カミュのレビュー一覧
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ネタバレ不条理について
メモ
・人生に意味などなければ、人生はずっと生きやすくなるだろう
・人生は無意味だし、不条理なものであるが、それを受け入れることでわれわれは自由に生きることができる
・重要なのはもっともよく生きることではなく、もっとも多くを生きることだ(※意識的に生きるということ)
・人間の心には、自分を圧しつぶすものだけを運命と呼ぼうとする困った傾向がある。だが、幸福もまた、人間にとっては自分のほうで避けるというわけにはいかないものである以上は、これはやはり理性の手に負えぬものなのだ。ところが、現代人は、いつでも幸福を勝ち得たのは自分の手柄なのだと考えるくせに、じつは自分の幸福に気づいてはいないことがときにあるのだ
・幸福と不条理とは同じひとつの大地から生れたふたりの息子である。このふたりは引きはなすことができぬ。幸福は不条理な発見から必然的に生れると言っては誤りであろう。幸福から不条理の感情が生れるということも、たしかにときにはある。 -
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表題作はあくまで論の中の一つで、「不条理な論証」、「不条理な人間」、「不条理な創造」、「シーシュポスの神話」、「付録フランツ・カフカの作品における希望と不条理」から本作はなっている。
これはベースとしてシェイクスピア、ドストエフスキー、カフカの作品をある程度知らないと勿体ないので、私の知識最弱なドストエフスキーを読んだ上で、読み直さないと行けないなと思いました...カフカはこのあと再読しよう...
好きだったところ、印象的だったところをいくつか。
・この世界はそれ自体としては人間の理性を超えている、--この世界について言えるのはこれだけだ。不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死者狂いの願望が鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。(p.35-36)
・人生は意義がなければないだけ、それだけいっそうよく生きられるだろうと思える(p.78)
・自殺とは、飛躍がそうであるように、ぎりぎりの限界点で受入れることだ。いっさいが消尽されつくしたとき、人間はその本質的歴史へと帰る(p.79) -
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ペスト流行により閉鎖されたオラン市ての群像劇。
主人公であるリュー医師の身近な人がペストに罹らない序盤では淡々と状況が語られるので感情移入しにくいか、中盤以降、予備判事のオトン氏の息子の闘病あたりはかなり緊迫した。リュー医師の周りの人々は大抵残念な結果となる所がなんだかカミュの小説らしいです。
新型コロナ、オミクロン株が蔓延を始めたこの時制において、終盤のペスト収束についてはとても羨ましく思いながら読みました。
人の価値観や宗教感について様々考えさせられます。
オラン市を閉鎖したのは国の機関だと思われるが、その件が全く描かれていないのが不思議です。
未知のウイルスに対抗する上でも精神的な備えとして貴重な古典文学です。 -
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私にとって,本作は不条理文学でなければ,疫病の文学でもなかった。反抗というよりは不信の文学,といったところか。20世紀以降の傾向として重要な感覚としてメモをする。
本書に文学的価値を見出すとするならば,海水浴のシーンを取り上げれば十分だろう。
複数の証言を仮想的に再現した,群像劇が効果的に誠実さを示していると思う。
評価を-1したのは,現代に求められている像との(自分の中での)乖離感があり,今必読とまではいかなかったことによる。本作は,現代の読者が思うよりも遥かに孤独だ。
最後に翻訳について。それまでの宮崎嶺雄訳 は1969年のもので,さすがに今では読みづらい文章。今回の新訳により,難解さはかなり減り,内容に集中しやすくなっている。これを機に読者層が広まるのはいいことだと思う。 -
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フランス領アルジェリアの港町オランで、突然ネズミの死骸が街にあふれ、人々は正体不明の病に倒れていく。病名はペスト。町は封鎖され、外界から孤立した住民たちは、それぞれの立場や信念でこの未曾有の災厄に向き合う。医師リウーを中心に、苦悩と希望、葛藤と連帯が交差する中、人々の本性と生き方があらわになっていく。
アルベール・カミュの『ペスト』は、単なるパンデミック小説ではなく、人間の本質をあぶり出す哲学的な物語だ。舞台は閉ざされた町・オラン。突然訪れた死と混乱の中で、人々は選択を迫られる。逃げるか、残るか、信じるか、絶望するか。
登場人物たちの選択はさまざまだ。病に倒れた妻を別の都市に残し、医師として使命を全うしようとするリウー。死刑を宣告する父を持ち、死とは何かを問い続けるタルー。帰郷できず孤立したランベール記者は当初脱出を望むが、やがて他者のために残る決意をする。また、パンデミックによって逮捕を免れたコタールのように、この異常な状況が終わらないことを願う人物もいる。
そして、信仰の立場から人間の罪を説いていたパヌルー神父は、無垢な子どもの死を前にして言葉を失う。彼の姿から、「正義とは何か」「神とは何か」「意味のある死とは」といった問いが読み手に投げかけられる。
この物語には、絶対的な正しさはない。カミュは登場人物のどれをも批判せず、読者に判断を委ねている。それぞれの信念、それぞれの恐れと希望があり、誰もが何かしらの「正しさ」を抱えている。だからこそリアルで、読み手の心に突き刺さる。
ペストの終息は唐突に訪れるが、リウーは「ペスト菌は決して消え去ったわけではない」と語る。それは病気だけでなく、人間社会が抱える問題、差別や暴力、戦争や不条理にも通じる。カミュは警告する。災厄はいつでも、どこでも、再び現れるのだと。
コロナ禍を経た今読むと、よりいっそう身につまされる。「正義」は一つじゃない。だからこそ、自分なりの正しさを持って、他者とともに生きることの大切さを感じさせてくれる一冊だ。
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カミュ 「 シーシュポスの神話 」 不条理をテーマとした重厚エッセイ
不条理な論証(筋の通らない論証)
自殺を 哲学上の重要問題として、不条理ゆえに自殺するのか(不条理に基づき生きることはできるのか) 論証。「不条理な自由」は 論証に対する結論、生きる力がすごい
不条理と自殺
*哲学の根本問題=人生が生きるに値するか→人生が生きるに値しないから 自殺する
*自殺に至る不純分子=人の心の内部を食い荒らす虫
*自分を異邦人と感じる→人間と生の断絶の感覚=不条理の感覚→死に至るまで 論理的か
不条理の壁
不条理は 人間と世界から生まれる
*人間と世界を結ぶ唯一の絆
*人間的な呼びかけと世界の不当な沈黙が対置
不条理な自由
*人生は 意義がないほど、よく生きられる
*生きるとは 不条理を生かすこと〜不条理を生かすとは 不条理を見つめること
反抗とは
*不条理を見つめる哲学的姿勢のひとつ
*運命に伴う諦めを切り捨てた確信
*自殺は 反抗の論理的到達点をなすものではない
*自殺は 不条理への同意→反抗と正反対
不条理とは 死を意識しつつ死を拒否すること→こうした反抗が生を価値あるものにする
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カミュ
シーシュポスの神話
真に重大な哲学上の問題は一つしかない。自殺。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えること。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるとか、精神には9つの範疇があるとかはそれ以降の問題。
ニーチェの望んでいること-哲学者たるもの身を以て範をたれてこそはじめて尊敬に値するというのが真実ならこの根本命題に答えるのがどれほど重要かわかる。(これによって自殺を左右する)
ある問題の方が別のある問題より差し迫っているということを一体何で判断する? -その問題が引き起こす行動を手掛かりにして(カミュの意見)
ガリレオの自殺は根本的でない。取るに足らない問題。
これに反して多くの人々が人生は生きるに値しないと考えて死んでゆく。他方また、生きる理由のためを与えてくれるからといって、様々な観念のために、というか幻想のために殺し合いをするという自己矛盾を犯している多くの人々を僕は知っている。(生きるための理由と称するものが同時に死ぬための見事な理由でもあるわけだ)
だから僕は人生の意義こそ最も差し迫った問題だと判断する。
あらゆる本質的な問題(ときに人を死なしめるかもしれぬ問題、あるいは生きる情熱を10倍にもする問題)について、おそらく思考方法は二つしかない。
ラ・パリス的思考方法とドンキ・ホーテ的な思考方法。この二つのもの、つまり自明性と抒情的態度との均衡によってのみ、僕らは感動と明晰とに同時に至ることができる。それゆえ実に目立たぬものだが、同時に悲痛きわまるこのような主題においては精緻な学識に基づく教壇的弁証法は良識と共感との両者から発するより謙譲な精神の態度に席を譲らねばならないことがわかる。
これまで自殺は一つの社会現象としてしか扱われなかった。しかしここで問題にしたいのは個人の思考と自殺の関係。自殺というこの動作は偉大な作品と同じく、心情の沈黙の中で準備される。当人自身もそれを知らない。思考を始める、これは内部に穴が開き始めるというこよ。発端は人の心の内部。
実存に真っ向から向き合った明察から光の外への脱出へといたり死をもたらすあの動き、それを追跡し、理解せねば。
ある一人の自殺には多くの原因があるが、一般的に言ってこれが原因だと一番はっきり目につくものが実は一番強力に作用したという試しがない。熟考の末自殺するということはまずほとんどない。
自殺はある種「生を理解できない」と告白すること。「苦労するまでもない」と告白すること。習慣や日常の馬鹿ばかしさを認めたことを前提にしている。とすれば精神が生きていくのに必要な眠りを精神から奪ってしまうこの計り知れない感覚とは一体どのようなものか。
とかく説明できる世界は親しみやすい世界だ。だが反対に幻と光を突然奪われた宇宙の中で人間は自分を異邦人と感じる。(離人感) この追放は失った祖国の思い出や約束の地への希望を奪われている以上、そこではすがるべき綱はいっさい絶たれている。
人間とその生との、俳優とその舞台とのこの断絶を感じ取る、これがまさに不条理の感覚。自殺を想ったことのある健康人なら誰でも、これ以上説明をしなくてもこの感覚と虚無への熱望との間には直接のつながりがあるとは認めることができよう。
この試論の主題はまさしく不条理と自殺の間の関係、自殺がどこまで不条理の解決となるかというその正確な度合い。
生に意義を与えることを拒んだ思想家のうち、キリーロフ(文学)、仮説に属するジョージルキエを除いてはこの人生を拒否するに至るほどまでに自己の論理を貫いたものはただ一人もいない。
ルキエは知識と自由意志の不可分を主張、自殺?
悲劇性を真面目に取ろうとしない態度が人間としての値打ちが低いということに。。
いっさいを退けて真の問題へと直進しなければいけない。
論理的であるというのは常に楽にできる。しかし極限まで論理的であり続けるのはほぼふかのう。「論理的」にも強さというか広さがあるな。
死に至るまで貫かれた論理が存在するか?(正当で論理的な自殺はあるのか?と)
ヤスパースは統一的世界像の構成の不可能性を明らかにした「この限界はわたしをわたし自身へと導く、そうやって辿り着いた地点では客観的視点など私がただ表象しているに過ぎない。そこでは私自身も他者の存在も私にとってはもはや客観的対象とはなりえない」ここで多くの人が自殺する。思考の自殺。
しかし真の努力とはそれとは反対に可能な限りその場に踏みとどまって、この辺境の地の奇怪な植物を仔細に検討すること。
不条理と希望と死とが互いに応酬しあっているこの非人間的な問答劇を特権的立場から眺めるためには粘り強さと明徹な視力とは必要である。
その時この基本的でしかも同時に微妙な舞踏について精神はその様々なフィギュアを分析し、続いてそれを明示して、自らそれを再び生きることができる。 -
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これを収録するなら、まず『反抗的人間』の収録をしてください。
ジャンソンもサルトルもカミュもお互いに読んでいるからああいう手紙のやり取りができるけれども、文脈のわからないまま読んでも、カミュのことばに触れることができず、ただジャンソンとサルトルがまくしたてるのをうんざりしながら読むだけだ。得られたのは、いかにカミュが誤解されているかということだ。
カミュは哲学畠に生きた人間ではないから、ことばでがちゃがちゃ書き立てるのではなく、論理の飛躍の力で伝えようとする。そこが魅力であり、誤解の元ではないかと感じる。この論争を難しく面倒なことにしているのは、カミュのことばではなく、哲学とか批評とか称しているジャンソンとサルトルの方にある。
まずはジャンソン。かみつくところがカミュとは違うのだ。カミュは右翼とかマルクスとかどうでもいいのだ。反抗し続けた結果、それが保守的だとか進歩的だとか取られるにすぎない。カミュの反抗はもっと存在に根を下ろしている。歴史を無視したり、人間を否定しているのではない。誰よりもそういうものの存在を感じているから、あえて反抗しているのだ。カミュの反抗とは、ニヒリズム的なものではない。どうあがいても歴史から逃れられない、人間という存在から逃れられない、そんなものが存在しないということから逃れられない、だからこそ、わざと自覚してその中で生きることで、その逆を語るのだ。神に反抗することで、神を強く認めているのだ。カミュは生きる世界がこの「存在」から始まることに無力にも「反抗」しようというのだ。ヘーゲルが存在を認めるところから始めたのに対し、カミュは存在に反抗することで存在に迫るのだ。これを「神の愛」「神に許されている」とするなら、なぜこの存在は今ここにいるのか。彼はひたすらにその「愛」に反抗し続けて、し続けて、どんなに反抗し続けても「許されている」というこの事実にある意味では絶望して、しょうがない生きてやっているのだ。その存在から生まれた世界だとかイデオロギーとかは存在という本質の前には作り物にしか過ぎない。この世界が作り物だと自覚して生きるのと、そうでないのとでは大きな違いがある。別に彼は道徳主義者などではない。あえて道徳的に生きてやっているのだ。カミュの中庸とは右翼と左翼の中間というものではない。彼の中庸は、どちらでもあり、どちらでもない、ひとつの存在のことを言っているのだ。どうしてこれがわからない。カミュに問うなら、どうしてそんなまでして生きて書いてやっているのだとか、反抗しているお前は誰だと問うべきだ。彼は貧困とかブルジョワとかそんなところに立っていない。批評家であるはずなのに、どうしてそういうものを外して読んでやれないのだろう。そんなところにかみつくようでは、ひとのことばを聞いたり読んだりすることにはなっていない。ジャンソンは「われ反抗すゆえにわれら存す」ということばをもっと考えるべきだ。「われ」が反抗する、孤独であり異邦人であるはずのこの「われ」がどういうわけか「われら」という多と共にあるというこの飛躍にカミュは驚いているのだ。連帯しようとしてするのではない、気付いたら連帯してしまっていたのだ。コミューンをカミュが訝しがるのは、必然性の伴わない連帯だからだ。存在に基づかない連帯だとか革命だとか騒ぐから、彼は避けるのだ。彼はそんな小さいところで生きてはいない。
お次はサルトル。ジャンソンと自分は違うというところをいたく強調して述べていたが、編集長であるサルトルがジャンソンの批評を載せるということは、やはりジャンソンのことばを認めていなければ掲載などということはできない。ジャンソンのことばに一理あるというサルトル自身の立場を表明しているという行動に他ならない。カミュが編集長と編集長の批評家を厳密に区別しようとしなかったのはそのためだ。
サルトルとカミュの大きな違いは、どうにも逃れられないこの存在、(サルトルのことばでは「歴史」)を認めて生きるか、反抗して生きるかという違いである。サルトルの姿勢は、どうあがいても逃れられないなら仕方ない、認めるしかないよね、という感じ。だから、カミュと違って、そこに迫ることはできない。カミュに言わせてみれば盲従であったりとか屈服とか言うのではないか。どうもこの辺がサルトルはやっぱり「学者」なのだ。探究すればするほど、わからなくなる。わかってしまっては「学問」は成立しえないから。カミュの飛躍はあえて反抗してみせることで逃れられない歴史を強く認めているというところだ。うそをつくことで、誰よりも真実を語る。歴史の変革を強く望めば望むほど、歴史という大きな存在は何も変わらない。革命なんか達成しえない。だったらそのことを自覚して生きればいいじゃないか。シーシュポスの生き方は反抗的であると同時にきわめて達観した生き方なのだ。
したがって、「自由」というものもふたりは違ったものとして考えている。サルトルは「自由とは、今日、自由になるためにたたかう自由な選択肢」というが、カミュはそんなこと痛いほど知っている。シーシュポスは石を戻しては転がされ、戻しては転がされ、戦い続けた先にどうあがいても自由であることを認めずにはいられない、そう知ってなあんだと微笑んで、今度は「あえて」石をもとに戻しに行くのだ。自由とはカミュにとって戦わずとも初めから実現している、そんなものだということだ。サルトルが戦えというより先に、カミュはすでに戦う必要性を感じなくなっていたのだ。それがサルトルには生ぬるく見えたのかもしれない。歴史に最良の意味を与え続ける必要はない。だって、歴史が在る、すでにそのことがもう最良の意味を持っているからだ。真に革命というのは、この人間では考えることが不可能だからだ。変化するということは、変わるものと変わらないものがあるからだ。革命を志向すればするほど、何も変わらない。真に何かが変化したというのは、誕生とか始まりと同じでどうにも言えないようにできているからだ。カミュが黙ったのはサルトルに負けたからではない。そんなところをもう通り過ぎていたからだ。その代わり彼は最期まで書き続けた。ごちゃごちゃ言うより先に、書くことで示し続けた。
彼は最期まで反抗してみせたのだ。 -
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カミュは本当に頭がいいなぁ。
正直難しかった(笑)
こんなにも不条理についてこと細かく書けるというか思考できるというのがすごい。
ドストエフスキー論とカフカ論は大好きな作家なので、なかなかおもしろく読めました。
偉大な作家とは哲学者的小説家である。バルザック、サド、メルヴィル、スタンダール、ドストエフスキー、プルースト、マルロー、カフカっておれが好きな作家多し(笑)
やっぱカフカやドストエフスキーってすごいよな~って思ったし、カラマーゾフの兄弟がよりいっそう楽しみになった。
いっさいは許されているとは、なにひとつ禁じられていないという意味ではない。不条理は、ただ、これらのどの行為の結果も等価値だとする。
死が不可避な唯一のものだというこの事実を除けば、悦びであれ苦しみであれ、いっさいが自由である。 -
Posted by ブクログ
ノーベル賞受賞者の、自伝的小説にして遺作。
ジャン・ダニエルいわく「初めてカミュの作品に近づく者から相談を受けたら躊躇なく『最初の人間』を初めに読むよう勧めるだろう。」だそうな。
推敲され尽くされているとはいえない作品ではあったが、一見散漫な物語の各所に、心理状況や情景を見事に描写している部分が多く、引き込まれる。個人的には序盤の、ジャックの父親が戦争で亡くなる場面の描写が最高に好き。
フランス領ではありながらフランス本国ではないアルジェリアに住むフランス人が、フランスの信念をどうイメージしたか、フランスの戦争をどう受け止めたか、という描写を通じ、移民の人々がどう生きたかを想像することができた。 -
Posted by ブクログ
読んだのは1年も前だけど感想書いてなかった。まとめないと忘れる。
不条理と自殺との関係についての本。
曰く、「不条理」とは”この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態”、或いは“欲望する精神とそれを裏切る世界とのあいだのあの背反状態”、或いは”人間と世界とを結ぶ唯一の絆”。
実存哲学者達は人の理解を超えたものを神と呼び、不条理を生きる苦しみから逃れようとする。世界の不思議を全て神様の仕業にして受け入れてしまう。が、カミュは「不条理=神」とするのは飛躍だ、逃避だと批判する。
“シェストフにとっては、理性はむなしい、が、理性を超えたかなたになにものかが存在する。不条理な精神にとっては、理性はむなしい、しかも、理性を超えたかなたにはなにもないのだ。”
この絶望の中で、生きるべきか、死ぬべきか。カミュは生きるべきだと言ってる。
不条理は人間と世界との関係、対立のなかにあるから、対立の一方の項を否定すること(自殺)もまた不条理から逃げ出すことになる。神を信じることも自殺することも拒むとき、残った選択肢、“筋道の通った数少ない哲学的姿勢のひとつは反抗である”。
“反抗とは、人間と人間固有の暗黒との不断の対決だ。不可能な透明性への要請だ。”
“この反抗とは、圧倒的にのしかかってくる運命の確信―ただし普通ならそれに伴う諦めを切り捨てた確信―それ以外のなにものでもない。”
“意識的であり続け、反抗を貫く―こうした拒否は自己放棄とは正反対のものだ。人間の心のなかの不撓不屈で情熱的なもののすべてが、拒否をかきたてて人生に立ち向かわせるのだ。重要なのは和解することなく死ぬことであり、すすんで死ぬことではない。自殺とは認識の不足である。不条理な人間のなしうることは、いっさいを汲みつくし、そして自己を汲みつくす、ただそれだけだ。不条理とは、かれのもっとも極限的な緊張、孤独な努力でかれがたえずささえつづけている緊張のことだ、なぜなら、このように日々意識的でありつづけ、反抗を貫くことで、挑戦という自分の唯一の真実を証しているのだということを、かれは知っているのだから。”
生きる。具体的には、より多くを生きる。
“同じ年数を生きたふたりの人間に対して、世界は常に同じ量の経験を提供する。それを意識化するのは受取るぼくらの側の問題だ。自分の生を、反抗を、自由を感じとる、しかも可能なかぎり多量に感じとる、これが生きるということ、しかも可能なかぎり多くを生きるということだ。”
こんな感じだったと思うけど、腑に落ちない点もある。
全てを知りたいって欲求はめちゃめちゃ大きいし、どこまでも理性的でありたいって気持ちも理解できるけど、神(どんな神かにもよるけど)を信じるからといって、そこで思考停止に陥る人ばかりでもないと思うけどなぁ。
それから不条理=神とすることを拒むのは、どこまでも理性的であるって前提で納得できるけど、自殺によって不条理から逃げちゃいけない理由、反抗しながら生きなきゃいけない理由が、“偏見のない人間にとっては、知力が自分の力をはるかに超える現実と格闘している姿ほど素晴らしい光景はない”、つまり「抗ってる自分かっけぇ!」だけなのはすごく弱い気がする。人生の意義は意義などない人生を生き抜くことだ、それを生き抜くのがカッコイイんだと言われても、そう思えない人には自殺を思いとどまらせることができない。
あと、“重要なのはもっともよく生きることではなく、もっとも多くを生きることだ”っていう具体的な生き方に関して。“生の意義を信じることは、つねに、一連の価値の階梯、ある選択、ぼくらの好みを前提としている。不条理を信じることは、これまで定義したところにしたがえば、それとは反対のことを教える。”ってことで、不条理を生きる人間には良いも悪いもない、”どの行為の結果も等価値”だと言ってる(これは犯罪を勧めるものではないとも言ってる)けど、何だかあらゆるものから自由でいることにこだわりすぎてるんじゃないかって気がする。“自分の人生に何か一つの目的を思い描いている限り、かれは目的を達するのに必要なことをしようと従順で、自分の自由の奴隷になりつつあったのだ。”なんてことも言ってるし。なにものからも自由でありたいがためにこの論理をつくり上げたんじゃないかって気もしなくもない。
ただ語り口はやたらかっこいいのでぐいぐい読ませる。以下は一年前の自分が付箋貼った箇所の一部。
“おのれを殺す、これはある意味で、告白するということだ。生に追い抜かれてしまったと、あるいは生が理解できないと告白することだ。”
“ごまかしをしない人間なら、真実だと信じていることがその行動を規定するはずだということを、原則と認めることができる。”
“ひとりの人間にとって世界を理解するとは、世界を人間的なものへと還元すること、世界に人間の印を刻みつけることだ。”
“まったく道徳的だと思えるひとつの明々白々たる事実がある。人間は常に自分が真実と認めたもののとりこになってしまうということだ。”
他にも印象的な言葉がたくさんあるよ。