【感想・ネタバレ】恋愛論のレビュー

あらすじ

恋の猟人であった著者が、苦しい恋愛のさなかで書いた作品である。自らの豊富な体験にもとづいて、すべての恋愛を「情熱的恋愛」「趣味的恋愛」「肉体的恋愛」「虚栄恋愛」の四種類に分類し、恋の発生、男女における発生の違い、結晶作用、雷の一撃、羞恥心、嫉妬、闘争などのあらゆる様相をさまざまな興味ある挿話を加えて描きだし、各国、各時代の恋愛について語っている。

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Posted by ブクログ

「第59章 ウェルテルとドン・ジュアン」に掲載された詩が気に入った。

 慎重な男はいつもためらう
 あてにならない男が多いのはこのためだ。
 だから恋された女のほうでも
 過ちをおかしたことのないような男には
 いつまでも溜息をつかせておく。
 けれど最後に彼女の与える宝物の値打ちは、
 それを味わった者でないとわからない。
 高くつくほどすばらしい。
 恋の賛歌とは苦労の値打ち。
 (ニヴェルネ『吟遊詩人ギョーム・ド・ラ・トゥール』第3巻、342ページ)

参考に、原亨吉・宇佐見英治 共訳(角川文庫)では次のようになる。

 慎重な男はたえず疑う。
 だから表面(うわべ)を偽る恋人が多い。
 願い求められた夫人の方も、
 ついぞうそを言ったことのない奉仕者に
 長らくため息つかせておく。
 けれどいよいよ彼女がくれる宝の価値は
 みずから味わう者にしかわからない。
 高くつくほどすばらしい。
 苦労してこそ恋はとおとい。

そこですました顔をしておられる御仁、お心当りはありますまいか?
ことのついでに、プーシキン『オネーギン』(米川正夫訳、新潮文庫)から、その第四章冒頭の2節を紹介させていただく。

 1
 かつてわたしは生涯の初めの頃に、
 美しくて狡猾(さかしら)な、弱い女性に支配され、
 この頃はまるで女の気紛れを、自分に取って
 唯一の掟と心得てゐた。
 魂はたゞひたすら燃え立つて
 女性は一種純潔な
 神體とすら思はれてゐた。
 情も智も具備した女性は
 完成の美に輝くやうに思はれた。
 女の前へ出るとたちまち意久地なく
 溶けて流れるやうに感じた。女の愛は
 及びもつかぬ幸福とさへ思はれて
 懐かしいその足もとに、生きかつ死ぬる――
 それよりほかになんの希望も持ち得なかつた。

 2
 しかしまたある時は、急に女性を憎み始めて
 悶えたりまた、苦い涙を流したりした。
 女性はすべて意地悪な、神秘な力の創造物と
 きめてしまつて、愁ひに沈みまた慄然と戰いた。
 突き刺すやうなその瞳
 ほゝ笑み、聲音(こわね)、話しぶり
 何もかも毒に充ち滿ち
 ても恐ろしい裏切に息づいてゐる。
 すべて涙と、呻きの聲に餓ゑ渇き
 人の生き血を糧(かて)としてゐる・・・けれどわたしは
 また不意に女の中に、ピグマリンオンが
 祈の前の石像を見る。それはまだ
 冷たく口を噤んでゐるが、やがて間もなく
 温い生ける女人(によにん)となるのであった。

いやはや、我が身を顧みて(省みて)、恋愛(特に初恋)とはこういうものだった、という感慨を強くする次第である。

お終い

0
2026年03月01日

Posted by ブクログ

618P

不屈の恋愛ノウハウ満載!
「恋愛論」古今東西に数あれど、恋愛論の歴史的、世界的名著といえばこれ!
『赤と黒』『パルムの僧院』など、19世紀フランス文学を代表する文豪の教え。

スタンダールも言ってるけど、能力は女性より男性の方が欲望というエネルギー源が高い男性の方が上だけど、美しさでは男は女に勝ち目無しだと思う。

これそうだと思う。ラロフシュコーの箴言集って人気だけど、皮肉ぶりはドン引きするから苦手。そこまで性格悪く人を見る意味がわからない私からしたら。

「ザルツブルクの塩坑では、冬になって葉を落とした木の枝を廃坑の奥深くなげこむ。二、三か月たってとりだすと、枝はきらきらした結晶でおおわれている。せいぜい山雀の脚ぐらいのいちばん細い枝までもが、ゆれてまばゆいばかりにきらめく無数のダイアモンドで飾られている。もうもとの小枝とは見えない。  私が結晶作用と呼ぶのは、われわれの前にあらわれるあらゆることから、愛するものが新しい美点を持つという発見を抽きだす精神の働きのことである。」

—『恋愛論』スタンダール著

「文明国では、女には暇があるが、野蛮人の男は仕事に追われているので、やむなく女を駄馬のように扱うことになる。多くの動物の雌のほうが野蛮人の女より幸福なのは、雄の生存がずっとよく保証されているからである。」

—『恋愛論』スタンダール著

「人間は、他のどんな行為よりもよけいに快楽をもたらす行為をせずにはいられないものだ(*)。  恋は熱病のようなもので、意志とはまったく無間係に生まれては、消える。これこそ趣味恋愛と情熱恋愛との主要な差違のひとつである。われわれは恋する相手の美点をただ単なる偶然としてよろこぶだけである。  要するに、恋は年齢を問わないのである。あまり優雅とはいえないホレース・ウォルポールに対するデュ・デファン夫人の情熱を見るがよい。パリでは、さらに最近の、わけてもいっそう好ましい一例が、おそらく記憶にとどめられているであろう。」

—『恋愛論』スタンダール著

「 女は理性よりも情緒をこのむ。理由はごくかんたんである。われわれの千編一律の習慣のおかげで、女は家庭でなんら重大な仕事も負わされていないから、「理性は彼女たちにとってまったく使いみちがない」し、ついぞそれがなにかの役に立ったためしがないのである。それどころか理性は、彼女たちにとって「つねに有害」なのである。なぜなら理性は、きのう楽しいことをしたといって小言をいうためか、あすはもうしてはいけないと命じるためにしか、姿をあらわさないからである。」

—『恋愛論』スタンダール著

「(*)ポルマルシェの金言が想起される。《自然が女にむかって言うには、できれば美しくおなり、望めるものなら賢くもおなり、だがなによりも尊敬されることが肝心》。フランスでは尊敬がなければ感嘆もなく、したがって恋もない。  女には、一瞬生命を賭けて、世論を征服するという確実な手段がない。  したがって女は、男よりはるかに不信の念がつよいのにちがいない。恋の誕生の各時期を形成する精神の動きのすべては、女では、日頃の習慣によって、男よりもおだやかで、おずおずし、ゆるやかで、優柔不断である。それだけに長続きする傾向がある。当然、いちど始まった結晶作用をさほどあっさり断念できないはずである。」

—『恋愛論』スタンダール著

「この滑稽な言葉は変えるべきかもしれないが、事実は存在する。ベルリンの「美男たち」の嘆きの種であった美しくけだかいウィルヘルミーナが恋を軽蔑し、その狂気を嘲笑していたのはよく知られていた。若さと、才智と、美貌と、あらゆる種類の幸福にかがやき、莫大な財産は、彼女のあらゆる才能をのばす機会を彼女に与えるとともに、自然と力をあわせて、幸福をうけるにまことにふさわしい人に完全な幸福が与えられたという、非常にめずらしい例を世に示しているように見えた。彼女は二十三歳だった。すでにかなり前から宮廷に出ていたのだが、高貴の方の好意をていよく拒絶してきた。彼女のつつましい、だが堅固な婦徳は、模範としてあげられ、その後は、どんな美男子も彼女に好かれることをあきらめて、せめてその友情をねがうのみであった。ある夜彼女は、フェルディナンド大公の舞踏会へいき、ある若い大尉と十分間踊った。」

—『恋愛論』スタンダール著

「羞恥心は、身だしなみの趣味の源泉のひとつである。このように身なりをととのえることによって、女は多少とも期待をいだくものである。老年において化粧が所を得ないのはこのためである。地方の女がパリで流行を追おうと思えば、間がぬけて、もの笑いの種になるのが落ちだ。地方の女はパリに着いたら、はじめは三十女のつもりでよそおうべきである。  ある女が、哲学的な率直さにかられたとき、およそつぎのような意味のことを言ったものだ。「いつか私がだれかに私の自由を捧げるときがくるとしても、私が将来えらぶ男の人は、私がこれまでごくささいなことの好悪にもどんなに厳格だったかをお知りになって、私の気持ちをいっそう尊重してくださるだろうと思うの」こんなに愛すべき女が、現在話しあっている相手の男に冷淡になるのは、おそらく永遠にめぐり会うこともないような恋人のためなのである。これが羞恥心の第一の誇張で、これは敬意をはらうべきものである。第二の誇張は、女の自尊心から生じる。第三の誇張の原因は、夫の自尊心である。」

—『恋愛論』スタンダール著

「これは多血質と比較した憂欝質の話であろう。ある貞淑な女、しかも信心からきた打算的的な貞淑(天国で百倍にして酬いられるという条件での貞淑)を身につけた女と、一方はすれっからしの四十男の道楽者の場合を想像すればよい。『危険な関係』のヴァルモンはまだそこまでは達していないが、トゥールウェル法院長夫人は全巻を通じて彼よりも幸福である。したがってあの才智豊かな作者がさらにもう少し才人であったなら、このようなことをあの巧みな作品の教訓としたことであろう。」

—『恋愛論』スタンダール著

「 私は、美しい海の眺めが、慰安を与えてくれるのを経験した。「静かに輝かしく明けた朝は、城館から陸地のほうに眼を移すと眺められる荒涼とした山々に、ここちよい景観を与えていた。そして、幾千の銀波がさざめいているすばらしい大洋は、水平線の果てまで、おそろしい、しかしやさしい威厳をくりひろげていた。最も苦悩のはげしい瞬間さえも、人の心は、このような静けさと偉大さとが刻印された風景から、それと一体となった感動をうけ、その壮大な影響によって、名誉と美徳の行為をよびさまされずにはおかないのである」 (『ラマムーアの花嫁』第一巻、一九三ページ)」

—『恋愛論』スタンダール著

「だれでもそうだが、とくにフランス人はお人好しとみられるのをきらう。しかし、むかしのフランスの君主政体はそれほど固苦しいものでなかった(*)ので、「意地」も色事あるいは趣味恋愛以外のところでは、あまり被害をおよぼさなかった。意地が卑劣な行為を生んだのは、気候の関係で性格がもっと陰気な君主国(ポルトガル、ピエモンテ)においてである。」

—『恋愛論』スタンダール著

「パリの青年は、恋人を一種の奴隷、とりわけ自分に虚栄心の満足を与えるべき奴隷としか考えていない。もし女が、この支配的な情熱の命令に反抗しようものなら、彼は女を棄て、いかに颯爽と、いかに手ぎわよく彼女を振ったかを友人に吹聴して、ますます自己満足におちいるのである。  自分の国をよく理解していた一フランス人メーヤンは言った。「フランスでは、偉大な情熱は偉大な人物とおなじくらい稀なものだ」と。  フランス人にとって、女に棄てられ、絶望していることが町中全部に知れわたっている男の役を演じることがいかに不可能なことか、これを言い表わす適当な言葉がない。ヴェネチアやボローニャでは、そんなことはざらにあることなのだが。」

—『恋愛論』スタンダール著

「かつてルターは道義心に力強く訴えた。そしてドイツ人は、自己の良心にしたがわんとして三十年間も続けてたたかった。その信仰がいかに馬鹿げたものであるにしても、大いに尊敬すべきみごとな言葉である。私は、芸術家にとってさえ尊敬すべき言葉だ、と言いたい。ザンドの心中の葛藤、神の第三戒「なんじ殺すなかれ」と、祖国のためと信じた事との間の内心の葛藤を見よ。  タキトゥスのなかにさえ、すでに女と恋に対する神秘的な熱狂が見られる。もっともこの作家が、もっぱらローマの諷刺を意図していたのではない、と考えての話だが(*)。」

—『恋愛論』スタンダール著

「ドイツを二千キロも旅行すれば、この不統一な割拠している国民のなかに、熱烈ではげしいというより、むしろ温和で情愛こまやかな熱中の調子を見分けることができる。  もしこうした気質を、あまりはっきりと見てとることができなかったら、オーギュスト・ラ・フォンテーヌの小説を三、四冊も再読されればよい。美しいプロシアの女王ルイゼは、彼が『安らかな生活』をかくもみごとに描いた褒美として、彼をマグデブルクの聖堂参事会員にした(*)。 (*)オーギュスト・ラ・フォンテーヌの小説の一つの題『安らかな生活』は、ドイツのもう一つの大きな特徴であって、これはイタリア人の「安逸」にあたり、ロシアの「四輪馬車」やイギリスの「遠乗り」に対する生理学的批判である。」

—『恋愛論』スタンダール著

「深刻な情熱のために働くよう習慣づけられた注意力は、敏捷にうごくことができない。これがフランス人とイタリア人の最も顕著な相違である。イタリア人が乗合馬車に乗るところと、支払いをしているところを見たまえ。ここにこそフランス人の furia francese性急さが見られるのである。どんなに卑俗なフランス人でも、デマジュール式のきざなうぬぼれ屋でないかぎりは、イタリア女に、つねにすぐれた人物に見えるのはこのためである。(ローマの D……公妃の恋人)。」

—『恋愛論』スタンダール著

「 私はこうした幸福に感心はするが、うらやみはしない。これは私とは異なった劣等な人間の幸福のようだ。私の予測では、フロリダや南アメリカのほうがはるかにましではないかと思う(*)。  北アメリカに関する私の推察を裏づけるのは、芸術家や作家がまったく存在しないということだ。合衆国は、まだわれわれに、一幕の悲劇も、一枚の絵画も、一冊のワシントン伝も、送ってきてはいないのだ。」

—『恋愛論』スタンダール著

「アラビアのテントの下では、いったん誓いがたてられると、破ることが「できない」。この罪にすぐさま軽蔑と死がつづくのである。  この民族においては、気前のよいことが非常に神聖なものとされており、与えるためには「盗む」ことも許されているほどである。その上、毎日、危険があり、生活はすべて、いわば情熱的な孤独の裡に過ぎていく。アラビア人は集まっていても、めったにしゃべらない。  砂漠の住民にあっては、変化はなにもない。すべてが永遠であり不動である。その独特の風習は、よく知らないから描きうるのは貧弱なスケッチにすぎないのだが、おそらくホメロスの時代からあったものであろう。それがはじめて記録されたのは、シャルルマーニュの二世紀以前、キリスト紀元六百年ごろのことである。」

—『恋愛論』スタンダール著

「われわれの芸術は、彼らのものよりはるかにすぐれている。われわれの法律も、見たところ彼らのよりもさらにすぐれている。だが、家庭を幸福にする技術において、われわれが彼らよりすぐれているかどうかは疑問である。われわれには誠意と単純さとがつねに欠けている。家族関係にあっては、ぺてん師はなによりも不幸である。彼にはもう心に平安がない。つねに正しくないので、いつもおそれを抱いている。」

—『恋愛論』スタンダール著

「女は、われわれが教えたくないと思っていること、生活の経験から読みとれることばかりを知っている。そのため大金持の家庭に生まれることは、女にとって極めて不利である。金持の娘に対して「自然にふるまえる」人々とは接しないで、富によってすでに腐敗堕落した小間使いや話し相手の婦人連にとりまかれているからである。王子ほど馬鹿なものはいない。  自分が奴隷だと感じている娘たちは、稚いころから眼が開いている。彼女らはすべてを見るが、あまりにも無智だからよく見てとれない。フランスでは三十歳の女は十五歳の少年の知識も持たず、五十歳の女は二十五歳の男よりも分別がない。ルイ十四世の最も馬鹿げた行為を賛美しているセヴィニェ夫人を見るがよい。デピネ夫人の推論の幼稚さかげんをみたまえ。「女は子供を育て、世話をしなければならない」……私はこの第一項は否認するが、第二項には賛成だ。……「女はその上、料理女の勘定書を清算しなければならない」。だから女は、……知識において十五歳の少年に比肩するだけの暇がないのだ。男は裁判官、銀行家、弁護士、商人、医師、聖職者等にならねばならないが、それでもフォックスの論文や、カモエンスの『リュジアード』を読むぐらいの暇は見つけてくる。」

—『恋愛論』スタンダール著

「さらに私は、女性は毎日三、四時間の暇を、思慮分別ある男がその余暇を活用しているように、活用すべきだと言いたい。  若い母親は、子供が「はしか」にかかっているときには、ヴォルネのシリア紀行を読んで楽しもうと思っても、楽しめるものではない。これは、裕福な銀行家である夫が破産に瀕しているとき、いくらマルサスについて楽しく瞑想しようと思っても、それができないのと同じである。  精神の卓越。これこそ裕福な女が、女の卑俗性から抜きんでる唯一の方法である。これが具わっていれば、「自然に」他の感情は生まれるものだ。」

—『恋愛論』スタンダール著

「フランスでは、年金六千リーヴルある人々のなかには、本を出版する気など毛頭なしに文学を普段の楽しみとしている人が多い。良書をひもとくことは、彼らにとって、最大の愉楽の一つなのだ。十年たってみると、彼らの才智は倍加している。そして一般に、才智が豊かになればなるほど、他人の幸福と相容れない情熱を抱かなくなるということはだれも否定できないであろう(*)。またギボンやシラーを読む女性の息子は、お祈りをしたり、ジャンリス夫人を読む女性の息子よりすぐれた素質を有するだろうことも否定できないと思う。」

—『恋愛論』スタンダール著

「若い弁護士、商人、医者、技師は、まったく教養がなくても、世の中へ出ていける。その職業を営むことにより、日々教育されていくからである。しかし、彼らの妻は、尊敬すべき不可欠の特質を身につけるために、いかなる手段を持っているのか。家庭の孤独の中に閉じこめられて、人生と必要という偉大な書物は、彼女たちに閉ざされたままである。彼女は、料理女と勘定書のことで口論しながら、月曜ごとに夫が渡してくれる三ルイの金を、いつも同じやり方で使っているだけである。」

—『恋愛論』スタンダール著

「女子教育は、おそらく現代ヨーロッパで最も滑稽で愚劣なものであるから、女は、いわゆる教育なるものを受けることが少なければ少ないほど、値うちがあることになる。イタリアやスペインで女が男よりはるかにすぐれており、さらに、他の国の女よりすぐれているとさえ言いたくなるのは、おそらくこのためであろう。」

—『恋愛論』スタンダール著

「もし私が、わが聖職者たちのように、私の聖職者が自分の敵と親しい同盟者であると信じていたらどうか?  ルターのごとき人間が出なかったら、一八五〇年のフランスには、カトリック教は存在しないであろう。この宗教は、一八二〇年にグレゴアール氏によってはじめて救われた。世間がこの人をどのように遇しているか見るがよい。」

—『恋愛論』スタンダール著

「二十歳のころはちやほやされるが、四十歳になると、顧みられない。  四十五歳の女が重んじられるのは、ただその子供によってか、愛人によってである。  美術に秀でた母親は、息子が生まれながらその才能を有していた、というごくまれな場合にのみ、その才能を息子に伝えることができる。教養を身につけた母親は若い息子に、たんに快適なあらゆる才能のみでなく、社会に出る男に有益なあらゆる才能についての観念を与えるであろうから、息子はそれに従って選択することができる。トルコ人の野蛮さは、多くの場合、美しいジョルジア女の愚かさのためである。パリ生まれの青年が十六歳のとき、地方の同年輩の青年よりあきらかにすぐれているのは、母親のおかげである。十六歳から二十五歳にかけて、その機会は逆転する。」

—『恋愛論』スタンダール著

「避雷針、印刷術、機織術を発明した人々は日々、われわれの幸福に貢献している。モンテスキュー、ラシーヌ、ラ・フォンテーヌのごとき人々もまた同様である。ところが、ある国民が生む天才の数は、十分な教育を受ける人間の数に比例している。そして、私の靴屋が、コルネーユのようにものを書くのに必要な魂を持っていない、と証明しうるものはなにもない。靴屋に欠けているのは、その感情を発展させ、それを公衆に伝える技術を得るのに必要な教育なのである。」

—『恋愛論』スタンダール著

「愛情がなければ、結婚における女の貞操は、おそらく自然に反するものである(*)。 (*)おそらくどころではなく、たしかに自然に反する。恋をすれば、この愛する泉の水以外は飲んでもうまくない。このとき、貞操はまったく自然だ。  愛情のない結婚では、二年たらずでこの泉の水はにがくなる。しかも水を求めるのは自然である。風習は、自然を制御することはあるが、ただそれは一瞬にして征服しうるときにかぎられる。たとえばインドの妻は、嫌っていた年老いた夫の死後、火刑台に上り(一八二一年十月二十一日)、ヨーロッパの若い娘は自分の生んだ嬰児を惨殺する。尼僧院に高い塀がなければ尼僧たちは逃げだすであろう。」

—『恋愛論』スタンダール著

「フランスでは、こと女に関するかぎり、地方はパリより四十年おくれている。」

—『恋愛論』スタンダール著

「たとえば、六か月天文学を研究して過ごしたあとでは、いっそう天文学が好きになるし、一年間けちにしたあとでは、ますます金が好きになるのである。」

—『恋愛論』スタンダール著

「リジオ・ヴィスコンチはたいへんな読書家だった。彼が世界を回って自分で見たこと以外、このエッセーは十五人から二十人あまりの有名人の回想録にもとづいている。こういうつまらないものにでも、ちょっとでも注意をはらおうという読者に偶然でくわすこともあろうかと、リジオがその考察と結論をひきだした書物の名をつぎにあげておこう。」

—『恋愛論』スタンダール著

「「今日なおスタンダールが過賞され、その名声には多少のスノビスム(時流を追うこと)がまじっていると、思いこむ人がいるならば、『赤と黒』の傍題である「一八三〇年代記」について思いめぐらしてもらいたい。つまり、この小説が百年前に書かれたことを思いだし、それまでにフランス小説にどんな傑作があったかと自問されるのがよい。『マノン・レスコー』『危険な関係』『アドルフ』などがあるにはある。だがこれらの小説はどれひとつとっても、いかなる点でも『赤と黒』には似ていないのだ。スタンダール以前に世紀の年代記を書いて大小説をつくった者はいなかった。誰ひとり動きつつある一世代を照しだす考えも力も持たなかった。」

—『恋愛論』スタンダール著

「また、スタンダールが父を嫌悪し、母を讃美する言葉を後世の人々がそのまま信じこんでしまったのではないか、との疑いも持たれる。」

—『恋愛論』スタンダール著

「母がたいへん美しく魅力的で、恋心に近い愛情をアンリが抱いたことはもはや疑う余地がない。エディプスコンプレックスの徴候をここに見るのは容易だが、必ずしも異常なものではないだろう。パスカルをはじめ、現代のサルトルにもそのような傾向を認めることができるからである。」

—『恋愛論』スタンダール著

「アンリは、イデオロジーから出発して特に数学に興味を抱き、一等賞を獲得したほどである。  パリの理工科学校の受験を志したのは、数学が得意だったからでもあるが、同時に陰気なグルノーブルを逃げだしたかったからでもあろう。だが、わざわざパリまででかけたアンリは受験するのを放棄する。芝居を書くためにパリに残っていたかったからだ、と後年彼は書き記しているが理由は明瞭でない。彼の小説『アルマンス』『ラミエル』などの主人公はみな理工科学校の卒業生である。また、『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルは、出世欲に燃えた意志の強い人間として描かれている。アンリ・ベールは、他の小説家にしても似たケースが多いが、自分がなりえなかった、しかしなりたかった者を作品のなかに描いたといえないだろうか。」

—『恋愛論』スタンダール著

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2025年12月02日

Posted by ブクログ

かつて途中で読むのを断念した本。
恋愛してしまった今、改めて読んでみると、なかなか勇気づけられることが諸所にあった。恋愛を楽しもうと前向きになるので、意外にも楽しめた。
タイプ別あるあるや、恋愛のパターン、恋に落ちるまでの過程が冷静に、まるで科学のように説明されていく様子は歯切れが良い。ドライすぎることもなく、読み進めていくとだんだん、スタンダールは相当恋愛好きなんだな、と納得する。そして自分が少しスタンダールに影響されていることを知る。
200年程前に書かれた本なのに、現代に十分通じる内容。人間て実はあまり進化していないんだなと思う。

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2015年09月26日

Posted by ブクログ

スタンダールさんは天才過ぎて何が書いてあったのかわかりませんでした。ですが頭がよくなった気分にはなります。気分だけですけど。

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2010年03月07日

Posted by ブクログ

100年以上前に書かれたものであるにも関わらず、今読んでも響く。それだけ普遍的なものでもある、恋愛は。

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2010年05月05日

Posted by ブクログ

フランスの文豪スタンダールによる恋愛論。エッセイ?小説のような掌編もあり。今とは恋愛の価値観も違うから何とも言えないけど、こういう考えもあるのねと。フランスでは発売当初まったく売れなかったらしい。

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2024年06月24日

Posted by ブクログ

当時は貴族しか恋愛を楽しめなかったところがあるようですので、そこのところを踏まえると若干理解しやすいようです。

18世紀の遊び人ぽい作家さんのスタンダールが書いた『恋愛論』を読んでみました。
スタンダールは、名前を知っている人がけっこういると思うのですが、
存命中は不評を受けた人だったらしいです。この『恋愛論』を読んだ後にそれを知ると、
なんかおっかしいです。

さてさて、この恋愛論は前回の記事で触れた競馬場バイトでの仲間、Y君にオススメ頂いた本でした。
それも何年も前に…。やっと読んだよ!けっこう頭に入ってきずらい文章と内容でございました。
ところどころ面白くはあるのですが。

「恋愛には4つの種類がある。
情熱恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛。」
というのは、なかなか面白くないですか。
あんな、どぎまぎしてしまって、理性が働かなくなる恋愛を
理性的に捉えることができることが面白く感じます。

さらに、「雷の一撃」ですとか
「結晶作用」なんていう、独特なのですが、
多くの人が経験している心理を言葉で表現してくれています。

とはいえ、繰り返し言いますが、難解、晦渋な感じの本ではあります。

そんな本を読みながら、さらに140文字という制約に収めようとし、
さらにさらに思いつくままの言葉を使い、さらにさらにさらに相手に伝えるということをちょいと怠ると、
以下のようなツイートをツイッターでしてしまうことになります!

書いているときは全然感じませんでしたが、
このブログに貼り付けようと読みなおしてみたら、ひっくり返りそうになりました。
つたわんねーよ、こりゃ…。自分にしかわからない、というか、
時間がたてば自分でも相当わかりにくい…。

いきまぁす!
ツイートのまとめです。
空白の行までが一つのツイートです。

____


虚栄心は夏の恋愛にも見られる。かっこいい女の子を彼女にすること。
その逆もしかり。そこには燃え上がるような情熱的恋愛の姿はない。
ただ彼氏彼女の契約を交わした男女がいるだけで契約以前にあるだろう
不安めいた憧れやまぶしい夢のようなものは存在しない。あるのは肉体恋愛のヴィジョンだけ。

初体験の年齢うんぬんを一様に取り立てて記事していたりしますが、
彼女たちは肉体恋愛にのみおぼれたのか、情熱恋愛の末のものなのか、
趣味恋愛の中での間違いなのか、虚栄恋愛が虚栄的に進行したものなのかを
考えた方がいいような気がする。

援助交際は恋愛の要素はないのかもしれない。
階級社会的な言い方だけれど、女子高生なんだっていう一種のブランド感、それを売る。
それを売るのには自分も売らなければならない。好きでやる子もいれば、
金のために息を止めるようにして事を済ます子もいるだろう。

援助交際を止めるには…。これだけ性の情報がはいってくる情報社会の中で、
貞操感を養えるのか。不特定な人間に身体を売ることをしないためにはどうしたらいい。
僕はこう思う。もっと早い段階で、それも女子だけが性教育を受ける時期から恋愛を教えていくべきだと。

実例をまじえて恋愛を教えることで、情熱恋愛、趣味恋愛、虚栄恋愛、肉体恋愛というものを認識して、
自己分析に役立てることができる。ただ、この恋愛教育には恋愛を抑制するという
難しい装置がついていないとなりたたないような気がする。


昂ぶる恋愛への気持ち。まだ十分にわかっていないのに行動へ移さずにはいられない子も大勢いるだろう。
それだけ、恋愛というものは心を高揚させて興奮させて平常でいられなくする類のものなのでしょう。
となると、中学は女子校にして、ずっと厳しい寮生活なんかを送らせなければいけない。

『後宮小説』の後宮での学問の仕方を思い出す。教授がいて、講義をする。
恋愛というよりは、もう房事を中心に技術や論理を女に教えていく。
これはりっぱなお妃を育てると言う意味だから、そうなるのだけれど、
現代の女子だって、お嫁さんになるという意味で勉強するならば、後宮の講義方法でも良いかも。

つまるところ、今は大学機関でも、恋愛に関しては研究ばかりがさかんで教育面のインフラが皆無に等しいらしいのです。
そこを、恋愛教育というものに力を入れて生み出していくことが重要なんじゃないだろうか。
中学の科目に「恋愛」を作る。すごく自然で良い。『ローマの休日』とか見せればいいしさ。

援助交際をしている女の子に好きな男ができたときに、こんな自分が相手を好いていいだろうか、
と自己を省みる心的作業が生まれる。そして、金のためなんかに自分の身体を売って、
擬似的な恋愛を売って、そんなものに使った、自分の唇で好きな子とキスができるだろうかと悩むだろう。

もしも恋愛の教育を受けていて、接吻の軽くて重い意味合いを知っていたなら、
自分を汚してしまう行為を進んで行うようにはならないんじゃないかと思う。
好きな男に捧げるもの…なんて言うと前時代的ですけれど、性交渉するときだって、
心身ともに清潔な状態でありたいと思うものなんじゃないかな。

というのも、ノーマルな状態では、好きな相手を汚したくはないものです。
それに、あの人はあんなに輝いているのに私はそれに見合う清純さを持っていないと嘆く場合があるでしょう。
その汚れというものが、自分の意思でついてしまっているものならば、なかなか拭えないし、
自分が一つ落ちる他なくなる。

とはいえ、お互いにまるで傷が無くて汚れてもいない二人が恋愛していたら、
それはそれで無味乾燥なイメージを持ってしまいます。
本当ならば、挫折とか過ちを許しあえる仲であったらいいのでしょうか。
援助交際は、その後悔いても消せない事実が残ります。恋愛の観点からみてそれは恥だと知るべき。

____


はい、ありがとうございました。

なになに、mask555さん、言葉の意味わかってしゃべってる?って感じがしますね。
自分でびっくりだもん!
難解な本を読むことで、僕の頭のミラーニューロンがその雰囲気をコピーして頭を難解モードに
してしまった感覚もありますね。そのとき読んでいる本に影響されるもんです、書き言葉も思考も。
書き手が乗り移ってくる感覚といってもそうは間違いではないでしょう。
ま、いいです、僕のツイートの話は。
そのうちまたこういうツイートをしてしまうんだろうなぁ、おっかないなぁ。自分がわからんです。

それで、いじわるにも、この晦渋ツイートを前述のY君にメールで送りつけようと思っています。
返事来るだろうか…。

最後に。恋愛論の本論よりも、挿話であるエルネスチーヌの章なんかのほうが
読み物としては面白いです。僕はこういう話が好きなほうです。
スタンダールは小説も残していますから、この調子だとけっこう面白いんじゃないかなぁと
推察するところなので、そのうち読んでみようと思っています。
村上龍さんのデビュー作『限りなく透明に近いブルー』にもスタンダールの『パルムの僧院』が出てきたもんなぁ。

そうそう、村上龍さんといえば、僕のツイートの援助交際うんぬんのところでの基盤となる考え方が
彼から得たものだったりします。

そんな感じで、今日はこのへんで。

0
2011年07月19日

Posted by ブクログ

寝る前や電車でぱたっと開けてさっと読み、ふふううんとなってぱたっと閉じる、そういう用途で購入。有名なのに読んでなかったしな〜

ちんたら飛ばし読み。ま、こんな本まぢで読んでもな・・・

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2010年07月20日

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