内山節のレビュー一覧
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内山さんは哲学者という肩書き。写真とみると、農家のおじさんのような風貌。
この本は、石原都知事の本とならんで、しつこく職場の本屋に平積みされていたので、ついに購入。
全体の感想としては、もっともなことを言っていると思うが、その文脈がよくわからない。
哲学者としてこれをいいたいということを、ぽつぽつ言っている感じ。哲学と論理性ってあんまり関係ないのかな。
①20世紀の哲学は知性中心主義を批判し、身体のもつ役割を再認識する流れをもつくりだしてきたが、東日本大震災は知性の限界をも暴露してしまったのである。(p91)
知性の限界というより、技術の不十分さを露呈したということではないか。安全性を確保するために一層の技術の充実が必要と前向きに理解すべき。
②東日本大震災以降の現実の中で私が感じたものは、情報を大量に受け取ると逆に人間は適切な判断をできなくなる。(p66)
そのとおりだが、それは、受け取る側で両論の均等に情報収集して判断することが大事ということ。受け取る側に努力が必要ということ。
③復興は関係の再創造としてとらえなければならない。コミュニティの再建、再創造こそが復興なのである。(p150)
自分は、復興とは、生活と生業の再生といっているが、まさに、生活面は人間関係の再生にある。
別に目新しいことを述べているわけではないが、哲学者のいうことに、もっともと思えることは、自分もいろいろ復興について深く考えてきているということかなと思う。 -
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そう言えば最近キツネにだまされなくなったよね(昔はちょいちょいだまされてたみたいな言い方!)
びっくりしました
民俗学の本だと思って読んだら哲学の本でした
最終的に歴史とは何かみたいな考察にも行く
まぁ、民俗学的要素も多分にあったけども
そしてもっとびっくりしたのはクマさんも読んでたってこと
うん、このタイトルは惹かれるよね
クマさんの場合ワンチャンだましてた側の可能性も…(ないわ!)
筆者によると、1965年頃を境に「キツネにだまされた」という話が消滅したというのです
そしてそれは様々な理由により、人間が「キツネにだまされる能力を失ってしまったから」なのだそう
まるでだまされる方が優れてるみたいな言い方
いや実際優れてるのか?
大きな転換点として挙げられるのが、日本人と自然との付き合い方の変化によるものとのことなんだけど、ちょっと待って、これわいは近年問題になっている地球温暖化にも繋がってく話なんじゃね?とも思いましたよ
間違いなくこの本の主旨とは大幅にずれてると思うんだけど、「キツネにだまされる能力」って「自然に宿る神様たちの声を聞く」能力でもあると思うんよ
まぁ地球温暖化って世界的な話なんで、日本人的アプローチだけでどうこう言える話でもないと思うんだけど、「キツネにだまされる」って現象は形を変えて世界中にありそうな気もするんよ
つまりもう一度キツネにだまされるようになることが地球温暖化問題の解決に繋がっているってことなんよ!
ってそんなわけあるか!( ゚д゚ )クワッ!! -
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「かつてキツネは本当に騙していたのかどうか」は論証しようがなく、また論証の対象ではないとして、「どうして『キツネに騙された』という話が聞かれなくなったか」だけを論点に絞って筆を進めているのが面白い視点だった。科学的方法だけではつかみとれない真理というものがある、という主張を立脚点にしている。
高度経済成長期真っ盛りの1965年を境にどうしてキツネ(やタヌキ等の山の獣)に人間が騙される話を聞かなくなったか、そこにはいくつかの社会の変化、価値観の変化が要因としてある…と多くのページを割いて説明してくれている。それ自体は分かりやすい説明で説得力もあったのだけど、帯やまえがきで「ターニングポイントは1965年。この年に何があったのか⁈」と煽っているわりには、戦後〜1960年代を通じて緩やかな変化があり、最後にそういう騙されたエピソードが確認できたのが1965年というだけだったのだろう。特に1965年に決定的な事件があったわけではなさそうだ。なので、これは少し煽り過ぎだと思った。
それはそれとして、農村部での伝統的価値観から近代的価値観への変化の説明は非常に内容が豊かで面白かった。特に第三章『キツネにだまされる能力』が良かった。 -
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ふと思い立って、教養文庫コラボのフェア冊子を読んだ。ここ数年、入手はすれども通読せず状態で、何となく取っつきがたいイメージってだけで敬遠していたんだけど、ちゃんと読んでみると、なんとまあ、結構魅力的な作品が多いこと。そんなに難解な感じでもなく、それならってことでピックアップしたものをなるたけゲット。実際読んでみた感触も、モノによっては新書の方がハードルが高いくらいかも。前置きが長くなったけど、要は難なく通読可能だった、ということ。で、本作。哲学の変遷をたどりつつ、自身の哲学論も順次開陳されるという、なかなかの読み応え。哲学史を学ぶというより、その活かし方を習得するための一冊かな。
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ネタバレ資本主義の原理では自滅する運命にある。富が集中すると市場は縮小し、悪辣な経営が資本主義的な動きを拡大し、拝金主義が広がることで社会が荒廃する、ため。
資本主義の対抗勢力が存在することで、資本主義を修正して延命した。
同じ小売業でも、拡大を目指すスーパーやコンビニと、生業として行う個人商店の2種類が併存する。職人の延長としての経営は存在している。
自営業は労働時間の計算はしない。働き方改革=効率的でだらだらしない仕事の方法、とは相いれない。
菜種油は天ぷら油から行燈の灯りまで使える上にカスを肥料として使える。=農業の商品化の始まり。今は農業も単品大量生産で商品生産に組み込まれている。
北海道の酪農は補助金をもらっても借金が増える構造になっている。大規模商業化に乗れない。
資本主義的農業=拡大再生産、商人的農業=信用を高める、拡大を望まない
資本主義は貨幣を増やすこと、に焦点を当てる。方法は問わない。それに徹すると社会は破滅する。企業経営に倫理観を持ち込み、労働運動で企業意識が高まり延命した。
社会主義の崩壊で、勝利したように見える資本主義は、規制緩和と市場原理主義で破滅に向かっている。
地域通貨は地域の循環的な経済を作ることが目的だが、拡大すると通貨と変わらなくなるところに矛盾がある。
ケインズは理想の社会はできないと言っている。いつでも矛盾がある。
GDPが計算できなくなる=地下経済が発展、中古品の流通、などによる。通常は発展するにつれて地下経済が減少するが、多様化が進んで把握できなくなる。
100均ではメイドインジャパンの商品が増えている。 -
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地元の定有堂書店で購入。
読み始めてから期間経ったので例の如く前半の記憶は曖昧。南無。
眉唾トンデモ本かと思ったら、
歴史哲学本でした。
キツネが馴染みづらいなら、
ガンニバルはなぜ都市部では成立しないのか?
と言い換えてもいい。
ガンニバル一巻しか読んでないので見当違いかもしれないけどまぁそこはそれ。。。
結論から言うと、
高度経済成長期に入った65年らへんから西洋思想が流入し、日本全土に伝播。
日本古来の思想、仏教をベースにした土地土地にカスタマイズされた民間信仰、自然と一体化していたクローズドコミュニティの共通思想が廃れていき、キツネに化かされることもなくなった。
ということです。
(西洋思想なんてもっと前から来てただろ。
とか色々ツッコミどころあると思いますが、
正直うろ覚えです。詳しくは本書読まれたし。)
西洋思想とは知性、理性、合理性に偏った思想だとするなら、
日本古来の思想は、身体性、自然性に偏った思想で、自然を神聖視(非合理的なことが起こってもおかしくない)していた。
だからキツネに化かされることがありふれた日常の一コマだった。
という論旨。ざっくり言うと。
そしてそっから思想の話は発展し、
じゃあ西洋思想は進んでいて、
日本古来の思想は遅れてたのかって話になり、
西洋思想の歴史発展視は、
マルクスが社会主義を唱える際、
資本主義を発展した思想だとした上で自分の説をさらに発展させたものだという言説から、
歴史は常に発展しているという幻想が跋扈している。らしい。
西洋思想の合理的思想だけが正解なのか?
それには NOだと幾人もの哲学者は言う。
「我々は自分の存在が無であること、あるいは大したものではないことを知っているのに、この我々の知が本当に知であるのかどうかは、もはや知ることができない。」レヴィ・ストロース
といった具合に。
まぁディストピア映画を想像してもらえば容易いだろう。
そもそも歴史なんて絶対ではない。
各々の記憶の中で保持されている事実という、
曖昧なものの集合体でしかない。
例えば、
あなたはあなたが生きてきた時間、個人史の中の、10年前の14時23分58秒に何してましたか?
と小学生みたいな質問をぶつけたら、
答えられない人が大半だろう。
ショーペンハウエルの「世界はわが表象である」的に言えば、
僕たちは主観からしかこの世界を捉えられない、外側の世界には内側の世界からしか介入できない故に、客観的事実というものは存在しない。
ならば主観に上がってこない歴史というのは、
無いのと同じでないか?
1259年には何が起こりましたか?
その時ポルトガルだったところは何が起こってましたか?
その当時の人々は何を食べて何を着ていましたか?
どんな思想をしていましたか?
と意地の悪い質問をしても、
答えが返ってくることもあれば、
返ってこないこともある。
歴史というのは、
それぐらい曖昧なものなのかもしれない。
歴史が曖昧なものなのであれば、
現代は過去より進んでいる。
とするのは疑問符が浮かぶ。
とはいえ、過去の方が進んでいた、豊かだった、とする懐古主義的な向きも違う。
私見だが、
結局は個人思想の在り方じゃん。
という身も蓋もない結論に着地。
とするのはあまりに西洋思想寄り過ぎかもですね。
あれー、単にキツネの民間伝承的な事を知りたかっただけなのに、変な方向に話が向いちゃったなー。
こりゃ、ばかされちゃったのかもな。
なーんて。
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ネタバレ『国語教育は文学をどう扱ってきたのか」という本で、いわゆる「キツネ読本」が定番教材として扱われている背景に、ごんぎつねの話が昔と今では違ったという話があった。その話は面白いけど、そこで、なぜ変わったのか、それは「生命性の歴史の衰退」、という話が出てきて、その部分がよく分からなかった。そして、その引用文献になっていたのがこの新書だったので、読んでみよう、という。さらにこの著者は、高校教材としての評論文の定番の著者ということだから、なおさら興味が湧き、読んでみた。
分量はそんなにないが、読みごたえがある。というか、『国語教育は~』で指摘されているように、著者独自の視点で事象を切り取り、「歴史とは何か」を分析し、そして程良く難解(少なくともスラスラ分かるという感じではなかった。かと言ってチンプンカンプンでもなく。)、という部分が、現代文で重宝されているんだろうなあ、ということがよく分かった。
1965年頃を境にして、日本人の自然の捉え方が大きく変わった、というのがメインの話で、1965年以前、「現代の私たちとは大きく異なる精神世界で生きていた人々にとっては、キツネはどのようなものとして私たちの横に存在していたのか。今日の私たちの精神では到達できないものがそこにあった」(p.107)、ということを示し、「人間は客観的世界の中で生きているのではない」(p.117)ということを説き、キツネに騙されたかどうかという真偽の判定よりは、その物語が語られなくなることに、「私」を取り巻く世界がいかに変容したか、いかに合理性を求める知性を肥大化させ、その知性を通して歴史を認識するようになったか、ということが語られる。見えなくなってしまった「私」の記憶、身体に蓄積された記憶、ユング的な集合的無意識のようなもの、これが最初に述べた「生命性の歴史」ということらしい。
うーん、分かったような、単に言葉をつなげただけのような。なんとなくは分かるんだけど。「本書は私自身の企画としては、『歴史哲学序説』という副題のもとに書かれている」(p.4)ということだから、そういう話に興味がある人は面白いと思う。あとは面白かった部分のメモ。natureの訳語が、ヨーロッパのような客体としての体系が日本には存在しないことから、自我、我執のない世界を、オノズカラシカリ(=自然)と呼ぶ世界、という意味で、最もジネンなもの、シゼン、ということらしい。仏教の発想らしいが、そう考えるとこっちのジネンを英訳するのが難しいだろうなあと思う。それとも、ヨガとかが流行るオリエンタルブームの文脈では簡単なのかな。「自然保護などという言葉を平気で使えるほどに、私たちの自然観は変わった」(p.59)という部分は言い得て妙だなと思った。あと日本の伝統的な信仰を理解することは、教義を研究することではない、という話(p.106)があって、例えば修験道は「この信仰の核心が教義ではなく修行にある」(p.84)、「自然のなかでの修行がこの信仰のすべて」(同)なんだそうだ。民衆のなかに根付いた仏教、というものがあるなら、それと同じく民衆の中に根付いたキリスト教、というのも西洋にはあるはずだし、西洋の宗教学でも教義の研究ではない宗教の研究ってあるんだろうか、って思った。あとは「近代的な自由とは、社会が認めた自由を自由だと思い込む自由しかない」(p.121)というシュティルナーという人の言葉は面白いと思ったり、「生命のほんの一部でしかない知性」(p.147)によって歴史を捉えることで、逆にその歴史が誤ったものになりうる、というところが何となく分かった気がする。と言っても、歴史のコペルニクス的転回というか、そういうことをしないと何を歴史として捉えていいのか分からないという、一体ここで勉強している歴史って何なのだろうかとか、そういう想いを持った。(22/03/18) -
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【背景】
①なぜ読むか
日本人の意識から、妖怪なども消えていることを不思議に思っていた。その疑問に関連すると思い本書を手に取った。
②何を得たいか
狐に騙されなくなった背景や、その結果を学びたい。
③読後の目標
抽象化して、日本人の心と科学、自然との関係について考察する。
【著者】内山節(哲学者)
【出版社】講談社現代新書
【重要語句】
1965年、オオサキ、キツネ、高度経済成長、科学的真理、想像力、霊、自然、仏教、知性の歴史、身体性の歴史、生命性の歴史
【要約】
説1 「高度経済成長期の人間の変化」
説2 「科学の時代における人間の変化」
説3 「情報・コミュニケーションの変化」
説4 「進学率」
説5 「死生観の変化」
説6 「自然観の変化(ジネン→シゼン)」
説7 「キツネの側の変化」
→日本人の価値観の変化(欧米化)
【メモ】
p12「(キツネにだまされたというような)山のような物語が存在し、その物語が1965年ごろを境にして発生しなくなるという事実は証明できても、そのもガタリが事実かどうかは証明不可能、あるいは論証という方法では到達できない事実として存在している」→科学的ではないとのことわり。そりゃそうだ。
【感想】
かつての日本人コミュニティでは、人間同士の関係が険悪にならないように、キツネなどの仕業としていたように思う。
ある意味で、自然と人間とを区別しない世界を日本人は生きていたのであろう。
キツネにだまされなくなった話から、歴史認識の話へと進み、日本人観の変化へと論理が展開されていく。その中で、近代化現代化への意見が表れてゆき、読者はより大きな疑問へと引き込まれていく。
少々、内容の理解に私は難しさを覚えたが、新たな視点を得ることができたと実感している。 -
Posted by ブクログ
1965年付近を境として日本からキツネにだまされる話が身近になくなった。という命題を立てその原因を考察する。それなりに面白く読める本ではある。
1965年を境にして、身体性や生命性と結びついてとらえられてきた歴史が衰弱した。その結果、知性によってとらえられた歴史が肥大化した。広大な歴史が見えない歴史になっていった。
話には納得できるものの、何となく違和感を感じるのは、元々が都会の生まれで著者の描く歴史が元々自分たちのものではない。自分たちの感じてきた歴史が否定的に語られるとことが釈然としないのである。
キツネにだまされる日本人が本来の日本人であったというような語り口がハナに付くのかもしれないのである。 -
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それほどおもしろい内容ではなかった。
p.68にあるような情報の価値基準についての筆者の考え方こそが、p.110で述べるような、いわゆる「専門家」を作ったのではないか。現代では、情報はブラックボックス化しがちである。それは悪意ある隠蔽であるかもしれないが、たんに市民の怠慢であることも往々にしてあるだろう。「専門家」からの「暴力」に対抗するには、「餅は餅屋」という考え方を改める必要があるのだろう。
本書の称賛すべき点は、「放射性物質に関しては、論理的に『風評被害』は存在しないと考えた方がよいと私は思っている。」(p.55)と震災数ヵ月後に表明したことではないかと思う。