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Posted by ブクログ
少しずつ読み進めてますが、若いときの読書体験の影響力とは凄まじいもの
僕が普段、何気なく心の芯においてる在り方みたいなものの多くはここに書いてあったことなのだなーと発見をしている
「人間の尺度を超えている、だから超人間的なものでなければならぬ、という。しかし、この、「だから」は余計だ。ここには論理的確実性などいささかもない。経験的蓋然性もいささかもない。僕の言い得るのは、なるほどこれは僕の尺度を超えている、これだけだ。そこから僕は否定を抽き出しはしない。いや、少なくとも僕は、理解不可能なものの上にはなにひとつ築きたくない。自分ははたして、自分の知っているものとともに、ただそれだけとともに生きられるだろうか、ぼくはそれを知りたい。」「不条理とは意識的人間の形而上的状態であり、神へとひとを導かぬものなのだ」
これだよ、まさに、ここから出発して、この後、カミュが言うシーシュポスの状態こそが、僕が10年以上前、この本こそ僕の本だと思ったそのことだ
言いたいこと全部書いてあるし、ここでカミュが保つ態度がカッコよすぎ
不条理を凝視しながら、意識を途切れさせず、神や永遠などに逃げ道を見つけず、ただひたすら生きることにしか価値はない、そう生きればそれが王だろうがサラリーマンだろうが、価値に差はない、生きる長さだけが価値になる、という最も過酷な生き方のみを推奨する
凄くざっくり言うと、神仏をバカにしながらも認める鷲巣のように生きるよりも、アカギのようであれ、ということかと
いや、ほんとに
Posted by ブクログ
無限の神に有限の身体。その間に挟まれてしまった"ぼく"
届かないからそっぽを向いた。
「死ぬべきものとしてとことん生き抜いてやろうじゃないの」
不屈の反抗児カミュ。
このひとのことばは緻密さにあるのではなく、反抗という飛躍によって突き動かされている。
だから、どうしたってどうしようもなくへそまがりで頑固。前を見ながら後ろを見るということを平気でやってのける。それは有限と無限の合わせ鏡によってなされる。キルケゴールとヤスパースの比較がそれだ。
永遠という神にはどうしたってこの有限の者はなりえない。だったら永遠なんて幻からは背を向けてもう一度有限の身体に戻ろうではないか。目覚めた精神によって、存在する者から実存へ飛躍する瞬間。
これが哲学上の自殺だ。永遠から背き、限界を受け容れる。無限に辿り着くことが叶わない。そんなものならいらないと、再び有限に帰っても、そこに映るのは無限によって映される己の姿だったのだ。
有限と無限の合わせ鏡の間に立つこの"ぼく"はそれゆえにどこまで行っても異邦人なのだ。
死にながら生きる。これが不条理でなかったらなんだというのだ。
ニーチェはこの間に立ってついに発狂した。カミュはそうならないためにも、実存に帰れと反抗を説く。岩を押し上げてはまた戻されるような、くり返される無意味な日常。そこで目覚めてしまった精神はとどまることを知らず、身体からの脱出を試みる。それに抗い精神をつなぎとめて生きよと。
どうしてこうも力強く反抗できるか。それは「すべては許されている」この一点に尽きる。
有限と無限に引き裂かれてもなお残る、この"ぼく"はなんなのだ。どんなに反抗しても、不条理は今、ここに在る。無限でもあり、有限でもある。無限でもなければ、有限でもない。
在るようにしか、在れない。ぐるっと回ってまた戻って来てしまう。そう「すべてよし」だったのだ。「ある」と「ない」から、「存在」が抽きだされる弁証法。
では実存として、存在として、不条理として立ち返ってしまうことはどういうことをもたらすのか。彼は演劇や小説、芸術に触れて考える。不条理を表現することで、不条理を見つめ続けよ。表現しえないものに反抗して表現をし続けろ。この不毛な行いの中に希望などない。そんなものまやかしに過ぎない。しかも、やめることなどできない。やめたら表現しえた可能性としての不条理が表現されなくなる。それはふたたび有限と無限に引き裂かれる苦しみにさいなまれることを意味する。夭折や死刑が罪だというのはここで初めて言えるのだ。
ところが、それでも不条理にとっては、表現されてもされなくても、なんら不条理に変わりがないのだ。書くことに慰め以上のことはない。この恐ろしいまでの自由。その自由に則って死に赴く。これが幸運と呼ばれるものだ。
Posted by ブクログ
世界は人間の理性では把握しきれない、しかしながら人間にはこの世界をすべて理解したいという救いがたい欲求がある、そしてその世界と理性との間の関係こそが「不条理」である。
であるから人間の救いがたい欲求を捨てようという努力や、不条理を肯定し受け入れるような方法は本来の不条理の姿を変えてしまう。
カミュは明徹な視点でこの不条理を見つめ直そうとする。
……実を言えば今回の読書で僕がこの本の全部とより深いところをはっきり理解したとは言い難い。
特にp.90の質から量への価値の転換がいまいちつかみきれない。
けれどもここのところ読む本はどれも、この「質から量へ」を示唆しているような気がする。
わからないながらとっても惹かれてしまう本だ。
サルトルやキェルケゴールを読んでからもう一度読みたい。
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小説・文芸
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