【感想・ネタバレ】生きることは頼ること 「自己責任」から「弱い責任」へのレビュー

あらすじ

助けを求めることは、「無責任」ではない!

気鋭の哲学者が、日本社会に跋扈する「自己責任」という名の怪物を退治し、
新たな「責任」の哲学を立ち上げる。

頼ることが、後ろめたくない社会へ!

新自由主義を下支えする思想として、日本に導入された「自己責任」論。
しかし、これは人々を分断し、孤立させる。
誰かに責任を押し付けるのではなく、
別の誰かに頼ったり、引き継いだりすることで、
責任が全うされる社会へ。

ハンス・ヨナス、エヴァ・フェダー・キテイ、ジュディス・バトラー、
3人の独創的な哲学者を手がかりに、
「利他」の礎となる、
「弱い責任」の理論を構築する!

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Posted by ブクログ

哲学・倫理学が専門である戸谷洋志さんの著書。戸谷さんは、2015年に第31回暁鳥敏賞を受賞されています。
本著を通じて、「人を頼る」という行為についての疑問を解きほぐすことができました。社会福祉にも親和性がある一冊です。

本著は人を頼るということについて、「責任」という観点から分析しています。
SOSを出していいんだけど、でも出せない」。多くの人は、困っていることを言えないことに困っていると思います。

なぜ、SOSを出せないか。それは、他者を頼りづらくする自己責任の風土があるからとあり、
目から鱗だったのは、戸谷さんは自己責任論における責任を『強い責任』と定義し

「強い責任は、むしろ責任を引き受けた人を壊してしまうことになりかねない」

と述べていることです。
責任感が社会を保っていると思い(込まされていた)続けていたので、この考え方には興味をそそられます。
責任の在り方を工夫することで、社会福祉においては当事者、そして関わりに悩んでいた支援者も救われる社会が作れるのではないかと、重要な視点を知ることができました。

福祉業界では、どこか「本人を育てるために、あえて手を差し伸べない」ということが、環境や状況、本人のことを考慮せずあらゆる場面で正しいとしているような思考不足があるように感じています。「SOSを出す力をつけてほしい」という支援者の突き放した関りや、社会性を強制する関りによって、たとえば本人の病状を悪化させる要因になってしまうことは、あってはならないことです。
ただ、こうした支援手法がいかなる場合でも有害無益とは限らず、一部でうまくいってしまうことが、支援者が自身の行いを失敗と捉えることができない要因になっていると思います。当事者に寄り添えない人でも、対人支援はできるんです。一部の成功事例の陰に、こうした支援手法に被害を受けている人がいることは問題です。さながら『支援という名の暴力』です(精神科医-斎藤環さんの言葉)。

共生社会を推進することが日本社会の一つの方向性ですが、現場で推進を図る主体が、例えば「人を頼る」ということについて、深く検討することができていないかもしれません。

社会を良くするための根本的な課題を見出し、思索したいという気持ちの芽生えを満たすことができ、社会が目指すべき確かな将来の材料となる書物は、価値があると感じます。
おすすめです。

1
2025年09月07日

Posted by ブクログ

自己責任という言葉の構造や浸透の経緯を確認し、ハンス・ヨナスの哲学から「誰が責任を取るのか」よりもむしろ「誰に対する責任があるのか」へと責任の捉え方をリフレーミングし、キテイの議論からケアの倫理に参照しつつ社会における相互依存のあり方を検討し、バトラーでまとめて自己責任論につながる「強い責任」に対する「弱い責任」のあり方を論じる。
関連するテーマの中でも自分が考えていたこと、考えたかったことにに近い話がバンバン出てきて最高だった。
参照されていたヨナス、キテイ、バトラーも読んでみたいなと思ったし、戸谷さんの他の著作も読んでみたい

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2025年09月17日

Posted by ブクログ

ネタバレ

自己責任の問題点を様々な考えから指摘した本である。コールバーグとギリガンの道徳性の発達の違いを指摘しているので、生成AIの問題点の指摘にあうかもしれない。
 教育の自己責任の問題点も指摘しているので、教員養成系大学の学生にも役立つであろう。

0
2025年04月22日

Posted by ブクログ

ネタバレ

■概要
「責任」という言葉に厚みを持たせる本。

■問いかけ
通勤途中、駅のホームで泣いている子ども。あなたはどうする?
①その子の親を自分が探す(自己責任で責任を果たす。見つからない場合は②へ)
②放っておく(自己責任で責任を果たさない。ちょっと後味わるいなら③へ)
③駅員を探す(弱い責任を果たす。これができると嬉しいと思う方は、本書を手に取ってくれ)

■感想
2025/02/09現在時点、「ケガしたのはそいつの自己責任でしょ」「家族を養うのはハードモードだから結婚しない」「責任を持って育てられないなら子どもなんか生むな」という言葉を、Youtubeのコメント欄やXのポストで私はよく見かける。
こういった責任を「強い責任」と呼び、「強い責任」は排他性を含む危険性を持つと紹介される。自分が責任を果たせそうにないなら一切関わらないという選択を取りがちだと思った。
本書では「弱い責任」という概念を導入し、責任を果たすことと人を頼ることが矛盾しない考え方を提案する。

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2025年02月09日

Posted by ブクログ

ネタバレ

ずっと責任ということばが嫌いだった。連帯責任も嫌い。その理由がわかった。誰が責任を取るかというイメージしかなかったからだと思う。まず考えるべきは、誰に対して責任を取らなければいけないのかということ。大学生の頃から自己責任論に興味があって、それに関する本を少しずつ読んできたけど、なんだか初めて救われた気がした。この視点が大事だと思うし、こう考えられる大人でありたい。
依存労働というワード、初めて知った。自分の母に対して思っていたことだった。家庭に入っている人は、一度は思ったことがあるんじゃないかと思う。子どもと親の愛着関係に関しても興味があるけど、依存労働はこのあたりとも関わっていそうだと思った。キテイの理論にちまちま触れてみたい。
とにかく気になったのは、理論的には理解できるのだけど、じゃあ実際今ってどうなんだろうということ。日本の社会保障ってどうなってるんだろう。ネットでは、さまざまな立場から政府への不満が叫ばれていて、じゃあダメなのか…と短絡的に捉えていたけど、まずは事実を知ることが先かもしれない。今後調べてみる。
筆者のいうような助け合える世界にしたい。でも同時に、それってファンタジーなんじゃないかと思ってしまった。みんなが理想とするけど、実際にはありえない世界。そんなことない、実現できると信じたい。今日感じた絶望は忘れずに、でも諦めないで自分ができることを一つずつしていく。

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2025年02月02日

Posted by ブクログ

無駄なことばがない。美しいと思って読んでしまった。固く書かれているように見えるが、とても噛み砕いていており哲学を知らない人にも読める。(それでもわからないところはあったが、それは私の理解が不足しているからであろう)「責任」について哲学的思考をめぐらすことができて楽しい時間でした。年齢が近いのにここまで深いことを考えることができるものかと、自分を反省した。

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2025年01月11日

Posted by ブクログ

哲学書だった。
タイトルから、現代の「自己責任」の風潮に抗うものであることは当然想像できたが、
そのアプローチが哲学からくるとは予想外だった。
哲学者の言葉が次々出てくる。
ハンナ・アーレント、中動態の國分功一郎、ハンス・ヨナス、エヴァ・フェダー・キティ。。

テーマもナチ、中動態、「駅で一人泣く子供に遭遇したら」等々、わかりやすい。
哀悼可能性、、は難しい。あいとう、、

結論はそのまま引用しよう

弱い責任とは、自分自身も傷つきやすさを抱えた「弱い」住大河、
連帯しながら、他社の傷つきやすさを想像し、それらを気遣うことである。
そうした責任を果たすために、私たちは誰かを、何かを頼らざるを得ない。
責任を果たすことと、頼ることは、完全に両立

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2024年12月27日

Posted by ブクログ

責任ってなんだろう。
自由意思とセットで考えるべきものなんだろうか。

東京電力福島原子力発電所事故なんかだと、一体何処にその責任というものはあるのだろう。

一人の人間に負わせることが、適当なのだろうか。
組織?構成員にグラデーションをつけて負わせる?
規制していた組織には責任はないの?
設置や稼働に対して理解を示していた地元には責任はないの?
地元に発電所があることで、生計が立っていた人には…

加えて、その「責任」は誰に対して果たされるべきなの?
経済性を犠牲にしてまで、高台に原子炉を設置していたことで、数百年に一度の災害にも関わらず被害にあわずに済んだのに、言葉にならない迷惑を被った東北電力さん?
他電力のみなさん?
羹に懲りて膾を吹くが如き規制、バックフィットという法治国家にあってはならない規制で、途方もない経済的負担を負った国民?
じゃあその規制を是認した政治や行政は、誰が支持してその力を持ってるの…


そもそも、大体、自由意思って存在するのか。
受精卵から始まった人というものに、そんなものを本当に想定することはできるんだろうか。
考えても分からないことだらけで、あまり突き詰めてこなかった。

でも気になって、この本を手に取った。

筆者は、「弱い責任」という言葉で、いわゆる責任といわれるものを、他の概念に広げようとしているように感じた。

端的に言えば「愛」のことを「弱い責任」と言っているのではないだろうか。
少し言葉を柔らかくすると「関心」とか。

他者に依存する存在として発生して、依存する存在として終わる人間に、昨今使用されている意味では、自由意志も存在しなければ、責任も負えるものではない。

と言っているなら、よく聞く哲学の一つの命題でしかない。

そこに、「愛」を持ち込んだのかなぁ。
分かるようで、分からない。少しズレた話のような気もするけど、考えさせられる、よい本でした。

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2024年12月25日

Posted by ブクログ

現代哲学を非常に実学として使った本。新自由主義を正当化する理論として使われる自己責任論。そこから導き出される個人主義、差別、思考停止の全体主義化。まさに、欧米の右傾化や日本の自己責任論に潜む危うさをわかりやすく、日々の思考にも活用できるレベルで説明してくれている。

シンプルに 責任とは誰が負うべきかでなく、誰に対して何に対して負うべきかといえるもので、対象に目線を移さねばならない というメッセージは響く。

自分もヒヤリとすることがあり、また辟易とさせられる政治や経団連、組織の論理などにも当てはまる。

この本を読むかどうかは 終わりに を読んでみて、より深く知りたいと思うかで決められると良いだろう。

そしてここでも中動態。このテーマで責任を述べた國分巧一郎さんはまさに引用される数半端ないな。

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2024年11月10日

Posted by ブクログ

ネタバレ

※何度もアプリが落ち、書きかけの感想が消えてしまった。TAKE3でようやく、別のメモに書き溜めてから投稿するように変更した。(かなり熱く語っていたのだが、だいぶクールダウンした感想になってしまった)

強い責任と弱い責任を対比し、責任とは誰がとるものなのか?という話は一瞬で終わり、そもそも能動的と受動的だけでは語れないというところから國分功一郎さんの中動態の概念を引用し、前半の強い責任パートが終わる。

後半の弱い責任パートから、面白く一気に読んだ。(と言いつつ、ところどころ、ページを閉じて連想したくなる場面もあった)

第4章の傷つきやすさへの責任では、勝手な誤読連想として、亡き父を思い出した。
自分が小学生の時、母方の祖母がなくなったことを知らされ、号泣するわたしを、普段は自由人で子どもっぽい行動の目立つ父が強く抱きしめてくれた感覚を思い出した。
自分より、支えなければならない存在を前に、守ろうと動いた故の行動だったのだと思う。
大人になった自分も、守るべき人や、助けを必要とする人の存在に気づいたら、安心させてあげられるよう行動したいと思っている。これは、贈与のようなものなのだと思う。助けられたことのある人、或いは、助ける行為をみてその美しさに賛同したことのある人がリレーのような形で広がる文化なのだと。

第6章では、哀悼可能性というキーワードが出てきた。
この概念はとてもわかりやすく、ささった。
一方で、自分が普段から「リスペクト」という言葉で語っているものと近しいとも思った。
また、「父権主義」の話で感じたのは、「マウンティング」である。

今回の本での「頼る」について、読み始めは、子どもを持つ親、中でもシングルマザーや複数の子どもを育てるワーキングマザーを想像しながら読んでいた。
1人で背負わせてはいけない、社会で支えていこう、と。

その文脈は大いにあるが、父権主義の文脈あたりでは、所謂マウンティングやハラスメント被害に合いやすい立場について想像させられた。
要は、「自己防衛」が「相手を傷つけていい存在」とみなす理由となるのであれば、広義では戦争はなくならないし、狭義では後輩いびりや足の引っ張り合い等も起こり続けるのでは、ということである。
そして、悲しいことに、「自己防衛」自体が人間の本能的な欲求ながら、その感情を整理して、あらゆるものに対して「哀悼可能性」を持つことは、簡単ではないだろう。
この本が、届いて欲しい人にこそ、届くに時間がかかるかもしれない。(救われる必要のある人が手に取る方が多いかもしれない)

とはいえ、人の行動や思考、思想を変えていくのは、ひとりひとりの行動であると思うので、自分が自分の周りからでも、助けの必要な人に気づいて、話しかけていくことを続けていく。
その贈与で、伝播していくことを祈るばかり。

最後に、
第2章で引用されていた、ハンナ•アレントの「自分と語り合うよりも前にまず友と語り合って話題となっていることを吟味するのであり、その後で、他人とだけでなく自分自身とも対話をすることができるのだ」
の部分がとても気に入っている。

友と語り合うことで視野が広がるだけでなく、どのように問いをつくって深めていくかも学べる(学び合える)ということである。
そして、友とセッションのように新たな視点を見つけられたように、自分で自分の声を探しにいけるようになるのかもしれない。

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2024年09月22日

Posted by ブクログ

自己責任の名のもと「誰に」責任があるのかを探すのではなく、「誰に対して」責任があるのかを見つめること。弱い存在に対し、複数人で責任を持ち合うことが持続可能性があるということ。責任を在処を探して押し付けあう世界にウンザリしていたので、すごくロジカルにそれを批判するこの本にうんうんと頷いた。

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2025年05月01日

Posted by ブクログ

☆☆☆2025年3月☆☆☆

『生きることは頼ること』―このタイトルに惹かれて手に取った。誰かに迷惑をかけることは悪徳であり、他人を頼るのは恥ずべき事、すべては自己責任でという風潮は根強い。その事に違和感を感じているところで出会った本書は実に参考になる部分が多かった。

本書では「強い責任」「弱い責任」「守られるべき他者に対する責任」「能動的責任」「受動的責任」「中道的責任」など、様々に責任が定義されており、それぞれに興味深いが、僕がまず重視したいのは「強い責任」=「自己責任」だ。

「自己責任」という響きからは、何となく自分でしっかり責任をもって・・・というニュアンスが感じられるが、「自己責任、自己責任」と世の中が言い始めると、他人に対して「お前の自己責任だろ」と、誰かに責任を押し付けるための言葉として動き出す。2004年のイラク日本人人質事件では、政府や社会の責任を回避するため、人質となった人を「自己責任」といって切り捨てるような風潮が現れた。このような状況は現在も続いており、精神科医の片田氏の著作より「一億総他責社会」である、と論じる。

一方で「弱い責任」論によれば、なんでも自己責任で片づける、というのは逆に無責任だと論じる。例えば親一人、子一人の家庭で心身ともに疲弊しているときに、「自己責任」だからとすべてを一人で片づけようとするのは結果として子供のためにならず、無責任だと論じる。僕はこの論に賛成だ。

「生きることは頼ること」
というタイトルは正にこの本にふさわしい。「自己責任」と困っている人、他人を切り捨てる風潮に一石を投じる内容だと思う。

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2025年03月12日

Posted by ブクログ

自己責任と言う言葉に対する違和感がもやもやとあったのですが、もやもやの正体は自己責任と言う言葉が、『それは私の責任です』と言う文脈ではなく、『それはお前の責任だろう』と言う文脈で使われているからと言う事が分かりました。

政府が国民に自己責任を言う時には政府が国民に対する責任を放棄しているのでは?と言う考えは、自分が家族や友人や同僚に対して無責任にならないための意味でも忘れずにいたい考えです。

筆者の言う弱い責任や人々の連帯など、頭では何となく分かりますが、常にその考えでいられるかと言われると自信がありません。

赤の他人同士で連帯するべきと言われても、やっぱり損得勘定が働いてしまいますし、家族や友人や同僚と言った手の届く範囲の人が、困っていたら出来る範囲で助けてあげて、自分がしてもらって嬉しいことはしてあげて、自分が嫌な事はしない、くらいではダメでしょうか。

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2025年01月31日

Posted by ブクログ

久々に良い本に出会えた。
元から気になっていた著者の本だが。
ここから著書の中の話とは違い、私の考えだが。
自己責任という言葉は、随分勝手な言い訳の様に感じる。
財源、特に社会保障費には限りがある。
社会とは、生きている全ての人たちが対象となる。
障害があるから、高齢者だから、貧困だから、等々、
かしら生活に支障を来たしている人たちの為の費用でもなく、本来なら日本に住んでいる人全ての人への生活を保障すべき費用。
サッチャーは、全ての人に回す為公正な支給を目指しただけ、
日本の場合は、強者が弱者の生活に目を向けることもせず、自らの仕事を放棄して支給を制限したいが為に、自己責任という便利な言葉で逃げているとしか思えないのだ。
自己責任という言葉は便利な言葉だが、社会保障費を制限したがる日本国政府には守らなければならない国民との約束を放棄しようとすることと同じことだと気付かない。
日本国憲法第25条には、すべての国民は、健康で文化的な最適度の生活を送る権利を有する、と書かれているが、日本国政府はそのお約束を守れているのだろうか?
守っているならば、国民に対して自己責任を問うても良い、
しかし、大学生の一部には三食食事が摂れず一食しか食べれない人がいたり、
病気で働けないため、生活保護を申請しに行っても申請する権利はあるのに、申請すらさせず餓死させたり、私が知っているだけでも2件はある。
これで国は、義務を果たしているというのか?
それなのに、軽々しく自己責任を問う。

安倍が暗殺された時も、日本は民主主義国家、法治国家とマスコミは言うが、約90%の人が女性天皇、また女系天皇容認しているのに民意を無視する。
それでも民主主義国家か?
民主主義という概念、定義を政府は知らないのか、知っていて放置なのか?
法治国家ではなくただの放置国家、
民主主義国家という概念を知らしめるため、血を流させないと政府は分からないのか?
今感じるのは、国民支払い者に一切財源を使わせないで自分たちだけ。

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2024年12月23日

Posted by ブクログ

新自由主義に代表される自己責任論に基づく責任を「強い責任」と定義し、その対比の概念として「弱い責任」を提唱していく。
他人に迷惑をかけてはいけない。誰にも頼らず自立すること。
私たちはこのように教わってきたし、日本では現在もその考えが広く社会にいきわたっている。
しかし、本当に誰にも頼らず自立している人など一人もいない。
だから「弱い責任」で責任を押し付けるのではなく、頼ったり引き継いだりしていこうというのが、本書の主張。

たとえば、農家がいなければ、流通してくれる人がいなければ、どんなにお金持ちでもお米を食べられない。
お金があれば何でもやってもらえるという考えは、「自立の勘違い」を生む。
たくさんお金があれば自立している、ということではない。お金は誰かを頼った時に「これ(お金)を使って、あなたも誰かを頼ってください」としてつかう道具、なのだから。

「強い責任」が自己責任を果たしてこそ人間としての存在価値が認められるという考えに基づくのに対し、「弱い責任」の前提には、誰もが弱い存在であり、責任を分かち合って生きているという思想がある。

本文にドキッとする文章があった。
”自立性こそが人間の条件とみなされるとき、誰かに依存し、誰かに依存されている人の存在は、社会から覆い隠され、あたかもそんな人はそんな人は存在しないかのように扱われてしまう。そうした状況が、ケアに追われることでボロボロになったひとを、さらに追い詰めることになる。”
ケアを必要としている人だけでなく、ケアをしている人の存在まで覆い隠されてしまう。これは今の日本で本当に起きている問題かもしれない。
介護や認知症の話は、テレビの中、もしくは家族の中、専門職の中だけに存在し、それ以外の現実社会には存在しないことになっているのではないか。
自己責任という名の大いなる無関心が、社会からケアする人、ケアされる人を排除している可能性を感じた。

だれもが誰かの助けを必要とし、誰もが誰かの助けになるという考え方を説明するのに「弱い責任」論は大いに役立つと思うので、さらに理解を深めていきたい。

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2024年11月28日

Posted by ブクログ

アーレントの見捨てられると思考能力を失ってしまう話からの展開とヨハスの責任の代理可能性が印象に残った。弱いことが未来の可能性を開くものだと感じれた。

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2024年10月27日

Posted by ブクログ

「ケアの倫理」に関してキティに関する言及があり、一読してみた。「自己責任論」への言及より、その背景に「強い責任」があり、それに対置するものとして「弱い責任」について説明するために、中動態、キティ、おそらく著者の専門であるヨナス、そしてバトラーを用いて説明。最後に著者がまとめているが、「弱い責任とは、自分自身も傷つきやすさを抱えた『弱い』主体が、連帯しながら、他者の傷付きやすさを想像し、それを気遣うことである。そうした責任を果たすために、私たちは誰かを、何かを頼らざるをえない。責任を果たすことと、多雨よることは、完全に両立する」。若い哲学者で具体例も分かりやすい。今後の著者の活躍に期待したい。

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2024年10月10日

Posted by ブクログ

ネタバレ

助けを求めることは「無責任」ではない。
新自由主義を下支えする思想として日本に導入された「自己責任論」。しかしこれは人々を分断し、孤立させる。
誰かに責任を押し付けるのではなく、別の誰かに頼ったり、引き継いだりすることで責任が全うされる社会へ。
「利他」の礎となる「弱い責任」の理論を構築する。

国民は経済システムを成り立たせるための手段として、自己責任を課せられている
・そもそも自己責任という概念が、他者への責任転嫁を含意している
・能動態、受動態、中動態
・たとえ中動態になされた行為であっても、それをあとから能動的な行為として事後的に修正してしまう(意思の事後遡及的成立)
・責任とは「傷つきやすい他者」への気遣いであり、憂慮である。
・自分の利害関係を超えて愛しているわけでもない他者に対して、それでもその他者を守らなければならないと思えるときにこそ、人間は自らの自由を発揮している
・哀悼可能性の認知は常に差別におちいる可能性を有している。あるとき、ある条件が重なると「この人は傷ついても仕方がない」と思う。しかしそれは差別であり、不正であり、暴力なのだ
・弱い責任における「保証」と「信頼」の実践

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2024年09月28日

Posted by ブクログ

講談社ポットキャストから書籍情報を入手。
普段何気なく使ってしまう「自己責任」という言葉が持つ暴力性について考えるきっかけとなった。
中動態に関する章は些か専門性が高く、少々異質な感覚はあるものの、全体として非常にまとまりのある内容。

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2024年09月23日

Posted by ブクログ

私には難しい内容でしたが、とても勉強になりました。

強い責任には、自己責任論があり、社会構造や生きづらい理由を知ることができました。
必要なとき気軽に頼ることのできる社会を目指したいと思います。

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2024年09月15日

Posted by ブクログ

「自己責任」という言葉を聞くたびにある種の違和感を感じ続けているので、その違和感の正体を明かすために手に取った1冊。
きっかけは毎日新聞の記事。
「自己責任論」の歴史はよくわかったし、世の中に自己責任が跋扈してはいけないことも理解できた。
ただ、それをどう実現化していくのか…
哲学にはやはり限界があるんやろなとしみじみ…

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2024年12月08日

Posted by ブクログ

“弱い責任とは、自分自身も傷つきやすさを抱えた「弱い」主体が、連帯しながら、他者の傷つきやすさを想像し、それを気遣うことである。そうした責任を果たすために、私たちは誰かを、何かを頼らざるをえない。責任を果たすことと、頼ることは、完全に両立する”

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2024年11月22日

Posted by ブクログ

本書の要点をまとめれば「弱い主体が連帯し、他者を気遣うこと」となる。

新自由主義が蔓延し、人々の心の中までつかんでしまった現代において、そしてその集大成ともいえるトランプ復権が現実になってしまった時代にあって、強さとか責任という高所からのマジックワードを根本から見つめ直さないといけない。そのためには本書が重要な手掛かりになる。

「強い責任」が称揚される社会とは、ナチスドイツにみられるように、実はシステムに好都合で、実は無責任で無思考な、危ない社会だ。だから「弱い責任」へと目を向けるべきだ。

それは、目の前の傷つきやすい他者に対して、守る力を持つ者が引き受ける気遣い(ヨナスの思想)であり、ケアの主体同士の連帯である(キティの思想)。そして傷つきやすい人とは、原理的にはすべての人なのだ(バトラーの思想)。さらに、責任を果たすことと頼ることは両立する(p198)という。

締めくくりの言葉が熱い。
『どんな未来が待ち受けているのだとしても、「私」は大丈夫であり、その未来を生き抜くことができる――そう子どもたちが信じられる世界を維持することが、大人の責任である。そしてその責任は、責任の主体同士の連帯によって大人たちが互いに連携し、互いを頼り合うことによって、はじめて成立するのである。」(p201~202)

弱さとは、希望だ。実に面白い本。

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2024年11月18日

Posted by ブクログ

感想
すべて自分で抱え込まない。最初は周りに助けを求めるのは難しいかもしれない。だけど私は周りを助けている。そう思えば少しは頼りやすくなる。

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2024年08月27日

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