
・成長支援とは、カウンセリング、コーチングと呼ぶべき仕事である。
・ただ聞くのではなく、聞き届けること 話を聞くことで、その人にとっての真実を聞くということである。
・聞き届けとは、その部下の言い分をそのまま鵜呑みにするということでもなく、その言い分に従って、なにかの判断を下すということでもない。
・聞き届けることによって、苦しんでいる部下やメンバーの姿に、一人の人間として共感するということである
・この人といっしょに仕事がしたい、そのために求められる力とは
①信念をもって魅力的な「ビジョン」と「志」を語る力
②誰よりも強く「成長への意欲」を持つ力
③メンバーの持つ「可能性」を深く信じる力
・21世紀のリーダは
①「必ず我々のチームはこの仕事を成し遂げられる」という強い信念をもっていなければならない。
②いかなる成長の壁に突き当たってもそのメンバーの「人間としての可能性」を信じ、部下やメンバーが必ずその壁を越えて成長していけると信じなければならない。
③部下であっても、目の前の人間に対して、敬意をもって処するという姿勢をけっして失うべきではない。
目次
序話 なぜ、いま、能力を磨かねばならないのか
第1話 「知的職業」の半分が失業する時代がくる
第2話 「学歴社会」は、すでに崩壊している
第3話 AI時代に求められる「職業的能力」とは何か
第4話 AI時代に求められる「対人的能力」とは何か
第5話 AI時代に求められる「組織的能力」とは何か
終話 「AI失業」という危機は、能力を磨く絶好機
謝辞
さらに学びを深めたい読者のために
ISBN:9784569902951
出版社:PHP研究所
判型:文庫
ページ数:256ページ
定価:760円(本体)
発行年月日:2023年01月24日 -
Posted by ブクログ
この書を手に取ってよかった。
●本書は、逆境にある人への温かいはげましのメッセージです
●「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」とあります。
●ある方の言葉をとって、今生きていることを、「人間は、生かされているから」と語っています。
●「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という信念や覚悟を、
天命、天の声、天の導き、天の配剤、神仏の加護、仏の御心といっています。
覚悟を、「心に思い定め、深く信じる」ことだともいっています。
●まず、「すべては導かれていること」を覚悟として受け入れろと言っているわけです。
●そうすると、3つの変化が起きます。
①日々の仕事において、起こる出来事を見つめるとき、その「意味」が全く違って見えてきます。
②目の前に立ちふさがる逆境を見つめるとき、その逆境に向き合う「勇気」が沸き上がってきます。
③目の前に立ちふさがる逆境に向き合うとき、その逆境を越えるための「直感」が閃くようになります。
●では、どう「覚悟」を決めればいいのか、覚悟を決める方法を、「こころの技法」としています。
こころの技法
第1の覚悟 自分の人生は大いなる何かに導かれている
第2の覚悟 人生で起こること、すべて、深い意味がある
第3の覚悟 人生における問題、すべて、自分に原因がある
第4の覚悟 大いなる何かが、自分を育てようとしている
第5の覚悟 逆境を越える叡智は、すべて与えられる
気になったのは以下です。
■序話
・人間死ぬまで命はあるんだよ
・いまを生きよ、いまを生き切れ
・明日死のうが、明後日死のうが構わない それが、天の与える寿命であるなら仕方ない 与えられた今日という一日を精いっぱい生きよう
■第1の覚悟 自分の人生は大いなる何かに導かれている
・これも何かのご縁ですね、あの人とは、有り難いご縁をいただきました、あのとき、不思議なご縁に導かれて
・人生は、人との出会いが、すべて 人生は人との出会いによって、導かれる
・人生には、われわれの人智では計り知れないことがある、と感じる
■第2の覚悟 人生で起こること、すべて、深い意味がある
・人生には、一つの真実がある
・人生において、「成功」は約束されていない
・人生において、「成長」は約束されている
■第3の覚悟 人生における問題、すべて、自分に原因がある
・「引き受け」という心の姿勢 たとえ、自分に直接の責任がないことでも、すべてを自分自身の責任として引き受けること
・人間は、本当の自信がなければ、謙虚になれない 人間は、本当に強くなければ、感謝ができない
・人間の「真の強さ」とは 「静かな強さ」こそが、人間の持つべき真の強さであり、それは、「魂の強さ」と呼ぶべきものである
■第4の覚悟 大いなる何かが、自分を育てようとしている
・大いなる何かが、自分を育てようとしている だからこそ、この逆境は、必ず乗り換えられる
・大いなる何かが、自分を育てようとしている だからこそ、この逆境を糧として、必ず成長していける
・あゝ、大いなる何かが、また、自分を成長させるようとしている
・先人たちが、共通に心に抱いてきた思い、それは、使命感。「多くの人々のために、素晴らしい何かを成し遂げよう」との思い。
・「使命」、なぜなら、使命とは、「命を使う」とも読めるから
■第5の覚悟 逆境を越える叡智は、すべて与えられる
・与えられる5つの叡智とは
①直観
最も大切な勝負の瞬間や、最も重要な決断の瞬間には深い「直感」が求められる。
しかし、深い「直感」が働くためには、深い「静寂」がもとめられる
②予感
予感とは未来の出来事を事前に見えていたように感じる体験
③コンステレーション:布置
表面的には無関係ないくつかの出来事の間に何かの「関係」を感じ取り、「意味」を見出し、「物語」を読む取ること
④シンクロニシティ:共時性
心の中で考えていることと、現実に起こる出来事の不思議な偶然の一致
⑤運気を引き寄せる
偶然と見える出来事の中に、「大切な意味」を感じ取る力
偶然と見える出来事の中に、「自分を導く声」を感じる力
・棟方志功 「我が業は、我が為すにあらず」
自分の仕事は、自分が成し遂げた仕事ではない、大いなる何かが自分を通じて成し遂げた仕事である
■まとめ
・3つの真実
①人は必ず死ぬ
②人生は一度しかない
③人は、いつ死ぬかわからない
■著者のメッセージ
「すべては導かれている」という覚悟を定め人生を歩まれることを。
・あの逆境があったからこそ、人間として成長できた
・あの逆境があったからこそ、輝いて、生きることができた
・あの逆境があったからこそ、人生の不思議を知ることができた
・その逆境のすべてを含め、有り難い人生であった
・素晴らしい人生であった
いつの日かあなたが、そう語られることを、祈っています。
目次
はじめに いま、逆境にある、あなたに
序話 あなたの中に眠る、不思議な力と叡智
第1話 自分の人生は、大いなる何かに導かれている
第2話 人生で起こること、すべて、深い意味がある
第3話 人生における問題、すべて、自分に原因がある
第4話 大いなる何かが、自分を育てようとしている
第5話 逆境を越える叡智は、すべて、与えられる
終話 なぜ、人生で、不思議なことが起こるのか
おわりに あなたは、すでに、逆境を越えている
謝辞
さらに学びを深めたい読者のために
ISBN:9784569901954
出版社:PHP研究所
判型:文庫
ページ数:248ページ
定価:740円(本体)
発行年月日:2022年03月10日第11刷