岸政彦のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
本書は、「生活史」を聞き取り、書き、それを公にすることについての「問題集」である。私が本書を誰かに勧めるとしたらそのように紹介すると思う。この本は、ノウハウを示したマニュアルやレシピのような本ではない。「生活史」作成を巡って直面する問題の「解答」を示してくれる本でもない。(解答のない)「問題」集であり、そう読まれるべき本たのではないか、と思う。
もちろん本書は、『東京の生活史』『大阪の生活史』の監修者であり、同プロジェクトを率いてきた岸政彦氏による『生活史の方法』というタイトルの本であり、本書のベースには、市民とともに「生活史」プロジェクトをすすめてきた著者がその具体的なプロセスのなかで、何をどのように考え判断してきたかが開示されている。
でもそれは、あくまで、岸さんが直面したその状況のなかで考えたことなのであり、「生活史」を聞くこと、書くこと、そしてそれをPublishすることにおいて考えるべきことのほとんどは、個別具体的なプロジェクトの文脈のなかで、聞き手が誰であり、語り手がだれであるのか、という具体的な状況のなかで、ひとりひとりが考えていくしかないし、そうあるべきなのだ。
私自身が、まさにこれから、市民とともに人々のライフストーリーを集めるプロジェクトを始めようと思っていたところだったので、本書がこのタイミングで発刊されたことそれ自体がありがたかった。
いろいろなことが、考えられることすらないまま通り過ぎ去られてしまうことが多いなか、「生活史」を聞き書くことにおいて考えるべき「問題」を明らかにしてくれていること。それ自体が、本書のなによりもの価値なのだと思う。 -
Posted by ブクログ
お粗末な言い方になるけれど、この社会には、ほんとうに様々な人々がそれぞれの人生を生きている。その人生たちには個別性、独自性、唯一性がもちろんあり、それらについては忘れがちだったりする。本書はそういった人間、人生の、唯一性のある断片を、著者の主観(人を完全な客観で見ることはできない)から不完全なままのかたちで綴っている。
本書を読み進めるうち、僕は自分の生きる世界の狭さ、他者への料簡の狭さを痛烈に感じさせられることになった。他者に気を配り、他者の気持ちを想像をして生きている自負がこれまで少しはあったのだけれど、いかに自己中心に、自分の世界に閉じこもって生きてきているか、ということ突き付けられてしまった。
他者を知らないこと。他者を想像することの貧困性。不幸もアクシデントも、見舞われる当人にとっては、身も心も削られたり切られたりする苦しみや痛みに満ちたものが多いだろうけれど(でもまたそうではなく、そういった困難にもあっけらかんとしている人だったり、通り抜ける風のように位置づける人だったりもいるんだということも、僕自身の理解が届かなかったり考え方と齟齬が生じるという不都合のため、あるいはごく少数の例しか知らないため、僕の脳内で無いものとしてしまっていたことだったけれど、それを再確認することができた)その混み入った内容の濃さだけでいえば、とても豊かだった。
そういったエッセイが本書。良質でよみやすいタイプの純文学を読んでいるかのような読書体験だった。もう10年ほど前に出版された作品なのでほんとうに「遅ればせながら」になるのだけれど、「おすすめ」とさせていただく。
では以下、引用を三つほどして終わります。
__________
私たちは、つらい状況におちいったとき、ひたすらそのことに苦しみ、我慢し、歯を食いしばって耐える。そうすることで私たちは、「被害者」のようなものになっていく。
あるいはまた、私たちは、正面から闘い、異議申し立てをおこない、あらゆる手段に訴えて、なんとかその状況を覆そうとする。そのとき私たちは、「抵抗者」になっている。
しかし私たちは、そうしたいくつかの選択肢から逃れることもできる。どうしても逃れられない運命のただ中でふと漏らされる、不謹慎な笑いは、人間の自由というものの、ひとつの象徴的なあらわれである。そしてそういう自由は、被害者の苦しみのなかにも、抵抗する者の勇気ある闘いのなかにも存在する(p100)
__________
→我慢し、耐えること。そういうことを「オトナ」になることとするならば、「オトナ」になることとは、被害者のようなものになることなのかもしれない。繰り返しみたいになるけれど、「オトナになれよ」なんて言い方を今一度思い出してほしい。引用部分を踏まえると、「オトナになれよ」は自ら被害者になってみるんだよ、という意味に意訳できてしまう。これは、社会の末端部であるのが個人であり、その個人に受け止めさせる論理でもある。それが、美学として価値化されているということだろうか。社会はこうして安定する。自己責任とする論理と似ていはしないか。
__________
むしろ、私たちの人生は、何度も書いているように、何にもなれずにただ時間だけが過ぎていくような、そういう人生である。私たちのほとんどは、裏切られた人生を生きている。私たちの自己というものは、その大半が、「こんなはずじゃなかった」自己である。(p197-198)
__________
→ゆえに、夢や期待を膨らませずに無難な人生を選び、うまく軌道に乗ることができる人もいる。それはそれで否定されることではないのだけれど、こうした数々の「裏切られた人生」の積み重ねのなかに、「裏切られずに成就した人生」も確率的にでてくる。そういった人生が、社会や他の人々に恩恵をもたらしたりもする。この引用部分の章には、人生は無意味だからこそ捨てられる(賭けることができる)というような箇所がある。人生は大切なものだけれど、固執して保護しすぎるのはまた違うということなのだろう。
__________
しかし、たとえ牛や豚を食べていても、イルカや鯨を殺すことに「反対を表明する」ことはできる。いまどきそんなものは誰も食べないし、鯨肉の場合は在庫も余っているらしいし、わざわざ殺さなくてもよいと思う。
それは確かに完全な論理ではないが、私たちはそれが不完全な意見であることを理解したうえで、それでもやはり自分の意見を表明する権利がある。
そしてもちろんそれは、批判されることになる。(p210)
__________
→「意見や批判をするときにはちゃんと論理的に筋が通っていて、対案を持っていて、建設的な意見が込みでないと、社会に意見してはならない」とするような風潮は一部にあると思う。そこまで頭が働かないのならば沈黙せよ、と言われているみたいなものである。この引用では、そうではなく、不完全な意見であることを自分でわきまえた上で表明する「権利」がある、と言ってくれている。もちろん、批判にさらされるのだけれど、この「権利」はとっても価値のあるものだと僕は思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ岸さんと柴崎さん、そして私にとっての大阪
大学進学を機に大阪に住み始めた岸さんと、三十二歳になる直前まで大阪に住んでいた柴崎さん。
「わたしにとっては、大阪を書くことは、自分の生きてきた時間と場所と、関係のある人を書くことに、どうしてもなってしまう。」(P16)
柴崎さんは大正区の南の果てご出身、私は大阪市の北の果てに住んでいた(身内に美容師がいるのも同じ)ので「ああ、こういう感じだったなぁ」というところと「南のほうはそうだったんだ」という答え合わせのようでとてもとても興味深く…私が実家やその周辺で子供だった頃、柴崎さんも柴崎さんの場所で子供だったんだなというノスタルジーも感じつつ読みました。
「三十年前に私ははじめて大阪にやってきて、淀川の河川敷に出会い、大阪の自由を感じた。そして、そこから同じ三十年という時間を遡ると、大阪は、阪急百貨店に子供が捨てられる街だったのだ。」(P63)
岸さんサイドは大阪に移住してきた人の心情が丁寧に細やかに描かれていました。私にとって場所として馴染みがあるのは岸さんサイドのエッセイ。野良犬のことが書かれていて、小学生の私が飼った犬は友達が拾った野良犬だったので懐かしく思いました。
居場所を語ることは人生を語ること。でも今の住んでる場所は仮住まい感をヒシヒシと感じるので生まれ育った場所というのは特別なんだなと再認識しました。 -
Posted by ブクログ
この本を読んで以後、良くも悪くも大阪に住んでるだけで、常にノスタルジーを感じさせてくれることになってしまいました。たぶんおそらく僕は生まれてから死ぬまで大阪から離れることはなさそうです。
出身の中学校はクラスの数も減り、所属していた部活はなくなり、僕も生まれて見てきた20年ほどで大阪の様相が随分変わってきました。もうあとしばらく経つと跡形もなくなってしまうんじゃないかと寂しすぎる気持ちです。
好きな関西の作家さん。岸さん、柴崎さん、西加奈子さん、塩谷舞さん、これからも増えていきそう。みんな関西弁を愛してる気がして。文字で読む関西弁はどこか小っ恥ずかしくて、可愛い。
西さんの解説の"世界が均質化され、ほとんど同じことを体験させられ、そして共有を促される現代にあっては、"のところを見て、行列に並ぶ人気店とか、人気のインスタグラマーが買ってる商品だからとか、インスタやTiktokで流行りに乗せられ、すぐに群がっていってしまうような、そういうんじゃなくてもっと自分としての価値観を大切にしてほしい。自分で探して自分で見つけに行って、自分から良いものを広めないと。他人から受けとるだけの人間になってしまったらもう戻ってこれない、と思います。 -
Posted by ブクログ
勝手にラブ&リスペクトの岸さん。
数年前に『断片的なものの社会学』を読んでヒンヒン泣いて、完全に心を奪われた。
以降この本は折を見て知人友人に配り歩いている。
わたし自身、社会学に馴染みがあるわけではないから読んでいてよくわからない部分もいまだに多いのだけれど、それでも岸さんへの飽くなき興味から著書を片っ端から読み続けている(『所有とは何か-ヒト・社会・資本主義の根源』だけ難し過ぎて頓挫してしまった)。
『東京の生活史』刊行記念トークイベントでは直接お会いして少し会話させていただくことも叶い、話す内容も顔もフォルムも声も何もかもが素敵過ぎてズキューンってなったその思い出を今もずっと大切にしている。
そんな岸さんの最新作である『調査する人生』は、長年にわたって岸さんと親交のある社会学者の方々との対談を収めたものである。
打越正行さん『ヤンキーと地元』
齋藤直子さん『結婚差別の社会学』
丸山里美さん『女性ホームレスとして生きる』
石岡丈昇さん『ローカルボクサーと貧困世界』
上間陽子さん『裸足で逃げる』
朴沙羅さん『家(チペ)の歴史を書く』
岸さんのあれこれを通じて全員お名前は知っていたけれど、著書を読んだことがあるのは丸山さんと上間さん(『海をあげる』)だけ。
対談を読んだらみなさんの気合いというか覚悟というか、それぞれが背負い立つものへの強い想いをひしひしと感じて、尊敬の念を抱いた。
まずは以前から気になっていた上間さんの『裸足で逃げる』を読んだ。
感想は別で書いた。本当にすごい本だった。
『調査する人生』の帯には、「人生をかけて、相手の人生を聞く」と書いてある。
本当にその通りのことをしていると感じた。
社会学ガチ勢。
本当にかっこいい。
上間さん以外の方々の著書も、また、対談の中で何度か言及されていた『ハマータウンの野郎ども』も、いつか読んでみたいと思う。 -
Posted by ブクログ
社会学者・岸政彦さんの小説。
大阪を舞台にした2作品『リリアン』『大阪の西は全部海』が収録されている。
岸さんの『断片的なものの社会学』という本がとても面白かったので、どんな小説を書いているんだろう?と気になって読んでみた次第。
決してバッドエンドなわけではないが、優しさの中にもの哀しさが漂う読後感。
岸さんの研究手法は、街中でごく普通に暮らす人々にとにかくインタビューをしていくというもので、関係があるかは分からないが小説の中にも印象的なエピソードがたくさん盛り込まれていた。
動物もよく登場するので、『断片的なものの社会学』で岸先生の人となりを知った後だとついつい重ねて読んでしまう。→優しさの要素?
北新地、淀川、和歌山、万博公園など地名が出されることによって実際にあった出来事のように感じる。→哀しさの要素?
ジャズ、太陽の塔好き、妊娠や子ども関係で辛い思いをしている人におすすめしたい。 -
Posted by ブクログ
全体的に軽妙な語り口で書かれていて、読みやすく面白かった。挿絵もかわいい。途中、脳みそ死んでんじゃないかってくらい適当な時もあるが、、
生活史を研究している人だけあって、「ディテール」が詳述されていて、印象に残る。特に、おはぎ日記でおはぎを看取るところが、詳述すぎて辛くなる。ウィルキンソンの箱に亡骸を入れたり、それを霊園に持っていくために地下鉄に乗っているときにこっそり中を見たり、火葬の時に般若心経のCDを流すか聞かれたり、そのいちいちがありありと浮かんできて、おはぎが亡くなった岸さんの生活に出会わされてしまった感がある。もう、こんな辛い別れが待ってるなら、猫飼えませんよ。
あと、学問の世界でやりくりしてて本まで出してんのに、「何やっても中途半端やからな」なんて思うんですね、と感じてしまった。自分のことを中学40年生、なんて書いているが、やっぱり大人に見える人でも、成功してそうな人でも、メンタリティは変わってないし、満足感は得られないんだろうか。
子供ができないことへの折り合いも印象的だった。子供がいると、「暦」が生活にできる、という言い回しが印象的だった。「いまこんな、学生や院生みたいな自由な暮らしをしているからといって、子どもができなかったということの折り合いがつくわけではない」という記述も印象的だった。
ほか、印象に残った言葉
「果てしなく不寛容に、完璧主義に、一切のミスを許さない社会になるほかないのだろうか。〜
「ほかの人に対して不公平になるから」という言葉は呪いの言葉だ。もう一つ、「何かあったときにどうやって責任をとるのですか」も、きわめて大きな効力を持つ呪いだ。」
「20人に聞いた生活史をそのまま載せているだけの報告書だけど、わりと本気で、これは「世界文学」だと思う。」
「ほかの領域と「学問」を分けるのは、対象ではなく方法だ。」
「カップラーメンの3分も人生も同じで、もし生きるのがつらかったら、わざと関係ないことをして、人生から気を逸らしたらいいよ。」
「ランボー、怒りのランボー」
-
Posted by ブクログ
ネタバレ岸先生が6人の社会学者に「質的調査」をしている。それを傍らで聞きながら読み手が社会学あるいはその研究者を一般化・代表化する、という感じで、なるほどなといろいろ納得できる話が多かった。
というのも、20~30人の声を拾ってそれが学問になるというのがちょっと胡散臭い(ごめんなさい)と疑っていたので。しっかりとした社会学の理論や先行研究を勉強して押さえていけば、そこから普遍性や社会の構造的な問題点が見えてくるということかな?
対談を読んでいると、つくづく社会や他者に対する自分の解像度が粗いと感じる。ある行為がそれをした人の意志に還元されるものではない、もっと偶発的に決まっているものなのだから、他者が自己責任論を振りかざしてはいけない(p.132)とか、社会学は自由な個人ではなく制約だらけの個人をみる、その制約を受けながら人は自分の人生を作り直そうとしているのだ(pp.179-180)とか、ちょっと泣きそうになるくらい人へのまなざしが優しい人の言葉だなあと思った。
まだまだ誤読している部分も多いと思うので、再読して正しく理解できるようにしたい。その時、私は今より少し優しくなれるかもしれない。 -
Posted by ブクログ
よかった。すごくよかった。
やっぱり日記本は好きだなぁ…と思うし、それに類する当事者研究や生活史の本も好きだ。
かなりの乱読派として数年読書を続けてきたけど、ここ最近自分の好きな軸が見えてきたような気がして、すこし嬉しい。
岸政彦さんは社会学者。先日読んだ『早稲田古本劇場』の向井さんは古本屋。定期購読している『ウロマガ』のダ・ヴィンチ恐山さんはWEBライター。他にもいろんな職業の人の日記を読みたいなと思う。下北沢に日記の専門店があった記憶なので、またこんどそこを訪ねようと思う。
「おはぎ日記」は泣いた。本を読んで声を上げて泣くのは初めてだと思う。映画を見て音や映像の迫力に泣かされるようなことは結構多いほうなんだけど、それとはまた違って、しみいるように悲しくなった。
喪失感を誠実にことばで表す姿勢を尊敬する。
最近自分もとても大切な人を亡くした。
もう1ヶ月以上経つけど、いまだにSNSや写真を遡ったりすることがちょっとできない。本当に突然いなくなってしまったので、SNSの投稿も直近まで更新されていて、まだどこかにいるような気がする。でもいない。その落差が辛くて、思い出すことすらはばかられる。
思い出にフタをしていてもゆっくり記憶が薄れていくだけで、それはいやだと思う。
著者は日記でおはぎが弱っていく過程を詳細に記録していて、死に瀕している家族の写真を撮ったりしている。おはぎのことを忘れたくなくて、文字での記録を残そうとしている。死に向き合う姿勢がすごいと思う。
それとは別に、喪失の悲しみを分かち合える人がいてすごく羨ましいなと思った。
-
Posted by ブクログ
すごく濃密な時間を過ごしたのに連絡先も交換せず、二度と会わなかった二人。なのに、名前も知らないただすれ違っただけのワンカップおじさんのことはなぜかいつまでも鮮明に覚えている。そういう綾が人の一生には縦横無尽に張り巡らされている。われ知らずとも。これが表題作『図書室』にも、続くエッセイの『給水塔』にも、通底しているテーマだと思った。自分の中の、二度と会わなかった人、忘れ得ない名も知らぬ人を数えて読後感をしばらくかみしめよう。
印象的だったのは、『図書室』のふたりの会話。内容は年相応でありながら、なんだか名人芸の上方漫才を聴いているようで、絶妙だった。いとこい師匠(夢路いとし・喜味こいし)が笑いを取らず世間話したらこんなんなるんかなってくらい。あり得ないことを真剣に思い詰めているのに、重くならないのは、このいい塩梅が効いているからだ。 -
Posted by ブクログ
社会学、生活史、エスノグラフィー。人の生活、声、ヴォイスからしか見えてこない、わからないものが確かにある。
昔働いていた職場で、沖縄出身の人がいた。基本的には明るい青年だったが、ある時から確実に目が死んでいた。そうしてふっと会社を辞めていった。岸先生の話の一部を読んで「そういうことだったのかもしれない」とも思う。
部落問題やヤンキーと地元、暴走族や日雇いの建築現場など、様々な生活を文字通り人生をかけて体当たり?で話を聴いてきた方達の話。リアリティがありすぎてすぐには消化出来ない感じがまた頁をめくらせる。
本を読むことは、自分以外の誰かの、もう一つの人生や生活を追体験することとある意味では同義であると考えている。
ルポ、ノンフィクションを読むことを通じてどういった体験をするのか?
想像力の外にあるリアリティというか、存在することは認知しているけれど、よくわからなかったり、怖くて避けて通ってきた部分もある。例えば学校のヤンキー達の集まりや、コギャル達の遊び相手がどこかの大学生だったりだとか。
何か流れでヤンキーの先輩の家に連れられて煙草を吸わせられたりシンナーを吸わせられたりして怖かったなぁ。
そこではもう何も言えない、ただただ時間が過ぎて解放されるのを待つだけだった。