戸谷洋志のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
☆☆☆2025年3月☆☆☆
『生きることは頼ること』―このタイトルに惹かれて手に取った。誰かに迷惑をかけることは悪徳であり、他人を頼るのは恥ずべき事、すべては自己責任でという風潮は根強い。その事に違和感を感じているところで出会った本書は実に参考になる部分が多かった。
本書では「強い責任」「弱い責任」「守られるべき他者に対する責任」「能動的責任」「受動的責任」「中道的責任」など、様々に責任が定義されており、それぞれに興味深いが、僕がまず重視したいのは「強い責任」=「自己責任」だ。
「自己責任」という響きからは、何となく自分でしっかり責任をもって・・・というニュアンスが感じられるが、「自己責任、自己責任」と世の中が言い始めると、他人に対して「お前の自己責任だろ」と、誰かに責任を押し付けるための言葉として動き出す。2004年のイラク日本人人質事件では、政府や社会の責任を回避するため、人質となった人を「自己責任」といって切り捨てるような風潮が現れた。このような状況は現在も続いており、精神科医の片田氏の著作より「一億総他責社会」である、と論じる。
一方で「弱い責任」論によれば、なんでも自己責任で片づける、というのは逆に無責任だと論じる。例えば親一人、子一人の家庭で心身ともに疲弊しているときに、「自己責任」だからとすべてを一人で片づけようとするのは結果として子供のためにならず、無責任だと論じる。僕はこの論に賛成だ。
「生きることは頼ること」
というタイトルは正にこの本にふさわしい。「自己責任」と困っている人、他人を切り捨てる風潮に一石を投じる内容だと思う。 -
Posted by ブクログ
自己責任と言う言葉に対する違和感がもやもやとあったのですが、もやもやの正体は自己責任と言う言葉が、『それは私の責任です』と言う文脈ではなく、『それはお前の責任だろう』と言う文脈で使われているからと言う事が分かりました。
政府が国民に自己責任を言う時には政府が国民に対する責任を放棄しているのでは?と言う考えは、自分が家族や友人や同僚に対して無責任にならないための意味でも忘れずにいたい考えです。
筆者の言う弱い責任や人々の連帯など、頭では何となく分かりますが、常にその考えでいられるかと言われると自信がありません。
赤の他人同士で連帯するべきと言われても、やっぱり損得勘定が働いてしまいますし、家族や友人や同僚と言った手の届く範囲の人が、困っていたら出来る範囲で助けてあげて、自分がしてもらって嬉しいことはしてあげて、自分が嫌な事はしない、くらいではダメでしょうか。 -
Posted by ブクログ
久々に良い本に出会えた。
元から気になっていた著者の本だが。
ここから著書の中の話とは違い、私の考えだが。
自己責任という言葉は、随分勝手な言い訳の様に感じる。
財源、特に社会保障費には限りがある。
社会とは、生きている全ての人たちが対象となる。
障害があるから、高齢者だから、貧困だから、等々、
何かしら生活に支障を来たしている人たちの為の費用でもなく、本来なら日本に住んでいる人全ての人への生活を保障すべき費用。
サッチャーは、全ての人に回す為公正な支給を目指しただけ、
日本の場合は、強者が弱者の生活に目を向けることもせず、自らの仕事を放棄して支給を制限したいが為に、自己責任という便利な言葉で逃げているとしか思えないのだ。
自己責任という言葉は便利な言葉だが、社会保障費を制限したがる日本国政府には守らなければならない国民との約束を放棄しようとすることと同じことだと気付かない。
日本国憲法第25条には、すべての国民は、健康で文化的な最適度の生活を送る権利を有する、と書かれているが、日本国政府はそのお約束を守れているのだろうか?
守っているならば、国民に対して自己責任を問うても良い、
しかし、大学生の一部には三食食事が摂れず一食しか食べれない人がいたり、
病気で働けないため、生活保護を申請しに行っても申請する権利はあるのに、申請すらさせず餓死させたり、私が知っているだけでも2件はある。
これで国は、義務を果たしているというのか?
それなのに、軽々しく自己責任を問う。
安倍が暗殺された時も、日本は民主主義国家、法治国家とマスコミは言うが、約90%の人が女性天皇、また女系天皇容認しているのに民意を無視する。
それでも民主主義国家か?
民主主義という概念、定義を政府は知らないのか、知っていて放置なのか?
法治国家ではなくただの放置国家、
民主主義国家という概念を知らしめるため、血を流させないと政府は分からないのか?
今感じるのは、国民支払い者に一切財源を使わせないで自分たちだけ。 -
Posted by ブクログ
新自由主義に代表される自己責任論に基づく責任を「強い責任」と定義し、その対比の概念として「弱い責任」を提唱していく。
他人に迷惑をかけてはいけない。誰にも頼らず自立すること。
私たちはこのように教わってきたし、日本では現在もその考えが広く社会にいきわたっている。
しかし、本当に誰にも頼らず自立している人など一人もいない。
だから「弱い責任」で責任を押し付けるのではなく、頼ったり引き継いだりしていこうというのが、本書の主張。
たとえば、農家がいなければ、流通してくれる人がいなければ、どんなにお金持ちでもお米を食べられない。
お金があれば何でもやってもらえるという考えは、「自立の勘違い」を生む。
たくさんお金があれば自立している、ということではない。お金は誰かを頼った時に「これ(お金)を使って、あなたも誰かを頼ってください」としてつかう道具、なのだから。
「強い責任」が自己責任を果たしてこそ人間としての存在価値が認められるという考えに基づくのに対し、「弱い責任」の前提には、誰もが弱い存在であり、責任を分かち合って生きているという思想がある。
本文にドキッとする文章があった。
”自立性こそが人間の条件とみなされるとき、誰かに依存し、誰かに依存されている人の存在は、社会から覆い隠され、あたかもそんな人はそんな人は存在しないかのように扱われてしまう。そうした状況が、ケアに追われることでボロボロになったひとを、さらに追い詰めることになる。”
ケアを必要としている人だけでなく、ケアをしている人の存在まで覆い隠されてしまう。これは今の日本で本当に起きている問題かもしれない。
介護や認知症の話は、テレビの中、もしくは家族の中、専門職の中だけに存在し、それ以外の現実社会には存在しないことになっているのではないか。
自己責任という名の大いなる無関心が、社会からケアする人、ケアされる人を排除している可能性を感じた。
だれもが誰かの助けを必要とし、誰もが誰かの助けになるという考え方を説明するのに「弱い責任」論は大いに役立つと思うので、さらに理解を深めていきたい。 -
Posted by ブクログ
タイトルから、不道徳な行いをする際の快楽的な要素について心理学の視点からアプローチする本かと思っていましたが、実際には「いわゆる不道徳とされる行為を行う人の思考回路や、それらの行為がなぜ不道徳とされるのか」というところを倫理学・哲学の視点から解説した本でした。
よくある哲学書のように「かくあるべき」という切り口てはなく、「自己中」「意地悪」「嫉妬」「自傷行為」といったネガティブな側面を哲学的にどう説明するか、ということをカントやルソー、アーレントなど主要な哲学思想家の論を用いて丁寧に解析しています。
読み物、としては(テーマ的にも)やや硬い印象がありますか、西洋哲学史の入門書としては手に取りやすい思います。 -
Posted by ブクログ
ポッドキャストでお話されているのと、面白そうな本いっぱい出しているんだなーと思い、興味があった戸谷洋志さん。
とりあえずタイトルに惹かれて目についたこちらを購入してみた。
古代から現代までの哲学者たちの考えた「友情とは」を、現代の漫画を補助線にしながら紹介していく、ふわっとやさしく哲学に触れる内容。
そもそも友情とはなんなのか?
私は友達が多い方ではないし、(なんならあんまりいない方だと思う…)幸運なことに若い頃から友達同士のトラブルや悩みなど、あまりなかったので、友情について深く考えたことはなかった。
プロローグから毎日一章ずつ、スラスラ面白く読みながら、自分の友情観に照らし合わせたり、好きな漫画のシーンを自分なりに当てはめて楽しんだ。
特に第六章のフーコー、友情と恋愛の違いは何か、は、今まで自分が見知ってきたのとは全然違う角度から友情について語られており、自分の基礎となる土台をそもそもの力で揺るがす、これぞ哲学だなぁと目が開かれる感覚を味わった。
全編本当に面白くて、なんならこの本について読んだ人とめちゃくちゃ語りたい!とか無邪気に楽しんでいたのだが、エピローグの下記の文章が思いがけず胸に迫り、自分でもよく分からないうちに涙腺が決壊していた。
私たちは一人では生きていけない。私たちは弱く、傷つきやすい。しかし、だからといって、他者から支配され、他者に保護され、他者の言いなりにならざるをえないわけではない。私たちは不完全で、無力で、失敗を繰り返す。それでも、他者から対等な存在として認められ、誰かの-友達の-力になることもできる。
そうした可能性は誰にでもあるのだ。
(264頁)
いったん通読して本を閉じるまで、どこで涙が出てきたのか、そもそもなんで泣きたい気持ちになったのか、全然分からなかった。もう一度読み返して、たぶんここだな、と思ったのがこのくだり。
確かに著者の書き方は多少エモーショナルなんだが、何故だかよく分からないけどこの文章に、自分だけではなく多くの人間の悩みや苦しみ、孤独感もろとも、まるっと肯定されたような気持ちになったからなのかなと思う。
自分の心の琴線にこういう言説がグイグイ触れてくるんだという事実にも驚いたし、新しい自分を知ったような気持ちにもなった。
…こう言うのがあるから読書は面白いんだよなぁ。
戸谷洋志さんの本は本当にたくさん出ているので、他のも読んでみよう。
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Posted by ブクログ
「ケアの倫理」に関してキティに関する言及があり、一読してみた。「自己責任論」への言及より、その背景に「強い責任」があり、それに対置するものとして「弱い責任」について説明するために、中動態、キティ、おそらく著者の専門であるヨナス、そしてバトラーを用いて説明。最後に著者がまとめているが、「弱い責任とは、自分自身も傷つきやすさを抱えた『弱い』主体が、連帯しながら、他者の傷付きやすさを想像し、それを気遣うことである。そうした責任を果たすために、私たちは誰かを、何かを頼らざるをえない。責任を果たすことと、多雨よることは、完全に両立する」。若い哲学者で具体例も分かりやすい。今後の著者の活躍に期待したい。
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Posted by ブクログ
全体的にもう一歩踏み込んで説明してほしいな、という感じで、倫理学に関する本を曲がりなりにも色々と読んだことがある人には、少し物足りない感じがあると思う。が、最後の第六章「反逆することはなぜ楽しいのか」の最後の最後、ハンナ・アーレントの話は、ものすごく印象的で、ちょっと唸ってしまった。
「一つのルールですべての人間を納得させることなんてできない。もしもそれができたら、人間は一つのルールでカバーできてしまうような、単一の存在になってしまう。それに対して、人間には複数性が備わっていて、誰もが他者と異なる存在であり、今まで考えられなかったような新しいことを始めることができる。私たちには、どんなときでも、既存のルールに異を唱え、それを刷新することができる。だから、人間は反逆するーアーレントはそのように考えました。」(p149)
人間の「複数性」を大切にするアーレントは、人間を単一の一塊のような人間と捉えることを批判した。だからこそ、個別の人間の違いに根差したルールの変更が絶えず行われることが大切だとした。
その後の反逆が起きたときの秩序の部分が面白かった。そういった絶えず行われる反逆のたび、どのようなルールにも正当化されない、ある種の無秩序になる。そういった無秩序状態のときに、秩序を保つものを、アーレントは「約束」だとしている。
拍子抜けするような単純な答えだけれども、いやに納得した。ルールも一つの約束である。とすれば、逆に言うと害を成すルールは、もはや一つの約束だったことを忘れ去られた約束である。誰が作ったのか、何のために作られたのか。伝統のまま、放置されたブラックルールは、そういった作られた経緯を誰も知らないまま残り続けて、誰かに不都合を生む。
そこにいる人たちと、再び約束を結び直す。悪しき慣習を変えていくことは、そういうことなのだという結論に、すごく心動かされた。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ助けを求めることは「無責任」ではない。
新自由主義を下支えする思想として日本に導入された「自己責任論」。しかしこれは人々を分断し、孤立させる。
誰かに責任を押し付けるのではなく、別の誰かに頼ったり、引き継いだりすることで責任が全うされる社会へ。
「利他」の礎となる「弱い責任」の理論を構築する。
・国民は経済システムを成り立たせるための手段として、自己責任を課せられている
・そもそも自己責任という概念が、他者への責任転嫁を含意している
・能動態、受動態、中動態
・たとえ中動態になされた行為であっても、それをあとから能動的な行為として事後的に修正してしまう(意思の事後遡及的成立)
・責任とは「傷つきやすい他者」への気遣いであり、憂慮である。
・自分の利害関係を超えて愛しているわけでもない他者に対して、それでもその他者を守らなければならないと思えるときにこそ、人間は自らの自由を発揮している
・哀悼可能性の認知は常に差別におちいる可能性を有している。あるとき、ある条件が重なると「この人は傷ついても仕方がない」と思う。しかしそれは差別であり、不正であり、暴力なのだ
・弱い責任における「保証」と「信頼」の実践