安部龍太郎のレビュー一覧
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安部龍太郎氏の小説は三作目。
大友宗麟という人物の情報は、戦国時代の九州の雄であり、キリシタン大名だったくらいだった。また、赤神諒氏の「大友二階崩れ」を読んでいたのもあって、宗麟に対するイメージはあまり良くなかった(本小説との差という意味では、吉弘鑑理の描かれ方があまりにも異なっており驚いた)。
その点で、本作は宗麟が如何に凄いのかが非常に合理的に描かれていた。序盤に老臣の吉岡長増から出された課題、①強力な水軍、②寺社の統制、③大内家の討伐(周防・長門の領有)を、時間をかけて達成していく。銀山の開拓→南蛮貿易→国力の増強、国衆の統制といった経済と政治の関係が明瞭で面白かった。毛利勢の撃退後の長増との会話のシーンは痺れた。
本作のもう一つの軸は宗麟とキリスト教の関係。ただ、本点に関しては、宗麟はただの一信者であり、政教分離を苦心して実行しようとするも、なかなか上手く操れなかったという「失敗談」に見えた。事実、日向に作ったキリスト教街はすぐに破綻しているのだから綺麗に描くのが難しいのだろうが。 -
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令和2年になってコロナが騒がれる前に読み終わった本ですがレビューを書くのを忘れていました。緊急事態宣言のお陰でテニスもピアノもできなくなってしまい、更には天気が雨であったので、絶好のレビュー日和となりました。
今年の大河ドラマは明智光秀が初めて主役として登場してきますが、光秀がなぜ謀反を起こしたのか、多くの人が様々な意見を述べています。
最近では新しい史料による研究も進んできていて、新しい解釈もされているようです。歴史の真相が明らかになってくるのは面白いものですね。
以下は気になったポイントです。
・正親町天皇に和睦の勅命を出してもらったとき、信長は、山門領は比叡山延暦寺に返却するという誓書を出し、浅井氏と六角氏の近江の領有を認めているが、その9ヶ月後に反故にし、比叡山延暦寺の焼き討ちをしている(p24)
・当時教如は本願寺の後継者となるべく前久の猶子となっていた、門跡寺院の後継者になるには皇族、五摂家の出身者しかなれなかったから(p25)
・島津家の領地はもともと近衛家の荘園であった、そこに地頭として赴任したのが島津家の祖、忠久であった。以来両家は主従に近い関係を保ってきた(p28)
・信長は天正7年、誠仁親王一家を二条御所に移住させている、誠仁親王の即位を果たしたのち、安土城内の清涼殿に移住させる(遷都)つもりだった、その後、猶子である、五の宮が天皇となれば信長はその父なので、太上天皇と同等の資格で朝廷を意のままにできると信長は考えていた(p33)
・武田信玄の師でもある、快川和尚は正親町天皇から国師号を授与された高僧、その僧を焼き殺した信長は、天皇の権威を真っ向から否定したのも同然であり、前久はついに袂を分かつ決意をした(p36)
・信長は明智のために誅されたという意味の過去帳がある、誅するとは、上位の者が罪あるものを成敗する場合に用いる言葉である。当時、信長よりも地位が高い人物、それは天皇か将軍のみ、どちらかの命令を受けて光秀が討ったと解釈できる(p42)
・義昭が鞆の浦に居住していた時も社会的には将軍と認識されていて、京都五山の住持の任命などの公務も行っていた、鞆の浦は広島県福山市に位置する。江戸時代までは瀬戸内海運の中心地として栄えていた、潮待ちする港であった(p45、46)
・鞆の浦幕府の大名衆として、京極高成、武田信景、内藤如安、六角義あき、北畠具親など、室町時代以来の守護・守護代が記録されている(p48)
・なぜ天正元年を持って室町幕府滅亡とされたのか、それは徳川幕府にとって都合の悪い史実であったから。家康は信長とともに義昭と戦っているが、これは徳川幕府と戦ってもよいのではないか、と言われたら反論できなくなるから(p71)
・当時の西日本は、毛利・大友・島津が対立していたが、義昭が鞆の浦に移ったことで島津を従わせる体制が整った、島津が天正6年に耳川の戦いで大友を破って、西日本のほぼ全域が義昭の号令の及ぶ地域となった(p72)
・三職推任により信長が将軍になれば、義昭の将軍職は無効になる、すなわち西日本の足利幕府勢力圏は瓦解する、それを阻止しようとする動きが起こるのは必然であった(p73)
・秀吉の朝鮮出兵は、天正10年の政変のとき、秀吉がスペインからの援助(最新の軍艦2隻を売り渡す)を受けることと引き換えに約束したからと思われるが、ポルトガルの海軍が反対したため実行できなかった、これに激怒した秀吉は、イエズス会に圧力(バテレン追放令)をかけた(p93)
・幕府が鎖国をしたのは、日本人の多くの望みは「大航海時代よりは国内」「植民地をつくるより、もともとの領土を堅実に守る」ほうが幸せということをわかっていたから(p117)
・信長の遺骨がある阿弥陀寺で秀吉は葬儀ができなかった、なので大徳寺で葬儀を行ったが、織田家からは参列しなかった。大正6年1(1917)に信長に正1位が追贈されて皇室からの使者は阿弥陀寺の信長の仏前に参向した、これが信長が皇室に認められた瞬間(p123)
・農業中心の社会から、商業・流通が盛んな経済社会へと変わった。この大きな変化に、これまで農民を治めていればよかった守護大名の多くは対応できなかった、対応できたのは守護大名から領地を預かり、地元の産業に直接かかわっていた守護代というわれる人たち、その代表的な存在が信長の父信秀である(p135)
・近江を制することは、琵琶湖を制する、これは短い陸路で、太平洋・瀬戸内海・日本海につながることと同義である。三方から集まる流通を押さえれば、津料と関銭をとることができ膨大な収益となる。なので信長は安土城を拠点、長浜に秀吉、坂本に光秀、高島に甥の津田信澄を配した(p139)
・信長は組合である「座」や、寺社の支配下にあった「市」を廃止し、自由に取引できるようにして経済を活性化させようとした(p141)
・種子島に鉄砲伝来したとき、三人のポルトガルは漂着ではなく、倭寇である王直の船で種子島に来ている、ポルトガル側が王直に頼んで日本に連れて来てもらったのは間違いない、日本と貿易したい理由は、鉄砲の弾を撃つための硫黄が欲しかった。種子島の隣にある硫黄島は硫黄がとれた(p147)
・当時の日本には、軟鋼、真鍮(銅、亜鉛合金)、硝石、鉛を輸入する必要があった、そのルートを支配していたのはマカオを拠点とするポルトガルであった、大名たちがキリスト教に好意を示したのは貿易で物資を手に入れたい気持ちもあった(p148、154)
・茶室では先にお菓子を食べてからお茶をいただくが、この作法も聖杯授与と似ている(p188)
・石田三成は豊臣政権の方針を引き継いで、中央集権体制と重商主義政策を取ろうとしたが、徳川家康は関東統治の成功に力を得て、地方分権体制と農本主義政策をとるべきと考えた。関ヶ原の戦いは、両者の政策の是非を問う選挙のようなもの(p198)
・信長公記を読めば信長は迂回も奇襲もしていない、信長は桶狭間という狭い谷間に今川勢を誘い込み、鉄砲と長槍を組み合わせた新戦法で完膚なきまでに打ち破った、この時用いたのはスペイン陸軍のテルシオ舞台にならった戦法である(p200)
2020年4月18日作成 -
購入済み
新たな正成像
南朝に殉じた忠臣という側面から描かれることが多かった楠木正成。経済的事情から台頭した背景を説き起こし、新たな正成像を提示した。伊勢湾利権から織田家の発展を描いてきた安部龍太郎ならではの分析は興味深い。著者の初期作品で後南朝時代を舞台にした「彷徨える帝」には正成の末裔という設定で、南木正盛という人物が登場する。本書を読んで興味を持った方は、ぜひ「彷徨える帝」も読んでほしい。
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日本史は好きで多くの武将について読んできたと思いますが、最近になって有名な武将として記録されるまでには至らないけれども、大名としてかなり活躍したであろう人達にも興味を持つようになりました。
このような部分の研究も進み、それを本にしてくれる、この本の著者(安部氏)のような方が出てきてくれて本当に嬉しいです。なんだか、このような活動は学会では功績としては認められないようですね。
今までの価値観にとらわれない人が登場してきたというのも私にとっては嬉しい限りです。本を買うことしか当面はできませんが、応援したく思います。
以下は気になったポイントです。
・越前敦賀は、南北朝時代には新田義貞が足利軍と、戦国時代には朝倉義景が信長軍と、家の存亡をかけて戦った場所である。金ヶ崎宮は金ヶ崎城のふもとにあり、足利軍との戦いでなくなった尊良(たかなが)親王、恒良(つねなが)親王を祭神としている(p30)
・信長は、副将軍や領国には見向きもせずに、南蛮貿易の拠点である堺、琵琶湖水運の要地である大津を支配下においた。次の狙いは、日本海海運の要所である敦賀であった、三国湊には多くの外国船が来航していた(p32)
・勝頼はなぜ無謀な突撃をしたのか、あたりの地形を見ることでわかる。寒狭川は岩場が多く淵が深い、川沿いの道も細く険しい、もしここを通って信濃へ退却しようとすれば織田勢に追撃されて壊滅的な打撃を受けるから(p41)
・信長が馬防柵と鉄砲によって長篠の戦いに勝ったとされるが、それ以上に重要なのは決戦の直前まで兵力を隠し、本願寺との戦いに手を取られている信長には3万もの兵を出せるはずがないと勝頼に思いこませたことである(p41)
・京極家と六角家は、佐々木家から分家した間柄なので、両家力を合わせて近江をしないしていく体制をとった。なので、当初は浅井久政は、朝倉家(京極家に従属)とは距離を置いて、南近江の六角義賢に従属していた(p56)
・織田信長は18歳のとき、大うつけ、と呼ばれる不良少年になった。その原因は、父信秀が倒れ、織田家の実権が末森城にいる母土田御前や弟信勝(信行)に握られたから、それまでは馬を朝夕稽古、水練も行っていた(p63)
・歴史に残した大名はほんの一握りのスーパースター、例えば20万石の大名は年収200億円の収入ある土地を管理しているので大企業と同じである(p86)
・豊臣秀長が100万石の威信をかけて築いた大和郡山城は、近鉄郡山駅の北に位置している、この設計をしたのが秀長の重臣である、藤堂高虎である、その後を継いだのが、秀保(秀吉の姉の子、後に秀長の婿養子)(p95,108)
・秀吉は、秀次を高野山へ追放、切腹、しかも妻妾・子供達を三条河原で処刑した、これを聞いた高虎は、豊臣政権との決別を決意し、秀長と親しかった徳川家康と意を通じた(p108)
・13代将軍足利義輝が頼りにしたのは六角だけではなく、能登の畠山、越前の朝倉、若狭の武田、美濃の土岐をいう守護大名であった。計画を立てているさなか、義輝の父義晴が急逝して喪に服す必要があった(p132)
・都を追われた義輝は、鯖街道の要所朽木(くつき)の朽木氏の庇護を受け、武田・朝倉・長尾(越後)の支援を受けていた一方で、三好長慶(阿波、淡路、摂津、和泉)を領国として、瀬戸内海・太平洋の流通をおさえていた。この両者は、日本海と瀬戸内海という二つの流通圏を握った者たちの主導権争いであった(p137)
・武田信玄が日本海に出ることは、鉄砲を生産したり実戦で用いたりするための物資を輸入するという軍事目的もあった、戦国大名が戦いを繰り返したのは、領国よりも流通ルートの支配権を得るためであった(p145,147)
・室町幕府のもとでは、足利一門である斯波、細川、畠山、今川、や源頼朝以来の名門である、伊達・武田・島津などの守護大名家(土地・領民の支配)が、朝廷や寺社(商業・流通)と共存しながら領国を治めてきた。農本主義から商業主義の社会になると、商人や流通業者と結びついた在地の武士たちが経済力を持つようになった(p148)
・大内家は南北朝時代から、現在の山口・広島・島根・福岡県にまたがる所領を有した大大名で、西国一の太守と称された、その力の源は、朝鮮・中国との交易であった(p208)
・種子島に鉄砲が伝わる二年も前に、松浦氏は平戸に王直を招いて来航を促している。ポルトガル人は偶然に漂流したのではなく、東南アジアから五島に向かう王直の船に便乗した(p217)
・客を招いて宴会するときは、家の男共が座敷に出て給仕をする、女性は台所で料理をするだけで決して客の前には出ない、これは平安時代からのもてなし方、主人が走り回って方々から佳肴をあつめるので馳走という(p229)
・江戸時代に書かれた史書には多くの誤りがある、それは江戸幕府が鎖国政策、身分差別政策、儒教教育、朝廷封じ込め政策のために、歴史観まで捻じ曲げられたから(p233)
2019年4月30日 -
Posted by ブクログ
ネタバレ本能寺の変の背景を大胆に推測した一冊。
信長は、ポルトガルとの南蛮貿易で富を得て、それが権力の源泉になっていた。このころ、宣教師たちの日本での活動が最も盛んとなる。ポルトガルがスペインに併合されると、スペインとの交渉に入ったが、決裂。貿易で得ていた信長の力に陰りが生じる。それをみた足利義昭は、公家勢力と組んで、信長を潰しにかかる。その手下となったのが明智光秀。そのころ、宣教師たちは、キリシタンと近しかった秀吉と組み、キリシタンのネットワークを使って、秀吉に中国大返しをさせ、権力を握らせる。
雑誌などに掲載されたいくつもの文書をまとめたようで、少々全体的なまとまりには欠け、若干読みにくいが、歴史を見る視点の新しさに好奇心を刺激された。