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Posted by ブクログ
「病気は治癒を望む理由のない場合何者でもない。」
かっこいい、、、
「私はその痰に含まれた日本の結核菌が、熱帯の陽にあぶられて死に絶えて行く様、小気味よく思い浮かべた。」わろた
48「私は自分が生きているため、生命に執着していると思っているが、実は既に死んでいるから、それに憧れるのではあるまいか。」
166「出生の偶然と死の偶然の間にはさまれた我々の生活の間に、我々は意志と自称するものによって生起した少数の事件を数え、その結果我々の裡に生じた一貫したものを、性格とか我が生涯とか呼んで自ら慰めている。」
三九 死者の書 ここから分からなすぎる。再読
Posted by ブクログ
以前から何となく気になってた,そして最近縁ができた(バーナード嬢曰く。で出てきた)ので読んだ。
すごい小説と出会ってしまった。
これはこの先何度も読み返すことになるだろう。
帯の引用には、極限状態にある中での倫理性がメインテーマであるような感じがあって、そういうのも結構好きなんだが、この作品ではむしろそのエピソードは舞台装置のように使われているように感じた。
舞台装置といえば、戦争という状況すらも、その悲惨さ、二度と繰り返してはいけないという教訓を伝える「ために」書かれているようには読めなかった。
悲惨なことが書かれている。
二度と繰り返してはいけない、と読者が感じる。
そのことは事実としてあるのだけど、それは「フィリピンの雄大な自然の美しさ」と同程度の、副次的効果の産物であるように感じる。
では何をするための装置かというと、人生の偶然性、人生の意味/意味付け、あとは見方によってはカフカ的不条理といったテーマを際立たせるものだったと思う。
この辺りはもう一度読み返して、深めたい。
解説も素晴らしかった。
この作品は、例え誰かの実体験を元にしたものであったとしても、純然たるフィクションだ。
言葉がどのような効果を持つかに基づいて選ばれ、それが読者に想起させる観念や情動に基づいて並べられる。
読者の頭の中に構築される世界が舞台なのだから、小説とは定義上フィクションになる。
『野火』はこの点において自覚的で、それでいて自然な文章で読者の感覚を刺激する。
現実のノイズが排された、より純粋な恐怖、焦燥、安堵、神の意識が励起される。
僕が小説に求めていたのはこれだ。
小説に現実の模写はできない。
読者がそれを現実と錯覚するだけだ。
このことに無自覚な文章は、いたずらに「現実」を描写して満足する。
ノイズにまみれ、曖昧で、薄味で、見慣れたそれを、読者の側もリアリズムと言ってありがたがる。
解説でもふれられた著者の他の作品及び、他の著者の作品も気になった。
- 俘虜記
- マルテの手記
- リヤ王
時間を見つけて読みたい
Posted by ブクログ
映画は市川崑監督版と塚本晋也監督版を両方とも観ている。戦場の悍ましさの表現に身震いしたものだが、原作は文字だけなのに映像以上の惨さを感じさせるからすごい。
作者さんの実体験が反映されているからこその力強い文章のせいかもしれない。田村一等兵の心理描写の巧みさに唸り、彼の目を通した戦場の実相に目を背けたくなった。
田村の思索の変遷をとおして、想像を絶する環境下において、人間は果たしてどこまで人間性を保ち得るのだろうかという問いを投げ掛ける。そのボーダーラインとして、カニバリズム(人肉食)が登場する。
本能を宥める理性の存在が人間を動物とは一線を画す生物たらしめていると何かで読んだ気がするが、己の生存こそ第一義の状況では理性など簡単に崩壊してしまうのか。
人肉食を豆粒ほどの理性で踏み止まった田村だが、猿の肉と騙されて人肉を口にしてしまっているのもまた事実。知らなければ、分からなければ、大丈夫だ⋯となってしまうのだろうか。否、そうはならないのか。
人間性についての問い掛けは「生と死」の問題にまで踏み込んでいき、考えれば考えるほど、状況が極限過ぎて思考が及ばず、迷宮に迷い込んだような気持ちになった。
おそらく「人間性」というものは宗教の教祖みたいなもので、それに無意識の内に縋って生きているのが今の日常。理不尽や悪賢さこそが正義となる地獄のような戦場では神も仏もあるものかとなるのと同じで、人間性など糞の役にもたたず、ドブに捨てなければ生きることも死ぬことも難しくなる。
これこそが人間の本質なのだろうか。それとも、戦争によって狂わされた結果なのだろうか。どの登場人物の言動や行動にも納得出来てしまうのが本当に恐ろしい。日常に照らし合わせれば異常に思える行動も、なんら特別なものではないのかもしれない。
答えは出ない。当たり前だ。真に体験しなければ分からないことだろう。だが、こんな経験をしたい者などいないはずだ。戦争などするものではないのだ。なのに、何故世界から戦争はなくならないのか。ますます答えは出ない。本作が、極限状態における人間性について描いた実験的小説であることは確かである。本作のテーマについて考え続けることが大切なのかもしれない。この深みこそ文学作品の醍醐味だと改めて感じた。
[余談]
巻末解説が難しくて何を言いたいのかいまいち理解出来なかった。本編より難しい解説ってどうなのよと思ったが、いや待てよ、己の読解力が無いだけだろうと思い直した。読解力の向上を目指そうと決めた。
Posted by ブクログ
敗戦間近のフィリピン、レイテ島で。
結核にかかった田村一等兵は、中隊も病院も追い出される。理由は食糧不足である。
もう一回病院に行ってこい、入れてもらえなかったら死ね、何のために手榴弾を渡してあるのか、と中隊長。わずかな芋を渡されて田村は中隊を出た。
いずれ死ぬしかないだろう。
しかし、死ぬまでは自由だ。
行く先がないという自由。生涯最後の幾日かを軍の命令ではなく自分の思うままに使える。
島はすでに、ほとんど米軍に制圧されている。田村は発見されないよう、林の中を進んだ。
野火を見る。地元の人たちが畑で籾殻を焼く火か。敵の場所を知らせる狼煙なのか。
どちらにしても、あそこには人がいる、と思う。孤独な田村は、敵に見つかる危険とともに人懐かしさも感じる。
フィリピンの自然の描写がとてつもなく美しい。緑豊かな林、流れる湧き水。海岸線。
そのあちこちに、パンパンに膨れ上がった日本兵の屍体が転がっている。
天国と地獄を同時に見るようである。
やがて激しい飢餓に襲われる。
田村は自分は死ぬだろうと考えながらも、窮地に陥れば恐怖に慄き、敵の攻撃が来れば体は反射的にかわし、島民に発見されれば銃を向ける。
生きたいのか、死にたいのか。絶えず矛盾と戦っている。
瀕死の狂人と遭った。将校らしいが武器は持っていなかった。
「俺が死んだら、食べていいよ」
彼は神だったのだろうか。
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平成二十七年 五月三十日 百十刷
読み続けられている。
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