あらすじ
いま、あなたの周りには、いったいいくつのスマートデバイスが存在するだろうか。もしかしたら、あなたのポケットにはスマートフォンが入っているかも知れない。あるいはあなたの腕にはスマートウォッチが巻かれているかも知れない。スマートスピーカーで音楽を聴き、スマートペンでメモを取っているかもしれない。スマートグラスをかけているあなたの家を、スマートロックが守っているかも知れない。そんなあなたはスマートシティに住んでいるかも知れない。
私たちの日常には多くのスマートなものが浸食している。私たちの生活はだんだんと、しかし確実に、全体としてスマート化し始めている。しかし、それはそうであるべきなのだろうか。そのように考えているとき、問われているのは倫理である。本書は、こうしたスマートさの倫理的な含意を考察するものである。
(中略)
もちろん、社会がスマート化することによって私たちの生活が便利になるのは事実だろう。それによって、これまで放置されてきた社会課題が解決され、人々の豊かな暮らしが実現されるのなら、それは歓迎されるべきことだ。まずこの点を強調しておこう。しかし、このようにスマートさに内在的な倫理的価値を認めることは、いささか性急であるようにも思える。なぜならそのとき、スマートさがもたらしうるネガティブな側面が覆い隠されてしまうからである。
……スマートさがそれ自体で望ましいものであるとは限らないのではないか。むしろ、スマートさによってもたらされる不都合な事態、回避されるべき事態、一言で表現するなら、「悪」もまた存在しうるのではないか。そうした悪を覆い隠し、社会全体をスマート化することは、実際にはとても危険なことなのではないか。超スマート社会は本当に人間にとって望ましい世界なのか。その世界は、本当に、人間に対して牙を剥かないのだろうか。
そうした、スマートさが抱えうるネガティブな側面について、つまり「スマートな悪」について分析することが、本書のテーマだ。
(中略)
……本書は一つの「技術の哲学」として議論されることになる。技術の哲学は二〇世紀の半ばから論じられるようになった現代思想の一つの潮流である。本書は、マルティン・ハイデガー、ハンナ・アーレント、ギュンター・アンダース、イヴァン・イリイチなどの思想を手がかりにしながらも、これまで主題的に論じられてこなかった「スマートさ」という概念にこれらを応用することで、日本における技術の哲学の議論に新しい論点を導入したいと考えている。(「はじめに」より)
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Posted by ブクログ
良心を今自分が生きるシステム(社会)へ自動最適化してしまうこと(それも「無意識」に)。そして、その問題がとても可視化しづらいこと。そのことを忘れないで、自分という人間が背負う責任から逃れないで生きるために、どうすればいいのか。
現時点での私の答えは、こうだ。
今の地点(システム)に自分が存在しているという事実を意識しながらも、別の地点(システム)も、勿論この世界には存在し得ること、そしてそれは今自分がいる地点と代替可能な地点ではなく、同時に存在し得る地点であり、そこに自分が足を踏み入れることは自分自身が身軽(自分がいる地点にポジティブな意味合いで懐疑的)であり続ける限り、いつでも可能であることを思考の中枢に据えておく。その為にも、自分(人間)の良心の見事なまでの脆さ、危うさに自覚的に、自信を持たずにいることが必要である。
本書にて取り上げられていたナチスの大量虐殺について、恥ずかしいほどに知識が不足しているので、まずはそこから学び直そう、と思っている。
その後、自分の考えも洗練されていくと思う。
Posted by ブクログ
スマートであることに関して、メリットばかりが語られているが、最適化の中で削り落とされるものは多い。
一般的には、ノイズとして例えられているが、実世界は、容量を削減するためのノイズ除去のように、機械的であってはならない部分が多い。
全ての仕組みを網羅的に知る必要はない。
しかしながら、今この手で操作しているスマホの、画面の奥のバックグラウンドでどのような処理がなされているのか。
私たちは時として、ただ1人のユーザーから、俯瞰してみるようになければならないこともある。
Posted by ブクログ
最適化されたシステムが生み出す暴力について論じられた書。そこに無意識に加担することで、我々も明確に加害者になりうる。
それを回避するために、外部との橋渡しをする何か(ガジェット)が重要になってくる。
Posted by ブクログ
スマートなデバイス、サービスが生み出すスマートなシステム、スマートな社会。スマートさがもたらす悪の可能性を探求する本。
そこで登場するのが、アイヒマンというわけで、アーレントの議論を軸にしながら展開していく哲学的な技術・社会論、という感じかな?
一つひとつのスマートなサービスは、便利で、使い始めるとそれなしには生きていけないのだが、全体して、それが人の幸福、社会の幸福につながっているのかは心配な気持ちになる。
著者は、スマートの語源にある痛みといったところを確認しつつ、スマートが目指す一人一人への最適化という概念をロジスティックスの問題と関連づける。で、ロジといえばということで、ユダヤ人の強制収容所への移送のロジスティックスの専門家としてアイヒマンがでてきて、アーレントやアンダースの議論が紹介されるという流れ。
では、人々が全体がわからないうちにシステムの歯車になってしまうスマートな悪から逃れようとしても、人間はシステムの外にでることはできない。外に出たつもりが、他のシステムに移る、絡め取られるだけである、というのもそうだろうなと思う。
そういう八方塞がりのなかで、著者は、自分のいるシステムがすべてと思って、違う可能性を考えなくなることをさけるという観点で、ガジェットという概念をもちだす。
ガジェットは、もともとの用途とは違う形で、使う器具のようなもので、つまり、あるシステムと違うシステムをつなぐような技術、人の生き方の比喩である。
この先の議論がもう少し具体的に展開してほしかった気はするが、比喩としてはなかなか面白いかな。(あとがきで、「ずっと真夜中でいいのに。」というバンドの話しがでてくるが。)
ちなみに、アーレンとのいわゆるアイヒマン論争を通じた議論で、アーレントは、「普通の人」がナティスを支持したということを前提としつつ、「凡庸な悪」はそれとはちょっと違う種類の悪の性質を論じているみたいで、著者の「だれでも悪のシステムに加担する可能性がある」という議論とは微妙に違う気はするが、アーレントの議論も結局のところ「考えないこと」に収束していくので、その意味では、著者の議論は、アーレント理解としても適切なものかと思った。
Posted by ブクログ
「スマート」という言葉は非常に聞こえの良い言葉であるが、本書では主にネガティブな側面に注目している。テクノロジーの発達により生活は最適化され「スマートな社会」へ進歩すると考えられているが、一方で最適化が悪への加担を引き起こしうるということを認識しなければならない。最適化には暴力性を孕んでいることを本書では「スマートな悪」と呼んでいる。
「スマートな悪」が暴走したらどうなるのか?ここではナチズムとアイヒマンを事例に出しながらその末路を論じている。まさに全体主義は最適化の負の側面であり、アーレントやアンダースによる全体主義の起源の考察は現代においても、とりわけ超スマート社会化おいては通ずる点が少なくない。
歴史的な出来事から日常的な事象と幅広い具体例を交えながら、「スマートな悪」が持つ危険性が分かりやすく説明されており、テクノロジーの発達に対する危機感、さらには日本政府が提唱する「Society 5.0」への警鐘として示唆に富む良書だった。
Posted by ブクログ
スマートな悪
voicy 荒木博行のbook cafeでマスターが熱弁していたので読みました。
私もかつてはsociety5.0の中にいて、スマートな未来を作ろうとしていましたが、それが本当に善なのかはあまり疑わなかったですね。
インフラコストを下げるのは疑うことのない善だった。
スマートになることによる世界への不感症、システムに組み込まれる人、そしてアイヒマンへ。
選択肢が多いとつかれる。楽な方へ流れてしまう自然人としての力学を理解して、複数に所属すること、いつでも変われる自分でいることが大事だと思わせてくれる本でした。
人はシステムの中でしか生きていけない