ポール・オースターのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
『ブルックリン・フォリーズ』を読んでポール・オースターにハマり、『ガラスの街』、『幽霊たち』、『鍵のかかった部屋』とニューヨーク三部作を読んで、一作飛ばしてオースター5作目となる本作を読んだ。
ニューヨーク三部作のようなメタ的な作品ではなく、程よくエンタメしていてどちらかといえば『ブルックリン・フォリーズ』に近いが、人間ドラマには全く収まっていない。登場人物が少ない分、主人公の内面がフォーカスされ、極限的な状況と強烈な人物の洪水によって現実離れした魔術的な魅力を持った作品となっている。
物語の前半は、全てを失った天涯孤独の青年が友人や恋人など周りの人たちの力も借りながら自分のアイデンティティを取り戻していく人間ドラマなのだけれど、落ちぶれ方が極端過ぎて逆に面白い。そして天使のようなキティ・ウーに出会い、悪魔のような老人エフィングに出会う。キャラクターはいずれも魅力的でウィットとアイロニーに富んでいて読んでいて飽きさせない。そして象徴的に繰り返し出現する「月」。
後半になると物語はさらに加速し混迷を極めていく。まさに人生の不条理さが凝縮されていて、極端過ぎるほどに喜劇と悲劇が何度も何度も繰り返される。場面が変わるごとに新たな世界が描かれて、いくつもの短編小説を読んでいるようだが、全てが見事に繋がり、関係し合いながら物語に深みを与えていく展開は、読む人によって様々なテーマやメッセージを受け取ることができる。ポール・オースターが目指したのは読者によって完成される小説らしいが、まさにそうなっている。
かと言って複雑な難しい話では全くない。物語は過酷だが全体的にはとても読みやすい文章で、外で読んでると笑いを堪えるのが大変なくらい笑えるシーンも多い。難しいことは言わずにテーマも明快で、読後感は疲労感とともにスッキリとした前向きな気持ちになる稀有な小説だ。著者も本作をコメディだと評している。この作品をコメディと言うところにポール・オースターの凄みとアメリカという国の懐の深さを感じる。本書のエピグラフはジュール・ベルヌの「何ものもアメリカ人を驚かせることはできない」である。
他にも凄いと思うところはたくさんあるけれど、並べてもしょうがない気がする。何より素晴らしいのは、全体を通して物語が活き活きとしているのだ(今の自分の気分と合っているのもあるかもしれないけど)。なんだか読み終わるのが惜しいくらい好きな小説だった。登場人物全てが無様で愛おしい。そう、無様さこそ人間の魅力なのだと優しく教えてくれる。人生の残酷さに立ち向かう人間愛に満ち溢れている。
本作で五作品読んだが、読むたびにポール・オースターが好きになる。書き方も巧いなぁと思う。技術的なことは分からないけど、さらっと描いてくれる。それに多作なので他の小説もまだまだたくさんある。幸せなことだ。 -
Posted by ブクログ
読み終わった!なんじゃこりゃ。世にも奇妙な物語。整理するために感想を書く。
ポール・オースター名義の一作目『ガラスの街』に続いて二作目。
私立探偵のブルーは、ホワイトからの依頼で向かいの部屋からブラックの監視をする。ブラックは毎日本を読み、何かを書くだけの変わらない日常を続けている。それでも報告書を毎週送り続けるブルーだったが、だんだんと変化を欲する衝動と空想が拡がっていく。
またしても探偵小説風の始まり方で、前作『ガラスの街』と似たところもあるが、本作はさらに内省的で透明度も増している。前作の偏執な妄想を更に推し進めたような(まさに幽霊のような)掴みどころのない小説だった。それこそが狙いであると思う。
出版社も不安があったのか、あとがきには訳者の柴田元幸に加え、小説家の伊井直行、文芸評論家の三浦雅士の豪華三名が並んでいる。
しかし、あまり構える必要はない。難解な文章では全くない。語り口は心地よいのであまりストーリーを追おうとせずに、騙し絵を眺めるようにまずは楽しむのが正しい姿勢だと思う。ポール・オースターのユーモアは決して大きな声ではないが、耳を傾ける人を笑わせてくれる。
さて問題のストーリーだが、解釈は無限にできそうだ。オースター自身も、読者が楽しむための余白のある小説が好きだと語っている。
主人公のブルーは探偵としてブラックを見張っているうちに、自らの妄想に囚われていく。出来事は疑念を呼び、謎は晴らされることはない。更には疑念が現実を捻じ曲げるという逆転現象が起こる。
エッシャーの騙し絵に、二組のペンを持った手が、お互いを描きあっているというウロボロス的構図の絵がある。まさに本作ではブルーとブラックは循環構造となっている。
更に虚構と現実は「合わせ鏡」のように反射し合い、奥に行くにつれて像が濁り歪められ、幽霊のように朧げな存在となっていく。どちらかが去れば、どちらも居なくなる。
その歪み方の素晴らしさ。何よりもやはり文章が良い!上手いというより、味わい深い。ポール・オースターの派手さはないがドライブしながらじわじわ効いてくる文章は、好きな人は凄くハマるタイプな気がする。たまらん。
本作は前作『ガラスの街』のアイデアを更に推し進めたかなり野心的な作品で、そのうえで成功させているのは本当に素晴らしい。たまらん! -
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60歳を前に終の住処として生まれ故郷のブルックリンに帰ってきた男が偶然に行方知れずの甥に出会い、彼の人生は新たな展開を見せる。
ポール・オースターは初めて読んだが、思っていたより(良い意味で)馬鹿馬鹿しくて愉快。
しかし後半になってくると、これでもかと巻き起こる予期せぬ出来事に手が止まらず、一気に読み終えてしまった。小説はこんなこともできるのか。文章は軽快で読みやすくずっと楽しいし、重い話もありながらも温かい気持ちにさせてくれるので万人にお勧めできる名作。
群像劇でありながら終始主人公のネイサンの目線で語られるが、章で話がまとまっていて短編集のようで飽きさせない。何よりユーモアのセンスとリズムが心地よい。あとがきによると、オースターの作品のなかでも喜劇的な作品らしい。他の作品も気になる。
ゆるく書いてるように見せてるが、これだけユーモアを織り込むのは大変だったろうなと思う。幸せな読書体験でした。 -
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ニューヨークに住む若き探偵ブルーはとある人物の監視を依頼される。監視対象は毎日部屋で物を書いて過ごしている男で、いっこうに正体が判明しないのだが…という探偵小説風な始まり方をする観念的な物語。文章を書くということと書かれた文章を読むということ、あるいはシニフィアンとシニフィエ、書物・文章・作家・作品にまつわる抽象的な思索がそのままドライかつ叙情的な物語になっている。相変わらず腹が立つほど都会的でかっこいい。
ブルーがブラックを監視する様子は淡々としている一方で、合間合間にはさみこまれる思い出や、作家たちのエピソードがやたらと濃い。ホイットマンの脳みそとおまるの話やブルーと父親の思い出などがブルーとブラックの無味感想な生活にはめこまれて、宝石のように光っていた。それらが書かれた内容であり、ブルーたちは印刷された文字そのものなんだろうか。ただ、黄昏時の道端で、変装したブルーとブラックが仲良く座って語り合う場面だけは不思議と古い写真のように心に残る。ポール・オースター作品には大抵こうした強烈に視覚的な場面がある。
最後の暴力は男性小説家の手癖のように感じ、やや着いてゆけなかったが、もしかして文字や書物という死んだ物から生きた想像力を解き放つということなのか。だとするとかなりメタな物語だ。
ところでソローの『森の生活』はアメリカ人ですら挫折しやすいというのは少しホッとしたし、ブルーのつっこみも良かった。自分も正味2回くらい挫折しており、まだいちども最後まで読んだことがない。ブラックがブルーを必要とし、待っていたように、『森の生活』も我が本棚の奥で読まれるのを待っているのかもしれない。 -
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作品紹介・あらすじ
ここではない、どこかから電話が鳴る。ポール・オースター最後の長篇小説。S・T・バウムガートナーは九年前に先立った妻アンナの不在を今も受け容れられずにいる。書斎で彼女のタイプ原稿を読み耽り、物忘れがひどいなか、ルーツの地ウクライナを旅したときの摩訶不思議な出来事を書き残す。そんな彼に恩寵が……来るべき日を意識していたとしか思えない、オースター作品のエッセンスが宿る名作
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ポール・オースターの遺作。
本当は「4321」を読んでから本書に取り掛かろうとしたのだけれど、「4321」の分厚さに慄いてしまい、半分以下の分量の本書に手を付けた次第。
主人公は、哲学者で大学教授でもある男性で、詩人で翻訳者であった妻のアンナとの出会いから死別、妻の死をきちんと受け入れることができず、かつ自身の老いや死についても見つめざるを得ない状態にいる70歳になるS・T・バウムガートナー。
作品中にはアンナの詩やバウムガートナー著による短篇作品などが挿入されている。
ドラマティックな出来事が起きる訳でもなく、謎解きやストーリーの面白さを味わうような作品でもないのに、一度読み始めるとやめることができなくなる。それは僕が(まだ70歳にはなっていないけれど)既に人生の3分の2を費やしてしまったことで、バウムガートナーに感情移入しやすくなっているのかもしれないし、ポールの文章、あるいは翻訳者の柴田元幸氏の訳文に人を惹きつける何かがあるからかもしれない。元々大好きな作家だったポールの遺作、ということも要素として挙げてもいいのかもしれない。
最後をどう受け取るべきなのだろう。バウムガートナーに対する皮肉ともとれるし、どこか不穏な気配の始まりのようにも感じられる。あるいはバウムガートナーとポール・オースターを重ね合わせることによってポール自身のことを言っているのかもしれない。もっと最新作を読みたかった作家だけに、彼の死は本当に残念でならない。幸いにも未読の彼の作品があるので、少しずつ読んでいこうと思っている。 -
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状況説明の少なさ、心理描写の過剰さ等、オースター作品の、個人の鬱屈した思考の渦に深く沈み込んでいく感じが、どうにも肌に合って仕方がない。
なんで小説なんて読むのかって、こん時くらい思考の海溝に沈み込んで、1人静かに暮らしたいからじゃないですか。(ミスチルの「深海」のジャケットみたいなイメージ。)
オースターの小説では、メインのストーリーと無関係に思える、サブの人物の思考や過去のエピソード、たまたま見た映画の話などが急に執拗に深く長々と描かれて、また急に場面が戻ったりする。
後であの伏線が回収された!となる事もあるし、あまりならない事もある。
それは人生のように「そんなものだ」とも思うし、
せっかく小説なのだから日常を引っぺがしてくれ、ハッキリとした状況説明、論理的に行動する人物、明快なストーリーなんて要らんのですよ。とも思う。
ただ本作、オースターにしては随分あったかくて人間らしい、と思ったらだいぶ後年の作ですのね。こんなオースターもとても良いですよ。
こんなに暖かいオースターを読んだことがなく、終盤に結末が気になったのは初めてだった。今まで読んだオースターはもっと突飛で脈絡なく、ぶっ飛んだ事が当たり前のように起き、何も解決せずに終わるけど、今回はあまりに物語が生活臭くて人間臭いので。
世界観がリアルで地味な事で感情移入が捗り、ぶっ飛んだ展開よりも逆にドキドキしてしまう事を学んだ。
最後にオースター氏に、レストインピース。
こんなに全ての作品で没頭に導いてくれた作家は他にいない。あなたの新しい作品に出会う喜びの回数が今後増えないことはとても寂しい。書き続けてくれて本当にありがとう。 -
Posted by ブクログ
『ペンを手に、キェルケゴールの一連の筆名を論じた著書の第三章の一文を途中まで書いたところで、文を終えるにはある本を引用する必要があり、その本を昨夜寝る前リビングルームに置いてきたことに思いあたる。取りに行こうと階段を降りていく最中、今朝十時に妹に電話する約束をしたことに今度は思いあたり、もうほぼ十時なので、本を取りにリビングルームへ行く前にキッチンに行って電話をかけることにする。ところがキッチンに入っていくと、鋭い、刺すような匂いがして彼は思わず立ち止まる』
思わずニコルソン・ベイカーの「中二階」を思い出してしまうような書き出しのポール・オースターの遺作は、予約の順番待ちで長く待たされることもほぼなく手許に届く。この後の予約も一件入っているのみ。どうやらこの界隈ではオースター読みはそれ程多くないのかも知れない。
ポール・オースターの小説はほぼ全て読んできているけれど、「写字室の旅」辺りからの小説では少し息苦しくなるような思いを強いられていた気がする。そんな思いが払拭されたのが「4・3・2・1」であったし、翻訳の柴田さんがオースターは常に新境地を切り開いていると言っていたので、この遺作はどんな小説なのだろうと読む前から期待していた。
個人的には(そして多くのオースター読みの人々もそうだと思うが)ポール・オースターと言えばニュー・ヨーク三部作に尽きるような気がする。それは正に稀代のストーリーテラーという修辞が相応しい、ある意味オースターらしい作品群だと思う。そこに登場する主人公が時折オースター自身を思わせることもあるにはあるけれど、自伝的という物語では決してなかった。それに比して2000年代以降の作品は主人公が老人ということもあり自省的な物語という雰囲気だったし、「4・3・2・1」もやや自伝的な物語であると読みながら思ってしまった。それに増して本書「バウムガートナー」は自伝的な雰囲気の強い小説だと思う。それはどういうことかというと、小説を読んでいるような気分に中々浸れない、作家の言葉として聞いてしまいがち、ということでもある。
主人公は老境に達した作家。妻を事故で失くしている(という点はオースターの私生活とは異なる)。しかし、若い頃のフランスでの恋人との生活の下りや活発な人物像はともすると最初の妻であるリディア・デイヴィスを彷彿とさせるし、翻訳などで生活を支えていた若い頃の話や詩作をこの妻の話として語っているようにも見える。そして終盤に出て来る父や母の話や移民としての来し方を語る下りは、ほとんど自伝とも言える口ぶりだ。父に関して言うなら、作家として世に出した一作目「孤独の発明」は父の死に触れて書いたものだという。その死により遺産を得て作家として専念するという辺りの話は「4・3・2・1」で散々聞いた話。本作でも同じような話の展開が披露される。
『高校時代から始まって、溺死する三週間前までに至る詩の分厚い束。未完に終わった二つの長篇小説、何篇かの短篇、十あまりの書評等々の、手書きで直しが入ったタイプ原稿。そして、一番下の引出しにぽつんと一つ、自伝的な文章を集めた中くらいの大きさの箱。バウムガートナーはその箱を手にとり、彼女の机に持っていって、彼女の椅子に座り、蓋を開けてみた。山の一番上に置いた束は錆びかけたクリップで留めてあった。つまり古いということだ。もう何年も前、ひょっとすると結婚当初、いやもっと前かもしれない。彼はそれを両手で持って、読みはじめた。
フランキー・ボイル
夜明け前の幼い日々、五、六、七、八歳の嘴の黄色い年月、野球こそ私のスポーツだった』
ああ、こういう展開の仕方はポール・オースター的だな、と思う。むしろ、本書の中に挿入された、劇中劇とも言える文章はストリーテラーとしてのオースターの魅力を素直に感じられる。もちろん、作家として一つのやり方に拘泥してしまうのを良しとしなかったことは理解できるけれど、こういう物語もまた読みたかったなと思ってしまうのも、正直なところ。それが読めないのは残念だけれど、最初に読んだ「ムーン・パレス」の衝撃を自分はいつまでも忘れられない気がする。 -
Posted by ブクログ
「孤独の発明」は別として。ニューヨーク三部作を「孤独」というテーマで括るにはこの作品で。狭い世界で、登場人物の少ないところがうってつけかもしれない。
オースターの著作を発見したのは「孤独の発明」だった、それからは底に流れるテーマを読み続けてきたが、著作順でなく、この「幽霊たち」を自分なりに初期作品の区切りとして最後に持ってきたことを、自分で誉めたい気分になった。これはどの作品にも流れている「孤独」というテーマの究極の姿を著したものだと感じたからで。
解説で伊井直行さんは、
三部作はそれぞれ単独で読んでもなんら支障のない作品群なのだが、他の二編をあわせて読むと、一作だけ読んだときとは随分印象が違ってくる「幽霊たち」は特にそうだろう。だから却って、真っ先のこれを読んで、奇妙な小説世界を堪能してみる手がある ---といっては強引に過ぎるだろうか。
全く、私と同じ読後感をもつ人だと、僭越ながらひそかに喜んだ、先に読んで、スタイルのヒントにするのは勿論いい、そして「幽霊たち」を最後に読んで、初期からの作品と三部作はこうしてテーマで繋がっている、と感じることも、オースターの作品を読む楽しみ方のひとつであってもいいのではないだろうか。
「幽霊たち」は奇妙な話で、世界がごく狭い。色の名前のついた人物たちが登場する。まず探偵のブルー、その師匠のブラウン。仕事として見張るように言われた対象のブラック、最初は謎の人物として現れるホワイト。脇役のレッドとゴールドもちょっとした彩を添えている。
ブルーはブラックを見張り続けている。定期的に報告書を送ればいい楽な仕事で、真向かいのマンションの部屋から見ていると、ブラックは一日机の前で何か書いている、作家らしい。
ブラックの生活パターンは見張る必要もない単調なもので、ブルーは変化のない時間に倦んで疲れて、次第に見張っている自分について考えるようになる。そしてついにたまりかねてブラックに接触を試みる。
彼と四方山話をするが、なかでも彼の作家の孤独についての話に心を引かれる。
会うことが重なってくると、ブルーはブラックの窓越しに感じる孤独が自分のものと同化してくるのを感じる。
お互いに身分が同化しお互いが裏表のように分かちがたくなったと感じ始めた朝、彼はブラックの部屋に入っていく。
長く見張るだけの生活はブルーの精神を現実生活から遠ざけ、存在の曖昧な時間を作り出していた。
こうして、奇妙な二人の人間が出会って別れる。ブルーはブラックを打ち倒し、現実であって非現実な感じのまま生活の中に戻ったが、いつか彼はブラックの世界に入ってしまっている。
色の名前のついた人たちは、ある意味人間の最大公約数であって裏返せば最小公倍数でもある。数字というものの意味を生物に置き替えれば、目にする複雑な色は突き詰めれば単純ないくつかの混色であり、違ったように見えても非現実的な世界でそれを見たり感じるとすれば、共通する感情や数字に変換されたものが絡み合っていることに過ぎず、いつか全ての根はゼロが虚数になるかも知れない、などと思いながらこの三部作を締める自分なりの感想にした。 -
Posted by ブクログ
オースターのニューヨーク三部作。
これら初期の作品で常に見られる孤独感を、ここでは作家である一人の男に負わせている。彼は自分の影に生きて消えたのか。
「ガラスの街」はニューヨーク三部作の第一作で、「孤独の発明」「鍵のかかった部屋」「ムーン・パレス」「偶然の音楽」「幻影の書」と読んできて初期の作品を二冊残してしまっていた。中篇であり初期に書かれたもので、「孤独の発明」が次の作品にどういう形で書きつがれたかにとても興味があった。
ただ既読の5冊の中には、共通する実態の掴みにくい孤独感が相変わらず座り込んでいる、だが表現法は似ているが、今回はそれをシーンに置き換えて明晰で分かりやすい内容になっている。
ストーリー性が増し、明確な風景の中から物語が立ち上がってきている。そういう傾向に移行したのかと感じたのだが。
ニューヨーク三部作の頃にはまだ主人公のまわりは常に現実との境が曖昧で、存在自体も、読者や本人にさえも見えない部分がある。
主人公たちは、その見えない部分を自分や知り合った人たちの中に見たり触れたりして、鑑に写したように実感を得ようとしている。だがストーリーの最後では存在感が次第に薄れていって消えていく。
夜中に間違い電話が何度もかかるので、「ポール・オースター?」と訊かれ、面倒なので「そうだ」と答えてしまう。
実はダニエル・クインという探偵作家で、ペンネームはウィリアム・ウィルソンでありその陰に隠れていれば、エージェントとは私書箱を通しての付き合いで、直接世間に触れることなく、顔も出すことがなかった。彼は半月書き、余った時間を自由に暮らしてきた。
間違い電話をかけてきたのは、ピーター・スティルマンという子供のころ幽閉されていた過去がある障害者だった。こういった症例は世界に散見する研究対象でもあり、あちこちで誘拐されて見つかった子供のように、彼も9年間、言葉や光のない部屋で育ち、実験的だという父親の暴行を受けていた。
13年前に父が捕まったとき、結婚している妻が彼の遅れている成長を助けてきた。だが父親が釈放される日が近いので殺されないように保護して欲しいと言う。
彼はまだ満足に話せない。こんなふうに言う。
これはいわゆる話すという行為です。そういう呼び方だと思います。言葉が出て宙に飛んでいって、束の間生きて、死ぬ。不思議じゃありませんか。
ダニエル・クインにとって作中の探偵ワークはもう自分が作り出した者ではなくなっていた、いつの間にか一体感を持っていたし、現在のペンネーム(ウィリアム・ウィルソン)もいて、現在の自分は三人の人格が合体したものに感じらていた。
探偵とは、全てを見て、全てを聞き、物事や出来事がつくりだす混沌の中を動き回って、これらいっさいをひとつにまとめ意味を与える原理を探し出す存在にほかならない。実際、作家と探偵は入れ替え可能である。
出所したスティルマンの父親らしい人物を見張り始める。安ホテルに泊まった老人はニューヨークを徘徊する。彼も常に後から歩いていく。何も怪しいそぶりもなく日が過ぎ。ついに彼は接触を試みる。
その老人は新しい言葉を作り出そうとしていた。彼は老人の意識を確かめるために話しかけるが、既に過去のハーバードの秀才教授ではなくなっていた。
だが彼の知識から生まれる物語は魅力的で、その奇妙な世界を聞きに何度も出会うようになる。
ポー作品でデュパンはなんと言っているか?「推論者の知性を、相手のそれに同一化させる」ここではそれは、スティルマン父に当てはまる。おそらくその方がもっとおぞましい。
父親は以前はヘンリー・ダークという名前で、今ここではない昔の楽園を作るために、乱れた言葉を元に戻すことを解く「新バベル論」を書いていた。
クインは残っていたその小冊子を見つけた。
赤いノートに1日の出来事を記録しながらクインの尾行は続いた。
毎日父親を見張っていたがなぜか老人は数日見かけなかった。ホテルで聞くと投身自殺をしたそうだ。
クインは依頼者のスティルマン夫婦のところに報告に行くとマンションは誰もいない空室になっていた。
クインはついに、ポール・オースターを訪ねる。勿論彼は何も知らなかった。
そして彼が今書いているのは何かと訊くと 「ドン・キホーテ」論だという。
これはセルバンテスの作ではなくアラビアで書かれ、セルバンテスは翻訳されたものを編集したので、そうしたのは事実を語るのに疑いを挟ませない理由だと言った。ドン・キホーテは物語に魅せられた。しかし原作のアラビア人は登場する四人の組み合わさったものではないか、ともいう。
クインの部屋に帰ると他人が入っていた。家のない彼は依頼者のスティルマンがいた狭い窓にない部屋で眠る。次第に彼が何もかも億劫になり、ついに消えた。
オースターのところに来た友人にこの話をすると、友人はクインを心配して探してみたが彼のいた部屋は赤いノートだけが残っていたと言った。
クインは、過去にはウィリアム・ウィルソンであり、創作した探偵ワ-クであり、ミステリ作家のダニエル・クインであった。その頃は快い孤独感とともにニューヨークの町を歩いて楽しむことが出来た。
だが、ふと電話に出て見知らないポール・オースターになり、書く事をやめウィリアム・ウィルソンから離れてしまった、そのとき自分と一体であったものを切り離したあとの独り、このクインとは一体何者だろうか。
一人でいることは自由だと言うことだが、それが続くとクインはソローの本(森の中)を探して読んでみたりする。だがクインの思うのはこの自由とは違う。
仕事だと思った老人の追跡が意味のないものになり、町は次第に陰をなくし、それに連れて存在も希薄になる。孤独というものの実感さえ浮かばなくなり生存するということが抜け堕ちてしまう。それがどんな意味があるのかとさえ考えることのないところに入ってしまう。究極の言葉によって形作られるみえない深い悲しみや空虚感が見事に作品になった、珍しい文学的な前衛だという言葉が分かる初期ポール・オースターの作品だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレマイルズ・ヘラーを中心人物に置きながらもブルックリンサンセット・パークの廃屋に共に住むビング、エレン、アリスをはじめ、マイルズの父親のモリスに視点人物を移しながら語っていく構成は群像劇のようで個を描く著者の作品の中では珍しい語り口だと思った。
読み終わった時は著者の作品のなかでは比較的地味な作品だと感じたが、リーマン・ショックによる住む家を失った人々や経済危機に直面している様子が読み取れ、細部を読んでいくと現代アメリカの悲哀や疲弊感のようなものが描かれており、登場人物のドラマ性だけに収まらない主題を持つ作品だと思った。
リーマン・ショックを背景に作品で語られる三人のメジャーリーガーの訃報とウィリアム・ワイラーの1946年の映画「我等の生涯の最良の年」により、戦後アメリカの精神性と現在とを引き較べる構成はかつてアメリカ国民が抱いていた輝かしい未来の終わりを示唆し突き付けている。そしてマイルズの今後のように希望のない未来を読者に問いかけているようでラストが切なくも胸に迫る。