大岡昇平のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
「病気は治癒を望む理由のない場合何者でもない。」
かっこいい、、、
「私はその痰に含まれた日本の結核菌が、熱帯の陽にあぶられて死に絶えて行く様、小気味よく思い浮かべた。」わろた
48「私は自分が生きているため、生命に執着していると思っているが、実は既に死んでいるから、それに憧れるのではあるまいか。」
166「出生の偶然と死の偶然の間にはさまれた我々の生活の間に、我々は意志と自称するものによって生起した少数の事件を数え、その結果我々の裡に生じた一貫したものを、性格とか我が生涯とか呼んで自ら慰めている。」
三九 死者の書 ここから分からなすぎる。再読 -
Posted by ブクログ
ネタバレエンタメ作品では決してないが、かなり読み込む深さはあり文学として完成されてる。
作中、食人という行為に関わる人物は4人出てくるが、この四者比較で描写の読解が深まる。全員が生きていくための食人を否定しきれておらず、また全員が「俺は一線を超えていない」と思っていることがポイント。
意思決定はしていない・手は汚していない・食べてはいないというそれぞれ異なる一線を守ることで自分を免罪しようとしている。純粋に一線を守り切った人間はゼロという構造がこの小説の面白さ。
もう一点、別の角度から。不正の三角形(動機・機会・正当化)を逆に回す構造を戦争が持ち得ていることに対しては気づきがあった。
通常の不正のトライアングルは、個人が動機・機会・正当化を自ら組み立てて一線を越えるプロセスを説明し、そうならないように組織は手を打とうねということを研修とかで習う。しかし戦争下では、管理の消滅により機会は無制限化し、飢餓という動機は選択の余地なく外部から強制され、極限状態では仕方がないと言う正当化の動きも働く。
したがってどんな異常な行動でも起こり得る。この小説内では先述した通り、正当化している範囲が人によって違うことで噛み合わない会話や諍いが起こる姿が描かれる。
さすが往年の名作だという内容だった! -
Posted by ブクログ
ネタバレ
『野 火』
はじめまして( ͡ ͜ ͡ ) 大岡昇平さん♪
【月一文豪生活】8月は…
「火垂るの墓」 「悪女について」を読みました♪
それと もう1冊 この 「野火」
今は9月 なのに……どうしても この作品を
読んでレビューをあげるまでは 先に進めない
気がしていて……( ・᷄ ᴗ・᷅ )ゝ
この作品は 時間がかかった〜(・ω・)
読んで 頭で理解して 情景を頭に描いて……って
すごく ヘビーな作業 でした。
読書をしていて未熟だなぁ…と感じることは
行間を読めていないなぁ…ということです
(他にもありすぎるくらい ありますが…♪)
文章を読んでるだけじゃダメだなぁ…って
考えながら丁寧に読んだのですが…
まったく ダメ( ・᷄ ᴗ・᷅ )ゝ
最初は読めない語句なんか調べまくって読んでたんだけど…語句を頭の中でシュミレーションできるまで読んでいると疲れちゃって……
ふふふ(*´艸`)
大雑把だけど ニュアンスで
捉えることにしました。
この作品は…
主人公・田村一等兵は結核に冒され、本隊を追放されてしまう。野火の燃えひろがる原野を彷徨う田村。極度の飢えに襲われながらも懸命に生き続ける……
と、いう感じで話はすすみます。
この作品を読んでいると惹かれる文章があります…
この表現好きだなぁ…ってね( ͡ ͜ ͡ )
どんなふうに好き? と言われても上手く説明はできないんですけど…ふふふ(*´艸`)
例えば…
・もし私が新しい問題に魅せられたにすぎず、もし私が孤独を楽しみ、苦悩と忍耐を愛しているにすぎないとすれば、この迷いのために、死を早めるのは馬鹿げている。
・人間はどんな異常の状況でも、受け容れることが出来るものである。この際彼とその状況の間には、一種のよそよそしさが挿まって、情念が無益にかきたてられるのを防ぐ。
・自分のせずにいられぬことをするのを、恥じないことにしている。何か私以外の力に動かされるのだから、止むを得ないのである。
ほんの一部
「ん?」って なるんだけど…
何度も繰り返し読んでいると
わかった気分になってくるから( ㆆ ㆆ)و✧
不思議でしょう?
わかった気分になってるだけかもしれない。
この作品を簡単に理解することなんて
できないであろう…と 思う。
簡単に理解したなんて おこがましくって
言えないけど 田村一等兵の気持ちはわかる
気がする( ㆆ ㆆ)و✧
また、読んでみよう って思います
姐さん♥
この本 薄いのに
なかなか ずっしりとした本でした
また、挑戦させて下さい。
-
Posted by ブクログ
以前から何となく気になってた,そして最近縁ができた(バーナード嬢曰く。で出てきた)ので読んだ。
すごい小説と出会ってしまった。
これはこの先何度も読み返すことになるだろう。
帯の引用には、極限状態にある中での倫理性がメインテーマであるような感じがあって、そういうのも結構好きなんだが、この作品ではむしろそのエピソードは舞台装置のように使われているように感じた。
舞台装置といえば、戦争という状況すらも、その悲惨さ、二度と繰り返してはいけないという教訓を伝える「ために」書かれているようには読めなかった。
悲惨なことが書かれている。
二度と繰り返してはいけない、と読者が感じる。
そのことは事実としてあるのだけど、それは「フィリピンの雄大な自然の美しさ」と同程度の、副次的効果の産物であるように感じる。
では何をするための装置かというと、人生の偶然性、人生の意味/意味付け、あとは見方によってはカフカ的不条理といったテーマを際立たせるものだったと思う。
この辺りはもう一度読み返して、深めたい。
解説も素晴らしかった。
この作品は、例え誰かの実体験を元にしたものであったとしても、純然たるフィクションだ。
言葉がどのような効果を持つかに基づいて選ばれ、それが読者に想起させる観念や情動に基づいて並べられる。
読者の頭の中に構築される世界が舞台なのだから、小説とは定義上フィクションになる。
『野火』はこの点において自覚的で、それでいて自然な文章で読者の感覚を刺激する。
現実のノイズが排された、より純粋な恐怖、焦燥、安堵、神の意識が励起される。
僕が小説に求めていたのはこれだ。
小説に現実の模写はできない。
読者がそれを現実と錯覚するだけだ。
このことに無自覚な文章は、いたずらに「現実」を描写して満足する。
ノイズにまみれ、曖昧で、薄味で、見慣れたそれを、読者の側もリアリズムと言ってありがたがる。
解説でもふれられた著者の他の作品及び、他の著者の作品も気になった。
- 俘虜記
- マルテの手記
- リヤ王
時間を見つけて読みたい -
Posted by ブクログ
「第59章 ウェルテルとドン・ジュアン」に掲載された詩が気に入った。
慎重な男はいつもためらう
あてにならない男が多いのはこのためだ。
だから恋された女のほうでも
過ちをおかしたことのないような男には
いつまでも溜息をつかせておく。
けれど最後に彼女の与える宝物の値打ちは、
それを味わった者でないとわからない。
高くつくほどすばらしい。
恋の賛歌とは苦労の値打ち。
(ニヴェルネ『吟遊詩人ギョーム・ド・ラ・トゥール』第3巻、342ページ)
参考に、原亨吉・宇佐見英治 共訳(角川文庫)では次のようになる。
慎重な男はたえず疑う。
だから表面(うわべ)を偽る恋人が多い。
願い求められた夫人の方も、
ついぞうそを言ったことのない奉仕者に
長らくため息つかせておく。
けれどいよいよ彼女がくれる宝の価値は
みずから味わう者にしかわからない。
高くつくほどすばらしい。
苦労してこそ恋はとおとい。
そこですました顔をしておられる御仁、お心当りはありますまいか?
ことのついでに、プーシキン『オネーギン』(米川正夫訳、新潮文庫)から、その第四章冒頭の2節を紹介させていただく。
1
かつてわたしは生涯の初めの頃に、
美しくて狡猾(さかしら)な、弱い女性に支配され、
この頃はまるで女の気紛れを、自分に取って
唯一の掟と心得てゐた。
魂はたゞひたすら燃え立つて
女性は一種純潔な
神體とすら思はれてゐた。
情も智も具備した女性は
完成の美に輝くやうに思はれた。
女の前へ出るとたちまち意久地なく
溶けて流れるやうに感じた。女の愛は
及びもつかぬ幸福とさへ思はれて
懐かしいその足もとに、生きかつ死ぬる――
それよりほかになんの希望も持ち得なかつた。
2
しかしまたある時は、急に女性を憎み始めて
悶えたりまた、苦い涙を流したりした。
女性はすべて意地悪な、神秘な力の創造物と
きめてしまつて、愁ひに沈みまた慄然と戰いた。
突き刺すやうなその瞳
ほゝ笑み、聲音(こわね)、話しぶり
何もかも毒に充ち滿ち
ても恐ろしい裏切に息づいてゐる。
すべて涙と、呻きの聲に餓ゑ渇き
人の生き血を糧(かて)としてゐる・・・けれどわたしは
また不意に女の中に、ピグマリンオンが
祈の前の石像を見る。それはまだ
冷たく口を噤んでゐるが、やがて間もなく
温い生ける女人(によにん)となるのであった。
いやはや、我が身を顧みて(省みて)、恋愛(特に初恋)とはこういうものだった、という感慨を強くする次第である。
お終い -
Posted by ブクログ
618P
不屈の恋愛ノウハウ満載!
「恋愛論」古今東西に数あれど、恋愛論の歴史的、世界的名著といえばこれ!
『赤と黒』『パルムの僧院』など、19世紀フランス文学を代表する文豪の教え。
スタンダールも言ってるけど、能力は女性より男性の方が欲望というエネルギー源が高い男性の方が上だけど、美しさでは男は女に勝ち目無しだと思う。
これそうだと思う。ラロフシュコーの箴言集って人気だけど、皮肉ぶりはドン引きするから苦手。そこまで性格悪く人を見る意味がわからない私からしたら。
「ザルツブルクの塩坑では、冬になって葉を落とした木の枝を廃坑の奥深くなげこむ。二、三か月たってとりだすと、枝はきらきらした結晶でおおわれている。せいぜい山雀の脚ぐらいのいちばん細い枝までもが、ゆれてまばゆいばかりにきらめく無数のダイアモンドで飾られている。もうもとの小枝とは見えない。 私が結晶作用と呼ぶのは、われわれの前にあらわれるあらゆることから、愛するものが新しい美点を持つという発見を抽きだす精神の働きのことである。」
—『恋愛論』スタンダール著
「文明国では、女には暇があるが、野蛮人の男は仕事に追われているので、やむなく女を駄馬のように扱うことになる。多くの動物の雌のほうが野蛮人の女より幸福なのは、雄の生存がずっとよく保証されているからである。」
—『恋愛論』スタンダール著
「人間は、他のどんな行為よりもよけいに快楽をもたらす行為をせずにはいられないものだ(*)。 恋は熱病のようなもので、意志とはまったく無間係に生まれては、消える。これこそ趣味恋愛と情熱恋愛との主要な差違のひとつである。われわれは恋する相手の美点をただ単なる偶然としてよろこぶだけである。 要するに、恋は年齢を問わないのである。あまり優雅とはいえないホレース・ウォルポールに対するデュ・デファン夫人の情熱を見るがよい。パリでは、さらに最近の、わけてもいっそう好ましい一例が、おそらく記憶にとどめられているであろう。」
—『恋愛論』スタンダール著
「 女は理性よりも情緒をこのむ。理由はごくかんたんである。われわれの千編一律の習慣のおかげで、女は家庭でなんら重大な仕事も負わされていないから、「理性は彼女たちにとってまったく使いみちがない」し、ついぞそれがなにかの役に立ったためしがないのである。それどころか理性は、彼女たちにとって「つねに有害」なのである。なぜなら理性は、きのう楽しいことをしたといって小言をいうためか、あすはもうしてはいけないと命じるためにしか、姿をあらわさないからである。」
—『恋愛論』スタンダール著
「(*)ポルマルシェの金言が想起される。《自然が女にむかって言うには、できれば美しくおなり、望めるものなら賢くもおなり、だがなによりも尊敬されることが肝心》。フランスでは尊敬がなければ感嘆もなく、したがって恋もない。 女には、一瞬生命を賭けて、世論を征服するという確実な手段がない。 したがって女は、男よりはるかに不信の念がつよいのにちがいない。恋の誕生の各時期を形成する精神の動きのすべては、女では、日頃の習慣によって、男よりもおだやかで、おずおずし、ゆるやかで、優柔不断である。それだけに長続きする傾向がある。当然、いちど始まった結晶作用をさほどあっさり断念できないはずである。」
—『恋愛論』スタンダール著
「この滑稽な言葉は変えるべきかもしれないが、事実は存在する。ベルリンの「美男たち」の嘆きの種であった美しくけだかいウィルヘルミーナが恋を軽蔑し、その狂気を嘲笑していたのはよく知られていた。若さと、才智と、美貌と、あらゆる種類の幸福にかがやき、莫大な財産は、彼女のあらゆる才能をのばす機会を彼女に与えるとともに、自然と力をあわせて、幸福をうけるにまことにふさわしい人に完全な幸福が与えられたという、非常にめずらしい例を世に示しているように見えた。彼女は二十三歳だった。すでにかなり前から宮廷に出ていたのだが、高貴の方の好意をていよく拒絶してきた。彼女のつつましい、だが堅固な婦徳は、模範としてあげられ、その後は、どんな美男子も彼女に好かれることをあきらめて、せめてその友情をねがうのみであった。ある夜彼女は、フェルディナンド大公の舞踏会へいき、ある若い大尉と十分間踊った。」
—『恋愛論』スタンダール著
「羞恥心は、身だしなみの趣味の源泉のひとつである。このように身なりをととのえることによって、女は多少とも期待をいだくものである。老年において化粧が所を得ないのはこのためである。地方の女がパリで流行を追おうと思えば、間がぬけて、もの笑いの種になるのが落ちだ。地方の女はパリに着いたら、はじめは三十女のつもりでよそおうべきである。 ある女が、哲学的な率直さにかられたとき、およそつぎのような意味のことを言ったものだ。「いつか私がだれかに私の自由を捧げるときがくるとしても、私が将来えらぶ男の人は、私がこれまでごくささいなことの好悪にもどんなに厳格だったかをお知りになって、私の気持ちをいっそう尊重してくださるだろうと思うの」こんなに愛すべき女が、現在話しあっている相手の男に冷淡になるのは、おそらく永遠にめぐり会うこともないような恋人のためなのである。これが羞恥心の第一の誇張で、これは敬意をはらうべきものである。第二の誇張は、女の自尊心から生じる。第三の誇張の原因は、夫の自尊心である。」
—『恋愛論』スタンダール著
「これは多血質と比較した憂欝質の話であろう。ある貞淑な女、しかも信心からきた打算的的な貞淑(天国で百倍にして酬いられるという条件での貞淑)を身につけた女と、一方はすれっからしの四十男の道楽者の場合を想像すればよい。『危険な関係』のヴァルモンはまだそこまでは達していないが、トゥールウェル法院長夫人は全巻を通じて彼よりも幸福である。したがってあの才智豊かな作者がさらにもう少し才人であったなら、このようなことをあの巧みな作品の教訓としたことであろう。」
—『恋愛論』スタンダール著
「 私は、美しい海の眺めが、慰安を与えてくれるのを経験した。「静かに輝かしく明けた朝は、城館から陸地のほうに眼を移すと眺められる荒涼とした山々に、ここちよい景観を与えていた。そして、幾千の銀波がさざめいているすばらしい大洋は、水平線の果てまで、おそろしい、しかしやさしい威厳をくりひろげていた。最も苦悩のはげしい瞬間さえも、人の心は、このような静けさと偉大さとが刻印された風景から、それと一体となった感動をうけ、その壮大な影響によって、名誉と美徳の行為をよびさまされずにはおかないのである」 (『ラマムーアの花嫁』第一巻、一九三ページ)」
—『恋愛論』スタンダール著
「だれでもそうだが、とくにフランス人はお人好しとみられるのをきらう。しかし、むかしのフランスの君主政体はそれほど固苦しいものでなかった(*)ので、「意地」も色事あるいは趣味恋愛以外のところでは、あまり被害をおよぼさなかった。意地が卑劣な行為を生んだのは、気候の関係で性格がもっと陰気な君主国(ポルトガル、ピエモンテ)においてである。」
—『恋愛論』スタンダール著
「パリの青年は、恋人を一種の奴隷、とりわけ自分に虚栄心の満足を与えるべき奴隷としか考えていない。もし女が、この支配的な情熱の命令に反抗しようものなら、彼は女を棄て、いかに颯爽と、いかに手ぎわよく彼女を振ったかを友人に吹聴して、ますます自己満足におちいるのである。 自分の国をよく理解していた一フランス人メーヤンは言った。「フランスでは、偉大な情熱は偉大な人物とおなじくらい稀なものだ」と。 フランス人にとって、女に棄てられ、絶望していることが町中全部に知れわたっている男の役を演じることがいかに不可能なことか、これを言い表わす適当な言葉がない。ヴェネチアやボローニャでは、そんなことはざらにあることなのだが。」
—『恋愛論』スタンダール著
「かつてルターは道義心に力強く訴えた。そしてドイツ人は、自己の良心にしたがわんとして三十年間も続けてたたかった。その信仰がいかに馬鹿げたものであるにしても、大いに尊敬すべきみごとな言葉である。私は、芸術家にとってさえ尊敬すべき言葉だ、と言いたい。ザンドの心中の葛藤、神の第三戒「なんじ殺すなかれ」と、祖国のためと信じた事との間の内心の葛藤を見よ。 タキトゥスのなかにさえ、すでに女と恋に対する神秘的な熱狂が見られる。もっともこの作家が、もっぱらローマの諷刺を意図していたのではない、と考えての話だが(*)。」
—『恋愛論』スタンダール著
「ドイツを二千キロも旅行すれば、この不統一な割拠している国民のなかに、熱烈ではげしいというより、むしろ温和で情愛こまやかな熱中の調子を見分けることができる。 もしこうした気質を、あまりはっきりと見てとることができなかったら、オーギュスト・ラ・フォンテーヌの小説を三、四冊も再読されればよい。美しいプロシアの女王ルイゼは、彼が『安らかな生活』をかくもみごとに描いた褒美として、彼をマグデブルクの聖堂参事会員にした(*)。 (*)オーギュスト・ラ・フォンテーヌの小説の一つの題『安らかな生活』は、ドイツのもう一つの大きな特徴であって、これはイタリア人の「安逸」にあたり、ロシアの「四輪馬車」やイギリスの「遠乗り」に対する生理学的批判である。」
—『恋愛論』スタンダール著
「深刻な情熱のために働くよう習慣づけられた注意力は、敏捷にうごくことができない。これがフランス人とイタリア人の最も顕著な相違である。イタリア人が乗合馬車に乗るところと、支払いをしているところを見たまえ。ここにこそフランス人の furia francese性急さが見られるのである。どんなに卑俗なフランス人でも、デマジュール式のきざなうぬぼれ屋でないかぎりは、イタリア女に、つねにすぐれた人物に見えるのはこのためである。(ローマの D……公妃の恋人)。」
—『恋愛論』スタンダール著
「 私はこうした幸福に感心はするが、うらやみはしない。これは私とは異なった劣等な人間の幸福のようだ。私の予測では、フロリダや南アメリカのほうがはるかにましではないかと思う(*)。 北アメリカに関する私の推察を裏づけるのは、芸術家や作家がまったく存在しないということだ。合衆国は、まだわれわれに、一幕の悲劇も、一枚の絵画も、一冊のワシントン伝も、送ってきてはいないのだ。」
—『恋愛論』スタンダール著
「アラビアのテントの下では、いったん誓いがたてられると、破ることが「できない」。この罪にすぐさま軽蔑と死がつづくのである。 この民族においては、気前のよいことが非常に神聖なものとされており、与えるためには「盗む」ことも許されているほどである。その上、毎日、危険があり、生活はすべて、いわば情熱的な孤独の裡に過ぎていく。アラビア人は集まっていても、めったにしゃべらない。 砂漠の住民にあっては、変化はなにもない。すべてが永遠であり不動である。その独特の風習は、よく知らないから描きうるのは貧弱なスケッチにすぎないのだが、おそらくホメロスの時代からあったものであろう。それがはじめて記録されたのは、シャルルマーニュの二世紀以前、キリスト紀元六百年ごろのことである。」
—『恋愛論』スタンダール著
「われわれの芸術は、彼らのものよりはるかにすぐれている。われわれの法律も、見たところ彼らのよりもさらにすぐれている。だが、家庭を幸福にする技術において、われわれが彼らよりすぐれているかどうかは疑問である。われわれには誠意と単純さとがつねに欠けている。家族関係にあっては、ぺてん師はなによりも不幸である。彼にはもう心に平安がない。つねに正しくないので、いつもおそれを抱いている。」
—『恋愛論』スタンダール著
「女は、われわれが教えたくないと思っていること、生活の経験から読みとれることばかりを知っている。そのため大金持の家庭に生まれることは、女にとって極めて不利である。金持の娘に対して「自然にふるまえる」人々とは接しないで、富によってすでに腐敗堕落した小間使いや話し相手の婦人連にとりまかれているからである。王子ほど馬鹿なものはいない。 自分が奴隷だと感じている娘たちは、稚いころから眼が開いている。彼女らはすべてを見るが、あまりにも無智だからよく見てとれない。フランスでは三十歳の女は十五歳の少年の知識も持たず、五十歳の女は二十五歳の男よりも分別がない。ルイ十四世の最も馬鹿げた行為を賛美しているセヴィニェ夫人を見るがよい。デピネ夫人の推論の幼稚さかげんをみたまえ。「女は子供を育て、世話をしなければならない」……私はこの第一項は否認するが、第二項には賛成だ。……「女はその上、料理女の勘定書を清算しなければならない」。だから女は、……知識において十五歳の少年に比肩するだけの暇がないのだ。男は裁判官、銀行家、弁護士、商人、医師、聖職者等にならねばならないが、それでもフォックスの論文や、カモエンスの『リュジアード』を読むぐらいの暇は見つけてくる。」
—『恋愛論』スタンダール著
「さらに私は、女性は毎日三、四時間の暇を、思慮分別ある男がその余暇を活用しているように、活用すべきだと言いたい。 若い母親は、子供が「はしか」にかかっているときには、ヴォルネのシリア紀行を読んで楽しもうと思っても、楽しめるものではない。これは、裕福な銀行家である夫が破産に瀕しているとき、いくらマルサスについて楽しく瞑想しようと思っても、それができないのと同じである。 精神の卓越。これこそ裕福な女が、女の卑俗性から抜きんでる唯一の方法である。これが具わっていれば、「自然に」他の感情は生まれるものだ。」
—『恋愛論』スタンダール著
「フランスでは、年金六千リーヴルある人々のなかには、本を出版する気など毛頭なしに文学を普段の楽しみとしている人が多い。良書をひもとくことは、彼らにとって、最大の愉楽の一つなのだ。十年たってみると、彼らの才智は倍加している。そして一般に、才智が豊かになればなるほど、他人の幸福と相容れない情熱を抱かなくなるということはだれも否定できないであろう(*)。またギボンやシラーを読む女性の息子は、お祈りをしたり、ジャンリス夫人を読む女性の息子よりすぐれた素質を有するだろうことも否定できないと思う。」
—『恋愛論』スタンダール著
「若い弁護士、商人、医者、技師は、まったく教養がなくても、世の中へ出ていける。その職業を営むことにより、日々教育されていくからである。しかし、彼らの妻は、尊敬すべき不可欠の特質を身につけるために、いかなる手段を持っているのか。家庭の孤独の中に閉じこめられて、人生と必要という偉大な書物は、彼女たちに閉ざされたままである。彼女は、料理女と勘定書のことで口論しながら、月曜ごとに夫が渡してくれる三ルイの金を、いつも同じやり方で使っているだけである。」
—『恋愛論』スタンダール著
「女子教育は、おそらく現代ヨーロッパで最も滑稽で愚劣なものであるから、女は、いわゆる教育なるものを受けることが少なければ少ないほど、値うちがあることになる。イタリアやスペインで女が男よりはるかにすぐれており、さらに、他の国の女よりすぐれているとさえ言いたくなるのは、おそらくこのためであろう。」
—『恋愛論』スタンダール著
「もし私が、わが聖職者たちのように、私の聖職者が自分の敵と親しい同盟者であると信じていたらどうか? ルターのごとき人間が出なかったら、一八五〇年のフランスには、カトリック教は存在しないであろう。この宗教は、一八二〇年にグレゴアール氏によってはじめて救われた。世間がこの人をどのように遇しているか見るがよい。」
—『恋愛論』スタンダール著
「二十歳のころはちやほやされるが、四十歳になると、顧みられない。 四十五歳の女が重んじられるのは、ただその子供によってか、愛人によってである。 美術に秀でた母親は、息子が生まれながらその才能を有していた、というごくまれな場合にのみ、その才能を息子に伝えることができる。教養を身につけた母親は若い息子に、たんに快適なあらゆる才能のみでなく、社会に出る男に有益なあらゆる才能についての観念を与えるであろうから、息子はそれに従って選択することができる。トルコ人の野蛮さは、多くの場合、美しいジョルジア女の愚かさのためである。パリ生まれの青年が十六歳のとき、地方の同年輩の青年よりあきらかにすぐれているのは、母親のおかげである。十六歳から二十五歳にかけて、その機会は逆転する。」
—『恋愛論』スタンダール著
「避雷針、印刷術、機織術を発明した人々は日々、われわれの幸福に貢献している。モンテスキュー、ラシーヌ、ラ・フォンテーヌのごとき人々もまた同様である。ところが、ある国民が生む天才の数は、十分な教育を受ける人間の数に比例している。そして、私の靴屋が、コルネーユのようにものを書くのに必要な魂を持っていない、と証明しうるものはなにもない。靴屋に欠けているのは、その感情を発展させ、それを公衆に伝える技術を得るのに必要な教育なのである。」
—『恋愛論』スタンダール著
「愛情がなければ、結婚における女の貞操は、おそらく自然に反するものである(*)。 (*)おそらくどころではなく、たしかに自然に反する。恋をすれば、この愛する泉の水以外は飲んでもうまくない。このとき、貞操はまったく自然だ。 愛情のない結婚では、二年たらずでこの泉の水はにがくなる。しかも水を求めるのは自然である。風習は、自然を制御することはあるが、ただそれは一瞬にして征服しうるときにかぎられる。たとえばインドの妻は、嫌っていた年老いた夫の死後、火刑台に上り(一八二一年十月二十一日)、ヨーロッパの若い娘は自分の生んだ嬰児を惨殺する。尼僧院に高い塀がなければ尼僧たちは逃げだすであろう。」
—『恋愛論』スタンダール著
「フランスでは、こと女に関するかぎり、地方はパリより四十年おくれている。」
—『恋愛論』スタンダール著
「たとえば、六か月天文学を研究して過ごしたあとでは、いっそう天文学が好きになるし、一年間けちにしたあとでは、ますます金が好きになるのである。」
—『恋愛論』スタンダール著
「リジオ・ヴィスコンチはたいへんな読書家だった。彼が世界を回って自分で見たこと以外、このエッセーは十五人から二十人あまりの有名人の回想録にもとづいている。こういうつまらないものにでも、ちょっとでも注意をはらおうという読者に偶然でくわすこともあろうかと、リジオがその考察と結論をひきだした書物の名をつぎにあげておこう。」
—『恋愛論』スタンダール著
「「今日なおスタンダールが過賞され、その名声には多少のスノビスム(時流を追うこと)がまじっていると、思いこむ人がいるならば、『赤と黒』の傍題である「一八三〇年代記」について思いめぐらしてもらいたい。つまり、この小説が百年前に書かれたことを思いだし、それまでにフランス小説にどんな傑作があったかと自問されるのがよい。『マノン・レスコー』『危険な関係』『アドルフ』などがあるにはある。だがこれらの小説はどれひとつとっても、いかなる点でも『赤と黒』には似ていないのだ。スタンダール以前に世紀の年代記を書いて大小説をつくった者はいなかった。誰ひとり動きつつある一世代を照しだす考えも力も持たなかった。」
—『恋愛論』スタンダール著
「また、スタンダールが父を嫌悪し、母を讃美する言葉を後世の人々がそのまま信じこんでしまったのではないか、との疑いも持たれる。」
—『恋愛論』スタンダール著
「母がたいへん美しく魅力的で、恋心に近い愛情をアンリが抱いたことはもはや疑う余地がない。エディプスコンプレックスの徴候をここに見るのは容易だが、必ずしも異常なものではないだろう。パスカルをはじめ、現代のサルトルにもそのような傾向を認めることができるからである。」
—『恋愛論』スタンダール著
「アンリは、イデオロジーから出発して特に数学に興味を抱き、一等賞を獲得したほどである。 パリの理工科学校の受験を志したのは、数学が得意だったからでもあるが、同時に陰気なグルノーブルを逃げだしたかったからでもあろう。だが、わざわざパリまででかけたアンリは受験するのを放棄する。芝居を書くためにパリに残っていたかったからだ、と後年彼は書き記しているが理由は明瞭でない。彼の小説『アルマンス』『ラミエル』などの主人公はみな理工科学校の卒業生である。また、『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルは、出世欲に燃えた意志の強い人間として描かれている。アンリ・ベールは、他の小説家にしても似たケースが多いが、自分がなりえなかった、しかしなりたかった者を作品のなかに描いたといえないだろうか。」
—『恋愛論』スタンダール著
-
Posted by ブクログ
映画は市川崑監督版と塚本晋也監督版を両方とも観ている。戦場の悍ましさの表現に身震いしたものだが、原作は文字だけなのに映像以上の惨さを感じさせるからすごい。
作者さんの実体験が反映されているからこその力強い文章のせいかもしれない。田村一等兵の心理描写の巧みさに唸り、彼の目を通した戦場の実相に目を背けたくなった。
田村の思索の変遷をとおして、想像を絶する環境下において、人間は果たしてどこまで人間性を保ち得るのだろうかという問いを投げ掛ける。そのボーダーラインとして、カニバリズム(人肉食)が登場する。
本能を宥める理性の存在が人間を動物とは一線を画す生物たらしめていると何かで読んだ気がするが、己の生存こそ第一義の状況では理性など簡単に崩壊してしまうのか。
人肉食を豆粒ほどの理性で踏み止まった田村だが、猿の肉と騙されて人肉を口にしてしまっているのもまた事実。知らなければ、分からなければ、大丈夫だ⋯となってしまうのだろうか。否、そうはならないのか。
人間性についての問い掛けは「生と死」の問題にまで踏み込んでいき、考えれば考えるほど、状況が極限過ぎて思考が及ばず、迷宮に迷い込んだような気持ちになった。
おそらく「人間性」というものは宗教の教祖みたいなもので、それに無意識の内に縋って生きているのが今の日常。理不尽や悪賢さこそが正義となる地獄のような戦場では神も仏もあるものかとなるのと同じで、人間性など糞の役にもたたず、ドブに捨てなければ生きることも死ぬことも難しくなる。
これこそが人間の本質なのだろうか。それとも、戦争によって狂わされた結果なのだろうか。どの登場人物の言動や行動にも納得出来てしまうのが本当に恐ろしい。日常に照らし合わせれば異常に思える行動も、なんら特別なものではないのかもしれない。
答えは出ない。当たり前だ。真に体験しなければ分からないことだろう。だが、こんな経験をしたい者などいないはずだ。戦争などするものではないのだ。なのに、何故世界から戦争はなくならないのか。ますます答えは出ない。本作が、極限状態における人間性について描いた実験的小説であることは確かである。本作のテーマについて考え続けることが大切なのかもしれない。この深みこそ文学作品の醍醐味だと改めて感じた。
[余談]
巻末解説が難しくて何を言いたいのかいまいち理解出来なかった。本編より難しい解説ってどうなのよと思ったが、いや待てよ、己の読解力が無いだけだろうと思い直した。読解力の向上を目指そうと決めた。 -
Posted by ブクログ
敗戦間近のフィリピン、レイテ島で。
結核にかかった田村一等兵は、中隊も病院も追い出される。理由は食糧不足である。
もう一回病院に行ってこい、入れてもらえなかったら死ね、何のために手榴弾を渡してあるのか、と中隊長。わずかな芋を渡されて田村は中隊を出た。
いずれ死ぬしかないだろう。
しかし、死ぬまでは自由だ。
行く先がないという自由。生涯最後の幾日かを軍の命令ではなく自分の思うままに使える。
島はすでに、ほとんど米軍に制圧されている。田村は発見されないよう、林の中を進んだ。
野火を見る。地元の人たちが畑で籾殻を焼く火か。敵の場所を知らせる狼煙なのか。
どちらにしても、あそこには人がいる、と思う。孤独な田村は、敵に見つかる危険とともに人懐かしさも感じる。
フィリピンの自然の描写がとてつもなく美しい。緑豊かな林、流れる湧き水。海岸線。
そのあちこちに、パンパンに膨れ上がった日本兵の屍体が転がっている。
天国と地獄を同時に見るようである。
やがて激しい飢餓に襲われる。
田村は自分は死ぬだろうと考えながらも、窮地に陥れば恐怖に慄き、敵の攻撃が来れば体は反射的にかわし、島民に発見されれば銃を向ける。
生きたいのか、死にたいのか。絶えず矛盾と戦っている。
瀕死の狂人と遭った。将校らしいが武器は持っていなかった。
「俺が死んだら、食べていいよ」
彼は神だったのだろうか。
ーーーーーーーーーーー
平成二十七年 五月三十日 百十刷
読み続けられている。 -
Posted by ブクログ
俘虜記が書かれるまでの成り立ち、および大岡氏の出生について語られる。
復員後、戦後の日本社会に復帰していくことになる大岡氏、戦後の混乱を冷静な目でよく観察している。
西矢隊始末記は、大岡氏がフィリピン、ミンドロ島で従軍した西矢隊の詳細が述べられている。戦況の悪化でフィリピン密林の山中に追い詰められていく日本兵の描写に胸がつぶれる思いがする。
戦後、大岡氏はフィリピンに再度足を踏み入れており、その際の紀行が書かれている。
すべての文章は明瞭、かつ冷静に書かれている。
あとがきに、城山三郎氏の広田弘毅について書こうと試みた際、大岡氏が仲介したというのは興味深かった。 -
Posted by ブクログ
単行本『わが復員わが戦後』(現代史出版会、1978年)に昭和天皇の生涯に触れた遺稿「二極対立の時代を生き続けたいたわしさ」を加えた文庫再編集版。「Ⅰ」で1946年冬に博多に帰還してから「俘虜記」を書き始めるまでの日々を描いた短篇が、「Ⅱ」ではミンドロ島で大岡が配属された部隊の記録を陣中日誌風に綴った「西矢隊始末記」の他、1960年代のフィリピンへの慰霊旅行にかかわるエッセイが収録される。
前者については、復員して帰国した兵士の心情と、それを迎える家族の思いとのすれ違いや葛藤、戦場や収容所から「復員」しても、戦後の日常になかなか溶け込むことができない身体のありようが大岡らしい精緻な筆致で記される。あの大岡が、帰国後しばらくは文字がアタマに入ってこなかったと書いていることには驚いた。「愉快な連中」では、中村光夫や小林秀雄、青山二郎と大岡との交流・友情がしみじみと語られる。
「西矢隊始末記」は、ミンドロ島で大岡が配属された部隊の戦闘について、自身が捕虜になった後の時間まで含めて、誰が・どこで・どのように命を落としたかが詳細に描き込まれている。この記述を準備するためにどれほどの準備をしたのかを想像すると、大岡の義務感・責任感が伝わってくる。結局のところ大岡は、「日本軍兵士」というアイデンティティから自由になることができなかったのではないか?