春日太一のレビュー一覧
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「本格ミステリは映画に向いてない」という話が面白かった。
《犬神家の一族》について、『この映画は本格的ミステリ映画として製作されたのですが、本格的ミステリ映画として製作されてここまで大ヒットした上に、後世まで評価されている作品というのは、実は日本映画史上この映画だけだと言っても過言でない。』と書いている。
クリスティ作品といった本格ミステリは、殺人が起きて、後は、犯人探しのための関係者の尋問シーンが延々と続く。小説でもこの部分はたいがい退屈なんですね。最後の解決編で、その退屈な部分が見事に再構成されるところが快感なので、我慢して読むしかない。
しかし、それを映画でするのはさらに退屈だというのです。
ヒッチコックは娯楽映画の三大要素として、ミステリーとサスペンスとサプライズをあげている。謎があて、それを解いていくのが「ミステリー」となるが、『隠された事実というのはサスペンスをひきおこさない。謎解きにはサスペンスなど全くない。一種のち的なパズル・ゲームにすぎない。そこにはエモーションが欠けている。殺人事件が起こって、あとは、犯人がだれかという答えが出るまでじっと静かに待つだけだからね、エモーションがまったくない。』
『犯人探しのために調査する、聞き込みをするという場面は、情報の交換をしているだけなので、感情が動かない。つまりミステリーは映画だと動きや感情表現しにくいし、推理の主だった部分も頭の中だけれで行われるから画にならない。観ている側としては、退屈なものになってしまう。』
テレビだと、ニ時間ドラマ、刑事ドラマでは、会議室などで事件のおさらいを延々説明するシーンをいれてます。それができるから、テレビドラマの世界ではミステリが成り立っている。テレビは「ながら視聴」が基本なので、説明的な場面を作って、画が死ぬことになっても、視聴者は音声だけ聞いていることもあるので、長々としたダイアローグも許される。しかし、暗い中でスクリーンに釘付けにされる映画だと、画が死ぬことは許されない。なので、ミステリの謎明かし自体をクライマックに持ってくるということは、基本的にまずやらない。
コメディ・リリーフの起用(インタビュー的な捜査、事情説明のシーンには喜劇的な芝居を入れる)
徹底した誇張(登場人物はことあるごとに「キャー」と叫ぶ)
短いショットの積み重ね
不自然な会話(日本語の解体)
傍観者としての探偵=観客の視点の探偵
なるほどね。かなり考え抜かれた作品なんですね。もう一度見たくなる。
『力強い健康的なヒーローは一人もいません。みんなウジウジ・ナヨナヨしているか、飄々としている。熱い友情とか正義感を前面に出すことは決してない。』
『人間にも景色にも躍動感がない。「動」的なものを全て解体して、一枚の画として「静」的に提示している。』
『映像に対しての根本的な発想としてあるのは、「ありものを撮る、映す」という感覚ではありません。「一枚一枚の画を描いて、それを繋ぎ合わせていく」という発想なんです。』
『徹底的に三人称の視点から世界と人間を客観的に捉え、決して熱くなることなく冷めたタッチで描く。』
『「情に訴える感動」をさせないというのが、市川崑の美学でした。』
『市川崑の映画に登場する人物たちは主張を高らかに語ったり、感情を大きく爆発させたりするようなことはしません。また、感情が発露する場面になるとカメラが引いたり、カットを細かく割ったりと客観的な視点に転じ、容易に感情移入させてくれません。』
『市川崑がやろうとしたのは、日本人特有の性質に根ざした、伝統的な日本映画の技法に対する挑戦でした。その象徴として「ハート」つまり「情」があり、その非近代性をなんとか現代的に解体しようとします。』
『《細雪》を分岐点にして天使が去ってしまい悪魔に魅入られたということができる。天使はもちろん和田夏十ですが、悪魔とは誰か-それが「監督クラッシャー」と言うべき吉永小百合です。吉永小百合と組むようになると、ほとんどの監督が駄作を連発するようになり、評判を落としていく。そんな彼女の現代にまで連なる「監督クラッシャー伝説」の生贄の一人が、市川崑でした。』
『アップの時に瞬きすると、そこでカットがかかる。「スクリーンに大きく顔が映るのに瞬きなんかすると、それで一つの芝居になって新しい意味が生まれる。だから、だめなんだ。』 -
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日本映画が一番元気の無かった時代、邦画を観るのがダサいなんて思ってた時に、奥山さんが日本映画を復興し良い作品を作ろうと闘っていたとは知らなかった。映画会社が自分の劇場で上映する映画を作ってチケットの売上で興行を上げようとする時代。読んでいて懐かしさを感じながらも、松竹のカラーに合わないと自分の会社の出資を得られず、他で資金集めに奔走する様は、大変な時代だったんだなあと思った。自社の改革に奮闘しながら作った作品は、当たるのもあればそうでないのもあって、最期は松竹を追い出されてしまう。奥山さんがいなければ、監督北野武も生まれなかったのに。「その男、凶暴につき」の製作エピソードは非常に興味深かった。僕は、北野武も、深作欣二も、野沢尚も好きなので、フライデー事件を挟みながら、作品がどんどん当初のものと変わっていく様は、映画ファンとして読んでいて感無量だった。その後に傑作「ソナチネ」を一緒に作りながらも、北野武と齟齬が生まれて離れてしまう無念な想いは哀しかった。才能に惚れた監督に尽くそうという想いと、作品への情熱で良い方にコントロールしたいという想いと、「RAMPO」を再度作り直してしまったように、映画にのめり込んでいく想いを疑似体験しているような気分になった。「GONIN」や「うなぎ」など、好きな作品のエピソードも読めて楽しかった。
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奥山和由がプロデューサーとして活動していた90年代、ぼくはほとんど映画を見ていなかった。それでも彼の名前は悪い印象とともに知っているのだから、当時、相当ネガティブな報道がされていたのだろう。2002年に高田馬場の名画座「早稲田松竹」が閉館したとき、早稲田の学生の間で「あれは奥山のせいだ」という噂がたったこともあったなあ。そういう色眼鏡のもと読み始めたら、奥山和由の映画やクリエイティブにかける思いがとても熱くピュアで驚いた。印象が180度変わったと言ってもいい。
中で出てくるエピソードが、どれも濃い。特に深作欣二や北野武とのエピソードは、それ自体が映画になるような内容だった。「ハチ公物語」を撮るために、東映の岡田茂や東急電鉄の五島会長に会いに行く様子は、月村了衛の傑作小説『悪の五輪』を彷彿とさせる。吉本興業・大崎会長との因縁も興味深いが、意外とあっさりめ。ここはかなり抑えめに書いたのかな。
早稲田松竹の件への記述がなかったが(もとはあやしい噂だし、当然だよね)、この本を読んでいると、彼が手掛けた映画を見たくなってくる、邦画に興味がある人は必読! -
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『週刊文春』に掲載された300超の日本映画のコラムの中からセレクトされた93本と、書き下ろしの洋画編5本、ライムスター宇多丸さんとの対談からなる1冊。
正直なところ、私は映画評論家によるかっちりとした評論がどちらかといえば苦手であり、何が苦手なのかと考えると、評論とはなんぞや、どんな人がどの位の目線で語るのか、から始まって考えが纏まらず、結局は気持ち悪いとか表現がまどろっこしくて不快とか、熱い思いが伝わってきたから何がなんでも観たくなったとか、個人の自由な主観で受け止めて良いもの、として捉えることにしている。
で、立派で詳しい解説や評論も、あまりにも語っている人の人物像や癖とか人が見えてこない文章には、気味の悪さを感じてしまうことに気づいた。
作品について書かれたものはいろいろとあり、作品の裏話だったり、違う目線を提示してくれる文章に出合うと楽しい。小難しい話や文体でなく、楽しくするすると読める映画レビュー本。この本は、まさにそんな感じ。
プロの文筆業の方をこう評するのはおこがましいけれど、抜け感といい情報のバランスといい絶妙でいちいち上手いな、と思った。計算された、巧みなとっつきやすさ。
とりあげられている日本映画は、観たことがない作品がほとんどだけれど、片っ端から観てみたくなった。確かに昔の日本の映画には、とてつもなく熱い作品が多かった。あの時代ならではかもしれないけれど、人間くさい業とか欲とか情念とか、どこか振りきれていた。綺麗で美しく整ったスタイリッシュなものばかり観ていると物足りなくなる何かが昔の日本映画にはあったなぁ、と懐かしく思った。
時々出てきた観たことがある作品について書かれた回も面白かった。
私もあの女優さんは苦手だなとか、この作品には圧倒されたなとか、『敦煌』映画館に観に行って良かったなとか、若い頃に初めて観た『八つ墓村』は落武者の生首のインパクトが一番強烈で、村人を殺してまわる要蔵よりも洞窟の中で辰弥を追いかける美也子が最高に怖かったな、とかいろいろと懐かしいからこの本オススメです。 -
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東映京都撮影所…オモテの世界と裏の世界の境界線で生きる映画人たちを時代劇研究家の春日太一氏が圧倒的な取材量と熱い筆致で描く。
内容は戦前から現代までの歴史を網羅的に描いているが、僕が重要だと思った時代区分は次のとおり。
(1)中村錦之介らスター中心の時代。いかにスターを美しく撮るかが重要。スターが刀を振れば殺陣が勝手に倒れてくれる様式美の時代。
(2)高倉健、鶴田浩二ら任侠道の時代。主人公も汗をかき血を流す。労働者や学生運動家に支えられた不良感性の時代。
(3)深作欣二「仁義なきシリーズ」の実録ヤクザ時代。リアルな残酷描写が、大衆の覗き見願望に訴えた。
(4)「鬼龍院花子の生涯」から始まる女性受けを狙った美しいパッケージの時代
撮影の裏で繰り広げられる、エピソードの数々が尋常ではない。とある大物歌手(作品中では実名)は映画出演に際し、クレジットの先頭に名前をのせるようヤクザを使って 脅しをかけるが、後に2代目社長となる岡田茂は毅然と断りヤクザからも一目置かれる存在となる。
「鬼龍院〜」は元々、梶芽衣子の持ち込み企画だったが脚本の都合で梶は外された。主人公を演じたのは五社英雄監督の自宅に直談判に来た夏目雅子。彼女は自分が白血病であることを知りつつそれを隠してこの役を手に入れた。
などなど、ネタバレだけどネタバレじゃない。まだまだ熱いエピソードが山ほどある。春日氏の東映京都への普通じゃない愛情が伝わってくる。 -
Posted by ブクログ
冒頭から五社自身が語っていた身の上話のウソが暴露される。ウケるためだったら平気でウソをつく見栄とハッタリの塊のような男の肖像が、丹念な裏取りで描かれる。
テレビという当時見下されていたメディアから上から目線を見下していた映画界に殴り込みをかける気負いから、元からのハッタリ気質に磨きをかけ、映画の見世物としての原点に戻って成功していく。
今のテレビ界と映画界の関係を見ると信じられないような状態で、ここ数十年の変化の大きさにほとんど嘆息する。
一方で安定したサラリーマンというテレビ局員としての地位をなかなか捨てきれない小心さも描かれる。その地位を思いがけない形で放棄せざるをえなくなり、退路を断つつもりで背中に入れ墨を入れる。このあたりは、さすがに調べきれていない部分が多い。
振幅の大きい、大胆さと小心さ、ハッタリと繊細さが混ざった一人の男の軌跡がそのまま作品に反映しているのが浮き彫りにされる。
どの作品が誰に企画だったかといった原点にまで遡って調べてあるのが貴重。「鬼龍院花子の生涯」が梶芽衣子の、「薄化粧」が緒形拳の持ち込み企画だとは知らなかった。
多くの人たちとの協力関係も描かれ、だから「鬼龍院」の起死回生のカムバックもできたのだろう。
裏をかえすと、割と安直に頼まれると、あるいは思いつき程度でほいほい仕事を引き受けたので、特に晩年いささか仕事が荒れたところも「北の蛍」「十手舞」などの失敗として具体的に指摘している。
映画・テレビ以外にもやっていた週刊誌の対談連載なども丹念に取り入れ、どうやって女優たちを脱がせたか、といった下世話にして大事な話も収録している。 -
Posted by ブクログ
東宝vs東映というふたつの映画会社の興亡史というより、時代vs映画だったり、ビジネスvs文化だったり、都会vs地方だったり、製作vs興行だったり、質vs量だったり、巨匠vs新人だったり、さまざまな対立が目まぐるしく攻守を変えながら展開する産業史。一方の強みが、アッと言う間に弱点となり、追いつめられた方の開き直りがアッと言うような逆転を生む、章が移るたびに状況が変化し、そして徐々に徐々に衰退していく映画産業の戦後史を一気に駆け抜ける本です。ふたつの会社、ひとつの業界の浮き沈みがこんなにも激しいのは、やはり、扱っているものがエンターテイメントであり、アートだからでしょうか?1973年公開のそれぞれのヒット作をもじった題名「仁義なき日本沈没」は「血で血を洗う抗争が、やがて日本映画を深く沈めた」という意味を表しているようにも思え、意外にピッタリ!