ポール・オースターのレビュー一覧
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遂に、読み終わった…
1947年生まれのポール・オースターによる自伝的小説
戦後史において恐らく最も激動だった60年代を若者として生きることは、自らの可能性が何通りにも分かれパラレルワールドの如く並行して存在するように感じるのかもしれない
面白かった!
自伝的小説というより、彼の世代の大河ドラマと言うべきか
青春の戸惑いと喜びを書かせたら彼の右に出る者はいない
身体と精神の変化、神との関わり、性愛、クィア、闘争、死…
辟易しないのは、この小説のスタイルと、彼の「小説と思弁的な散文のあいだの微妙な線を歩く術」のおかげだ
そして、
今の制度がダメだからと革命を起こそうとして失敗したのが60-70年代なのであり
現代は問題も多いが、革命的に根本から変えようとするのではなく、目の前のことにひとつひとつ取り組むしかないというエピソードが最後の方にあったのもよかった -
Posted by ブクログ
面白い!790ページの物語に一週間どっぷり浸かって、まずはそう言い切れる。が、いやー疲れたってのも本音。
ひとたびファーガンソン君を好きになってしまえば、横溢する詩、書物、音楽、そして映画の固有名詞も、ファーガンソン君を形成していく重要なピースとして愉しく読める。
しかし、教養といってしまえばそれまでだが、誰の本に感銘を受け、どの映画が最高かを論じるのが友情を築く土台だとすると、僕などは全く資格に値しないのは残念なところ。ファーガンソン君は1960年代アメリカの空気を胸いっぱいに吸いこんで青春を駆け抜けていく。
“これまでファーガンソンはいつも、人生は一冊の本に似ているとあらゆる人から言われてきた。(中略)しかし、時間は前と後ろの両方に動くのだ。本の中の物語は前にしか動かないから、人生は本という比喩は当たらない。(中略)
時間が双方向に動くのは、人は未来へ一歩踏み出すごとに過去の記憶も運んでいくからだ。まだ十五にもなっていないファーガンソンだが、自分の周りの世界は自分の中の世界によって絶えず形作られていると分かるくらいの記憶は既に蓄積していた。(中略)
人間はみな同じ空間を共有することで互いにつながっているけれど、時を経てゆく一人ひとりの旅はみな違う。それぞれがみんな少しずつ違った世界に生きているのだ。
そこで問うべきはーファーガンソンは、いまいかなる世界に棲んでいるのか、その世界は彼にとってどのように変わったのか?”
ちょっと長いが、この引用箇所に本書の面白さが詰まっている。
大きなストーリーやプロットというより、むしろファーガンソン君の経験した膨大なエピソードの集積によって本書は物語られてゆく。時代背景には忠実で、奇想天外や幻想的というよりも描写はリアリスティックに進んでいく(もちろんオースター的な仕掛けは施されている)。
しかし、リアリズム小説らしく書かれていても、ご都合主義的な展開は山盛りで、それと同じくらい悲劇が不意打ちに現れるのも、実にオースター的。
でもきっとオースターなら、リアルな人生ってのは、はそんな“偶然”に満ちているよなって言いそうだ。
大事なのは人生の岐路を選択することにあるのではなく、あらゆる可能性と矛盾に満ちた人生を生きてゆくこと。本書でもオースターは、そんなことを思わせてくれる。 -
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自己紹介を兼ねた序章で、本書の主人公は3歳の時以来56年ぶりにブルックリンに戻ってきたと書かれている。肺癌を患い、目下のところ小康状態で、生まれ故郷のブルックリンで過ごすことにしたと。病気のためか明らかにしていないが、仕事はリタイアしたと。くしくも、日本でいう定年退職の年頃だ。
定年退職者の日常となると、1か月前に定年退職を迎えたわが身としては他人ごとではないが、平穏なわが身と異なり、主人公はいろいろな人と関わり、周辺でいろいろな出来事が起こる。タイトルのフォリーズ( ”愚行” や”愚かな”) の意味の通り、客観的に見れば、些細で愚かなことかもしれないが、ご隠居の視点から見ると、関わる人々のなんと愛しいことか。愚かなことの積み重ねかもしれないが、人生は愛するべきもので、かけがえのなさが伝わってくる。
ウイット、ユーモア、やさしさの普遍性が伝わってくる。ニューヨーク・ブルックリンであれ、日本の片田舎であれ、ご隠居の境地には通じるものがある。
60歳で今更だが、小説や映画で ”米国人” が 『愛している』と言っている意味が分かったような気がする -
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ニューヨーク3部作からオースターを読んでる身としては、
この2作は本当にニューヨーク3部作との関係性で語りたくなる作品。
というのはあの3部作はまさに「作家が小説を書くというのはどういうことか」をめぐる3作だったわけだし、
もちろんその後の作品でもそういった問題意識を提示してきたけれど、
この2作は本当にそこを前面に押し出して「書くものの責任」「書かれた世界への畏怖」みたいなものを強く感じます。
「写字室」はコミカルであり、ファンサービス的な部分を感じたけれど、「闇の中の男」は後半の作家を殺さなきゃならないって部分で緊張感が高まるし、映画化もあるんじゃないかと感じました。
スパイク・ジョーンズとかチャーリー・カウフマン辺りが映画化したらおもしろそう。
ただ写字室は原書で10年以上前に読んでたけれど、闇の中男こそそのころに読んでおくべきだった。
ブッシュ、イラクというワードが出てくる感じはやはり911以降のアメリカへの憂いが色濃く出てて、もちろん今も状況はちっともよくはなってないけれど、それでも10年前に読んでたらもっとぐっときたんじゃないかな。
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購入済み
オースターファン向けです。
『孤独の発明』を30代の頃に書いたオースターが歳をとり自分の身体史・精神史を振り返ります。個人的には「冬の日誌」の方が好きかな。
ここから大作『4321』に繋がるわけですがこちらはまだ未訳…。 -
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ブルックリンで晩年を過ごそうと引っ越してきた、失意の男性。だけど…?
ユーモラスに、成り行きが描かれます。
60歳のネイサンは癌にかかって会社を辞め、妻とは離婚。娘とはうまくいかず、親戚ともほぼ音信不通。
いくらか思い出があるブルックリンを終の棲家に選び、自分のこれまでの愚行を書き記して過ごそうか、などと考えていました。
街の古本屋で、甥のトムにばったり再会。これが親族では一番気が合う甥だった。
トムから繋がってご縁が転がっていき、トムの妹や娘や母、古本屋の主人など、思わぬ出会いと楽しみが増えていくのです。
やや上手く行き過ぎ?だったり、中年?男の身勝手さが垣間見えたり、というところも、ユーモアに包まれてます。
熟年同士の恋愛まで恵まれて‥
意を決した時の、彼女の余裕の反応が傑作。
ポール・オースターは何となくもっと難しい作家のような印象があったのですが。
レビューを見て面白そうと読んでみた、これは読みやすい。
それもだいぶ前だけど、おススメしておきたくて。
ポール・オースターは他に何を読んだのかは、いまだに思い出せません(笑) -
Posted by ブクログ
魅力的でカラフルな人物たちが登場する。語り手がいるが、群像劇と言ってしまってもいいかもしれない。
特に楽しみもなく暇をつぶしながら老後を過ごすつもりだった高齢男性が、甥に久しぶりに再開したことをきっかけに突如人間関係が広がり、さまざまな事件が起こり、考え方がポジティブに切り替わっていく。まあ、楽しみながら読める。
フォリーズ(Follies)とは「愚行」という意味で、たしかに登場人物は愚かなことばかりしているように見えるが、愚かな行為は悪いことというわけではないよね。
多様性に肯定的だが、唯一カルト宗教に関しては強い否定的な書き方をしている。 -
Posted by ブクログ
1967年の春に文学部の学生の私は、コロンビア大学2年生の時にフランス人客員教授のルドフル・ボルンと、その同棲相手のマルゴに出会った。
親族から遺産を継いだというボルンは、一度しか会っていない私に雑誌を作る支援を申し出てきた。
ボルンはその時35歳、皮肉さと頭の良さは持っていたが、どこかしら人と違うおぞましさのようなものを感じさせた。しかし私は魅力的なマルゴと、雑誌援助の話を手放せずそのままボルンとの付き合いを続ける。
破滅はすぐにやってきた。ある晩道で銃を持った男に脅されたボルンは、迷わずナイフで男を刺殺した。
私が警察に言うか言わないかで悩んでいるうちにボルンはパリに姿を消す。
そして40年近く立った後、作家のジムの元に、学生時代の友人であるアダム・ウォーカーから手紙と、アダムが若い頃に経験した殺人事件の手記が送られる。
アダムは非常に美男子で文学の才能に溢れいてた。非常に美しい姉とまだ幼い頃に死んだ弟がいる。だが卒業後には姿を消していたのだ。
ジムへの手紙では、アダムは若い頃に文学への道は諦め、今は病気により死の床にあり、そして人生の転機となった1967年の経験を手記として発行したいと言って送ってきたのだ。
そしてジムの元に送られてきたアダムの2つ目の手記。
君は大学の留学制度でパリに行くことにした。パリではボルンに会うかもしれないが、それよりも将来への学びの道を選んだのだ。そして君はアメリカを去る最後の日々を幼い頃から心を通わせ合っていた姉のグウィンと過ごす。互いに幼い頃から性の成長も見せあってきた君とグウィンは、セックスに溺れ合うのだった。
アダムはその後死に、ジムが手に入れたのは手記第3段のメモ書きだった。
パリに行ったアダム・ウォーカーは、ボルンとマルゴに再会する。そしてボルンの殺人を暴くために、彼の婚約者のエレーヌと、その大学生の娘のセシルに近づこうとする。
アダムの目論見は達するのか、それとも得体のしれない影響力と暴力性を持つボルンの前に敗れ去るのか…。
ジムはアダム・ウォーカーの手記を完成させるために関係者たちを探して話を聞く。
そして小説としてこの話を出すことにしたのだ。
だから自分はジムではなく、アダムはアダムではなく、コロンビア大はコロンビア大ではないし、ボルンはボルンでない。
関係者の話が揃えば揃うほどに不可視性(インヴィジブル)は増すばかり。
そもそもボルンは本当に人を殺したのか、ボルンは政府の諜報活動をしていたのか、グウィンとアダムとの近親相姦は彼の妄想なのか…。
人は物事のすべてを知ることはできない。通常の小説であれば”全能の作者”が読者に真相を明かすことができるが、この小説では作者であっても真実を知ることはできない。結局誰もがその人にとっての本当のことを語り、それにより”事実”は余計に不可視となっていく。
<真実を語るためには、それを虚像にしなければならない。
本の中で私を演じる人物は違う名前を与えられる。たとえばX氏。ひとたび私がX氏になれば、私はもはや私ではなくなり、ひとたび私でなくなれば、我々はいくらでも新しい細部を加えることができる。P274より抜粋>
<こうして海を超える飛行機にのっている今も五十、六十のハンマーの響きが頭の中で聞こえる。この音はこれからもずっと私とともにあるだろう。一生ずっと、どこにいて、何をしていようと、ずっと私とともにあるだろう。P279> -
Posted by ブクログ
あることを中心に、たくさんの視点がそのことを語っていく、というスタイルの物語は何度も読んだことがあったけど、
すごく久しぶりに読んだポール・オースターは、
ことに関連して、少しずつ視点もずれていくし、
語り手も変わっていく。
読みなれなくて進むのに時間がかかったけれど、
読後感は気持ちが良かった。
(内容がスカッとする、ということではない)
人の人生の、その時々の交友の厚みが伺える
時にあれほど仲良かったのに、という人と疎遠になってしまった悲しみを感じる時があるけれど、
それは先の人生や、極端な話明日にでも、
全くそんなことを思う必要おもなくなってしまうほど、
違う人生を歩み始めてしまう時もある。
ということなんじゃないか?とぼんやりと読後感に浸りたくなる作品でした。 -
Posted by ブクログ
ネタバレこころ震わすような、とか涙滂沱、大興奮、という激しい読後感はポール・オースターにはないのだが、不意にある登場人物や場面がまざまざと浮かび上がって来て自分でもびっくりすることがある。
もちろん、読んでいる最中は夢中になる。あちらの世界からこちらに戻ってくるのにちょっと時間がかかったりもする。
『インヴィジブル』の各章はアダムが見たもの、アダムが見ようとしたもの、アダムが見たかったもの、アダムに見えなかったもの、が書かれている。
でも、書かれたものが真実とは誰が言える?
ボルンは少年を殺したのか、殺さなかったのか。
セシルは島を去ったのかとどまったのか。
見えたものが真実ではないし、見えないから存在しないのではない。自分自身も含めて、不可視なものに取り囲まれて、
そのくせ人は自分の見たいものしか見ない。
最後のページが終わっても、読み終えて何日か過ぎても、何かがどこかが引っ掛かる、オースター、すごいです。