岸政彦のレビュー一覧
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意味づけや解釈から解放された、ただそこに偶然あるものとして事物をみたいという気持ちがずっとあったので安らぎになるような話は多かった
けどこの作者さんはかすかに希望を持たせるスタイルなので、そこが少し私とはズレていた
「だからどうした、ということではないが、ただそれでも、そういうことがある、ということはできる」
いうことができてどうなるのと諦めてしまう反抗期がまだ残存している
私たちの人生はいくつものストーリーが重なってできており、意味を成す流れが先に存在しそこに矛盾しないように整えられる側面も大きいが、そのストーリーの手中から漏れる無意味のかけらが、そこにただ在るものとして感じられる。
凄惨な経験について語る時、その反応によって被害者や抵抗者という何か決まった役になってしまうのが常だが、演者になりきらず行き場をなくした感情が乾いた笑いとしてでてくることもあり、それもまた、ただ在るものとして存在する無意味のカケラなのではないかと。ストーリーからの解放、ナラティブに収まりきらない断片が自由として現れている。
p106手のひらのスイッチの内容は何度も何度も考えてきたこと。世の中にはそれと明言されているわけじゃないが、自ずと、「みんな」が共通認識として基盤に据えている良し悪しの価値判断が透けて見える表現が溢れている。ある人が、あまりにマジョリティど真ん中であるためにマジョリティであることの自覚すらなく発する言葉が、マジョリティ/マイノリティの境界線、その人が柔らかく保護されている結界のようなものの存在を、受け手に強く意識させることがある。そういう柔らかな膜の存在すらわからないように、全ての価値判断語の主語を自分に据えればいいんじゃないか。そう閃くが、世間一般ではどうかという周りの風景から目隠しをして自分を主語にした場合、「ーしたい」「ーが好き」という文の穴埋めが困難になる。結局それぞれの価値観を大事にしようなんていう多様性は一人一人が独立して絶対的な位置感覚を持つ生き物ならシンプルだが、自分以外と自分の境界が滲んでいてどこまでが自分なのかすらそもそも曖昧な状況においては機能しないと思う
水彩画で色彩が滲みあってさまざまなグラデーションに満ちた世界が形作られていき、私たちはその中のどこかに位置しているようなものだと思う。私たちそれぞれの位置する色をみて、何を混ぜればドンピシャでこれを作り出せるのだろう?それすらよくわからず生活している。かといって全ての色に対して、これは何かと何かの混合物とかではなく、もともとこういう色として、色の三元色くらい絶対的なものとして存在していたよね、と名前をあてがっていくのなら、その作業は途方もない。自分と似た色彩の美しさを無意識に誇る姿に疑問を感じるのも不遜な気がしてしまう
自分の疎外感を改善しようとすればするほど、自然に溶け合った価値観を強く自覚して辛いのに、別の時にはその当たり前の存在に助けられていることもまたやはり辛くて、結局全てをそのまま受け入れようと諦めてしまう
根本的にやはり1人だからこそ、土偶や鉢植えや鍋といった何気ない媒介で生活史を共有できた時に、1人であることが自覚される寂しさや、否応なく侵入された瞬間の意外な心地よさが、身に染みるんだろうか -
Posted by ブクログ
なんとなく、ただなんとなく、タイトルに惹かれて読んでみた。
……これがまた少し難しい。
でも、きっと、大阪のどこかにこういう人たちがいて、生きてて、でも死んだような生活で……
今この人たちはどうしてるんだろう……
そんなことを、読み終えた時に思った。
私の地元は大阪に近く、小説の中に出てくる地名もなんとなくそこの雰囲気がわかる。
大阪ってキラキラしてる部分もあるし、澱んで暗い灰色の世界もある。
その中で、今日も生きてる人たちがいる。
…………この本を読んで、何か得たのかと言われると、難しい。でも、“何か”を感じたような気はする。
そんな不思議な本だった。 -
Posted by ブクログ
社会学者の岸政彦さんと6人の研究者との対談をまとめた本。社会学者として調査対象とどのように関わってきたのか、その中でなにを感じていたのか書かれている。
以下気になったところメモ
・社会学の目的、単に問題解決を目指すのではなく、まず「理解したい」。社会学はリカバリーやサルベージのような、答えを出すものではなくて、すでにあるものの価値を見つめ直す、拾い上げる学問。
・中動態とは「自分が行為の主体でもあり、同時にその行為の影響を受けている」という状態。つまり、「する」と「される」が切り分けられないような行為。(部落問題や差別、福祉、貧困といった社会学的テーマでも、「自分のせいなのか」「社会のせいなのか」という二択で語れないことが多い。そこで、中動態的なまなざし=行為の複雑さを理解する視点が必要)
・なぜ外国籍の人を怖がるのか、部落問題に拒否感をもつのか、生理的嫌悪でもなく、リスクという言葉でも片付けられない、これが差別論。
・責任の話。人の行為は偶発的に決まるところもあるのに、その人が自分で選んだからといって責任をかぶせることに問題があるのでは。
・加害者を書くことが責任解除につながる(DV加害者の「自分語り」は、ときに「自分もつらかった」「こうするしかなかった」といった言い訳や正当化を含み、それをそのまま書いてしまうと、読者にとっては「加害を理解し、共感する」形になる可能性がある)
途中途中、言葉を調べながら読んだ。
社会学者は、多くの人の人生を集めながら、そこに語られる共通点を探してその奥にある理論を見つけていく。でもそれを見つけたからといって、すぐに何かが変わるわけでもない。不思議な仕事だなと思ったり。 -
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小学生のあの頃、、、
懐かしい記憶が蘇る、、、
そんな一冊
土曜日は半ドン
昼から半日だけが休みだった
途中から第2、第4土曜は休みになったはず
給食の牛乳は複雑な三角形をしたパック
途中からビンに変わったはず
好きな女の子にちょっかいを出す
度が過ぎて泣かしてしまう
途中から後悔したはず
違う小学校に友達ができる
サッカーをしていたから
最初の頃は話はしないけど
途中からめっちゃ仲良しになったはず
嫌な感じのおばちゃん先生がいたり、、、
ときどきうんざりする友達がいたり、、、
学校は楽しいけど行きたくないときがあったり、、、
あの頃の懐かしい記憶が蘇る、、、
そんな一冊
(個人的にだけど) -
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◾️他者の合理性を理解する
こうした、私たちにはあまり縁のない人びとの、一見すると不合理な行為選択の背後にある合理性やもっともな理由のことを、ここでは「他者の合理性」という言葉で表現したいと思います。社会学、特に質的調査にもとづく社会学の、もっとも重要な目的は、私たちとは縁のない人びとの、「一見すると」不合理な行為の背後にある「他者の合理性」を、誰にもわかるかたちで記述し、説明し、解釈することにあります。
質的調査の社会学の仕事は、いろいろありますが、つきつめて考えると、この「行為の合理性の理解」ということに尽きます。人びとの行為や相互行為、あるいはその「人生」には、必ず理由や動機が存在するのです。その行為がなされるだけの理由を見つけ出し、ほかの人びとにもわかるようなかたちでそれを記述し説明することが、行為を理解する、ということです。理由や動機の多くは、当事者にとっての「利益」や「利得」、あるいは(経済学の用語でいえば)「効用」というものに結びついています。もちろんこの行為や利得というものは、単に金銭的な利益なのではありません。それは非常に広い意味において使われています。
◾️参与観察の視点
私は参与観察とは、特定の人びとの視点に依拠して物事を捉える営みだと考えています。…
このように参与観察とは、フィールドのあらゆる関係者を万遍なく扱うのではなく、特定の人びとに観察の視点を係留してそこから調査を開始する営為だと思います。複数の視点を超越した地点から、第三者的に物事を捉えるものではないのです。では参与観察は、恣意的な視点に基づいた恣意的な観察なのかと言われると、それは違います。なぜなら、参与観察の重要な著作の多くは、特定の人びとの視点に立って物事を観察しながら、同時にその成果がどのような人びとの視点を経由したものであるかを自己言及的に記述するからです。
◾️インタビューに関する2つのアドバイス
…ひとつは、「頭のなかに情景を描きながら聞く」ということと、「なるべくそのときの感情や印象を聞く」ということです。頭のなかに情景を描きなが聞くと、その「絵」の足りないところを埋めていく感じで、かなり具体的な質問をすることができます。それから、これも繰り返しになりますが、たとえば学校のことを聞くときでも、何年にどこのどういう学校に入ったか、という事実だけを聞くのではなくて、その学校でどういう時間を過ごしたのか、主観や感情や印象に関することをじっくりと聞いてください。
…
もうひとつ、インタビュー中に気をつけなければならないことで、とても大切なことがあります。それは、語り手の語りを絶対に否定しない、ということです。これはとても、とても重要なことです。私たちは、議論をするために誰かにインタビューするのではありませんし、ましてや、相手の考えの間違っているところを指摘して、言い負かしてしまうということは、聞き手の行為としては最低のことです。たとえ相手が犯罪者でも差別者でも、その語りや意見をその場で否定したり、言い返したりしてはいけません。あるいは、相手の生き方や価値観の間違っているところを、上から否定して説教したりアドバイスしたりしてもダメです。 -
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「自分のエクストリームな体験や当事者性やアイデアで書けるのは一冊だけ。あとは『型』と『練習』。音楽でも文章でも学問でも同じ」(p.49)
すきな作家はいつも、同じことを違う言葉で書く。それが彼らの「型」なのだ。
電車が停まったとき、誰か亡くなったのかなと思える感性をうしなわずいたい、と綴る筆致はやわらか。一方で、「生きづらさをなくそう」「居場所をつくろう」といったふよんふよんした言説には一つ線を引く。わたしが引かれた哲学も確か、じゃなくて、殴ったら殺されそう(殺せそう)な煉瓦みたいな硬質な思想であった。
白眉は書き下ろしの「おはぎ日記」。実家の犬の最期も不思議だった。家族がそろえる日を選ぶかのように旅立った。雨の日だった。身体の自由がきかなくても、トイレに向かおうとした。ちいさくひとつ鳴いた。さよなら、というみたいに。あちこちに、いまもあの子の思い出が宿る。でもあの子はいない。筆者の愛犬の写真を見て、あの子の写真を見て、笑顔になって、すこし泣く。 -
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面白かったけどなかなか難しかった。
3〜5章は特に。
5章は、世界システム論から所有を語っているということで大変関心を持って読んだ。
世界システム論と所有の接続ポイント(「外部の内部化」=収奪)まではよく理解できたが、その後、リオリエントのくだり以降は議論を追えなくなってしまった。
1章は、新聞記事を並べるだけじゃなくてもう少し論じてほしかった。
あの新聞記事と所有権の解体には飛躍があるのに、そこを埋める議論が抜けている。
戦後沖縄の空気感はよく伝わった。
圧倒的にわかりやすく面白かったのは2章。
さすが小川さやかさん。
どうしたら私は所有の欲望まみれのこの私から解放されるだろう?という問いのヒントをタンザニア商人から教えてもらうつもりで読み進めた。
まず所有しないことのメリットは、『チョンキンマンションのボスは知っている』で論じられていた通り、リスクヘッジであることはよくわかった。
ひとまず私は銀行口座をもう一つ開設しないとタンザニア人に卒倒されてしまう。
一方でいま我々は、いろんなものを所有することで自分を打ち立てている。
私もそうで、服やアクセサリーが好きだしどういうものを身につけているかで自分を規定している部分は大きい。
でもタンザニアの人は、「手放すことで自己を打ち立てる」のだという。
手放すこと(贈与したり売ったり貸したり)は自己を打ち立てることと反対のように思えるが、手放したものにも自己は宿っていて、手放した先の新たな所有者が自己の存在をそこに感じてくれる。
そうして手放すことでも自己の唯一無二性を他者から承認してもらうことができる=自己を打ち立てることができる。
このような理屈だった。
とても納得できるものだったし、凝り固まった所有欲に支配されている自分に新しい風を吹き込んでくれると思う。
ただ、一つ気になったのが、「上記のような自己の打ち立て方は、人との関わりが煩わしくないだろうか?」ということ。
所有なら、他人が単に外から見るだけである程度自己ブランディングに成功するわけだけれど、手放すことによる自己の打ち立て方は他人との濃密な(?)コミュニケーションなしには成立しない。
それを煩わしいのでは?とか思ってしまう私は、さめざめとした現代人なのだろうか…