春日太一のレビュー一覧
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ネタバレこれまでに一番泣けた映画と言えば「砂の器」。その後、原作も読んだのですが、映画の方がよっぽど感動的。11月27日付け日経新聞のコラム「春秋」で、この映画の脚本を書いた橋本忍の評伝が出たとあり、早速読んでみました。
橋本忍の名は知らなかったのですが、稀代の脚本家ということがわかりました。「砂の器」だけではなく、「七人の侍」「生きる」「ゼロの焦点」「八甲田山」など、自分でも見た数々の名作の脚本を手がけていたそうです。
ほぼ全編にわたって「砂の器」が出てきます。原作で、「その旅がどのようなものだったか、彼ら二人しか知らない」という、たった26文字の部分を人形浄瑠璃の手法で大幅に脚色。ところが、どの映画会社に持って行っても、「おまえ、頭どうかしているんじゃないか。今時、乞食姿が白い着物を着てあちこち歩き回るって、それが売り物になるとおもっているのか」と断られ、遂に自分のプロダクションを設立して制作。千代吉を生存させるなど、原作とは違う設定もしていますが、「映画は絶対、原作に依りかかってはいけない」のだそうです。
「字を書く仕事」であり、毎日、原稿用紙30~40枚は書いていたというのですから、まさに鬼才。取材から12年をかけた力作で、黒澤明監督との確執、俳優選びやチーム編成が映画の出来にも影響するなど、映画制作の裏話も満載。思い入れが強いせいか、「あとがき」にあるように「混沌をそのまま」書いた風でもありますが、「いやぁ、映画って本当にいいもんですね」と言いたくなる一冊です。 -
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春日太一さんの12年間に及び橋本忍というストーリーテーラーに春日太一が苦心して対峙していく様子が痛いほど感じられる大著。
後追いで橋本忍脚本映画を観てきた自分には浅い映画歴にどんどん線が引かれていく感覚で一日で500頁級の本書を読み切りました。
ただ読後感として、映画脚本・ビジネスマン両面の才能に恵まれた人物の栄光と挫折ではまとまらない、描かれていない余白があるのではないか、まだ橋本忍はわからないのではないかという感覚も残りました。
春日さんには迷惑な期待かもしれませんが『続・鬼の筆』というより『鬼の筆・ビヨンド』があるのではないかと読者としては期待せざるを得ないです。 -
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『週刊ポスト』の連載「役者は言葉でできている」を書籍化。
本書のインタビュー相手は、いずれも"名優"と称されるようなベテラン俳優ばかり。だがそのような彼らにも新人・若手時代はあり、当時の苦労・苦悩は現代の我々にははかり知れない。
当たり前だが、彼らは最初からスターや名優ではなかった。俳優としてよりよく在ろうとする彼らの話は興味深く、含蓄に富む。「日々鍛錬し、いつ来るともわからぬ機会に備え」(註:朝ドラ『カムカムエヴリバディ』より)てきたからこそ、現在があるのだろう。同時に現在の俳優業界や作品(殊に時代劇)制作現場に対する彼らの憂いや不満は、観客/視聴者の我々以上に痛切なものなのだとうかがえる。
2015年(本書の初版発行)、そして2022年現在、本書に登場する俳優の何名かは亡くなってしまった。惜しいものだ。 -
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古今東西のシネアストの中で、最も妥協なく映画制作に臨んだのはチャップリンという見解がある。本書を読む限り、勝新太郎も負けていない。
出演交渉を断ったのだから、カツシン版『戦場のメリークリスマス』は夢の夢として、カツシン版『影武者』ならフィルムが何尺か残っている気がする。いつか観られる日に期待したい。
ブルース・リーとの共演が流れたのは惜しまれる。『ドラゴン怒りの鉄拳』を観た勝の感想は「紙芝居みたいな映画だな」だと聞き及んでいたが、本書によれば「これはマンガだよ」
マンガといえば、私の中では手塚治虫『火の鳥 鳳凰編』映画化の際、我王は勝新太郎が演じるべき、という想いがある。
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メチャクチャ面白かった。たぶん今年のベスト1だと思う。
東映の黎明期から時代劇、任侠、実録路線までを膨大な量のインタビューと資料を駆使して活写している。
東映映画ファンでない人はどうなんだろう。少し割引いて考えなくてはならないのだろうけど、それでも楽しめると思う。固定的な映画館を持たなかった東映は普通の映画会社の倍の映画をものすごい熱気で作り続ける。東映撮影所では皆走っていると言われていたとか。
できあがった作品より現場が面白い。東映は今まで何本の映画をつくってきたか知らないが、この本を映画化できたらそれが一番面白いものになるだろうと思う。見る人は限られるかもしれないが。
『例えば、侍が殿に伺候するシーンを描くとする。これを所作通りの段取りで進めれば、次のような流れになる。まず侍が襖を開け、おじぎをする。これに対し殿が「近う」と声をかける。それで侍は中に入り、襖を閉めてから前に進み、殿の近くに座り、刀を置き、それから両者の会話が始まる。これが従来の多くの時代劇で採られた手法だった。
ただ、物語の展開と直接は関係ない段取りを丁寧に積み重ねていては、テンポがまどろっこしくなり、観客に飽きられてしまう。そこを東映時代劇の場合は、たとえば前日に侍と友人の間で「明日、殿に言上しにいく」「そうか」と会話をさせたら、次のカットでは殿と侍が対面している場面による。その結果、物語上で大して必要のない所作事に時間を割かれることなく、前へ前へテンポ良く物語を進ませることになり、観客は飽きさせない構成になったのだ。』
『「遠山の金さん」では、主人公が町人《遊び人の金さん》として町へ出る時、ほっかむりをするだけの変装しかしていない。それでも悪党は奉行所のお白州で対面しても、目の前にいる奉行の正体が「金さん」だということに桜吹雪の刺青をその見るまでは気づかない。
「あれ、どう見たって知恵蔵じゃないですか。気づかないのはおかしいですよ」
そう疑問を呈する平山。松田は動じない。
「これは意識的にやってるんだ。客は気づいているのに悪役は気づいていない。だからお客さんは優越感を感じることができるんだ。時代劇の悪役といえばヤクザとか権力者とか、普段から偉そうな奴らだろ。そういうのを鼻で笑うことでできるんだから、お客さんにとって、これほど痛快なことはないんだよ」』
『大映と東映両社では、使われる証明器具も異なる。大映では光量の強い、大きな器具を一台使ってスポット的な一発を当てる。それによって、照明の当たっている所とそうでない所がハッキリと分かれ、陰影の濃淡の強い映像になる。勝新太郎は座頭市を演じている時、目をつぶったままでも正確な位置への移転ができてと言われているが、それは照明の当たっている所とそうでない所の温度差が大きかったために、肌で感じる光の強さで自ら立ち位置を把握することができたからだ。
一方の東映では、小さな照明器具を何台も使う。まず、一台のメイン照明はスターの顔と同じ高さに配置し、正面から明るく綺麗に照らす。その上で、周囲に小さな照明器具を使って、顔から一つ一つ、細かい影を消していく。ただ、それだけでは顔だけが浮かび上がることになって、かえってブサイクな映りになる。そこで、背景も同様に明るくするため、スタジオの二階に組まれた足場の三百六十度に張り巡らされた照明を使ってセット全体を明るく照らし出すのだ。』
『上野はここで、「息の詰め方」を徹底的に研究した。真っ暗闇の中には近衛が一人だけ映る。闇の中から敵はいつ出てくるのか・・・観客は黙って息を詰めて待つしかない。そのしてギリギリまで緊張を盛り上げたところで突然現れ、静寂の中に近衛の悲鳴が響くことで観客を「ドキッ」とさせる。それが上野の狙いだった。
この息を詰めさせる時間が短いと緊張を盛り上がらないし、長いと観客が息を吐いてしまって緊張が途切れる。どうカッティングを積み重ねれば最もいいタイミングでの悲鳴になるのか、上野は尺数や画面サイズなど、計算に計算を重ねた。』 -
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ネタバレNHK『ねほりんぱほりん』の「腐女子」回で、現役腐女子たちが赤裸々にその生態を語っていたが、それをさらに掘り下げた印象を受けた。<腐女子の視点とは、作品をよりディープに楽しむハイレベルな知的遊戯である>とのポジティブな観点から、腐女子的な思考が、おじさん2人によって徹底的に腑分けされていく。
著者2人の萌え語り(=人生語り)が、楽しい上に興味深いものばかりで、読むこちらまでも内省的な気持ちになり、思考がクリアになった。新たな発見が数多いという意味で、これはもはや学術書のレベルに達している気がする。
あとBL・やおいに限らず、「関係性に萌えを見出す」「描かれていない部分を、能動的に想像力で補う」という楽しみ方は、のめり込むコンテンツがあるオタクならみんな共感できる筈で、創作論の本にもなっている。
(実際、春日太一は本書の中で、面白い作品にはおしなべてBL的と言えるキャラクター同士の激烈な関係性が存在することを指摘している)