西研のレビュー一覧
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哲学カフェなどで「勇気」「死」「正義」などのテーマをめぐる哲学対話を実践してきた著者が、プラトンやフッサールの思想を解釈しつつ、対話を通じて公共的な妥当性を形成していくことの哲学的根拠を明らかにする試みです。
著者の議論は、竹田青嗣から継承した独特の現象学理解にもとづいており、「客観的認識についての確信成立の条件」を解明したという点に、フッサール現象学のもっとも大きな意義があったと理解されています。
こうした立場に立ちつつ、著者はフッサールの「本質観取」の方法の有効性についてくわしい説明をおこなっています。著者は、フッサールという一個人がみずからの体験について反省することで取り出された「本質」は、「この私の体験」という事実性を超えた「自我一般」の了解につながっていることに注目することで、現象学の方法は相互の確証や訂正が可能な公共的な議論の次元をもっていることを明らかにすることを試みています。
本書の最後では、「正義」というテーマについて「本質観取」の実践がおこなわれ、公共的な議論によってたがいに対立する見解を乗り越え、対話を通じた正義を実現するための道筋が示されています。
竹田現象学の思想的可能性を測定することができるという意味でも、興味深い内容だったように思います。 -
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ヘーゲルの『精神現象学』の解説書です。本書の後に刊行された『超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』』(講談社現代新書)とおなじく、ヘーゲルの叙述を二人の著者がわかりやすくパラフレーズしています。
『精神現象学』における精神の歩みを、近代的な「自由」にめざめていくプロセスとして読み解くという著者たちの立場から、ヘーゲルの錯綜した叙述の意味を統一的に解釈しています。
もっともわたくし自身は、竹田の『人間的自由の条件』(講談社学術文庫)におけるヘーゲル解釈には問題が含まれていると考えており、本書にも同じような問題があると感じています。もう少し具体的に述べると、竹田はカントが「超越論的」と呼んだ問題の哲学史的な意義を把握していないのではないかという疑問をいだいており、それが本書におけるヘーゲルのカント批判についての解説にも当てはまるように感じています。
とはいえ、本書が『精神現象学』の入門書に求められる役割を十分に果たしており、読者をヘーゲル哲学の中核へと連れ出す優れた手引きであることは、疑いの余地がありません。 -
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竹田青嗣と西研の二人が、ヘーゲルの『精神現象学』の内容をわかりやすくパラフレーズしている解説書です。
『精神現象学』の入門書としては、加藤尚武編『ヘーゲル「精神現象学」入門』(講談社学術文庫)が有名で、わたくしも以前読んだことがありますが、多くの執筆者が参加しているために全体像が少し見えづらいような印象がありました。本書は、竹田と西の二人が分担執筆していますが、両者は思想的に非常に近い立場に立っており、ほとんど二人のあいだの齟齬を感じることなく、『精神現象学』の全体像がクリアに描きだしています。
西は『ヘーゲル・大人のなりかた』(NHKブックス)で、竹田は『人間的自由の条件』(講談社学術文庫)や『哲学は資本主義を変えられるか―ヘーゲル哲学再考』(角川文庫)で、それぞれの関心にもとづいたヘーゲル解釈をおこなっており、本書にも若干そうした両者の立場からの解釈が見受けられるようにも感じますが、おおむね『精神現象学』そのものの叙述にそった解説になっています。生命主義的な観点を強く打ち出している長谷川宏の『ヘーゲル『精神現象学』入門』(講談社選書メチエ)よりはニュートラルな解説だと感じました。 -
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別冊NHK100分de名著 「幸せ」について考えよう (島田 雅彦;浜 矩子;西 研;鈴木 晶)
アダムスミス、フロイトなどの過去の識者は幸福をどうとらえたのか?を総合的に解説。
まず資本主義の開祖アダム・スミス。どちらかというと自由放任のイメージがあるが、金銀財宝の量に富の源泉を見出す重商主義を否定し労働によってこそ価値が生まれるという労働価値説を展開しました。重商主義ならぬ「重人主義」。
人々に、話す力と同じくらい黙っている力があれば、世の中はもっと幸せになるだろう。──スピノザ
「幸福」について、初めてちゃんとしたかたちで語った哲学者はアリストテレス(*)です。『ニコマコス倫理学』という本のなかでアリストテレスは、人間が求める最終の目的こそ幸福。
いざ「好きに生きていいよ」ということになると、今度は何のために生きているのかわからなくなってしまう人も出てきます。十九世紀の末にニーチェ(*)が「ニヒリズム」。
自己意識つまり人間には、 ①承認されたい ②自由に生きたい という二つの欲求
「人間は絶対に承認欲求から逃れられない存在である」
「自己意識」を持とうとするがゆえに、人間は自由を求めるようになったが、自由を手に入れると同時に、孤独に苦しむことになったとも述べています。これは新フロイト派の心理学者、エーリッヒ・フロムが書いた『自由からの逃走』
他者との関係性の中にしか人間の幸せはない」
問題の根本は、自分の「心情」(心に感じたもの)がそのまま、「みんなにとってよいこと」だと素朴に思い込んでいる点にあります。自分の感ずることがほんとうに普遍性をもつだろうか、と確かめるプロセスを彼は経ていません。彼の正義は心のなかで勝手に思い込んでいるロマンティックな正義にすぎませ
「いい仕事をしている」という「評価の承認」ではなく、駄目なところも含めて、ただ「あなただから好きなのだ」と言ってくれる。これは「存在の承認」 -
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難解で知られる『精神現象学』の筋書きを “表象として” おおまかに把握するのに役立った。
ヘーゲルが問うたのは、個人と社会、公と私、理想と現実……これらの対立をどうするかということであった。今なお問われ続けている普遍的なイシューである。
カント倫理学を手厳しく批判した第4章が特に読みごたえがあった。
“しかし実際には、ここ〔カントの思想〕にあるのは、純粋な「普遍性」(理想)と「個別意識」(現実)とが、いかなる条件で一致するかを洞察する思想ではなく、この統一(徳と幸福の一致)が “存在してほしい” という単なる欲求なのである”(p203)
“両者〔感性と理性〕の一致あるいは統一と言っても、その内実は、あくまで「感性」が「道徳」に従い、寄り添うことが求められているのだ”(p204)
“つまるところ、カント的「道徳思想」の底には、「道徳的な人間ほど幸福であるべきだ」という暗黙の要求があることが分かる。しかしじつはこの要求は、(……)ただそういう〔不道徳な〕人間に「幸福」をもたらしたくないという「嫉妬」から現れていると言えないだろうか”(p214)
カントの絶対的・普遍的な「道徳」に対して、ヘーゲルは相対的・個別的な「良心」という概念をアンチテーゼとして示す。
“正しさについての「理想」をもち、したがって何が「正しい」かは明らかであり、自分のみならず他人もそれにしたがうべきだ、と暗黙のうちに考えている人は「道徳の人」である。これに対して、「良心の人」は、世の中の現実はさまざまな事情が複雑にからみあっているので、「何がほんとうに正しいことか」についての絶対的な「知」は存在しえない、ということを自覚している。「社会についての全知はありえないが、それでも自分は自分の信念に則って正しいことを行いたい」と考えるのが「良心の人」なのだ”(p226)
“「道徳の人」は、自分の信念の基準を、いわば理性の論理、つまり「かくあるべし」という論理的判断からの要請においている。これに対して、「良心の人」は、その基準を「もろもろの衝動と傾向」にしたがう「自然的な意識」においている。つまり自分の「感性」においている”(p227)
思うに、根源的な理論としてはカントが正しいのだろうけど、現実的な実践としてはヘーゲルが正しいのかと。カント倫理学に共感を寄せる者として、カントのアンチテーゼの代表格であるヘーゲルは、是非とも理解しておきたいのだけど、まだまだ理解が不十分と感じる。別の解説書にも当たってみようと思う。 -
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物理学とは、世界が合理的な法則によって貫かれているという(それ自体としては証明できない)前提のもとに、私たちの経験するさまざまな事実から法則を解読し取り出そうとする一種の「ゲーム」なのである。
しかしそのさい、その過去が「いまでも嫌なこと」だとなつかしくはなれない。とても辛かった経験であっても、それをいまの時点から「ゆるしている」場合にだけ、人はそれをなつかしむことができる。多くの人がなつかしさには「安らぎ」の感覚があると指摘するが、安らぎとは、ゆるして受け入れるということを意味しているのだろう。
自分のこれまで生きてきた過程やそこでのいくつかの経験の核心を確かめ、そうすることで、自分が生きるうえで「大切にしてきたもの」は何だったのか、をふたたび確かめなおす。そして、それを握りしめながら、ふたたび生きることへ向かおうとする。たとえばそのようにして、私たちは生のストーリーを再構築するのである。
何が価値あることなのかが自分のなかではっきりしていて、自分がそこをめざして進んでいると思えるとき、人は他人の視線にあまり脅えないですむ。だれがなんといおうと我が道を行く、というふうな「気概」をもつこともある。しかしいまの大衆化した大学の学生には、大義も人生の目標も与えられない。そして進むべき方向がはっきりしないとき、人は自分自身の存在を肯定することができない(俺ってカッコいいとなかなか思えない)。だから「他人から嫌われない」ということが自分を支える最後の手段になってくるのかもしれない。
この「ほんとうに意味あること」をなしたいという思いは、その意味を自分のなかで、また他者とのあいだで確かめあうことによって生き生きと保たれる。
「社会について語ること」が全体を見晴らす特権的位置に立つことでなく、同じ社会に生きている人々の存在を信じ、そこに生じることを「われわれの」問題としてとりあげ改善しようとする努力であるなら、それがなくていいはずがない。
すなわち社会は、私たち各人がそこに向かって働きかけ、何かよい影響を与えたい、と願うようなものでもある。 -
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ようやく、『精神現象学』のあらましが分かりました。人類の「精神」の成長の歴史を俯瞰し、人類思想史の流れを追う、というような壮大なプロットを(猛烈に難解な言葉で。。)語っている、ということのようです。ようやく『精神現象学』が読み進められそうだ。。
気に入ったのは「行動する良心」。ちょっと引用。
「「良心の人」は、生活のなかのさまざまな場面で、そのつどどういう態度や行為を取るのがもっとも「良心的」だろうか、と考える。彼は、もはや宗教的権威も、習俗のルールの権威も善の基準足りえないことをよく知っている。・・・しかし、にもかかわらず、結局正しいことの基準などないのだとは考えず、いかに判断し、行動するかについて、必ず「自分のほんとう」があるはずだと考えるのだ。「道徳の人」は、自分の信念の基準を、いわば理性の論理、つまり「かくあるべし」という論理的判断からの要請においている。これに対して、「良心の人」は、その基準を「もろもろの衝動と傾向」にしたがう「自然的な意識」においている。」
うん。これはいい。カントの道徳哲学がいかに批判されるべきものか、ということも良く分かりました。(ちなみに、長らくカントを読めなかった理由は、カントの伝記的紹介文で必ずと言っていいほど引かれる、彼の格率の言葉にどうしてもうさんくささを感じたからだと思う。カントは(彼の意には反しているとは思いますが)やっぱり道徳哲学(実践理性批判)ではなく、純粋理性批判が一番大事な仕事だと思う。)
ところで、この「もろもろの衝動と傾向」で「よきこと」を自分の「よろこび」のために行う人、と読めば、おぉ、これはまさしくスピノザの倫理ではないんでしょうか。スピノザの理神論、実体の概念は、もはやナイーブには信じられないにせよ(もちろん、これは形而上学なので、それを「信じる」ということは、誰しもに留保されている、とは言え)彼の「善悪の彼岸」にある「よろこびの倫理」は、今日的な意味があると思うんです。というより、有体に行って、好きなんですねー。 -
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これは、意識が絶対知に至るまでの物語。
人類の歴史が、個人の精神的成長過程に重なって見える。
だからだろうか、私には成長記録あるいは観察日記に近い印象を受けた。
意識が辿る道を追体験できる感覚が面白い。
ただ、「どうすべきか」という問いへの「応え」を示してくれているようには感じなかった。
以下、印象に残った文章を抜粋
人間の欲望の本質は、「自己価値欲望」という点にある。したがって、「自己の欲望」はまた、本質的に他社による「承認の欲望」を含む。さらに、人間は社会生活を営んでいるため、どんなことであれ、「他社の承認」なしに実現する欲望は存在しない。このため、人間社会は、まずは「承認をめぐる闘争」のゲームとなる。
・・・291頁より
カント的「道徳思想」の底には、「道徳的な人間ほど幸福であるべきだ」という暗黙の要求があることが分かる。しかしじつはこの要求は、不道徳な人間が幸福になるのは「不正」である、という理由からではなく、ただそういう人間に「幸福」をもたらしたくないという「嫉妬」から現れていると言えないだろうか。
・・・214頁より -
Posted by ブクログ
自分で言うのもあれですが、大学受験の小論は結構得意な方だった。その時は何かの本で読んだ「型」(起承転結みたいな)ばかりに意識を集中させて、内容よりも「型」にこだわって書いていたのを覚えている(それでも高得点は取れていた)。論文の意味は相手にわかりやすく書くのは勿論だが、何より、中身が無ければ全く意味はない。
つまり、「考える」ことが前提にあって、まさしくそれが最も論文を書く意味である・・・当たり前だけど。でもね、変に慣れると、意外とその本質を理解してなかったり、忘れてたりするんだよね。
この本は小論文を書くための技術や知識ではなく、自ら考えて書くということへ意識の重点を置いているように思う。そういう意味では良い本。
大学受験ぐらいなら、ある程度のテクニックだけでも上手くいくと思う。でも、やっぱり気持ちの入ったものじゃなきゃ、読んでいても面白くないし、相手の心にも響きはしない。