内山節のレビュー一覧
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内山節の三十代前半の著作。若年にしてすでに老成している面と、若々しくひたむきな面とが、生き生きと表出されている好著である。
日本と西洋の伝統的な考え方の違いをフランス人の友人に問われて、日本には「自然」という言葉がなかったことを著者が指摘するところがある。西洋の自然は、人間に対立する概念である。日本人は人間に対立する「自然」という考え方を持たずにやってきた。
「古来日本で自然といえば生き物の世界の因果的な必然をあらわす言葉であった。それが明治以降、『人間の手の加えられてないもの』という意味で西洋語の訳語として使われ始めたのである」と。
目からウロコの指摘である。 -
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自分から進んで読んだ、はじめての哲学書。
森美術館のストアのインスタで紹介されていたのを見て、興味をもって購入した。
「時間」について、なんとなくピンと来たのである。私たちが生きているこの時間の流れとは別の時間の流れというものが存在している…というような紹介の仕方だったのだけど、なんかそれが「わかるかも」と思ったのだ。
本書は哲学書といいながらも、半分エッセイのような語り口でとても読みやすく「何を書いているのか全くわからない!」という箇所はほとんどない。ときどき、あれ、この話何回目?と同じ話を何回もされているように感じることがあり、そのときに「私は何かを読み取れていないのかもしれない…」と感じ -
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私たちは、おカネに対して、愛憎半ばする複雑な感情を持っている。
この本からは、経済学の勃興期には、フランソワ・ケネーにせよアダム・スミスにせよ、この「貨幣に対する両価的な眼差し」が存在していた、ということを教えられる。人間にとっての生きた有用性としての使用価値と、市場での道具としての交換価値との関係性をどう考えるかという難問の形でこの両価性は表現されていた。
リカード、ケインズらにより、使用価値の問題が捨象されることで、経済学は自立した学問になった、ということが、よく分かった。
国家と企業体は、生きる主体ではないから、モノの有用性=使用価値は必要ない。
そうして、貨幣の自立した増殖運動だけを語 -
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弱冠26歳で、すでに内山節は内山節であったということを、鮮烈に印象づけるデビュー作。
資本主義というシステムを労働者の外なる経済構造としてその論理と法則を解明したマルクスの資本論に依拠しながら、主体としての労働者を核に資本主義システムとは何なのかを明らかにしようとする試み。
そのために内山が着目するのは、本来の労働とは労働者の労働能力にもとづく行為であるのに対して、資本主義的生産様式のもとでは、生産とは労働力「商品」を使っての資本の生産過程であるということ、そこに労働と生産の分離−二重化という資本主義の特殊性が生じるということである。
自分の労働が自分の労働ではないかのような「労働力」を通して -
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かつての日本にありふれていたキツネにだまされるという話が1965年頃を境に発生しなくなったということに著者は着目する。そこから1965年の革命とは何だったかを論じる。
なぜ人はこの頃からキツネにだまされなくなったのか。
様々な人々からの聞き書きの体裁をとりながら著者は6つプラス2つの仮説を提示する。
まず、人間の方が変わったとする仮説群。
①高度成長期に経済的な価値があらゆるものに優先するという方向に人間が変わった。
②科学、技術が尊ばれるようになり、人間が科学では捉えられない世界をつかむことができなくなった。
③情報、コミュニケーションのあり方が変わり、伝統的なコミュニケーションが衰退した。 -
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内山は、人間が人間になった本質的な契機を労働であるとする。ここで労働とは広い意味で用いられており、人間の自然への働きかけの全体を意味する。
動物と異なり人間は、自然を改変し、また自然によって変容していく。
したがって自然と人間との交通のあり方が変われば、自然が変わり、人間も変わる。
近代以降、貨幣経済が人間社会を席巻することで、自然と人間との交通が根本的に変わってしまった、と内山は言う。
労働の観点からは、使用価値を作る労働から、交換価値(商品)を作る労働へ。
その時何が起きるか。
自然と人間とが截然と分かたれずに、人間が自然に主体的に関わる世界から、人間も自然も生産システムの手段に成り下がる -
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ネタバレ哲学をほとんど知らない自分でも理解しやすい内容だった。以下は読書メモ。
エピクロス
・哲学を学ぶのに年齢は関係ない。
・なぜ哲学を学ぶのか。それは、未来を恐れないため。人間が美しく生きるため。
三木清
・人間は環境によって考え方が決まる。
・未来の自分は現在の自分の延長線上。
小さなことを気にしない。
自分の哲学に勇気を持て。
人はずっと成長する生き物。学びを放棄してはいけない。
実存主義
→ただ存在するだけでは人間の自由は生まれない。なぜなら、いろいろなものに縛られているから。したがって、抵抗し続けていくことにより自由を獲得していこうという考え。
科学的社会主義→マルクス・エンゲル -
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西洋と東洋思想の比較をしながら、共同体に対する姿勢を論じる。
西洋では実体を軸にして、東洋(主として仏教)では、関係を軸としているよう。
例えば、死者がいるかいないかであれば、西洋では死者の魂というのが現実にあるかないかという論になるが、東洋では関係に主を置くので、いると思えば、いるというスタンスをとる。関係があればそれはあるということだと。
また関係が大事なので、「一は全で、全は一」だとする、それは正確には大乗仏教という仏教の一つの言説のようだが、その一個体はある意味あらゆるものに関係しているので、その個体は全をすら表すという考え。なので、利他的につながるのだと。自分という個体が悟るには、 -
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父:アップすればまた自慢話みたいになって、ひんしゅくを買うだけだから、やめた方がいいと思うけどな・・・
私:・・・だって、そんなこと言ったって、何か書けば正直に全部さらけ出すのが私の性分だから、しょうがないじゃない!
それはともかく・・・
内山節は、わが三浦雅士もそうですが、私が好んで注目して全著作を読んできた人で、彼もどこの大学へも行かず独学で学び思索を続けて著書を上梓し続けている著作家です。
彼は前後左右の同時代人のなかでは人一倍 啓蒙的な姿勢の人で、孤高の三浦雅士とは一味違う親しみの持てる方だと、最初に読んだ本『存在からの哲学 新しい哲学の時代にむかって』(毎日新聞社 1980年 -
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今日、世間では、コミュニティビジネス、ソーシャルビジネス、里山資本主義などなど、社会的な課題解決の対処の仕方として色々なアプローチがあり、それぞれに一応納得できるような提案がなされている。
この本は、「半市場経済」という概念を提起し、序章にあるのだが、ひとつの時代の終わり、前提が崩れた、神話の終焉、新しい経済デザインと鞘木デザインを、新しい価値の創造と経済学 ということで、一定整理し第1章から最終章までそれぞれの専門家が理論整理された本である。
内容は
第1章 経済とは何だったのか。あるいは、労働の意味を
問いなおす
―経済・コミュニティ・社会
・内山 節
第2章 エシ -
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ネタバレいやぁおもしろかった!
著者の内山節氏の講演会に行きたくなった。
後半のベルクソンらの知性の話や歴史哲学もおもしろかったけれど、私には前半部分がたまらなくおもしろかった。
以下おもしろかったこと。
1.なんといっても問いの立て方が最高!
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」 これは「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」と並ぶ新書タイトルの最高峰だと感じた。
2.安倍晴明の逸話
説話として残っている晴明の活動を見ると、「式神」が鳥や動物に降臨するときにすぐれた能力を発揮していた。しかし江戸時代に入ると、晴明は母がキツネだったから能力があると変化する。つまり能力のあるものが「式神」から「