中川右介のレビュー一覧
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いわゆる「二十四年組」を代表する二人のマンガ家である萩尾望都と竹宮惠子が、1970年秋から2年間にわたって共同生活をおこなった「大泉サロン」に焦点をあてて、彼女たちが成し遂げた「少女マンガ革命」について論じた本です。
著者がかなりおおざっぱな解釈の図式をもち込んだためにある種の愛好家たちの憤激を招いた例は、すでに『歌舞伎―家と血と藝』(講談社現代新書)がありますが、本書もさまざまな毀誉褒貶を呼び起こしているようです。
著者のいう「少女マンガ革命」は、直接には増山法恵のことばにもとづいているようですが、手塚治虫や石ノ森章太郎らの影響を受けた新しい世代の作家たちが、旧来の少女マンガの硬直したスタイルを脱したというおおざっぱなものです。ただ、増山の発言から「意識革命」ということばを引用していることを見ると、大きな時代の動きのようなものを前提に、少女マンガという世界における「革命」を理解しようとしているように思われます。こうした解釈の図式は、陳腐という批判はありえるでしょうが、著者に特殊な見かたというわけではないでしょう。
また著者は、竹宮の『ホットミルクはいかが?』や『ロンド・カプリチオーソ』といった作品の内容から、その「作者」についての解釈を引き出しています。これは、本書が「大泉サロン」での事実を策定することをめざしたノン・フィクション作品ではなく、作品の解釈から「少女マンガ革命」のなかで二人のマンガ家が演じた役割について解釈をおこなう評論であることを証明しているとみなすことができます。本書に記されているのは、こうした観点から語られた著者の意見であり、当然のことながら批判に対して開かれているものです。
なお、本書刊行後に一方の当事者である萩尾の『一度きりの大泉の話』(河出書房新社)が刊行されました。これによって著者の意見が変化するのか、あるいはそれにもかかわらず変化しないのかわかりませんが、著者の他の本と同様に文庫化の際に増補がなされることを望んでいます。 -
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いわずとしれた近代史に残る世界三大権力者の、組織内をのしあがっていく彼ら独特の出世学、まあ要するにこの場合自分に反旗を掲げるものを次々と粛正していくだけ、という身も蓋もない事なのだけれど、組織のトップになる道筋について非常に独特でユニークな考え方を持つこの三人の人生を考察することで色々学ぶこともあるだろう、という書。
そういう意味においては実に面白かった。決して褒められた行いをした三人ではないが、というかむしろ虐殺した規模においては人類史上最悪の部類に入る悪党だと言えるけれど、人類の歴史というのは極言すれば侵略の歴史であり、それに伴う大量殺戮の歴史であることを考えると、彼らもまた人類の負の歴史の1ページであるに過ぎないともいえる。長い長い歴史上のちょっとしたハイライトというくらいで。
その彼らが、ある組織内から始まって最終的には国家レベルにおいて一時期であれ決して少なくない人々の支持を得、それが半ば強制的と言えどもある程度の期間維持されていた、というのはすごく興味深い問題だとも思える。もちろんこうして客観的な歴史的を省みる立場で見てみれば、という事だけれども。 -
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江戸川乱歩と横溝正史。ある程度以上のミステリー(この場合は探偵小説と言った方がふさわしいか)ファンならば、この名前に、ドキドキやワクワク感、あるいは畏敬の念といったものを感じるのではないだろうか、
と言いつつ自分は、角川文庫ブームのときに横溝作品に触れたものの、乱歩についてはミステリーの紹介者、啓蒙者の立場からの評論から読み始まり、「孤島の鬼」や「陰獣」にハマり、少年探偵団シリーズは比較的最近読んだという読書遍歴である。
本書は、作家としても編集者としても活躍した、友人でありライバルでもあった両者が時に交わり、時に離れた、その関係性に焦点を当てて描いた、二人の評伝である。
これまで断片的には知識のあった両者の作家人生をまとめた形で知ることができて新たな発見があったし、作品に対しても新たな見方ができそうだ。
補助線として両者の作品を発行、発売した出版社の栄枯盛衰の歴史が語られ、これもまた興味深かった。 -
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少女漫画版「トキワ荘」として知る人ぞ知る「大泉サロン」については、確かこれまで完全な第三者による単著はないはずで、その点だけでも価値がある。ただし、「トキワ荘」と比較して資料が圧倒的に少なく、当事者のあいまいな記憶に依拠せざるをえないため、基本的な事実の確定すら覚束ない。同著者の『手塚治虫とトキワ荘』では徹底した史料批判で事実の確定に努めたが、依拠資料の少ない本書では、結局誰がいつ「サロン」に出入りしていたのかという問題すらはっきりしない。キーパーソンである増山法恵には取材したような記述はあるが、非協力的だったようで、他の関係者には改めて取材はしていないようなのも、叙述の精度を落とす結果となっている(本書の著者はノンフィクション作家でもジャーナリストでもないので、既存の文献だけに依拠するその手法自体は「平常運転」なのだが)。また『手塚治虫とトキワ荘』では編集サイドの動向にも紙幅を割き、出版文化史全体の流れのなかで俯瞰する視点があったが、本書ではそうした傾向は希薄である。これも重要な編集者らがまとまった証言を残さないまますでに鬼籍に入っているからだが、改めて記録を残すという営為の重要性を考えさせられる。「サロン」の解体については、竹宮と萩尾の増山を挟んだ「確執」「三角関係」にまで踏み込んでいるが、この問題は竹宮の自伝(萩尾に対する強烈なコンプレックスを告白して人々を面食らわせた)の一方的な見方を前提としており、事がセンシティブなだけにより慎重な扱いが必要だったと思われる。いずれにせよ、「大泉サロン」以外の「24年組」の動向も含め、追究が不十分な論点も多く(例えば女性漫画家の原稿料等の差別待遇問題)、将来の増補を望みたい。
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少なくとも私の世代のクラシック好きにとって、フルトベングラー、カラヤン、チェリビダッケは大御所中の大御所。知らないものはないだろう。
フルトベングラーは神の様な存在とされるのに対し、カラヤンはステレオと映像時代の寵児、チェリビダッケは仙人(孤高とも言う)として扱われ同じ立ち位置ではなかった様に思う。
3者の確執については漏れ聞いていたが、ここまでのものとは知らなかった。著者はあくまでも自身の推測としながらも、何年何月何日に誰がどこにいた事まで調べ上げての推測には説得力がある。
それにしても神とも崇められる硬派(見た目)フルトベングラーが、実は優柔不断で女好きであった事に自分の中で信じたくないような思いがある。
デュトワの様に、見た目と行動に一致感があれば何の抵抗もないんだけれど(デュトワさんごめんなさい!)