西研のレビュー一覧
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西研さんということもあり、哲学を平易に教えてくれている。
本書でなるほどと思った箇所を引用する。ヘーゲルの事そのものは、プラトンのイデアとは異なり、人間にも識別可能なものを指すらしい。
>誰もが 認めるであろう価値あること、つまり「事そのもの」を実現しようとするとき、そこには自分なりの行動の柱、自分の軸 ができます。この自分の軸ができたとき、人は初めて自由になれる、とヘーゲルは考えるのです。なぜなら、自分の軸ができると「事そのもの」をめざすことに誇りが生まれ、もし他者がすぐに認めてくれないとしても、他者からの承認を期待しながら、「自分はしぶとく頑張るぞ」と、突き進むことができるからです。 -
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古典に触れたくなった。
近代教育の古典である『エミール』を読みたいと思った。
原典に手を出す前に、入門書を読んでみようと思い、手に取った本。
最近、批評家の東浩紀さんの雑談配信を視聴していて、
「人文系の若手は、古典を読んでない。」というような苦言?を耳にした。
そうだ、まさに自分もその1人だ。
40歳になり、今一度古典に触れたいという気持ちが湧いてきた。
『エミール』は200年以上前に書かれた作品だ。
幼い頃、決して恵まれた家庭環境にはなかったルソーが、理想的な教育とは何かということをことを示すために著した実験小説ともいえる。
いち教育者として、親として、非常に納得できる部分が多かった。
以下、自分なりの解釈を示す。
まずは個人としての欲求を認識させ、それを実現して幸福になっていくのに必要な知識や技能を獲得する。
ここまでが「個人」に焦点を当てた段階で、だいたい12歳ぐらいまで。小学校の間は、他人や社会の規範・評価より、自分の中から湧き出るものや自分なりの物差しを重視するということ。
その後、他者への共感能力を育成していく。社会に参加して他者と交わり、その境遇に共感していくことや、歴史や文学を学ぶことで、人間や社会について理解していく。
最終段階では、「公」というものを知り、自分自身を相対化したり自分の考えをアップデートしていくのに必要な情報を集め、みずからの刃を研ぎつつ社会に貢献していける人間になる。
細かい部分は置いといて、粗々はこんな感じの話だったと思う。
教育の目的の1つであろう自立については、いざという時に戻って来れる場所=必要な範囲での依存先を確保する、つまり適切な依存関係を維持することが大切だという指摘にもなるほどと思った。
一方で、ルソーの考える社会契約論や一般意志のハナシについては、理想主義的な側面が強いかなぁとも感じた。
個人の力量を、過大評価しているイメージ。
ルソーの生い立ちを聞くと、「そりゃそうか」とも思う。
だって、基本的に教育ではなく独学でアカデミズムの世界での地位や権威を手に入れてるんですもの。
「俺にだって出来たんだから、みんなにもできるよ!」って思っちゃってるのかな。
破天荒な人生まで含めて、ルソーの面白さの一端に触れることができたので、おすすめです。 -
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ネタバレ難解なヘーゲルの『法の哲学』の解説書。解説してもなお抽象的ですぐに理解できる箇所ばかりではないが、部分部分で解説コメントが入っており、挫折しないように工夫されている。
『法の哲学』の最も重要な起点は、人間が欲するものの本質は「自由」であるという点である。自由といっても、欲求のままに行動するということではなく、より高次の幸福を実現するために普遍化を続け、より普遍的な善いものを追求することこそが「自由」とされている。普遍化を続けることは、やがて市民社会や国家を生み、法や国家は、個々人の自由を相互に実現させるべきものであるとされている。
国家の一体性が非常に強調されているので、国家主義的なものを想起させる面もあるが、国家の存在意義を宗教的な説明に頼らず、自由や福祉の実現という事柄で説明していることは間違いなく歴史的偉業である。
また、ヘーゲルは家族、市民社会、職業団体、国家と順を追って説明しており、説得力がある。「自分=家族」などと小さい単位での一体性の説明はイメージしやすく、その延長線上で国家が語られているので、納得できる部分が多々あった。 -
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「自己意識」は、他者の関係のなかでは、自分が相手から対象化されていること、またつねに相手が気になることで、言うなればつねに一種の「自己喪失」の状態にある。そこで、自己意識が本気で「自己自身」たろうとすれば、「相手の存在を否定することで自己の自立性・主体性を守る」という態度をとることになる。
この一文の本質について語る前にまずは前提として、自己意識が本気で「自己自身」たろうとすること、すなわち自己意識の確立とそれへの「他者」の関わりについて、ヘーゲルの「哲学史講義」を引用することで明らかにしていこう。
その真髄は、「他者を自覚するものは他者と同一の存在であり、だからこそはじめて、精神は他者のうちにあっても自己を失うことがない。」という一文に現れている。
これの説明は少々面倒なのだが、かいつまんで言えば、人間の自己意識の確立は精神の「発展」によってなされる。そして、「発展」の定義は、そのものが目に見えない潜在状態から、目に見える顕在状態へと変化することである。これを例えると、潜在状態の胚珠から芽が出て花が咲くというとき、芽や花が顕在化したということである。加えて、発展するとき、そのものは潜在状態から顕在状態になりつつも同一のままにとどまり続けるということができる。つまり、胚珠から出た芽が花になって、そこについた果実からはまたしても胚珠が生まれるということである。発展し、変化しつつも最後には同一のもの(ただし、別の個体)に戻る。
しかし、これを精神に置き換えた時、つまり精神の「発展」については、植物のそれとは根本的に異なる事態が生じる。
というも、精神の発展においては潜在状態の私と、顕在状態の私とが、植物で言う胚珠とそこから生まれた胚珠とは異なり、全く同一のもの(同一個体)でありつづけるのである。これはある意味当然のことで、自己意識なき獣的な田中くんに、自己意識が芽生えたからといってそれで田中くんが山下くんに変身するわけではない。田中くんはあくまで田中くんなのである。
そして、ヘーゲルはここに自己意識確立の鍵があるとした。つまり、人間精神は、顕在化(他者化)して潜在状態(自己)ではなくなるものの、しかし、それでも両者が同一の存在(同一個体)であり続けることによって、つまり他者がいることに気がつく(自覚する)ことで、自己が自己という存在であることを知ることができ、なおかつ、自己を失わずに済むのである。
ヘーゲルは「精神現象学」においてはこのことを「無限性」として表現している。何が無限なのかというと、様々な形で他者と関わり、影響されつつも「無限」に自己へと戻ってくることができるからである。かなり抽象的な概念だが、ヘーゲルはこの論を生物全般が、様々に区別されつつも(哺乳類と魚類とか)根源的に「生物」としての統一を保っていることにも適用している。
つまり、自己が他者と関わりつつも自己を保つという概念はより普遍的な「無限性」の一つの例であるというのが正しい見方だろう。
さて、長々と人間精神の特異性、自己意識確立への道筋について語ってきたが話はまだ終わらない。まだ例の一文に辿り着く前に話すべきことがある。
というのも、ヘーゲルは「自己意識」について、自己の個別性を意識している状態、にとどまらない「他の否定」を通して自己の絶対的な「個別性」を確保しようする独自の欲望であると述べている。これはつまり、自己意識はそもそも欲望であり、だから我々はその確立を目指し、そして他者との関わりも、この欲望の正体が、他者による自己の承認の欲望、つまり、「承認欲求」を指していることに端を発するということを示している。
この現代人を悩ませる厄介な欲望について、ヘーゲルが17世紀に最初に言及したのだとしたら、その偉大性たるや凄まじいという他ないだろうが、とにかく今重要なのは自己意識が「欲望」であり、「承認欲求」であり、そしてそれは相互の承認をかけた戦いを招くということである。そしてようやく、例の一文につながる。
「自己意識」は、他者の関係のなかでは、自分が相手から対象化されていること、またつねに相手が気になることで、言うなればつねに一種の「自己喪失」の状態にある。そこで、自己意識が本気で「自己自身」たろうとすれば、「相手の存在を否定することで自己の自立性・主体性を守る」という態度をとることになる。
最初、自己意識確立の話は、他者と関わりながらも地道に頑張る己?といったどこか牧歌的な雰囲気を漂わせていたが、その実が果てなき欲望の賜物であると分かった途端に、見方は他者との熾烈な争いに一変する。そこで一度は自己を「喪失」しながらも再度「本気」で「自己自身」たる必要が生じる。この、一度は自己を喪失しながら、再度の自己意識の確立の必要性が生じるというのは、一度は自由を喪失しながら、再度の自由の確保=成熟の議論を少なからず想起させることについては言うまでもないだろう。 -
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Mrs. GREEN APPLEの歌詞が
ニーチェの思想があるんじゃないか?と
誰かが考察していたので気になって読みました。
ほんとに全くニーチェのことがわからなかったので
初心者向けとある本から読ませていただきました。
カタカナが多くて、名前なのか地名なのかとか
そこすら曖昧な私です、、、。
マンガになっている部分が、
ギャグ感あって楽しく読みすめめる事ができました!
ところどころ難しい部分もありますが
初めて読むにはいいなと思いました。
「神は死んだ」という言葉も
耳にしたことはありましたが
意味などを考えたことがなかったので
いい勉強になりました。
ルサンチマン!学校で習ったような気もしましたが、、
覚えていませんでした。笑
身近にルサンチマンいるので
共感が凄かったです、、、( ˊᵕˋ ;)
どうにかならないものか。
ニーチェの思想よきです。
1日で読みました。
Mrs. GREEN APPLEの歌詞
たしかに通ずる部分があったように感じます✨ -
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ツァラトゥストラに再チャレンジする前に読んだ。
わかりやすく、面白かった。
ニーチェは神という絶対的なものを否定し、その代わりに「超人」への道のりを価値観の拠り所とした。
また、彼は永劫回帰という、人生への絶対的な肯定を説いた。さらに、肯定できぬ者の、自己の生への呪いを正当なものとした(チクショー)。
彼は主体性や喜びを奪うルサンチマンを否定し、苦しみながらも、自らの意志で未来に進み続ける人間、さらにはその苦しみも含めて自己の人生を愛せるような、「超人」への道のりを至上のものとしたのだ。
しかし、これはある意味、絶対的な価値観の導入という意味において、神の復活を意味しないだろうか。
私が考えるに、(そして永井均先生の本やカミュから少なくない影響を受けた結果)、もともと人生は肯定される必要などないのだ。
「これが人生か、さらばもう一度。」などという自認はいらない。「これが人生か。そうか。」でよいのだ。そこにあるべきなのは、過去に対する部分的な諦観と部分的な満足感のみである。
人生を愛する必要などないし、そのために努力する必要もないのだ。
なぜならば、人生は一つの長い外部の現象を、内部の別の現象を通じて想起したものに過ぎないのだから。
そこに価値観を設けて、肯定・否定を論ずること自体が恣意的なものであり、十分な客観性・論理性が担保されない以上、いかなる行為もいずれ足元から瓦解してしまうのだ。
その破壊と創造のプロセスを永久に続けるものが「超人」であり(また、「転げ落ちる岩を山頂に押し上げる者」としても良い)、まるで、苦悩しながら一つ一つ積み木を積んでいく幼児のようである。
そこからいじらしい幼児性を引いて考えると、愚かでバカげた人間のように、傍目からは見えないか。
ここで、第三者を考える必要はない。ただ、自己の人生を見つめ直した時に、客観的な価値観を導入したならば、自分の姿がバカらしく見えるだろうというだけである。
この意味において私は、「超人」の価値を否定するのだ。
「超人」のバカバカしさを悟った時点で、合理的な人間であれば、そこで「超人」への歩みを止めるべきである。
神を⚪︎し、「超人」を否定し、人生への肯定を捨てて、無目的に精神の砂漠を歩き続ける人間こそ、真のニヒリストではないかと私は思うのだ。
外部と切り離された場合、そこには一切の慰みも、絶望も、安心も平穏もなく、ただ空間が広がるだけである。その空間に他意なく放たれた孤児こそ、人間の精神の始まりであり、合理的な人間が現実を直視した時に取るべき行動は、無意味な逍遥に他ならない。
ツァラトゥストラ、読みます。 -
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ネット上で予習したツァラトゥストラの内容に親近感を覚えていたので、読みやすい文体でおおよそのあらすじと考察を記載されている本書を一読。
入門書に適しておりかなりわかりやすく読めた。
ニーチェの人生を追体験した上で、キリスト教世界における神はどういう存在でどんな価値観だったのか、そこからニーチェの考える価値観、神の死から新たな超人という指針、ニヒリズムや永遠回帰と超人への道に行き着いたストーリーが、筆者の易しい説明で解きほぐされていく。あとはニーチェの悲劇の誕生という処女作では、ディオニュソス的なもの(感情や享楽を前提とした世界)とアポロン的なもの(理性や論理で組み立てられた世界)という概念が語られており、ユングやMBTIにおけるFi(内向的直観)、Ti(内向的思考)のような概念だなと思ったのと、ニーチェは前者のディオニュソス的な思想を持っている点が強く惹かれるポイントだと感じた。全体を通してその人間の深淵たる内面性を肯定し、つらく大変な現実に対して能動的に前向きに立ち向かい続けることこそが人のあるべき道であると諭している。そのリアリスティックな視点が僕は好きだなぁと。 -
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ネタバレさて、「永遠回帰」の意味するものについて見てきました。でも、「何度も繰り返しの人生を生きることを欲する」なんてことは、本当にできるのでしょうか? 大学でニーチェを講義するとき、ぼくはよこくの質問を学生に投げかけてみました。よくある答えは、「いまの人生を全否定するわけではないが、楽しいことがあっても厄介なことはもあったわけで、まったく同じ人生をもう一度というのは実際には辛いかな。一度ならいいけど」というものでした。そして「何度も繰り返していい、というところまで自分の生を肯定する必要なんてあるんだろうか?」と疑問を呈する人もいました。でもなぜ、ニーチェは「永遠に繰り返せるほどの生の肯定」を求めたのでしょうか?
それはルサンチマンの克服という問題と深くかかわっていると思います。
ニーチェは、「こうあった」--たとえば「両親が離婚してしまった」「身体の障害をもって生きていかなくてはいけなくなった」「好きな人から別れを告げられてしまった」というような、ネガティブな過去のできごとーーに対する意思の歯ぎしり、ということをいっていました(第二部「救済」)。たしかにこのようなことを耐えつつ生きていくのは辛いものです。だからこそ、どうすることもできない「無気力」を感じ、そこから何かに心理的に復讐したいという気持ちが生まれます。失恋のばあいなら、自分をふった人に対して「どうせあんな女なんか」と急に欠点を探し出したりするかもしれません(ほんとうは素敵なのに)。人間の心にはそんな動きがあって、無力な復讐心で紛らわそうとするわけです。これがルサンチマンです。
このような状態から、ふつう人はどうやって抜け出ていくのでしょうか。多くのばあいは、しばらくは呻いたり呪ったりしながら、時間が経つにつれて「しかたがない」と思いはじめて、だんだんと受け入れていくのでしょう。ところが、ニーチェは「しかたなく」受け入れるのではまだだめで、「それを欲した(意欲した)」にしなくてはいけない、すなわち「失恋してよかった」としなければいけないというのです。「すべての『こうあった』を『私がそう欲した』につくりかえることーーこれこそわたしが救済と呼びたいものだ」(第二部「救済」)と。
「しかたなしの受容」というのは、みんなわかると思うのですが、「これ“が”いい。私はこれを欲する」ということになると、多くの方が「それは無理ではないか」と感じるのではないでしょうか。たとえば身体の障害であれば、「障害をもったことは、“しかたがない”ではなく、障害をもったことを“欲する”」、つまり「何度生まれ変わっても障害者であることを欲する」までいかなくてはいけないわけですから、これはとてつもなく厳しい要求です。ぼくも最初にこれを読んだときは「何もそこまでいわなくても」と思いました。
けれどもあるとき、ふと友人のKさんの言葉を思い出したのです。Kさんは、一九八〇年代の初頭、ぼくがまだ二十代のときに出会った人で、「骨形成不全症」という病気を抱えた女性でした。発育不全で身体は小さく、骨が弱くて脆いために骨折を起こしやすいので、彼女はいつも車イスにのって移動していました。以前は看護体制の整った施設で暮らしていたのですが、そこではさまざまな人たちとつき合う「関係の悦び」が得られにくい。当時は「障害者よ、街へ出よう」という「自立障害者」運動が盛んな時期でしたから、Kさんも公的扶助などを受けながら、ボランティアの人にお願いしてアパート暮らしをするようになったのです。
しかしトイレ介護を受けないと一人ではできないので、夜眠るときでも必ず誰かが付き添っていなければなりません。彼女は二百人ほどの名前をリストにしたノートをもち、今日はこの人、明日はあの人というように、自分のおなかの上に電話器を置いて電話しながら、介護のスケジュールを埋めていたのを思い出します。
Kさんはこの「自立障害者」運動のなかで、たくさんの障害者や健常者と出会って友だちになりました。彼女は大学生ではありませんでしたが、車いすを押してもらって大学のゼミにも顔を出し、そこでぼくもゼミ生の一人として彼女と知り合いになったのです。その彼女が、あるときこんなことを話してくれたことがあります。
「障害者の仲間の間では、こんな話があるんですよ。『もし天使が降りてきて“あなたの障害をすっかり治してきれいにしてあげる”といわれたら、そのときはどうする?』って。私は『このままでいい。障害をもって生まれたこの身体をもう一度選ぶ』と。それを聞いた二十代のぼくは、「ほんとかなあ? それはちょっと無理があるんじゃないかな」と思って、彼女にもそういった記憶があります。
でもだいぶ後になって、あらためてこの「永遠回帰」の思想――マイナスな生の条件に対しても“われ欲す”といえるとすれば、どんなときだろう」と考えてみたとき、彼女の「このままでいい」といった理由がわかる気がしたのです。
彼女にとっていちばん大切だったのは「関係の悦び」だったのだと思います。障害をもって生まれてきて、施設にいれば安全だけど悦びは少ない。それに対して「外に出る」ことは大変なリスクを伴うとしても、さまざまな人たちと出会える。新しい出会いを通じて生活を作れるのは、彼女にとってとても大きな悦びだったと思うのです。「障害だけを見ればたしかにマイナスだ。でも、この障害とともに自分の人生はあった。苦しみもあったけれど悦びもあった。障害のおかげで、他の障害者や健常者の友だちに出会えた。素敵な出会いがたくさんあった。この人生全体を私は愛す」と彼女は心から思っていたのかもしれません。
あらためて「マイナスをどうやって欲するか」について考えてみましょう。「しかたがない」という言い方は、たしかに受け入れてはいますが「外から押しつけられた」感を伴っています。ですから、「もしこれがなかったら」と考えてしまう可能性が残っている。でも「このこと(障害)が私の生を作っている」と思えたならば、それは自分の人生の内側を形作っているものとして受け入れていることになります。それはもう自分から切り離せる「外からの」ものではない。苦しみも悦びもつくり出すきっかけにもなっている。そう考えるならば、マイナスを含めて自分の人生を肯定できる。そしてその人生を何度でも繰り返そうと思えるのかもしれません。
ふたたびルサンチマンについて考えてみましょう。そもそも、なぜルサンチマンは「よくない」のでしょうか? ルサンチマンとは「無力感から生まれる復讐心」のことですが、ぼくなりの言い方をすれば、前向きな力を損なうところが問題なのです。
まず第一に、それは「自分が人生の主人公であるという感覚」を失わせる。自分の人生を自分でコントロールしていけると思える「能動的」な感覚、これをだめにする。さらにもう一つ、「みずから悦びを求めて汲み取ろうとする力」を失わせる。たとえば、同じ時間で仕事をするときに、嫌々ながらやることもできるし、悦びを得ようとすることもできますよね。ルサンチマンとは「ブーたれ」ですから、自分から動く能動性を失わせてしまい、「文句をいう」という微弱な快感とひきかえに、積極的に悦びを汲み取ろうとする力を損ねてしまうのです。
さて、いよいよ本題へと入りますが、ニーチェの思想のうち、私たちが現代を生きるうえで大事だなと思うポイントをいくつか拾ってみましょう。
最初に強調したいのは、ニーチェの思想は、まさに「いま」という時代を生きるさいの「柱」になるものだ、ということです。高度経済成長期のように、「いまは自分たちは貧乏だけど、いずれ豊かになれる」とか「あそこには素晴らしいものがある」という目標が与えられない時代です。
そんななかで、「では何ができるのか」と考えたときに、もしあなたが「自分の人生を自分でつくっていく主役でありたい」と願うならば、この状況で「何が自分を悦ばしくするか」を問う以外にありません。--これは一見、とても厳しい思想のように思えます。「こうやって生きるべきというものはない。どのように生きてもいい。そして、どの絵を描くのかもすべて君に委ねられているのだ」というので、恐ろしく感じる人もいるかもしれません。しかしそれは、人を本当の意味で自由にしてくれる思想だとぼくは思います。
なぜ「この作品はすごい」のか、なぜ「この作品はいまひとつダメなのか」。こうやって互いに語り合われることを通じて、人生に対する態度や、他社に関わる態度、社会に対する姿勢など、自分がいままで無自覚につくってきた「よい・わるい」の感覚が、他者の感覚と照らし合わされ、検証されていく。そのプロセスを経て、「やっぱりこれはいい。これはよくない」という価値観の軸ができあがっていく。こういうことが文化の本質でしょう。一言でいえば、自他の価値観を照らし合わせながら、ほんとうに納得のいく価値観をともにつくりあげていこうとすることです。
こうした語り合いのないところに、「創造性」や「高まること」はない、とぼくは考えるのです。