アレクサンドル・デュマのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレいよいよクライマックス!
次々と復讐を遂げていくエドモン・ダンテス
気持ちいいくらいにピタッと鮮やかに決まっていく復讐なんだけど、
悪いやつらだけじゃなくて、(意外といい人だったりすごくいい人だったりする)家族も不幸になっていったりするのがツライところ(仕方ないけど)
でもまあハッピーエンド・・かな?
頭の良さもすごいけど、お金がすごい
お金の単位がいまいちわからないんだけど
ぼかすか使っている
金に物を言わせている・・
メルセデスのばかっ!(しょうがないんだろうけど)
アルベールいいこだな~
ヴァランチーヌいいこだな~(でもなんかおバカっぽいな)
ウジェニー(男装して友達といっしょに出奔)かっこいいな
エドモンはメルセデスといっしょになるのかなーと思ったけどエデなんだなー
そのへんはどうなんだろうな
解説してほしい -
Posted by ブクログ
19世紀フランスの小説家アレクサンドル・デュマ(デュマ・ペール、1802-1870)の代表的長編小説、1841-1845年執筆。19世紀のフランスはしばしばその政体を変えており、物語も第一帝政・復古王政・百日天下・七月王政という歴史的情況を重要な背景としている。また、近代市民社会が勃興するのにともない新たな近代的メディアとしての大新聞が誕生することとなったが、当時は各紙が新聞小説を掲載することで読者獲得を図った時期でもある。本書も或る大新聞に2年間にわたり連載されたもので、物語も大衆性・通俗性を帯びている。
□ 第一巻
1815年、ルイ18世の復古王政下。エドモン・ダンテスが、人生の幸福から一転、ナポレオンの「百日天下」に巻き込まれるような形で政治的謀略に嵌められて無実の罪を着せられ、牢獄に幽閉されるまでを描く。筋の起伏が明白かつ豊かで読んでいて実に楽しい。特筆すべきは、やはり獄中に於ける老学者ファリアとダンテスとの遣り取りだろう。ファリアは獄中で且つ病魔に侵されながらも、脱獄の為の諸計算やその実行に必要な様々な工具類や縄梯子、更には精密な日時計や紙・ペン・インクそしてロウソク等々を気の遠くなるような長い時間と絶えること無き創意を重ねて作り上げていた。そればかりでなく、様々な言語の単語帳を作って勉強したり、持ち前の学識を用いてイタリア統一に関する大論文まで執筆しているというのだから驚く。舌を巻いたダンテスから「紙とかペンとかインクとか、それをおもらいになったのですか」と尋ねられてファリア曰く、
「いや。わしがつくった」
痛快な一言。不撓不屈の精神と強靭な知性(「順序は、あらゆる問題にとっての鍵だ・・・」)に、清々しさを覚える。そして、ダンテスが陥った謀略の真相をファリアが次々と暴いていく過程は探偵小説の如く(「・・・、犯人を見付けるためには、まずその犯罪によって利得する者を求めよ!」)、また旧家の財宝の秘密を探ってモンテ・クリスト島を暗号解読さながらに導き出す過程は冒険小説の如く、読んでいて胸が躍る。
個人的には、条件が限られた閉鎖空間の中で知性と創意を躍動させる情況に、昔から不思議と魅了されてきた。なお、幼少の私に今は亡き祖父が聞かせてくれた『巌窟王』は、ちょうどこの場面だった。
□ 第二巻
1829年、投獄より14年を経て、脱獄。この有名な脱獄場面は、読む者にまさに冒険活劇の興奮を与える。その後、モンテ・クリスト島の財宝を手にし、故郷へ。そこで、父の既に亡きこと、14年前に自身を陥れた者たちによる謀略の真相と彼らのその後、許嫁の行方、そして昔日の恩ある船主モレル氏の窮状を知る。嘗ての雇い主であり庇護者でもあったモレル氏に対するダンテスの恩返しは、モレル氏が困窮の最後に於いてまで家族や部下の船員たちに失うことなく示し続けた気高く腹蔵無き真の愛情とともに、読む者に大きな感動を与えるだろう。
脱獄を果たしたダンテスの相貌は、「眼には深い悲しみがしめされ、その悲しみの底からは時折、世を厭う心と憎悪の心との暗澹たる閃きが迸り出て」、「自分自身にさえ自分がわからないのだった」。ダンテスは、この世が、神の存在のもと善悪が真っ当に報われる"最善"の世界ではないことを痛感し、神に代わって神が為すべき正当なる報いを実行しようと決意をした。「・・・、遅かれ早かれ、正直者にはたしかにお賞めがありましょうし、悪いものにはきっと報いがありましょう・・・」。これは実に畏怖すべき決意である、人間が神に取って代わろうと、人間自身が決意するのだから。ダンテスにあっては、最早、ライプニッツ(1646-1716)が唱えた「弁神論=世界最善説・予定調和説」など全くの無力である。ここに、ヴォルテール(1694-1778)によるライプニッツ批判(『カンディード』など)を通過して、神に対する奴隷状態からの、人間の倨傲とも呼ぶべき自律の兆候が読み取れる。善への報い(モレル氏への恩返し)が果たされれば、残るは悪への報いのみである――神ならぬ人間が為すそれは、「復讐」と呼ばれる。人間が神に代わってその役割を果たそうとするとき、人間は、次第に唯名化していく神という観念から自律しようとするとともに、人間性という観念をも超え出てしまいかねない。
「なさけよ、人道よ、恩義よ、さようなら・・・・・・人の心を喜ばすすべての感情よ、さようなら! ・・・・・・私は善人に報ゆるため、神に代わって行った・・・・・・さて、いまこそは復讐の神よ、悪しき者を懲らすため、御身に代わっておこなわしめたまえ!」
□ 第三巻-第七巻
エドモン・ダンテスはモンテ・クリスト伯爵を名乗り、巨万の富をその力の背景として、復讐の鬼神となって、パリへ、モンセール家へ、ダングラール家へ、ヴィルフォール家へ、入り込んでいく。そこは「価値ありげな顔をせよ、しからば世間も価値をつけよう」という欺瞞の準則が罷り通っている俗物社会だ。効率的な利益の獲得という即物的な無内実を糊塗する為につけられる仮面。仮面の下が虚無であることを自他に対して欺瞞的に隠蔽する為だけの仮面。目前に迫った死がその仮面を剥ぎ取る段になって初めて、仮面の下には何も無かったということが、他ならぬ自己自身に対して突きつけられるだろう。仮面は、その下が実は虚無でありながらさもそこに意味ある何かが存在するかのように仮構する為のものでしかないが、こうした俗物"界(champ)"にあっては当の仮面そのものが内実そのものであるかのような倒錯が起こるだろう。「社交"界"」とは、そうしたルールに則ったゲームだと云える。
人間が神に取って代わろうとするとき、逆説的に、当の人間は悪魔じみてくる。
「『わたしは、いままで神の摂理という言葉を聞かされていた。だが、それを見たこともなければ、またそれに似たようなものさえ見なかった。したがって、わたしは、それが存在しているとは思わない。わたしは神の摂理そのものになりたい。なぜかというと、わたしの知っているかぎり、この世においてもっとも美しい、偉大な、そして崇高なことは、自分の手で賞罰を与え得ることにほかならないのだから』。すると、悪魔は、首うなだれて、溜息をつきました。『・・・。わたしがお前のためにしてやれること、それは、お前を神の摂理の使徒の一人にしてやることなのだ』。取引はできました」
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長大な物語は次の句で結ばれる。
【待て、しかして希望せよ】
ここでは、「待つこと」そして「希望すること」が可能とされる。しかし、神なるものが完全に無化されている現代にあっては、ニヒリズムが行き着くところまで行き着きニヒリズムがニヒリズム自体に捩れを来している情況にあって、これは余りにオプティミズムが過ぎないか。現代にあっては、希望を徹底的に否定し断念した上でそれでもなお「待つ」という自己矛盾を含んだ態度以外に不可能ではないか。希望は、語られた途端に口の端をボロボロと崩れ落ち、語るに堪えぬ紛い物と化す。しかしここで居直ってしまうなら、それは即物的なシニシズムに到るしかない。それを峻拒するならば、希望を予定することなく、その上でなお、「待つ」しかない。何を? それは決して語られることなく。 -
Posted by ブクログ
本格的に復讐の準備に取りかかろうとしているのだろうということが分かる第3巻。伏線を広げているのは分かるのだが…なんとなく読まされている感じがいなめない。ハラハラしたり、ワクワクしたりする箇所が少ない。メルセデスやダングラール、ヴィルフォールに出会うシーンもなんとなく淡々と描かれていてドキドキがない。まぁこのあと実はダンテスだと分かって驚くところまでの楽しみか。
あとは登場人物が多くなってきたことや、人間関係が複雑化してきて読んでで訳が分からなくなり何度も頭の中で関係図を思い返してしまった。みんな貴族で、なんらか成功して、子どもいたりなんだりで…
なんとなく読むモチベーションが下がりつつあるが4巻で盛り上がることを期待して。