カミュのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
定期的に本作を読み返しており、今回新訳が出たということで早速手にしてみた。
この新訳版には適度に注釈が付け加えられ、文章も従来の訳書より読みやすくなった様に思う。
しかし最も新訳の恩恵にあずかっているのは、本書を通してたった一人の語り手であるクラマンスである。彼を露悪的かつ魅力的に、そして親しげに表現することは、本書の仕掛け(罠)上で欠かせないからだ。
話の大筋は以下の通りである。
語り手であるクラマンスは、かつてパリで名を馳せた弁護士で、私人としても善行やその振舞いから評判であった。
当時の彼は順風満帆な人生を送っており、自身が「高みにある」ことを信じて疑わなかったが、あるきっかけから罪の意識が芽生える。つまり弁護士の仕事も弱者への親切や施しも、人よりも道徳的に高みにありたいという自己愛からくるものだと悟ったのだ。自分に嘘を付くことに耐えられず、罪の意識から裁かれることを恐れるようになったクラマンスは、足掻いた末についに高みにありながら裁きから免れる方法を発見する。
それは「告解者にして裁判官」となることであり、そこに至るまでの過程を彼の語り口からなぞっていく…。
この告解者にして裁判官というもの(クラマンスは職業と自負)について。
簡潔に言えば、彼自身を含め誰しも犯しているであろう罪をあらかじめ自白(告解)し、露悪的かつ親しげな態度で相手も同罪であることを認めさせ、共犯者に仕立て上げる。そこから先に自白したという道徳的優位を利用して、相手を裁くのである。
どういうことかというと、罪を裁くことができるのは先立って罪を認めた者だけであり、相手から言葉巧みに共感を引き出してから告発するというもの。
クラマンスは自己愛と人に裁かれることへの恐怖から、人より先に自分を裁き、然るのちに相手を裁くという結論に至った。
彼は根城である酒場メキシコ・シティで、獲物を捕えては告解→共犯→裏切りというプロセスを繰り返し、人からの裁きを免れつつ心の安寧を保っている。
職業が変われど、正義の弁護士であった頃と彼は変わらない。自身を高みに置くために、聞き手を引きずり落としては裏切っていることを除いて。
「転落」はいくつかの訳書が出ており、クラマンスの職業については翻訳のゆれがあった。
私が知る限りでは“裁き手にして改悛者”、“改悛した裁き手”、そしてこの新訳の“告解者にして裁判官”である。
私はフランス語が分からず原著を読めないので実際のニュアンスはわからないが、本書の内容を考えると改悛より告解という訳が適切だと感じる。
なぜならクラマンスは自分の罪を認めても、それを悔い改めることはないからだ。
ざっくばらんな説明になってしまったが、本書はあとがきに訳者による丁寧な解説が付されており、初見では難しい本書の理解を深めることができるだろう。
もっとも理解したところで、現代も”告解者にして裁判官”たちで至る所が埋め尽くされていることに気付かされ、人間不信と虚無感が残るだけである。
そうなれば誰しも自身の安寧(決して救済ではない)のため、進んでクラマンスとならざるをえない。
長々と書いてしまったが、もしここまで読んでいる方がいれば大変ありがたく、報われる思いである。
それではようこそ、メキシコ・シティへ。 -
購入済み
歴史は繰り返す
歴史は繰り返す!!この時代なら仕方が無い感じだが今日では経験上ここまでは無いと思ったがわが身に迫ってくると考えされることが多い。この本を読み返し今の事態に対処したいものだ
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購入済み
新しい翻訳があれば再読したい
作品は文句なしに素晴らしい。
ただ他の方も書かれていると思うが翻訳を今の時代の人に翻訳してもらえるともう少し立ち止まらずに読めると思った。
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Posted by ブクログ
少しずつ読み進めてますが、若いときの読書体験の影響力とは凄まじいもの
僕が普段、何気なく心の芯においてる在り方みたいなものの多くはここに書いてあったことなのだなーと発見をしている
「人間の尺度を超えている、だから超人間的なものでなければならぬ、という。しかし、この、「だから」は余計だ。ここには論理的確実性などいささかもない。経験的蓋然性もいささかもない。僕の言い得るのは、なるほどこれは僕の尺度を超えている、これだけだ。そこから僕は否定を抽き出しはしない。いや、少なくとも僕は、理解不可能なものの上にはなにひとつ築きたくない。自分ははたして、自分の知っているものとともに、ただそれだけとともに生きられるだろうか、ぼくはそれを知りたい。」「不条理とは意識的人間の形而上的状態であり、神へとひとを導かぬものなのだ」
これだよ、まさに、ここから出発して、この後、カミュが言うシーシュポスの状態こそが、僕が10年以上前、この本こそ僕の本だと思ったそのことだ
言いたいこと全部書いてあるし、ここでカミュが保つ態度がカッコよすぎ
不条理を凝視しながら、意識を途切れさせず、神や永遠などに逃げ道を見つけず、ただひたすら生きることにしか価値はない、そう生きればそれが王だろうがサラリーマンだろうが、価値に差はない、生きる長さだけが価値になる、という最も過酷な生き方のみを推奨する
凄くざっくり言うと、神仏をバカにしながらも認める鷲巣のように生きるよりも、アカギのようであれ、ということかと
いや、ほんとに -
Posted by ブクログ
無限の神に有限の身体。その間に挟まれてしまった"ぼく"
届かないからそっぽを向いた。
「死ぬべきものとしてとことん生き抜いてやろうじゃないの」
不屈の反抗児カミュ。
このひとのことばは緻密さにあるのではなく、反抗という飛躍によって突き動かされている。
だから、どうしたってどうしようもなくへそまがりで頑固。前を見ながら後ろを見るということを平気でやってのける。それは有限と無限の合わせ鏡によってなされる。キルケゴールとヤスパースの比較がそれだ。
永遠という神にはどうしたってこの有限の者はなりえない。だったら永遠なんて幻からは背を向けてもう一度有限の身体に戻ろうではないか。目覚めた精神によって、存在する者から実存へ飛躍する瞬間。
これが哲学上の自殺だ。永遠から背き、限界を受け容れる。無限に辿り着くことが叶わない。そんなものならいらないと、再び有限に帰っても、そこに映るのは無限によって映される己の姿だったのだ。
有限と無限の合わせ鏡の間に立つこの"ぼく"はそれゆえにどこまで行っても異邦人なのだ。
死にながら生きる。これが不条理でなかったらなんだというのだ。
ニーチェはこの間に立ってついに発狂した。カミュはそうならないためにも、実存に帰れと反抗を説く。岩を押し上げてはまた戻されるような、くり返される無意味な日常。そこで目覚めてしまった精神はとどまることを知らず、身体からの脱出を試みる。それに抗い精神をつなぎとめて生きよと。
どうしてこうも力強く反抗できるか。それは「すべては許されている」この一点に尽きる。
有限と無限に引き裂かれてもなお残る、この"ぼく"はなんなのだ。どんなに反抗しても、不条理は今、ここに在る。無限でもあり、有限でもある。無限でもなければ、有限でもない。
在るようにしか、在れない。ぐるっと回ってまた戻って来てしまう。そう「すべてよし」だったのだ。「ある」と「ない」から、「存在」が抽きだされる弁証法。
では実存として、存在として、不条理として立ち返ってしまうことはどういうことをもたらすのか。彼は演劇や小説、芸術に触れて考える。不条理を表現することで、不条理を見つめ続けよ。表現しえないものに反抗して表現をし続けろ。この不毛な行いの中に希望などない。そんなものまやかしに過ぎない。しかも、やめることなどできない。やめたら表現しえた可能性としての不条理が表現されなくなる。それはふたたび有限と無限に引き裂かれる苦しみにさいなまれることを意味する。夭折や死刑が罪だというのはここで初めて言えるのだ。
ところが、それでも不条理にとっては、表現されてもされなくても、なんら不条理に変わりがないのだ。書くことに慰め以上のことはない。この恐ろしいまでの自由。その自由に則って死に赴く。これが幸運と呼ばれるものだ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ大学生のときにゼミで扱った短編集。どれも文学的に工夫がこらされた作品ばかり。カミュがこの短編すべてを書ききるのに10年以上かかった。というのも異邦人、ペストでの成功後、自分の才能の枯渇を覚えたからだ。タイトル通り追放から王国までを綴ってある。この後ノーベル賞を受賞し、遺作となる「最初の人間」を書いたまま交通事故で他界してしまう。なんとも哲学的で悲しくも美しい作品集。
難解だが歴史や哲学を知っていると読み解くことが出来る。「背教者」は、キリスト教の伝道者が未開の地に赴くが、逆にその地にある宗教に暴力によって改宗させられてしまう。伝道師はすっかり心を奪われ次に訪ねてくる伝道者を叩き潰すように待ち構えるという話である。
この伝道者はカミュが当時論争をしていたサルトルをモチーフに描かれている。サルトルは当時、目的のためなら暴力も止むを得ないという思想を持った共産党員となった。そのことをカミュは風刺したのである。伝道者は、現地の未開人に舌を引き抜かれてしまうのだが、舌はフランス語でラングと言い、また言葉という意味も持っている。つまりカミュはサルトルが言葉を失い、暴力に染まったことを描いたのである。
また未開人たちが崇めている金属の偶像があるのだが、この偶像は当時鋼鉄の男と言われていたスターリンを表している。このように歴史的な文脈を知っているとまた違う読みの楽しみが味わえる。 -
Posted by ブクログ
世界は人間の理性では把握しきれない、しかしながら人間にはこの世界をすべて理解したいという救いがたい欲求がある、そしてその世界と理性との間の関係こそが「不条理」である。
であるから人間の救いがたい欲求を捨てようという努力や、不条理を肯定し受け入れるような方法は本来の不条理の姿を変えてしまう。
カミュは明徹な視点でこの不条理を見つめ直そうとする。
……実を言えば今回の読書で僕がこの本の全部とより深いところをはっきり理解したとは言い難い。
特にp.90の質から量への価値の転換がいまいちつかみきれない。
けれどもここのところ読む本はどれも、この「質から量へ」を示唆しているような気がする。
わからないながらとっても惹かれてしまう本だ。
サルトルやキェルケゴールを読んでからもう一度読みたい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ高校生の頃、サルトルゼミで、サルトルを読んでいました。ちょっとした解説や批評、文学以外はちんぷんかんぷんでした。この本を読んで、カミュに興味をもち、カミュの本もたくさん読みました。そういうきっかけを与えてくれた本なので、感謝しています。
論争の表面的な言葉は、原文によらないとニュアンスが伝わらないと諦めているので、特に気にはなりませんでした。
この本を読んで、カミュが好きになったことを記録します。それまでは異邦人しか読んだ事が無く、どう理解したらいいか分からずに、好きとも嫌いとも言えませんでした。本書を読んだ後、カミュの出ている翻訳はかたっぱしから読みました。 -
Posted by ブクログ
サルトル・カミュ論争を集めた論文集。F.ジャンソン(サルトルの弟子で、「現代」誌の書き手の一人)が、カミュの『反抗的人間』に対しての反論を書きつづる所から始まる。
カミュとサルトルとは、同時代の人間ではあるが思想的に全く異なる人間である、それがこれを読んで決定的に見える点である。この頃のサルトルは、贖罪の身にすでに浸っているのだろうか。革命かそれとも…、と2択を自分と相手に求める。同調するならば仲間で、そうでなければただの論敵である。一方、カミュは違う。そもそも、彼は特殊条件下であれば、原則を曲げてもよいというような人だった。暴力を否定しない。サルトルの論はいささか卑怯かな笑