戸谷洋志のレビュー一覧
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ネタバレなぜ働かなくてはいけないのか。この本を読むことで少しでも心に余裕が生まれたらと思い購入。
ハンナ・アーレントは活動的営みを労働、仕事、活動の三つに分類した。労働と仕事は同じように思うが、専門用語的には労働は自然に支配された状態、例えば私たちが餓死しないためにお金を稼いで食べ物を得ているといった消費であることを理解した。そして仕事はそういった消費ではなく、残るものであるということを知った。私自身労働はしているが、仕事や活動はあまりしてない。現代において仕事や活動をしている人間は少ないと考える。だからこそ、その二つに目を向けることが重要であると感じた。
また現代社会では自由の価値が忘れ去られてしまい、その代わりに長生きや健康が重要視されているという視点がハッとさせられた。私自身もう少し経験といったものに価値を置いたら、生活が豊かになると思った。 -
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入門書ということで、非常に読みやすく哲学知識ゼロでも楽しめる。私もどういった内容なのか、さわり程度をまずは知りたいと思って読み始めたので、そういったことを期待される方にはおすすめ。アーレント本人は哲学者という肩書きを嫌っているようなので本書では思想家という肩書きで話が進む。嫌っている理由はちゃんと根拠があり本書で説明されている。
思想家ということで、色々と難しいことを考えられていて、独自の理論を日常で使用している言葉を使って別の意味合いで定義をしている。アーレント曰く「労働」と「仕事」は違うと主張している。ここでいうこの二つの言葉は我々が日常で使っている言葉とは違う意味合いで使用されていて、端的に「労働」とは人間の生命活動に必要な強制的にしなければならない営み、例えば食事をするための金稼ぎなどを指し、特徴として労働によって作られたものは消費されると主張している。「仕事」は人工物を作る営みとして紹介されていて、例えば椅子やテーブルなどを作成することを指す。
思想や哲学に関する本は、日常で使用する言葉を別の意味合いで定義していて、そこが難しくややこしいと感じるが面白いと感じるところでもある。
アーレントが一番主張したかったであろうことは、社会に染まって個性を押し殺すことは、より良い社会を形成するに当たって健全ではないと主張したかったのかな、とこの本を通じて得た自分なりの結論である。
「私」という存在は、今までの歴史上存在しなかったし、これからの未来でも全く同じ「私」は存在しない。だからこそ「私」は今だけ生きる唯一無二の存在であり、「私」にしか出来ない思想や主張がある。だからこそ個性を出さずに画一的な社会の一員になるのではなく、自分が考えることは、今は常識はずれでも、主張し続ければ新たな常識となる世になるかもしれない。そう信じて社会をアップデートし続けていくのが、よりよい営みである、そう言いたかったのかもしれない。
個人的には、この本を読んで良い励みとなった。 -
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昨年『生きるとは頼ること』を読んで気になっていたハンス・ヨナスについて著者の戸谷さんが解説書を出しているということで読んでみた。誰が責任を取るのかという責任の主体に焦点を置く通常の責任論に対して、ヨナスの責任論は誰に対して責任を果たすべきかという責任の対象から考えるという視点の転換がある。(目の前で泣いている乳飲み子を放っておくべきではないのは対象の存在に対して責任を感じるから)
なぜ対象に対して責任を果たすべきなのかという点についても、存在そのものへの価値、善を見出すという点から、未来世代への責任についても未来の世代が存在し果たすべき責任が継続すること自体に基礎を置いて考える。
気候変動、そしてAIによるシンギュラリティなど科学や技術により地球や人間そのものへの変化が現実的なものとなりつつある昨今、ヨナスの哲学は重要性を増していくように思う。ただ、雑に拾うと簡単に誤解が生じやすい論理だとも思うので自分も使い方には気をつけたいが、もう少し勉強を続けて感心分野との関連で考えてみたい。 -
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哲学的に考える事は容易ではない。しかし、原子力を考える事は、科学を超えた思考が必要であり哲学的でもあると、うっすら思っていた。戸谷氏の事を100分で名著のヤスパースで知り、本書に辿り着いた事に感謝。いや、これが必然で偶然ということか。原子力の捉え方に一条の光が見えた気がするのは気のせいか。これからも対峙していく。
第三章 想像力の拡張 ギュンター・アンダース
アンダースは、このように、人間が自ら製造するものとそれに対する人間の能力の不均衛を、「プロメテウス的落差」と呼んでいる。こうした落差のために、人間は、核兵器に対して正常な判断を下すことができなくなるのである。
もっとも、プロメテウス的落差を引き起こすのは核兵器だけではない。アンダースは原子力発電所もまた同様に人間の諸能力の不調和を引き起こすと指摘し、次のように述べている。
今日の機械を見ても、ICERN〔ヨーロッパ合同原子核研究所〕の通路が忘れられないのも、それが何も語っていなかったからだー、それを規定している力が何かはほとんど分からない。そういう事情が私たちに分からないのは、技術が非常に複雑になったために、技術に感性が追いつけなくなったからか(事実、今日の技術は「超感性的」である)、機械が眺めるに値するほどの外観を持たず、機能に合うようにしか作られておらず、いわばついでに偶然「そう見える」にすぎないからである。たとえば原子力発電所は(意図的に世間の目から隠されているのではなくても)「何であるか」が分からないような外観を備えでいる。それは、煙突つきのモスクのように見える。そして少なくとも(これもその裏の事情の一部だが)それが何を成し遂げ、何事を引き起こすか、それがどういう法外な機能を秘めているか、どういう恐ろしい危険を隠しているかを示さない。原子力発電所関係者がいつも宣伝パンフレットに牧歌的な建物の写真をつけて、いかに安全であるかを「証明」しようとするのはけっして偶然のことではない。
言うまでもなく、原子力発竜所が事故を起こせば大きな破局が起きる。その発電所が置かれていた地域が丸ごと廃墟になり、土地と結びついた人々の生活は根絶される。その脅威を低く見積もることなどけっしてできない。そうであるにもかかわらず原子力発電所は、その外観だけに注目する限り、まるで「煙突つきのモスク」のような、何の変哲もないものに見えてしまう。ここにもやはりプロメテウス的落差が作動しているのである。そしてそれは、原子力発電所に対する相応しい危機意識を希薄化させ、結果的に事故のリスクを高めてしまうのだ。
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ゼミで幾度となく聞いた「ハンナ・アーレント」
教授からきく彼女の「公共性」の話はずっと心にあって、また映画で彼女の一生をみて、その逞しさに憧れた。
「人間の条件」は、読んだことがなく、また話を聞いても「???」だったので入門書から!
めちゃくちゃ読みやすくて、!これまで分かりたくても分からなかった政治思想家たちの話、このくらい薄っぺらい入門書なら読める気がする。。。
「人間の条件」の内容について、
人間の活動、その視点から分ける?みたいなのがあって面白い。労働について考える学者の礎になるのも頷ける(気がする)。
あとアレントの定義する「労働」はアレントからかなり悪く評価されており、それはナチスの時代を生き抜いたアレントだからこその、人々が画一化されることへの強い危機感なんだろうなと思う。
戦争とかの悲しいニュースを見かけると、「アレント生き返ってほしいー。アレントみたいな人現代にいないのかなあ」とめっちゃ思う。
彼女のような人がいてくれたら世界がギリギリで救われる気がするなと思いつつ、そういう英雄的な存在を願っている時こそ、独裁政治が成立しやすい状況なんだろうなあとも。 -
Posted by ブクログ
「論破」といえば、やはりひろゆき氏。
本書では、この人の論のスタイルにしばしば批判的に言及する。
しかし、本書は単にひろゆき氏をモンスター扱いせず、彼のような存在がなぜ社会で喝采を浴びるのかから分析する。
本書の論旨は「おわりに」にまとめられている。
こういうところは、お若い研究者らしい、読者にやさしい配慮でうれしい。
4章までの前半は、おおざっぱに言ってしまえば背景としてのポストモダニズム。
権威が失われ、あらゆる価値が流動化して、社会の共通基盤が失われる。
ポスト・トゥルースの話も出てくるが、「真実」の価値も顧みられなくなる。
人々は「集団分極化」(キャス・サンスティーンによる概念)し、自分の関わる集団で共有される情報にしか価値を見出ださなくなる。
そんな中、自分をうまくコンテンツ化する技術をもった人がもてはやされ、過激な言説が支持される状況になる…。
…という話は、割とよく聞く話。
本書は、このような状況を変えるための提言を行う。
ひとつは単純な自己言語化ではなく、ゆらぐ自己を言語化することで、新しい思考を生み出す可能性を残すこと。
それから「社交」である。
正直、びっくりした。
「社交」という言葉が、自分の生活ではまず生きた語彙として認識されることはない。
せいぜい性格を形容する際、「社交的な」を使うくらいか。
「社交界」なんて、実感をもった言葉ではない。
で、どうして「社交」か。
市民的公共性(ハーバーマスのトピック)が資本主義の発展の中で崩壊する。
議論はそうした流れの中で商業化され、ショーアップされたものとなる(ひろゆき氏はそういう場にいる)。
「社交」は、全ての人に開かれ、対話によって議論をする場を育むために、必要なのだという。
できるのかなあ、と、どうしてもペシミスティックになってしまう自分にとっては、こういう態度だけで十分価値があると感じる。
一つ、自分の中でひっかかりを覚える内容があった。
集団分極化したメディアの中での暴力的コンテンツの分析のあたり。
過激な表現の方がインプレッションを稼げるために、より好まれるというところはわかるのだが。
見ている側は暴力をふるう側に同一化する、と戸谷さんは言っていたが、そういう人は多いのだろうか?
私なぞ、どちらかというと暴力を振るわれている側に意識が行ってしまう。
痛々しくて見ていられなくなるのだが…。