戸谷洋志のレビュー一覧
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哲学書だった。
タイトルから、現代の「自己責任」の風潮に抗うものであることは当然想像できたが、
そのアプローチが哲学からくるとは予想外だった。
哲学者の言葉が次々出てくる。
ハンナ・アーレント、中動態の國分功一郎、ハンス・ヨナス、エヴァ・フェダー・キティ。。
テーマもナチ、中動態、「駅で一人泣く子供に遭遇したら」等々、わかりやすい。
哀悼可能性、、は難しい。あいとう、、
結論はそのまま引用しよう
弱い責任とは、自分自身も傷つきやすさを抱えた「弱い」住大河、
連帯しながら、他社の傷つきやすさを想像し、それらを気遣うことである。
そうした責任を果たすために、私たちは誰かを、何かを頼らざるを得 -
Posted by ブクログ
責任ってなんだろう。
自由意思とセットで考えるべきものなんだろうか。
東京電力福島原子力発電所事故なんかだと、一体何処にその責任というものはあるのだろう。
一人の人間に負わせることが、適当なのだろうか。
組織?構成員にグラデーションをつけて負わせる?
規制していた組織には責任はないの?
設置や稼働に対して理解を示していた地元には責任はないの?
地元に発電所があることで、生計が立っていた人には…
加えて、その「責任」は誰に対して果たされるべきなの?
経済性を犠牲にしてまで、高台に原子炉を設置していたことで、数百年に一度の災害にも関わらず被害にあわずに済んだのに、言葉にならない迷惑を被った東 -
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哲学の入門書を読んできた中で、最もおすすめすべき本だと思いました。
哲学とは「当たり前」を問い直すこと。そのため、すべての学問の土台となる。概念は繋がりに注目し、本来であれば概念の体型全体を考える必要があるが、混乱に陥らないように3つに分けて考えてみる。それが、存在論と認識論と価値論。
存在論は「〇〇である」本質存在と「〇〇がある」事実存在。
認識論は「どのように〇〇を知るのか」。
価値論は「なぜそのように行為すべきか」の倫理学と美しさの本質を問う美学。
倫理学の考え方の例としてベンサムの功利主義とカントの義務論。美学の考え方の例としてカントの自然美とヘーゲルの芸術美。
少ないページ数で -
Posted by ブクログ
現代哲学を非常に実学として使った本。新自由主義を正当化する理論として使われる自己責任論。そこから導き出される個人主義、差別、思考停止の全体主義化。まさに、欧米の右傾化や日本の自己責任論に潜む危うさをわかりやすく、日々の思考にも活用できるレベルで説明してくれている。
シンプルに 責任とは誰が負うべきかでなく、誰に対して何に対して負うべきかといえるもので、対象に目線を移さねばならない というメッセージは響く。
自分もヒヤリとすることがあり、また辟易とさせられる政治や経団連、組織の論理などにも当てはまる。
この本を読むかどうかは 終わりに を読んでみて、より深く知りたいと思うかで決められると良 -
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時代と共にアプローチが変わっていった、友情に対する哲学的問い。アリストテレスから始まり、マッキンタイアで締める。それは友情への捉え方がどのようにアップデートしていったか、ではなく、どのような視点が増えていったか、をポイントにしてまとめている。全体の流れがわかりやすい。
それぞれのセクションで参考とされるマンガも、理解を助けてくれる。これは著者の意図を感じるが、紹介されるマンガも、刊行順が古い→新しい作品となっている。雑に論じると、マンガの友情も時代と共に様々な視点を取り入れていった、とも言えるが、確実に言えるのは、表現の多様性は、フィクションというストーリーにて多くの人々に届けることができ -
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ネタバレ※何度もアプリが落ち、書きかけの感想が消えてしまった。TAKE3でようやく、別のメモに書き溜めてから投稿するように変更した。(かなり熱く語っていたのだが、だいぶクールダウンした感想になってしまった)
強い責任と弱い責任を対比し、責任とは誰がとるものなのか?という話は一瞬で終わり、そもそも能動的と受動的だけでは語れないというところから國分功一郎さんの中動態の概念を引用し、前半の強い責任パートが終わる。
後半の弱い責任パートから、面白く一気に読んだ。(と言いつつ、ところどころ、ページを閉じて連想したくなる場面もあった)
第4章の傷つきやすさへの責任では、勝手な誤読連想として、亡き父を思い出し -
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愛について考えたいのに普通に哲学者多すぎて何から読めばいいかわからない!ときに出会いました。助かるー
めちゃくちゃ最近の本なので(2024年)、古い本特有の読みにくさもないし、例も容易く頭に入る。
解説している哲学者の引用文(翻訳文)は全然理解できないんだけど、そのあとちゃんとわかりやすく言い直してくれるので有難きことこの上なし
前にフロムの「愛するということ」を読んで自省したりしてたけど、なんかこれは哲学者を比較するという点で、本から自分へダイレクトに矢が刺さってギク!痛い!みたいなことがなかった。愛は一体化するものだし相互的なものだと思っていたのに、レヴィナスは反対だったのでレヴィナスの入 -
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良心を今自分が生きるシステム(社会)へ自動最適化してしまうこと(それも「無意識」に)。そして、その問題がとても可視化しづらいこと。そのことを忘れないで、自分という人間が背負う責任から逃れないで生きるために、どうすればいいのか。
現時点での私の答えは、こうだ。
今の地点(システム)に自分が存在しているという事実を意識しながらも、別の地点(システム)も、勿論この世界には存在し得ること、そしてそれは今自分がいる地点と代替可能な地点ではなく、同時に存在し得る地点であり、そこに自分が足を踏み入れることは自分自身が身軽(自分がいる地点にポジティブな意味合いで懐疑的)であり続ける限り、いつでも可能である -
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友情というシングルイシューから多様な時代の哲学者を取り上げるという試みは、新書の紙幅のなかで上手く機能していると感じた。
サブカル批評に片足を突っ込む程度ではあるが、著名な漫画作品の一場面を例示することで、記憶の紐づけには役に立つ。
ここで触れられる名高い哲学者には当然、専門の研究者もおり、考証としての正しさがどこまでかは、名前こそ知ってはいても「友情」という題材にいかに取り組んでいたか(そもそも取り組んでいたかのかすら)知らない身としては正否は出しかねるが、各々の哲学者あるいは友情そのものの哲学的探求の端緒として的確に仕立て上げられているように思う。
再読。 -
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私が常には「奢られる側」でいたくなかったのは、「守られるべき対象」として見られることに対して、強烈な違和感があったからかなと思いました。主体性を返してくれよ、みたいな。
そして、常に「奢る側」として見られる人たちも、それはそれで、主体性が奪われているような…。
社会規範でもって、相手が喜びそうなことを推し量るって、本当に良くないなぁと感じます。それが、する側の勘違いやエゴであっても、された側は喜んでいるふりをしなきゃいけない気がしちゃうもの…。
人間関係において、「対等」とか「尊重」って、互いに簡単にはできない場合の方が多いのかもしれないですね。目指したいところですが。