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Posted by ブクログ
息子は、私と話をしていて意見が異なっていると知ると嬉々として反論してくる。
はじめのうちはエビデンス(といってもほとんどはSNS上にある意見)に基づいて自分の考えを語っているのだけれど、やがて私の考えの甘さ、私の知識の浅さや古さ、終いには私の性格の歪みについて指摘し始める。
こうなるともはや議論ではなく単なる私の人格への言葉での攻撃なので、もちろん嫌な気持ちになった私は話をするのを止めようとする。
それを息子は反論できないからこその逃げだと言い募り、私を論破できたとする。
毎度、なんと不毛な時間なのだろうと思う。
そんな息子にこそ読んでもらいたい一冊。
Posted by ブクログ
分かりやすくて読みやすかった。
詭弁が生み出す危険性と、なぜ現代では詭弁が流行しているのか、またそこから抜け出すにはどうすればいいのかについて書かれていた。
社交が大事。
以下抜粋
ーーーー
ある段階において社交は停止され、議論の空間は「交わり」へと変容されなければならない。
もしも私たちが、再び議論への信頼を取り戻そうとするなら、そのとき必要になるものは、何よりもまず、社交する力なのではないだろうか。それは、議論を優雅に行う技術である、と言ってもいいだろう。社交において重要なのは、正しさを追求することではない。
敵対する陣営を議論のなかで論破することでもない。そうではなく、議論による正しさの追求を耐えられるものにするということ、そこに伴う不快感を軽減するということ、それによって、議論そのものを少しでも持続可能なものにする、ということである。
詭弁は相手を論破するために行われる。論破は、その議論を見ている第三者を説得するための技法である。論破力を美徳とする人々は、あるいはひろゆきに感化された子どもたちは、議論がそうした構造を持つことを前提とする。しかしそれは、見方を変えれば、あたかも討論番組であるかのように、ショーアップされ、制度化され、管理された議論の場である。
Posted by ブクログ
「論破」といえば、やはりひろゆき氏。
本書では、この人の論のスタイルにしばしば批判的に言及する。
しかし、本書は単にひろゆき氏をモンスター扱いせず、彼のような存在がなぜ社会で喝采を浴びるのかから分析する。
本書の論旨は「おわりに」にまとめられている。
こういうところは、お若い研究者らしい、読者にやさしい配慮でうれしい。
4章までの前半は、おおざっぱに言ってしまえば背景としてのポストモダニズム。
権威が失われ、あらゆる価値が流動化して、社会の共通基盤が失われる。
ポスト・トゥルースの話も出てくるが、「真実」の価値も顧みられなくなる。
人々は「集団分極化」(キャス・サンスティーンによる概念)し、自分の関わる集団で共有される情報にしか価値を見出ださなくなる。
そんな中、自分をうまくコンテンツ化する技術をもった人がもてはやされ、過激な言説が支持される状況になる…。
…という話は、割とよく聞く話。
本書は、このような状況を変えるための提言を行う。
ひとつは単純な自己言語化ではなく、ゆらぐ自己を言語化することで、新しい思考を生み出す可能性を残すこと。
それから「社交」である。
正直、びっくりした。
「社交」という言葉が、自分の生活ではまず生きた語彙として認識されることはない。
せいぜい性格を形容する際、「社交的な」を使うくらいか。
「社交界」なんて、実感をもった言葉ではない。
で、どうして「社交」か。
市民的公共性(ハーバーマスのトピック)が資本主義の発展の中で崩壊する。
議論はそうした流れの中で商業化され、ショーアップされたものとなる(ひろゆき氏はそういう場にいる)。
「社交」は、全ての人に開かれ、対話によって議論をする場を育むために、必要なのだという。
できるのかなあ、と、どうしてもペシミスティックになってしまう自分にとっては、こういう態度だけで十分価値があると感じる。
一つ、自分の中でひっかかりを覚える内容があった。
集団分極化したメディアの中での暴力的コンテンツの分析のあたり。
過激な表現の方がインプレッションを稼げるために、より好まれるというところはわかるのだが。
見ている側は暴力をふるう側に同一化する、と戸谷さんは言っていたが、そういう人は多いのだろうか?
私なぞ、どちらかというと暴力を振るわれている側に意識が行ってしまう。
痛々しくて見ていられなくなるのだが…。
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