谷崎潤一郎のレビュー一覧
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芥川は、小説から構造を廃すべきと言ったわけではない
ただ小説の前提には作家の個性がなければならず
作家は、その自己表現を面白く読ませるための技法として
構造を用いなければならない
もちろんまた一方では個性が技法となり
二代目○○、三代目○○と積み重ねられていきもするわけだが
それを扱って作品とするのはあくまでも個人だ
そうでなくては、詩はスローガンに
小説はプロパガンダに堕していくしかないだろう
それに対する谷崎は
東京と大阪の文化性の違いなど挙げて
要は受け手の個性が作品を完成させるという立場を取っているようだ
もちろんそれもひとつのあり得べき解釈である
しかしやがては
スノビスト達の鼻持ちならない閉鎖性につながってゆくものでもあろう
そこに、ある暗い可能性を見いだしてしまうのは
ちょっと意地の悪い見方かもしれないが
「日本に於けるクリップン事件」
クリップン事件は、1910年にイギリスで起きた
マゾヒストによる情婦殺害事件
日本でも起こった同じような事件をレポートするのが
この作品の主眼である
しかしマゾ男が女王様を殺すこと以外に事件の共通点は薄く
単に同じものとして並べるのはやや乱暴な気がする
「藪の中」
ひとつの殺人事件をめぐり
すべての容疑者(および被害者)が自らの犯行と主張する話
各人のプライドがそれぞれにそういう主張をさせるようで
真相はわからない
ただ、誇りのために損害を被ることをも厭わない人間の気高さ
それが主題と見ることはできる -
Posted by ブクログ
ネタバレ読書会の課題本。前半の実母への恋慕や関わりは、自分の子どもの幼いころを思い出して共感しつつ読んだが、後半の継母との関わり、父子二代に渡っての想いの共有、妻澤子を迎えるくだり、「母に仕えることを唯一の生き甲斐にして、外に何の幸福も要らぬ」「お母さんを仕合わせにするためには、お前が嫁をもらう必要がある」あたりは、やはり前回読んだ谷崎本同様、若干ひいてしまう。
一緒に収録されているエッセイの方が私にはむしろ面白く読めた。元々、エッセイが好きということもあるが、家族への想い、自分への評価などがつづられた「親不孝の思い出」、自身の病状とそれに対する心もちをつづった「高血圧症の思い出」、関わりのあった秋声、鏡花、芥川ら多くの文豪との交わりを書いた「文壇昔ばなし」など、どれも非常に面白かった。 -
Posted by ブクログ
多少の例外があっても。
日本では恋愛問題を取り上げた物語で、
知識階級が恥じない賞賛を博したのは、
明治の夏目漱石まで無かった。
ぢゃあ、「源氏物語」はどうなんだ?という声が聞こえますが。
アレは恋愛なんかぢゃあ無いよ、と。
だって、顔も見たこと無い相手と和歌を交換したら闇の中でベッドイン、ですよ?
個人と個人、性格と性格。
そういう人間性の交錯では、なかったわけです。
あれは恋愛ぢゃなくて、「もののあはれ」っていう、
長い歳月の人の営みの印象みたいなことについての文章でせう、と。
漱石さんは、19世紀までの欧州のブンガクを気が狂う寸前まで綿密に研究した学者さんだったわけで。
つまり漱石さんによって明治時代に、
「個人と個人として、恋愛心理を描く」
という表現が、
「ニンゲン探求において大事なことである」、
という考え方自体、その価値観自体が、輸入されたんですね。
恋愛の解放。性欲の解放。
特に、女性の側にも個性や性格や感情がある、という。
女性の、恋愛、そして性欲の解放。
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って言うのは、
この本で谷崎さんが言っていることです。
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そして続けて。
それまでの日本史でいかに、「女性」というのが描かれてきていないか、という話がひとくだり。
まあ確かに、名前が残っているのが「ねね」とかほんと数人ですものね。
あとは「だれだれの娘」ですからね。
(これについては、西洋の事例を詳しく知らないので、それがどこまで日本独特のユニークなことなのかは分かりません。
だいたい、西洋だって、やっぱり漱石のような、「自我と自我の交差点」みたいな恋愛関係の小説が生まれるのは、やっぱり19世紀…甘く見ても産業革命以降でしか無いのでは?と、おもいます)
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それでは、つまり、個である自分の主張というか。
個性の主張というか。
そういうのは、簡単に言うと江戸時代くらいまでは、男性もあまりしなかったし。
女性はなおさらだったわけですね。
それがまあ、明治以降はそうでもない、と。
女性でも、俺は私はワタクシは、という主張の時代。
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で、それが良いとか悪いとかは、谷崎さんは恐らく関心なくって。
「日本語に色気という言葉がある。
これはちょっと西洋語に訳しようがない」
「放縦で露骨なものよりも、内部に抑えつけられた愛情が、包もうとしても包み切れないで、ときどき無意識に、言葉づかいやしぐさの端に現れるのが、一層男の心を惹いた。色気というのはけだしそういう愛情のニュアンスである」
と、言うわけです。
まあつまり、アメリカ式の露骨な個性、肉体、意見の露出。。。
と、いうのは色っぽくなくて。
儒教に押し込められているような婦人のちょっとしたイロイロなところが、いやあ、色気だなあ、と。
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だからなんなんだ?
と、言われるとそれまででして。
まあでも、近代日本文学史に燦然と輝く、エロと変態の大卸のような谷崎先生にそう書かれると、「なるほどなあ」と思わざるを得ませんね。
(そもそも、谷崎センセイの言に従っての「色気」、というのは、我々は語れるのか?
もはやそれは、絶滅した希少生物のようなものなのではないだろうか?
という疑念も…)
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角川ソフィア文庫。
この文庫では先行で「陰影礼賛」というタイトルで、谷崎のまあ、エッセイ集が出ています。
その「陰影礼賛」が評判が良かったのか、ほぼ同じような作りの一冊。
エッセイ集です。
谷崎潤一郎さんの文章は、ほぼほぼ好きです。
まだまだ未読の本がいっぱいあるので、楽しみでなりません。
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営業用でしょうか、それなりに扇情的なタイトルのエッセイが、表題作になっています。
「恋愛及び色情」婦人公論 昭和6
「夏日小品」初出不明 一部抜粋
「にくまれ口」婦人公論 昭和40
「老いのくりこと」中央公論 昭和30
「私の初恋」婦人公論 大正6
「父となりて」中央公論 大正5
「女の顔」婦人公論 大正11
「頭髪、帽子、耳飾り」婦人公論 大正11
「縮緬とメリンス」婦人公論 大正11
「都市情景」週刊朝日 大正15
「「九月一日」前後のこと」改造 大正15
「東西美人型」婦人公論 昭和4
「関西の女を語る」婦人公論 昭和4
「東京をおもう」中央公論 昭和9
という、長短取り混ぜた内容。
時代的にも1916−1965という振れ幅で、谷崎さんの年齢で言うと
30歳くらい−80歳くらいという、物凄い期間をカバーしています。
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冒頭の「恋愛及び色情」から始まって。
和服や洋服のファッションについての軽めのエッセイもあれば、
「いやあ、父親になったときの心情って言われても、特に何も感じなかったっていうか、芸術家としての俺の悪魔性っていうのが大事だから、それが薄まるのが怖くってサ」
みたいな内容のエッセイもあります。
そして、後半になるに従って、この本の編集意図としては、
「谷崎潤一郎が語る関東大震災」
ということになってきます。
まあ、311東日本大震災が意識されていますね。
谷崎さんはもう職業作家として売れていた40歳前後の頃、1923年に関東大震災を経験しています。
その経緯は本文に詳しいのですが、要は谷崎さんは、大正時代に入って膨張する都市・東京の混雑に愛想をつかして、その頃は横浜にいたんですね。
更にいうと被災の瞬間は箱根でした。
で、「この震災の破壊で、醜い東京が、都市として整備されて美しくなるのでは」という考察も述べています。
うーん、この辺、大衆心情のファシズムが厳しい2016年現在では、とてもぢゃないけど言えないことですね。炎上します。
だって、大勢死んだあとですからねえ。いやあ、ジャーナリズムも大らかだった、っていうことです。
そして、そうした被災日記みたいな文章はそれなりに面白いのですが。
谷崎センセイは震災がきっかけで関西に移り住んで。
そのうち戻るつもりだったようですが、すっかり関西が気に入ってしまって。
そのままどっぷり移住しちゃいます。
その後に書かれた「東京をおもう」などの文章で、
もう笑っちゃうくらい、
「東京あかん。関西がええわ」とのたまわっています。
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このあたり、僕も東京人ですが、仕事の転勤で5年関西で暮らして、
実は谷崎さんと同じ感想をもっているんです。
なので、共感、大いにするんです。
特に食生活とか。
ただ。それにしても、ひどい。
あんまりで、東京がかわいそうになってきます。
なんていうか、ヒステリーとも違うんですけど、
「もうこれは、確信犯のユーモアなんぢゃないか?」
っていうくらい。
「なんかさあ、そもそも顔つきが気に食わないんだよね」
「物腰がだめなんだよね」
みたいなレベルなんです。ほぼ、爆笑です。
ノーベル文学賞にリーチだった偉大な文学者なんですけどねえ(笑)。
(原文より)
「何一つ京阪に優ったものがあるのではない」
「彼らは概して見え坊の癖に意思が弱い」
「ブリリアントな人種ではない」
「田舎だ。米沢や会津や秋田や仙台の延長なのだ」
「目黒の不動、堀切の菖蒲、柴又の帝釈天、堀之内のお祖師様、そんなのが四季の行楽であるとは、まあ情けない」
「江戸のものは、皆、間に合わせで規模が小さい」
「おっとりしたところがない」
「とんちやシャレにさえも、一脈の淋しさが漂う」
いやあ…もうほんと、絶句です。
アンチ東京の、関西原理主義者がいたら、この本はバイブルと呼ばれるのではないかしらん…。
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まあ、僕も関西に5年くらして、実はほぼほぼ、同感なんです。
なんだけど、ここまで言われるとねえ…
小声で言い返したくなりますね…
例えば…うーん。
落語は僕は、やっぱり江戸落語の「粋」とか「素っ気なさ」が良いと思います…主に志ん朝さんですけど…
あとは何だろう…実利を離れた文系的な研究や試作、みたいな精神風土もやっぱり東京のほうがあるのでは…
なによりも、谷崎センセイ、あなたみたいな人を生み出したのは、やっぱり東京だと思うんだよなあ… -
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痴人の愛位しか読んだことなく、特に好きでもなかったのですが、この間弥生美術館の展示を見て、あと森博嗣の本の冒頭で、ちょっと気になり。
乱菊物語。
普通の作品だったら、もっと時代小説ぽくなるのでしょうが、そこがエンタメになっていて、少女と女性が全く古臭くないとこが、もしかして谷崎のすごいとこなんだろうか…と初めて気付きました!
ちらっと出てくる遊女に姫君の姪御の描写やら、果ては戦闘の似合うカップルと、あれ、これが文豪の描写力のすごさなのか、と。
陽炎御前と海龍王にぐっときて、これからこの二人の話に移るのね…というところで…。谷崎おめ最後まで書きゃあ!と内心叫びました。
鏡花ほどではないまでも、生身ながら割と霊性な女性の描写で谷崎を見直しました。
吉野葛。
普通の文章ながら割と鏡花の母恋の崇高さに近いんじゃん、と。(どこまで上から、且つ鏡花基準…)
蘆刈。
もうね、どんだけ理想の女性なの!
初めて森博嗣以外の小説で紅子さんらしさを感じ、こんな昔っから紅子さん並みの女性を描いてたのね、とこれまた谷崎を見直しました。(基準!) -
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・何かと物議を醸してゐるらしき池澤夏樹=個人編集「日本文学全集 15」(河出書房新社)は 谷崎潤一郎である。私が一瞬「残菊物語」かと思つてしまつた「乱菊物語」を中心に、「吉野葛」「蘆刈」等を収める。谷崎を全集で読むなどとは考へたことも ないので、私は谷崎全集の全貌を知らない。従つて、「乱菊物語」などといふ作品も知らなかつた。これは「残菊物語」の姉妹編か何かかと思ふほどの無知である。だから、これを収めることを一種の英断ととらえる人がゐる一方で、こんな作品を中心に編むなといふ人がゐるのも、私には全く分からないことである。全集には編集者の個性が出てゐて良いと思ふものの、収める作品には一定の質は必要だよなとごく常識的なことを考へるのが関の山、ならば読んでみようと「乱菊 物語」を読むことにした。
・この作品は大衆小説ブームの昭和5年に新聞に連載されたが、上のみで未完。それでも本書の三分の二を占める。読後感はおもしろいの一言、見事なエンター テインメントであつた。難しい理屈はいらない。谷崎にもこんなのがあつたのだと思ふばかりである。物語は「二寸二部四方の筺の中へ収まる十六畳吊りの蚊帳」(11頁)と美女かげろうを中心に展開してゐるらしい。あちこち横筋に入つていき、いろいろな人物が登場するので、おもしろくはあつても本筋を忘れてしまひさうである。そこは新聞連載大衆小説といふことであらう、細かいことにはこだはらずに筆のおもむくままに書かれていく。そんな中に谷崎らしい語彙や語法が散りばめられてゐる。その反面、人物造形はいかにもそれらしい人物ばかりといふ気がする。机龍之介や早乙女主水之介のやうな特異なヒーローは現れてゐない。この先に出てきさうな気もするが、未完である、谷崎がさう展開するつもりであつたかどうか。こんなのが出てきた後に本書では「吉野葛」と「蘆刈」 が来る。昭和5年と7年の作、つまり「乱菊」とほぼ同じ頃の作品である。ところが雰囲気も文体も全く違ふ。その落差(と言つては失礼か)に驚く。片や所謂純文学、片や大衆小説、この差に尽きるのだらうが、それにしても谷崎はこの2種を実に手際よく書き分けてゐる。さすが谷崎、プロの物書きである。「吉野葛」「蘆刈」に初期作の雰囲気はない。「吉野葛」はエッセイかと思はれる雰囲気に終始する、ハッピーエンドの優れた作品である。「蘆刈」はその文体の息の 長さに改めて驚く。本当に久しぶりに読み直した。これも良い作品である。男のいつ終はるともしれない話しぶりは読んでゐて疲れる。しかし、あの内容にはああいふ話し言葉の息の長い文体が必要なのである。相手は世間離れしたお姫様である。お姫様のことを普通の男が普通に話したのでは普通のお話にしかならない。へたをすれば大衆小説にもならない。谷崎は「源氏」あたりを考へながらあんな文体であの物語を書いたのであらう。それでこそあの夢幻ともつかぬ物語が 可能になる。あの雰囲気に明晰さは不要である。これはつまり大衆文学の単純明快を求める雰囲気とは逆である。同じ頃にあんな全く違ふ内容と文体の作品を谷 崎は書いてゐたのである。本書の第一の利点はここにある。誰も見向きもしないやうな大衆文学の未完作を中心に一巻を編む。しかもほぼ同じ頃の有名作をそこ に入れる。この落差を確認するのは実におもしろい。作家の多様性を手つ取り早く知ることができる。かういふ文学全集の一巻は、時に個人全集に優るおもしろさをもつ。そんなわけで私は本書をおもしろく読んだ。惜しむらくは「乱菊物語」が未完であつたこと、事情があるらしいが残念であつた。どこかから完結編が出てこないか……。 -
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7篇収録の短篇集。
「金色の死」は江戸川乱歩の「パノラマ島綺譚」に似ているなと思った。実は逆で、江戸川乱歩が「金色の死」に影響を受けて「パノラマ島綺譚」を書いたとのこと。理想の美を具現化すると気味が悪い。私はディズニ―ランドにも同様の気味の悪さを感じていて自分がおかしいのかと思っていたが、解説ではずばりその点について指摘されていて安心した。ディズニ―ランド大好きな人が多いのであまり大きな声では言えないけれど。
「富美子の足」の足フェチぶりはおもしろい。富美子の足の素晴らしさについて滔々と語られる。そんなに良いのか、足が。
「小さな王国」は世にも奇妙な物語的で印象に残る。謎の転校生が学校内でリーダーとして頭角をあらわし、ついには教師までもその配下におさめてしまうまでの過程。
谷崎潤一郎の作品を読むのは今回が初めて。「細雪」「痴人の愛」「春琴抄」などの有名な作品も読んでみたいと思った。