あらすじ
助けを求めることは、「無責任」ではない!
気鋭の哲学者が、日本社会に跋扈する「自己責任」という名の怪物を退治し、
新たな「責任」の哲学を立ち上げる。
頼ることが、後ろめたくない社会へ!
新自由主義を下支えする思想として、日本に導入された「自己責任」論。
しかし、これは人々を分断し、孤立させる。
誰かに責任を押し付けるのではなく、
別の誰かに頼ったり、引き継いだりすることで、
責任が全うされる社会へ。
ハンス・ヨナス、エヴァ・フェダー・キテイ、ジュディス・バトラー、
3人の独創的な哲学者を手がかりに、
「利他」の礎となる、
「弱い責任」の理論を構築する!
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Posted by ブクログ
自己責任の問題点を様々な考えから指摘した本である。コールバーグとギリガンの道徳性の発達の違いを指摘しているので、生成AIの問題点の指摘にあうかもしれない。
教育の自己責任の問題点も指摘しているので、教員養成系大学の学生にも役立つであろう。
Posted by ブクログ
■概要
「責任」という言葉に厚みを持たせる本。
■問いかけ
通勤途中、駅のホームで泣いている子ども。あなたはどうする?
①その子の親を自分が探す(自己責任で責任を果たす。見つからない場合は②へ)
②放っておく(自己責任で責任を果たさない。ちょっと後味わるいなら③へ)
③駅員を探す(弱い責任を果たす。これができると嬉しいと思う方は、本書を手に取ってくれ)
■感想
2025/02/09現在時点、「ケガしたのはそいつの自己責任でしょ」「家族を養うのはハードモードだから結婚しない」「責任を持って育てられないなら子どもなんか生むな」という言葉を、Youtubeのコメント欄やXのポストで私はよく見かける。
こういった責任を「強い責任」と呼び、「強い責任」は排他性を含む危険性を持つと紹介される。自分が責任を果たせそうにないなら一切関わらないという選択を取りがちだと思った。
本書では「弱い責任」という概念を導入し、責任を果たすことと人を頼ることが矛盾しない考え方を提案する。
Posted by ブクログ
ずっと責任ということばが嫌いだった。連帯責任も嫌い。その理由がわかった。誰が責任を取るかというイメージしかなかったからだと思う。まず考えるべきは、誰に対して責任を取らなければいけないのかということ。大学生の頃から自己責任論に興味があって、それに関する本を少しずつ読んできたけど、なんだか初めて救われた気がした。この視点が大事だと思うし、こう考えられる大人でありたい。
依存労働というワード、初めて知った。自分の母に対して思っていたことだった。家庭に入っている人は、一度は思ったことがあるんじゃないかと思う。子どもと親の愛着関係に関しても興味があるけど、依存労働はこのあたりとも関わっていそうだと思った。キテイの理論にちまちま触れてみたい。
とにかく気になったのは、理論的には理解できるのだけど、じゃあ実際今ってどうなんだろうということ。日本の社会保障ってどうなってるんだろう。ネットでは、さまざまな立場から政府への不満が叫ばれていて、じゃあダメなのか…と短絡的に捉えていたけど、まずは事実を知ることが先かもしれない。今後調べてみる。
筆者のいうような助け合える世界にしたい。でも同時に、それってファンタジーなんじゃないかと思ってしまった。みんなが理想とするけど、実際にはありえない世界。そんなことない、実現できると信じたい。今日感じた絶望は忘れずに、でも諦めないで自分ができることを一つずつしていく。
Posted by ブクログ
※何度もアプリが落ち、書きかけの感想が消えてしまった。TAKE3でようやく、別のメモに書き溜めてから投稿するように変更した。(かなり熱く語っていたのだが、だいぶクールダウンした感想になってしまった)
強い責任と弱い責任を対比し、責任とは誰がとるものなのか?という話は一瞬で終わり、そもそも能動的と受動的だけでは語れないというところから國分功一郎さんの中動態の概念を引用し、前半の強い責任パートが終わる。
後半の弱い責任パートから、面白く一気に読んだ。(と言いつつ、ところどころ、ページを閉じて連想したくなる場面もあった)
第4章の傷つきやすさへの責任では、勝手な誤読連想として、亡き父を思い出した。
自分が小学生の時、母方の祖母がなくなったことを知らされ、号泣するわたしを、普段は自由人で子どもっぽい行動の目立つ父が強く抱きしめてくれた感覚を思い出した。
自分より、支えなければならない存在を前に、守ろうと動いた故の行動だったのだと思う。
大人になった自分も、守るべき人や、助けを必要とする人の存在に気づいたら、安心させてあげられるよう行動したいと思っている。これは、贈与のようなものなのだと思う。助けられたことのある人、或いは、助ける行為をみてその美しさに賛同したことのある人がリレーのような形で広がる文化なのだと。
第6章では、哀悼可能性というキーワードが出てきた。
この概念はとてもわかりやすく、ささった。
一方で、自分が普段から「リスペクト」という言葉で語っているものと近しいとも思った。
また、「父権主義」の話で感じたのは、「マウンティング」である。
今回の本での「頼る」について、読み始めは、子どもを持つ親、中でもシングルマザーや複数の子どもを育てるワーキングマザーを想像しながら読んでいた。
1人で背負わせてはいけない、社会で支えていこう、と。
その文脈は大いにあるが、父権主義の文脈あたりでは、所謂マウンティングやハラスメント被害に合いやすい立場について想像させられた。
要は、「自己防衛」が「相手を傷つけていい存在」とみなす理由となるのであれば、広義では戦争はなくならないし、狭義では後輩いびりや足の引っ張り合い等も起こり続けるのでは、ということである。
そして、悲しいことに、「自己防衛」自体が人間の本能的な欲求ながら、その感情を整理して、あらゆるものに対して「哀悼可能性」を持つことは、簡単ではないだろう。
この本が、届いて欲しい人にこそ、届くに時間がかかるかもしれない。(救われる必要のある人が手に取る方が多いかもしれない)
とはいえ、人の行動や思考、思想を変えていくのは、ひとりひとりの行動であると思うので、自分が自分の周りからでも、助けの必要な人に気づいて、話しかけていくことを続けていく。
その贈与で、伝播していくことを祈るばかり。
最後に、
第2章で引用されていた、ハンナ•アレントの「自分と語り合うよりも前にまず友と語り合って話題となっていることを吟味するのであり、その後で、他人とだけでなく自分自身とも対話をすることができるのだ」
の部分がとても気に入っている。
友と語り合うことで視野が広がるだけでなく、どのように問いをつくって深めていくかも学べる(学び合える)ということである。
そして、友とセッションのように新たな視点を見つけられたように、自分で自分の声を探しにいけるようになるのかもしれない。
Posted by ブクログ
助けを求めることは「無責任」ではない。
新自由主義を下支えする思想として日本に導入された「自己責任論」。しかしこれは人々を分断し、孤立させる。
誰かに責任を押し付けるのではなく、別の誰かに頼ったり、引き継いだりすることで責任が全うされる社会へ。
「利他」の礎となる「弱い責任」の理論を構築する。
・国民は経済システムを成り立たせるための手段として、自己責任を課せられている
・そもそも自己責任という概念が、他者への責任転嫁を含意している
・能動態、受動態、中動態
・たとえ中動態になされた行為であっても、それをあとから能動的な行為として事後的に修正してしまう(意思の事後遡及的成立)
・責任とは「傷つきやすい他者」への気遣いであり、憂慮である。
・自分の利害関係を超えて愛しているわけでもない他者に対して、それでもその他者を守らなければならないと思えるときにこそ、人間は自らの自由を発揮している
・哀悼可能性の認知は常に差別におちいる可能性を有している。あるとき、ある条件が重なると「この人は傷ついても仕方がない」と思う。しかしそれは差別であり、不正であり、暴力なのだ
・弱い責任における「保証」と「信頼」の実践