西研のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
■評価
★★★✬☆
■完走
◯哲学でカント以前・カント後と言われるほどの絶大な影響をもたらしたカント。難解と言われるが、本書では非常にわかりやすく説明されている。
◯感性・悟性・理性のフィルターで、認識をしていることと、物自体は、知ることができないというのはなるほどと思った。
◯物自体は理解できないとしながらも、これらのフィルターの解像度やを上げていくことや、複数のレンズをもつことは重要かと感じた。
◯厳格なほど規則正しい生活を送っていたカント。しかしルソーのエミールを読んでいた頃、あまりに夢中になり寝坊。近所の引立はカント先生がいつもの散歩コースに姿を表さないと言って心配したエピソードある。理想的な教育の姿を語っているエミールの、退廃した都会(パリ)で育つことに警鐘を鳴らしていることの、面白さも際立っている。
■印象に残った部分
◯感性で捉えて悟性で統合し、理性で判断する2階、3階建て構造。理性の暴走を批判するためにこのような形にしたとしている。
●あらゆる認識の際に主語たる私が常に働いています。だからこそ、スケジュールを立てたり、物事を継続して深く考えたりすることが可能なのです。私たちが人生を振り返ることができるのも純粋統覚によってさまざまな体験を私のものとして時系列にまとめているからです。
◯感性と悟性の部分が結びついた体験が、時系列に沿っている事による。
●このように、理性は推論に推論を重ねていく。直感される世界(現象界)から逸脱し、究極の真理まで行こうとする本性を持っているとカント述べます。答えが出ないことを求めて暴走しかねないのが理性なのです。
◯これが主張したいこと。
●なぜ本当の私が欲しくなるのでしょうか?私が存在している理由、つまり使命が与えられれば、何を目指して生きればいいかが分かると思えるからでしょう。そして哲学書の中にその答えがあるのではないかと西研は思っていました。これについて私の結論はこうです。どこかに「本当の私」を求めるとなく、「どんなことに私は喜びを覚えるか」を自分に問い、そこから生きる方向を見つけていくしかないと。このことを教えてくれたのは、カントより1世紀後の哲学者フリードリヒニーチェでした。
◯哲学はヒントにはなるけど、答えを出すのは自分次第なんだろうな。それが自由であり、そして自由の刑に処されているとも言えるんだろう。
●アンチノミーは二律背反と訳され。対立する命題のどちらにも答え出てしまい、どちらか一方に決着がつかない状態となるものをいいます。
◯小学生が使ったらバリアー だなー。トロッコ問題当ててきたら、それはアンチノミーなので立場や状況が変われば異なるといえばいいかな。神がいるかいないかの証明と近いものがあるよと。
◯神話が生まれるのは、飽くなき理性の暴走をストップすることができるからという考え方は面白い。
●カントの自由意志は、勝手気ままや、欲望の解放ではないということです。自由とは何が善いことなのか、何が私の素質・能力を進歩させるか、何が他者の幸福に貢献するか?と自らに問いかけながら生きているところにあります。主体的な道徳判断が大切であるということです。
◯よくあれ、よく生きろ と言っているのだな。まともである。チョット息苦しくもあるが。
●カント哲学の功績は、哲学の領域を「答えが出る領域」と「答えが出ない領域」とに明確に区分し、答えが出る領域に狙いを定めて議論すべきとし点です。そこには様々な疑問や問について、「これは本当に答えが出る問なのか?」「答えが出せないとすれば、どのように共有できる答えにたどり着けるような問い方になるか?」というふうにそれ自体を吟味するという発想があります。あらかじめ絶対の正解を想定する(これは独断論になります)のものでもなく、人それぞれの答えしかないと決めつける(これは相対主義になります)のでなく、人々が納得できる合理的な共通理解はどうやったら可能かと考えていくという姿勢をカントは示しています。
◯トロッコ問題への正しい対処ではないだろうか。問を吟味することが大事って、今いちばん大事な能力な気がする。
●どこかに真理があると信じ、それを入手したい、あるいは入手したと信じる姿勢(真理発見モデル)は、真理同士の対立を招きました。
これに対してこの認識を本当に普遍性があるのか、より正確にいえば、さまざまな状況と価値観の中を生きる人たちも賛同するはずだといえるか?そもそもこの認識は不変のものという条件を欠いているか?このような認識についての姿勢を問いています。
◯短絡的で正しい答えがあるという幻想が、現代では溢れているんだろうな。決断ではなく中断であるというのが、大事なのかもしれない。当事者だけだと難しいから、ストッパーとしての人が必要なのかも。外部取締役みたいな。それは社外であるのが経営者だけど、社内でも利害関係が薄い部門、たとえば評価部門を年ごとに入れ替えをしたりすると、ストッパーとして成立しやすいのかもしれない。
●個々人の主観は、他者や社会から切り離されて完全に独立したものではないとヘーゲルは考えます。あらゆる動物や植物や昆虫、つまり個々の生命体はすべて大きな生命から分かれたものであって、だからこそ絶えず影響しあっていると考えることができますが、これと同じように個人の主観は時代の精神から分かれたものであるとヘーゲルはみなすのです。
◯チ。で言っている等しく15世紀の人間というのが思い浮かんだ。そしてわたしたちは、等しく21世紀の人間なんだろう。同じ時代を生きている共同体の中の仲間という認識が持てるのかな。すごいメタ視点。
●普遍性(共有性)を持ち得ない考えと普遍性を持つ考えがあること。これを区別することが必要です。また、共有するために、共有しなくてはならないルールや仕組みもあること、より一般的な言い方をすれば、「ある認識や価値観について、それが普遍性を持つための条件を備えているかどうか」を吟味することが認識批判でした。この「普遍性の条件」を考えてみるならば、普遍性をもちえない種類の考え(問や答え)については、異なる信念を認め合って平和共存するしかないということがはっきりします。
◯コロナワクチンを例にとっていた。あれを何だったのかで終わらせるのではなく、21世紀の人々は集団ヒステリーを簡単に起こす。それはニュースやSNSでいとも簡単に拡散される。そして田舎ほど閉鎖的な状況であることが、浮き彫りになった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ子育てをする中で、ふとルソーのエミールを思い出した。原文を読む体力はなかったので本書を手に取ったがよくまとまっていてよかった。
以下は本書の要約的なメモ。
一般意志について書かれた社会契約論。しかし一般意志を実現するためには、何がみんなのために重要なのか判断できなければならない。どうやってその判断力を獲得するのか。個人の自由と人類の自由を同時に考えられる人間とは何か。そんな人間のための教育論として描かれたのが本書である。
ルソーは、エミールの中で「こども」を発見している。子どもを自然人と社会人の間に位置づけた。
当時、ロックによる人権のベースとなった「人間には生まれながらにして権利がある」という主張に対してルソーは「人間には元々権利などなく人間たちの合意で権利ができている。人間はとても不平等なところに起源がある」としている。
子どもは12歳頃まで、自然と事物の中でのみ学ぶのが良い。そこではほぼ完全に自由にさせる。走り回ることで転び痛みを覚える。火に触り、熱を覚える。
現在を大切にするべきだ。人間の「先見の明」は、不確実なものをあるかのように語り、現在を追い出すいつわりの知恵だという。
欲望は肥大すると苦しくなる。欲望と能力が釣り合ったところでしか人は幸福を感じない。
西氏は、ルソーの考え方について「人工的」と言っている。私もこれ「ルソーの言ってることは合ってるかもしれないけど、それができる家庭教師&家庭ってどうやったらいいの?」という感じ。愛情と信念に基づいた監視だよな。もしかすると教育の本質と危うさってこれかも。監視するけど管理せず。
著者はボウルヴィも引用しながら「自由な活動ができるためには依存が必要だ」と解いている。自由な活動(探索行動)は親や教師の見守り(安全基地)があって初めて可能になる。依存と自由は完全に対立する二項ではない。ルソーは、子どもが人に頼るようなエピソードは全く書いていないが、西氏は社会福祉を学ぶためにも人に頼ることは大切だと語る。また、ルソーはエミールの中で全く子供を褒めていない。西氏は、愛情的承認だけでなく評価的承認も必要でほめるべきだという。
感覚のあとは、観念を学ぶ。
ルソーは「真理」の連鎖ではなく、「好奇心」からなる連鎖によって学ばせるべきだという。
だから家庭教師は知識を教えるのではなく、経験を仕込む。町の人にお願いしてちょっとした事件を起こしたりする。
今日の教育にもつながるアプローチ。
最初に与えられる本は『ロビンソン・クルーソー』。ロビンソンのような孤立した状況になることで、何が有用であるかわかるようになる。
好奇心と有用性は完全には矛盾しない。この2つを持つことで自活できる人間になる。
続いて職業体験。分業についても10人社会(社会を10人と仮定して、分業したほうが効率的かつ生産的であることを学ぶためのモデル)を通して学んでいく。分業から、交換や貨幣の重要性も習得する。
そしてエミールは15歳になる。これから観念を学んでいくが、その前に性の目覚めがある。ここに競争は不可避である。情念を考える。ちなみに情念は原文でpassion。ここには受動的な意味合いがあり、自分の意志から生まれるのではなく「やってきてしまうもの」というニュアンスが含まれている。
自己愛は、自分をただ愛するから常に良いもの。しかし、自己愛がわるい方向に変形すると自尊心になる。自尊心は他のものと比べなければ満足されない。
ルソーによれば、そもそも自分に対する愛があるからこそ他人を愛することができるという。自己愛がなければ利他の精神はない。
また、ルソーは「あわれみ」を説いている。「人間を社会的にするのはかれの弱さだ。わたしたちの心に人間愛を感じさせるのはわたしたちに共通のみじめさなのだ」
弱いからこそ、人は他者を必要とし、そしてそこにはかない幸福が生まれる。
あわれみを持つために何をしなければならないのかというと、富める者でも惨めな面がある。人間のみじめさをしっかり見つめられるようにならなければ、あわれみを持つことはできないし、うらやましいという感情ばかりが溢れてしまう。
また自分にも起こりうると思える他人の不幸にしか、人間はあわれみを持てない。
他人が不幸をいかに感じていて、また、その他人を自分がどのような人とみなすかによっても、あわれむことができるかどうかは変わってしまう。
自分に力がなければ苦しんだり、羨望に苛まれるばかりで、あわれむことなどできないのだ。滅私奉公などもってのほかで「自分のあまった力を他人にふりむけよ」
近しい人間から学ぼうとすると、関係性が邪魔をする。羨望や差別が介在してしまう。だから青年は特に歴史を学ぶべきである。しかし、歴史とは「そこに生きる人ではなく、そこに生きていた人が着ていた服について書かれている」から、自伝が良い。「人間を通して社会を、社会を通して人間を研究しなければならない」
しかしそれでも、知識を得たことにより傲慢になる可能性がある。だから、ルソーは規則を提示する。これが「サヴォワの助任司祭の信仰告白」である。
内なる理性を見つけて良き心を得るべきだと。
その後、エミールは、妻となるソフィーを見つけるが、というかエミールは男性だったと私は気付くわけですが、ここで披露されるルソーのジェンダー感はぼろぼろ。それはさておき、ソフィーに夢中になるエミールに対して、家庭教師は、欲望のままに生きることは大切だが、欲望に支配されない良心もまた必要だと説く。ソフィーと暮らすためには2年間、各国を渡り歩き政治や社会を学ぶ必要があるといい、ソフィーとの結婚はそれからでよいとした。
エミールは家庭教師と各国をまわり、結果的にはフランスに住むことを決めた。ソフィーと結婚し、やがて父になり、この本は終わるのでした。
なぜルソーを読むのか。ピアジェやデューイを読めばいいように思うが、ルソー独特の問は「社会をつくるための教育」という点が強く打ち出されているところ。社会形成を微分して人間形成を考えるとき、ルソーの態度は参照項になりうる。
西氏は「自己了解の力(家庭教師のいうところの「自分自身の主人になること」)を備えた人間へと育つのはかなり大変なこと。しかし『エミール』はまさしく、この点に焦点を当てた教育論になっている」
ルソーは神様をめぐる「思弁的な理論」よりも、まず「生活に役に立つこと」を学ぶことが重要だと考える。そして何が役に立つのかも一般意志を考える過程で、他者理解に基づいた広い人類の体験をもとに考えられるようになることを目指した。行き着くところは自由の先にある自治である。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ個人的にはツァラトゥストラの内容の解説よりも西研さんの意見、考えの記述が多いように思いました。
しかしながら、ニーチェの人生や彼を取り巻いていた人間関係や環境などはとても分かりやすく解説されていました。ツァラトゥストラを読む前準備にはとてもいい本だと思います。
神様とか天国というのはゴリゴリに辛い現実に耐えられない人間が何とかして前向きに生きていこうとして作ったもの。キリスト教なんかもそう、“汝、真実を語れ”というのなら、その言葉を本当に突き詰めるのなら“本当は神様は存在しない”ということと真正面から向き合わなければいけないのでは?という指摘は、ほとんど信仰心のない私も少し動揺しました。絶対的な善も悪もないとなるとどこに心のよりどころを求めればいいのか、ニーチェからするとそんなものはないのでしょう。しかし、彼自身が発見し世に説いたその“確かなものが何一つない”不安からニーチェ自身も病んでしまったのは気の毒だなと思いました。
また、現実として孤高の超人を目指すのではなくいろんな人と関わり合いを持ちながらいった方がいいという考え方は私もそうだなあと思いました。でも、難しいですよね。他者と渡り合っていくとなるとどうしても自分と相手を比較してしまったり、自分が持っていないものを相手が持っていると羨ましく思ったりと何かと己のルサンチマンが顔を覗かせてしまいます。永劫回帰については、いいことは何回でも繰り返し起こってくれて大いに結構なのですが、辛くて暗いいやなことだけは都合よく記憶から抹消してしまいたい、どうかその部分だけは繰り返さないでほしいと私は思ってしまいます。
その点については、受け入れられないなら呪え!という開き直ってるところがにニーチェの優しい矛盾であり、それと同時にそれが上手にできればニーチェも発狂しなかったのではないかなと思いました。
劇薬的著書ツァラトゥストの解説書でもかなりの副作用?があったので、考えがまとまらないままレビューを書いておりますが、本作を読んだらどうなってしまうのか今からドキドキです…。 -
Posted by ブクログ
母親にすすめられて読んだ本!
ものすごく短く簡単に書かれているからなんだろうけど、さらっと呆気なく書かれすぎていて、「え、それって本当にそうなの?」と思う箇所が多くあった。それでも立ち止まらずに読んでしまったけど。もう少し自分なりに噛み砕いて読みたいな。すごーく整理されてまとめられてる入門の教科書という印象。
4章だかで触れられていた対話に関する議論に触れて、最近読んだ「プロカウンセラーの聞く技術」との対比?に気づいた。これまであまり意識していなかったけど、対話と聞くことは違うことなんだなあと(いや、もちろん似通った部分もあるんだろうけど)。2冊それぞれを読んだ現時点では、対話は相互理解を深めるもの、聞くことは相手が相手自身を理解する場になること、みたいな理解だな〜 -
Posted by ブクログ
ヘーゲルの『法の哲学』の構成にそって、テクストをパラフレーズしつつ、随所で著者たちの解説を付している本です。
ヘーゲルの議論の要点をまとめることでその概略を読者に示すというスタイルが採用されており、じっさいに『法の哲学』を読んでみようとする読者の手引きとなることがめざされているように見えます。ただ、とくに竹田が執筆を担当しているところでは、しばしば彼自身の欲望論との接続を意識した説明のしかたがされているのが気になりました。
たとえば第124節の注解の議論を、まずは「「主体の特殊性の権利」、いいかえれば「主体的自由の権利」こそ、近代と古代の「善」(道徳性)とを区分するもっとも重要な概念である」と紹介したうえで、「「私はかくありたい」という自分の欲望を実現しようとする自由な意志こそ、近代の「善」の本質をなす」という解説が付け加えられています。ヘーゲルの「自由」の概念は、まさしく本書の冒頭でも「法の理念は自由であって、それは真に把握されるためには、それの概念においてと、そしてこの概念の定在において、認識されなければならない」というテクストが引用されているように、カント的な自律をあらかじめ取り込んだものとみなさなければなりません。そのうえで、こうした「自由」をたんに悟性によってではなく、弁証法的にとらえようとすることがヘーゲルのもくろみであり、「近代的自由の権利」はその具体的な実現と理解されています。
本書は、『法の哲学』についての概略を得るという目的にはじゅうぶんにこたえられていると思いますが、ところどころ上述のような解釈上の問題点が含まれているようにも思いました。 -
Posted by ブクログ
ネタバレジャーナリスト/田原総一朗氏と哲学者/西研氏の対談形式で歴史的哲学者の概念と、それらの主張に対する田原氏の疑問について、西氏の解釈を紹介するスタイル。
そもそも「希哲学」に由来する「哲学」という訳が分かりづらく、フィレン(愛)+ソフィア(知)の知を愛するという、語源の方がイメージしやすい、という点は納得できた。
哲学とは普遍性と原理性。哲学とは、対話をしながら、「何が大切か」(知・本質)を考えることである。
「どこが足場になるのか?」と考えざるを得なくなった人が哲学に入っていく。
以下の①・②の各哲学者の主張について、わかりやすく解説しているが、より理解するためにはそれぞれの哲学書を学ぶ必要がある。
①ギリシャ哲学:ソクラテス、プラトン、アリストテレス
②近代の哲学:デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ
③現象学:フッサール、ハイデガー
④現代哲学:ウィトゲンシュタイン、ソシュール、ラカン、フーコー、デリダ