平野啓一郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
衝撃的なストーリー
哲学的であり、心理学的であり
その都度納得の内容にため息が出る
ゴッホの絵の繋がりもたっぷり盛り込まれている
ただ、切ない
分人という考えにも納得ではあるが
すべてひっくるめてのその人で
自分でも考えれば
何個の分人を抱えているか数えきれない
なんともせつない
生き返った意味があったから
生き返ってやることがあったから
生き返ってきたのだろうか
そうでなければ
危険人物も蘇ってしまうわけで‥
閻魔様の悪戯なのか
だとしてもせつない
璃久ちゃんのどんぶらっこは
はたして父を運んできたのか
これからの父への暗示なのか?
今もどこかでこんなことが
おこっているのではないかと
思わずにはいられない
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Posted by ブクログ
ネタバレゴッホのついての学びを深めたかった時に、ゴッホの表紙が気になり購読。
「分人」という新しい哲学に触れ、自分の中でも腑に落ちる点があったので、新たな視点として咀嚼していきたい。
分人は、相手毎に生じる自分の分身がいるという思想で、自分という根本は変わらないが、相手が恋人なのか友達か、嫌いな人かによって異なる分人がいるということである。
自殺についての解釈は、自身にいる嫌な分人を「消したい」という感情から生まれ、分人を理解していない人にとっては、嫌な自分を「殺す」しか手段がなく自殺するということに納得がいった。
嫌な分人と向き合うには、「見守る」と本書ではアドバイスしていたが、私の意見では「受け入れる」と感じている。そういう分人も含めて自分を愛したいからだ。
ゴッホとの関連性は薄かったが、分人と自殺の解釈を説明するうえでの、新しい視点としては興味深い話だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ家族といる時の天然で頼りない自分、友達といるときの明るくサバサバした自分、会社にいる時のしっかりした自分。どれが本当の自分なのか、どれが仮面なのかと考えることがあったけれど、その答えがこの本にあった。
個性とは生まれつきの生涯不変のものではない。
多種多様な「分人」の集合体こそが自分=個性なのだと著者は言う。そしてこの分人は環境や対人関係の中で反復的なコミュニケーションによって形成されて、そのスイッチは自分の意思ではなく相手次第で自動的にスイッチされる。
自分の中にたくさんの分人がいるのは、今までいろんな人に出逢って様々な環境で過ごしてきた道のりがあるからこそで、それは決して悪いことではないのだと思えた。幼馴染と最近の友達が一緒に会ったらなんとなく気まずいというのも納得、きっと違う分人を混ぜると自分が困惑するのだろう。
自分の個性だったりアイデンティティについて考えるときに、本当の自分は一つではなくて分人の集合体なのだというコンセプトを持つことで新しい視野が広がった気がする。 -
Posted by ブクログ
これ凄い好き。
私なんか全然本読んでないなーって思った。
若林さんがそもそも繋がっている、なんなら飲み仲間作家さんとの鼎談から始まって。初めましての作家さんも登壇してくるんだけどこんな会話繋がって凄いなー掘り下げてるなー面白いなーってのが連続するんだから。
タイムリーにみたかったなー。もっと対談して欲しい作家さんいるなー。私が好きな作家さんの本がお勧めされてて嬉しいなー。
もう紹介されてる本片っ端から全部読みたいっ!!すべての回でその時話題に上がったテーマでお勧めの本を作家さんが紹介するんだが、これが垂涎なんです。紹介の仕方にも唸る、だってどれもこれもすっごく読みたくなる。
沢山の本の中からキラっと光る物を探し当てた気分。 -
Posted by ブクログ
スローリーディングとはなんぞやというところから始まり、スローリーディングを実践することで、豊かな読書体験を得られる、ひいては読む人の人生がより豊かになる、ということを作家の平野啓一郎さんが丁寧に語られています。
本書の構成は、基礎編、テクニック編、実践編からの三部構成となっており、特に、わたしは実践編を楽しく読めた。
実践編は古典作品を通じてスローリーディングの実践を講義形式で書かれている。平野さんが、まるで国語か小論文の先生のように出題し、丁寧に解説してくれている。
わたし自身、ものすごく遅読者で、人生のことあるごとに速読できる人に憧れ、たびたび試みるべく速読術の本を何冊も買ったし実践も実際試みてきたが、正直うまくできたことは一度もない。
いまだ本を読むのは遅いし、一度読んだくらいでは頭に入らないので、大抵は二度は目を通す。
が、平野さんが推すスローリーディングは、そんなわたしのあり方を勇気づけてくれたし、なにより、スローリーディングとはただ読むのが遅いだけのわたしの読書法とは違い、より深く作品を理解する方法の一つで、本書を読むうちそれを実践してみたいと思えたのは大きな収穫だった。
ここに書かれる古典作品をさっそく読んでみたいと思う。 -
Posted by ブクログ
“ビュフォンが『人間の博物誌』(一七四九年)を書いて以来、「男らしさ」は、”生物学”に基盤を得て、自然主義的に主張されるようになる。男女の性的二形性ーつまり、男女は解剖学的、生物学的に違うという事実ーから、その差異は社会的な存在論にまで拡張され、結局のところ、男性の優位を根拠づけようとする思想が、一九世紀以降、広まっていく。この時代、取り分け注目されたのは、男女の体液だった。女性が母乳や涙、分泌液など、「体液を排出するよう勧められた」のに対して、男性は「涙であれ精液であれ、自分の体液の流出を結し、抑制するよう促される。快楽を管理し、性的エネルギーを規制することが、男らしさを示すこと」と理解されたという。「男らしさ」とは、つまり、自己を主体的にコントロールすることであり、更には自己の周辺の状況、女性を含めて他者をコントロールすることだった。その「性的エネルギー」の規制のために、一種の道徳神学と医学との両方から反マスターベーション運動が起こり、途中、その無害を唱える説などによって緩和されつつも、精液の放出が生殖能力を低下させ、ひいては「男らしさ」を損なうという不安は、イギリスでは一九〇〇年をピークとし、両大戦間まで続いた。しかし、マスターベーションは、意志の力で我慢できるかも(?)しれないが、夢精となると、打つ手がない。むしろ、ますます厄介な問題であり、そのために、自殺を考えるほど思い悩む男性までいた。驚くべきは、こうした「精液漏パニック」が、この時期、ヨーロッパ中で広がっていた事実である。勿論、「男らしさ」が減退するという不安だけでこの有様なので、その根本的な欠如の宣告である性的不能は、絶望的な問題だった。スタンダールの『恋愛論』に見られる如く、不能は言わば偶発的な「しくじり」だったが、それはいかにも深く自尊心を傷つけ、本質的に恥辱と感じられたが故に、医学的な原因究明の情熱は、一九世紀の間、醒めることがなく、禁欲は良いのか悪いのか、禁欲が長すぎるのが問題なのか、マスターベーションのし過ぎなのか、性交のし過ぎなのかと、その説は揺れ続けた。しかし、これらはいずれも、今日の男性たちが通俗的に信じていることと、そう大差がないのではあるまいか?”