大岡昇平のレビュー一覧
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映画は市川崑監督版と塚本晋也監督版を両方とも観ている。戦場の悍ましさの表現に身震いしたものだが、原作は文字だけなのに映像以上の惨さを感じさせるからすごい。
作者さんの実体験が反映されているからこその力強い文章のせいかもしれない。田村一等兵の心理描写の巧みさに唸り、彼の目を通した戦場の実相に目を背けたくなった。
田村の思索の変遷をとおして、想像を絶する環境下において、人間は果たしてどこまで人間性を保ち得るのだろうかという問いを投げ掛ける。そのボーダーラインとして、カニバリズム(人肉食)が登場する。
本能を宥める理性の存在が人間を動物とは一線を画す生物たらしめていると何かで読んだ気がする -
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敗戦間近のフィリピン、レイテ島で。
結核にかかった田村一等兵は、中隊も病院も追い出される。理由は食糧不足である。
もう一回病院に行ってこい、入れてもらえなかったら死ね、何のために手榴弾を渡してあるのか、と中隊長。わずかな芋を渡されて田村は中隊を出た。
いずれ死ぬしかないだろう。
しかし、死ぬまでは自由だ。
行く先がないという自由。生涯最後の幾日かを軍の命令ではなく自分の思うままに使える。
島はすでに、ほとんど米軍に制圧されている。田村は発見されないよう、林の中を進んだ。
野火を見る。地元の人たちが畑で籾殻を焼く火か。敵の場所を知らせる狼煙なのか。
どちらにしても、あそこには人がいる、と思う。 -
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俘虜記が書かれるまでの成り立ち、および大岡氏の出生について語られる。
復員後、戦後の日本社会に復帰していくことになる大岡氏、戦後の混乱を冷静な目でよく観察している。
西矢隊始末記は、大岡氏がフィリピン、ミンドロ島で従軍した西矢隊の詳細が述べられている。戦況の悪化でフィリピン密林の山中に追い詰められていく日本兵の描写に胸がつぶれる思いがする。
戦後、大岡氏はフィリピンに再度足を踏み入れており、その際の紀行が書かれている。
すべての文章は明瞭、かつ冷静に書かれている。
あとがきに、城山三郎氏の広田弘毅について書こうと試みた際、大岡氏が仲介したというのは興味深かった。 -
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ベルクソンは内的世界に純粋記憶なる制約を与えて、自由を外的世界に見い出した。
この知性主義ともとれる考えを、死を認識した主人公は、本能による動物的な嗅覚でこれを単なる美徳だと感じたらしい。
対して主人公は不自由な外的世界を偶然と言い換え、そこから生まれる思考を自由のままにした。権威に対する思想、現実に対する神も同じところである。
この「自由」を信じ、実践することで得た儀式のゆえに、彼は精神病の烙印を押されてしまう。しかし、これは戦争の熱に浮かされた者の錯乱だと言い切れるだろうか。
思うに、我々がそう言えないのは、現代の日々の中に戦争の観念があり、徴候を感じとっているからである。
生に不 -
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単行本『わが復員わが戦後』(現代史出版会、1978年)に昭和天皇の生涯に触れた遺稿「二極対立の時代を生き続けたいたわしさ」を加えた文庫再編集版。「Ⅰ」で1946年冬に博多に帰還してから「俘虜記」を書き始めるまでの日々を描いた短篇が、「Ⅱ」ではミンドロ島で大岡が配属された部隊の記録を陣中日誌風に綴った「西矢隊始末記」の他、1960年代のフィリピンへの慰霊旅行にかかわるエッセイが収録される。
前者については、復員して帰国した兵士の心情と、それを迎える家族の思いとのすれ違いや葛藤、戦場や収容所から「復員」しても、戦後の日常になかなか溶け込むことができない身体のありようが大岡らしい精緻な筆致で記 -
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ネタバレ綺麗事じゃ済まない世界があって、仲間から俺が死んだら遺体を食べていいよって言われる壮絶な状況がひしひしと伝わってきた。人を食べるか食べないかで思い悩むって、そんなむごいことある?と。一度はその場を離れるが、思い悩んで再びその彼の元に戻った時には既に腐敗が進みとても食べられる肉体ではなくなっていた。仲間を食べさせないという神の愛だと主人公は思う。結果、直接書かれてはいないけど、主人公は人の肉を食べていると思う。でもそれは自分が撃ったものではなく、永松という男が撃った物ばかりだった。でも永松のことも責められないとも思う、生き抜くために必死だったのだから。想像力豊かな人ほどグロテスクに感じる描写はあ
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8万人の死者を出したという太平洋戦争末期フィリピンのレイテ島で、部隊が壊滅し食料のない中彷徨う一人の日本兵が、戦闘行為と無関係に人を殺してしまいながら、なおも人肉を食うか食わぬかに逡巡する姿を通して、戦争や生存について問いかける。映画は市川崑監督作品と塚本晋也監督作品の2本とも観ていて、今回この原作を読み構成はほぼ忠実にこの原作をなぞっていることを知った。なかでも行軍の途中見つけた死体に向かって「俺たちも今にこんなになるのかなあ」と兵士たちが言うと、当の死体が「何をっ」と叫ぶシーンは2本の映画でもきちんと再現されていて、やはり本作を代表する場面なんだなと思った。この2本の映画作品に両方ともない
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野火
著:大岡 昇平
新潮文庫 お-6-3
ヤマザキマリの「国境のない生き方」にお薦めがあったので、一読させていただきました。第二段
比 レイテ島の密林で繰り広げられる日本兵と米軍の戦い、そのはざまに入る現地の人々。
結核となり、部隊からも、軍病院からも見放された「私」
米軍の攻撃から、軍病院から、望みもせず逃避行が始まった。
極限の世界、草と蛭を食べながら、死と隣り合った彷徨、時折冷える、野火に導かれるままに、「私」の運命を翻弄する
生と死が直結する世界では、同じ日本軍といえども、敵なのか、それとも、味方なのか、病人を捨て去ろうとするばかりか、生存に必要とするものを奪い取る、不条 -
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太平洋戦争、フィリピン戦線でサバイバルする日本軍兵士を主人公とした小説。(大岡昇平の体験に基づき書かれているが、この小説はフィクション)
戦争文学の代表作品と評されるだけあり、特に主人公の生死を彷徨う状況の中での深層心理の描写が印象に残る。(時には哲学的な表現もあり)
このような戦争小説を読むにつけ、戦争の愚かさに気づかされ、「平和ボケ」、風化させないためにも読んでいかなければいけないと思う。
国家のために極限状況に追い詰められた人々に対してやるせない気持ちで一杯になる。
以下引用~
・もし私の現在の偶然を必然と変える術ありとすれば、それはあの権力のために偶然を強制された生活と、現在の生 -
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1945年8月15日日本は敗戦し、武器を使った戦闘は終了した。太平洋戦争ではアジア全域及び太平洋を囲む島々に於いて、一般市民軍人合わせて300万人以上の日本人が亡くなっている。勿論日本以外の国の死者を含めればその数は桁が上がる。武器による戦闘はこの日終結したが、その後待ち受けていたのは極東軍事裁判という方の裁きによる戦いだ。後の世に言う、あれは裁判などではなく、戦勝国による一方的な復讐劇といわているが、そこには法の下に戦う人々の姿があった。岡田資(たすく)中将の名前を聞いた事のある方はそれほど多く無い様に思う。太平洋戦争やその前段の日中戦争などの書物を読む方でも余り印象には残っていないだろう。
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小説の中に書かれていることは基本的に虚構であって、したがってそれを読んだときに自分の中に生まれる感触も幻のようなものだと言えるでしょう。しかし、小説は人間が書いているものである以上、それが虚構であっても、人間の世界の現実に触れています。人間が人間の世界を描くのである以上、まったくの虚構ではあり得ません。それはむしろ、作者によって新たに構成された、生きることのリアルな感触を持った世界なのです。
『野火』は、戦後書かれた「戦争文学」の代表的な作品。「敗北が決定的となったフィリピン戦線。食べるものなく極限状態におかれた田村一等兵は、自分の血を吸った蛭まで食べたあげく、友軍の屍体にまで目を向ける―― -
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ネタバレ戦争を内から見つめた文学。渦中にいた著者が見た、「戦争」とは。読み始めるのが少し怖かったけど、意外なことに、凄惨な描写はほとんどない。どこまでも冷静な筆致で、主に俘虜収容所で考察した日本社会、現代の文明に関する批評が書かれている。
この本は、大きく捉まるまでと捉まったあとに分けることができる。
捉まるまでの情景や心理描写は、戦場で紙とペンを持っていたわけではないだろうから、彼の記憶によってのみ書かれたものだ。しかし、その生々しさはズシンとくる。死につきまとわれると、人はどうなるのか。目の前の米兵を打たなかった心理。緊迫感を持ってページを繰り続けた。
捉まったあと、つまり俘虜になってか