カミュのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ印象深かったのはパヌルー神父の演説の変化。主語が「あなたがた」から「私ども」に変わったことが感動。他人事でなく「我々のこと」なのだと忘れてはならないと思った。
「すでに大病等に悩まされる人は、他の病気からは免除される」というコタールの考えも印象的。
リウーさんは囲いの中の人であると同時に、囲いの「外の人」としての役割も兼ねていたように思う。彼の妻が遠くで療養している、という設定は、「オランの町の外の人の気持ち」も読者に味わってほしかったから与えたものなんじゃないのかなと思った。
てか正体不明の「語り手」、あんたか〜い! 予想がことごとく外れてた。最後のほうで「分かった、この人しかいない!」って思った人がいたのに、普通に違って笑ってしまった。
後半になるにつれて目が離せなくなっていった。タルーが、自分の過去を訥々と語るシーンから。
やはりこの話、ペストという災害はあくまで比喩で、作者の訴えたいことは「人が引き起こす悪」についてなんだと思う。記録の最後があの一件で終わることで、なおさらそう思う。ってそんなことは裏表紙のあらすじに書いてあるんだけどね。改めてね。疫病収束、ヨカッタネで終わらないのが世界の理ってやつというか。人は皆ペスト患者、と言った某人物の言葉が重く響くラストだった。
ところで! ある人物が「死刑」という単語を繰り返す場面がある。それは死刑がこの人物の行動原理に絡むからなのだが。
死刑というとカミュの『異邦人』の主人公ムルソーが「死刑執行を見て吐ける人」を羨ましがる場面を思い出す。
『ペスト』のこの人物は、「死刑で吐ける人」何だろうか。そうなる側の人にもそうなる側の苦悩があるのだな……なんてことを思った。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ死刑を宣告された直後のムルソーがとても印象的。
昔父親が死刑執行を見に行き、胃の内容物を吐いたことを思い出すムルソー。そして彼は死刑執行場面をたくさん見てら、吐きたいと考える。そうできることを想像し、喜悦の波に飲まれる。
彼は母親の葬儀で泣かなかった。このことからムルソーは、一般的な感情が欠けた異質な存在と捉えられてしまった。でも彼に感情がないわけではないと思う。何度かママンの言葉を思い出したりもしてるし。
私にはムルソーが、「一般人」たちの共感性や迎合性、演技のできるさまを羨ましがっているように見えた。
だから「人と同じように死刑執行を見て吐きたい」と思ったのかもしれない。
ぼんやりとしたムルソーがラストで神父に向けて感情を爆発させるのも、「あなたのために祈ります」って言葉に腹が立ったからかな。「祈るな」と怒鳴ってるし。共感していないのにしていると軽々しく嘯いたのが赦せなかった?
「正しく共感できない自分は間違っているのかも」という考えが、彼にとっては苦痛だったんかな。だから自分の正しさを確信した後で「自分は幸福だ」と思えたのかな。
……いや、だとしたら最後の「私の処刑の日に大勢が憎悪の声をあげたら嬉しい、孤独じゃないと感じる」ってのが分からんな?
太陽が眩しかったから、という特徴的な殺人の動機も、ただ「おかしなやつ」という描写に留まらない気がする。太陽は何かの暗喩じゃないか? 例えば「自分で自分を正しいと思える人」のような。眩さに腹が立つような、憎いほど羨ましくなるような何か。
何度でも読みたくなる深い物語だ。
また読んで色々考えたい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ名作にはやはり、名作と言われる所以がある。
いや〜〜〜思ったよりも全然読みやすくて、
そして嫌いじゃない。むしろ好き。
なんだろう………
苦しい&暗い気持ちにならない名作って
意外にも少ないんだよなぁと改めて感じつつ、
この作品はなんでだかかなり前向きな気持ちになる。
勿論、ムルソーの考えや動機の全てを受け入れるという訳ではないけれど、少なくとも納得や共感する部分があって、
さっぱりしたというか…そんな感じの気持ち。
カミュの『ペスト』をずっといつ読むか…
と思いながらなかなか踏み出せずに、
短めな今作を読んでみたけれど、
より他の作品も読んでみたい!!と思った!
ちなみに、ワンちゃんと老人のシーンは
マジで心が痛かったぜ……
主人公と関係ないところで心痛めたぜ…
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Posted by ブクログ
ネタバレ学生時代に読んでから、30年ぶりの再読。
当時は「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」という衝撃的な導入と、「シーシュポスは幸福なのだ」という結びの強烈なイメージを、どこか詩的な情景として受け取っていただけのように思う。それでも好きな本の一冊でした。
今回、改めてもっとちゃんと読んでみようと思って、英語版をメインに日本語版も併せて(AIとも議論しながら)一文ずつ論理を追いかけてみました。
カミュの言う「不条理」とは、単なる理不尽さのことではない。それは「なぜ」と問い続ける人間と、沈黙し続ける世界との間に生じる、終わりのない摩擦の状態。
多くの思想家や作家は、その沈黙の苦しさに耐えかねて、神や永遠といった「希望」へ逃げてしまう。カミュはそれを「跳躍」と呼び、否定した。答えがないことを認め、それでも問いを止めずに生きること。その「逃げない」という姿勢にこそ、人間の自由があるのだと彼は説く。
カミュの説く不条理な生き方は常に実行し続けるにはあまりにも厳しいと思いますが、「地上の手触りだけを拠り所に、見えない彼方への希望に逃げ込まず、それでもこの世界の中に踏みとどまる。あるかどうかもわからない永遠や神の世界に自分の人生を左右させない」、という姿勢は心に響きます。
今回、特に印象に残ったのはドン・ファンやキリストに触れた部分でした。
不条理な人間の典型として描かれるドン・ファン。カミュの考えるドン・ファンには、宗教的な裁きを下す「石の騎士団長」など現れません。彼はただ沈黙の中で年老い、ただの人間として死んでいきます。また、カミュがキリーロフの議論を通して示唆するキリスト像は、復活による救済よりも、むしろ地上で苦しみ抜いた「人間」としての姿に強く光を当てているように感じられました。
彼らは、世界が何も答えてくれないことを知りながら、それでも自らの生の意味を問い続け、世界が最後まで答えを与えてくれないことを、そのまま受け入れる。そこには、超越的な救いに頼らない、地上の人間としての究極の誠実さを見ることができるのではないかと思います。
30年前、私は山を降りていくシーシュポスの姿に、ただ漠然とした美しさを見ていたと思います。
けれど今、感じるのは、彼が岩の方へ戻っていくあの「意識の時間」の重みです。「本当の答えはない」と自覚し、その都度自分を修正しながら、それでもなお一歩ずつ降りていく。
「シーシュポスは幸福なのだと想像しなければならない」という言葉は、勝利の確信などなくても、この沈黙する世界を自分の意志で歩き続けることへの、静かな、そして決然とした肯定のように聞こえます。 -
Posted by ブクログ
作中のペストの災厄は、経験したコロナパンデミックとよく類似していて驚いた。
そして、そのリアリティ、解像度の高さに感嘆。
パンデミックの不条理の中で、様々な人が何を感じ、あるいは感じなくなっていくか、本当にコロナで見た光景だった。
文体は、原著は読めないですが、本訳を読んで感じるところは、正直まどろっこしい感じで好きではないです。これがフランス文学流?
ただ、主人公医師のリウーの倫理観、というより作者カミュの誠実さ?は大好きです。どうしようものない不条理、絶望や虚無、無意味が取り巻く中で、愛や倫理を失わず、生きようとする様は、そうあるべきだと深く共感できるところです。
その観を、パンデミックの世界で遺憾無く表現された名作ですね。
タルーの独白あたりから、ぐっと引き込まれます。
もっともっと語っていい。思想の語り、対話がもっと欲しい。ドストエフスキーくらい聞かせて欲しかった。という気持ちもあります。