内山節のレビュー一覧

  • 内山節と語る未来社会のデザイン2 資本主義を乗りこえる

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    ポランニーが主張するように「共同体の慣習」によって地域内経済は等価交換ではない。これは地域外経済にも作用する(p.19)。しかし、資本主義化の過程で、様々なものがシステム化していくなかで、この共同体的慣習による経済への作用は効果を薄めていく。

    資本主義の原理として、「カネがカネを殖やす」ことが目的になっており、これが行き過ぎると最終的には資本主義が自信を食い尽くしてしまう。そのアンカーとして、社会主義という対になるイデオロギーがあったが、1991年のソ連崩壊によってそのアンカーが外されたことにより、資本主義は暴走を初めて行くこととなる。

    ケインズは資本主義を「資本主義以上に優れた経済システ

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    2023年08月07日
  • 日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

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    「現代人」の視点から眺める景色は合理的思考や科学的思考によっては知覚されないナニカを排除する。
    歴史も同様に意味を与えられない出来事を排除して直線的に「歴史」を作り出す。
    意味を超えてそこに存在したナニカを知覚できなくなったことにより「キツネにだまされる」ことができなくなってしまったのではないだろうか。

    非常に面白い内容でした。
    次は 「里」という思考 を読んでみようと思います。

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    2022年02月09日
  • 日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

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    ○目次
    まえがき
    第1章:キツネと人
    第2章:1965年の革命
    第3章:キツネにだまされる能力
    第4章:歴史と「みえない歴史」
    第5章:歴史哲学とキツネの物語
    第6章:人はなげキツネにだまされなくなったのか
    あとがき

    ○感想
    本書のタイトル「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という命題から、1965年を境に現出した日本人の変化を問うている。

    日本の社会には制度としての歴史と、自然や生命と循環的に息づいた「みえない歴史」があった。筆者は、この「みえない歴史」に対して、古来日本人は「知性の歴史」「身体性の歴史」「生命性の歴史」という3つの見方・能力を通じて捉えてきたと考える。キツネに

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    2020年01月14日
  • 日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

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    「日本人はなぜキツネに騙されなくなったのか?」という問いを発端に、自然に対する日本人の精神的変化を考察する一冊。一年の半分を群馬県の山村で生活する著者の経験をまじえながら、歴史の本質に迫る議論が展開されている。
    本書によれば、日本の伝統的社会では自然と人間の関係において「知性・身体性・生命性」それぞれの歴史が存在していたという。人間は個人ではなく、全体性の一部であった。オノズカラ(ありのまま)の自然に属する一方で、人間は「我」を捨て去ることのできない存在であることを自覚し、そのことが自然への畏敬を作り上げていたと著者は指摘する。
    そうした《自然-人間》の生命世界は、1965年前後を堺に崩壊しは

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    2019年08月28日
  • 修験道という生き方(新潮選書)

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    修験のお坊様2人と内山節の鼎談。修験の歴史とかも。女性受け入れをどうするのかとか、今どきの話も出てくる。縄文的なものとしての修験というのは最近の流行りなのかな。

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    2019年06月04日
  • 修験道という生き方(新潮選書)

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    お恥ずかしながら修験道なるもの、開祖らしき人物がその大昔にいるような「宗教」だとは露知らず、土着的な自然信仰かと無知にも程がある理解でした。
    ということで最初から結構面白く読めました。
    内容としては日本独特の感性からくる信仰についていろいろ思い巡らすということでしたが、当方としては、ケルト然り、地域・時代を超えた同一性に興味津々。人間ってそんなに大きくは変わらんのかな?と思う一方、世界平和は夢のまた夢というのも構造は同じであるが、その中身が異なるということでしょうか。
    うーん、お借りした本ですが、これはgoodでした。

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    2019年05月22日
  • 哲学の冒険

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    人間の生きる意味は人間の歴史に参加すること
    すなわち何かを生み出すこと
    本来の労働とは何かを生み出すことそのものだった
    産業革命以降人間の労働は歯車になった
    その中で生きる意味を見失っている

    哲学とは今の人生と理想の人生のギャップを
    埋めるための精神的活動
    理想を描くのが難しい社会になっている
    主体的に理想を探すことこそが自由ということ

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    2019年01月20日
  • 日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

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     日本では、1965年を境にキツネに騙された、という人がいなくなったのだそうだ。
     それはなぜか?
     私が最初に思ったのはテレビ放映が始まり、情報が人づてではなくなったからとかそういうこと。
     この新書では、誰もが思うような理由や、その観点はなかったが納得という理由、さらにそれらを組み合わせて見せてくれる「キツネにだまされなくなった日本」の姿が、なんとも美しい。
     面白かった。再読したい。

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    2018年12月13日
  • 文明の災禍

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    某所読書会の課題図書.気になる言葉が頻出.供養(p15),大量の情報を受け取ると,不思議なことに私たちの判断能力を弱体化させる(p62),確かなもの,確かな実体は私たちにはとらえられないものとして存在しているのだろうか(p83),人間の営みが未来の時間を破壊した(p101),創造なき破壊(102),専門性という名の下におこなわれる暴力(p113),働く人たちの生活を犠牲にした経済発展だけを考えるような体制(p136),伝統社会から継承してきた現代文明とは異なる文明を私たちは基層的文明として持ち続けてきた(p159).最後の方に出てくる 利他と自利は重要な視点だと感じた.

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    2017年11月04日
  • 半市場経済 成長だけでない「共創社会」の時代

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    好き嫌いがそこそこ分かれそうな内容です。非現実的・理想論と評価される可能性は高いかも。

    要点は市場の発達により社会と乖離した市場経済になんとか社会性(人々の生活的な価値のことだと思う)を取り戻していく時代になってきたのではないか、という主張。

    課題解決の効率化のためにある程度レイヤーを制限せざるを得ない(国の財政とか、地域の財政とか、家計とか)状況が分断を生むのは仕方ないし、解決策をスケールするために最大公約数的な評価軸である貨幣に単純化されるのも仕方ないのかな、とは思う。それ故に個人の生活からは乖離していくけど。

    主な対策としては市場経済だけではない様々な経済を成立させることや社会的価

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    2017年10月23日
  • 日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

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    震災前のうっちーの著作を読んだのは初めてかも。
    日本人の身体性、生命性、知性の歴史の物語でした。
    「感想」を述べるには自分の中で諒解していないことが多くってそこまでには至っていないのだけれど、
    これまで言葉にできていなかった『何か』を説明してくれているような気がした。
    伊坂幸太郎が「人生は要約できない」と言っていたことと近しいものがある気がする。
    過去の人達はどういう『世界』の中で生きていたのか。
    それを読み解くことで現代人がどういう『世界』の中で生きたいのか。また求めていくべきなのか。
    ということがわかるのかもしれない。

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    2017年01月13日
  • 半市場経済 成長だけでない「共創社会」の時代

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    内山節の著作をまともに読んだのは初めてなんじゃないかと思う。
    学生の時に講演を聞いた時から思っていたが、
    時代に対する感覚がとても鋭い。
    まだ『時代の走り』ぐらいのものを的確に捉えて、
    見事に言語化してしまう。
    今回の半市場経済も、まさにっ!!といった感じだった。
    市場経済や非市場経済一辺倒なわけではなく、“適度に”市場経済と関わる人が増えているという指摘は腑に落ちるものがあった。
    この流れはたぶん時代を作っていくだろうと思う。
    旧態依然の時代にしがみつく人たちとそこから脱したい人たち。
    その2つの大きな流れが現在のアンビバレントの状況を作り出してるのだなーと実感した。

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    2015年12月06日
  • 日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

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    この薄い書籍にこれほどの情報量、文句なし!天晴れ!

    本書で言う狐に騙されるとは、ただそこで生きている木や花や水を何気なく美しいと思える無垢さであり、抑揚のない物語に趣を見出す感じやすさであり、与えられた秩序の中でだれもが楽しむ柔軟さだ。
    すなわち、「狐が人を騙すわけない」と言いたい諸君はそもそも前提が誤っているので議論に値しない。
    スピリチュアルなニュアンスを多分に含んだタイトルながら、かなり現実的かつ社会的な内容で構成されているのだ。
    戦後史、教育史、そして「科学的な知」への問題提起。
    なお極端な善悪の基準としてではなく、問題あらゆる社会問題の原因についての一考察としてお勧めしたい。
    もっ

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    2015年12月01日
  • 半市場経済 成長だけでない「共創社会」の時代

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    いやぁ、半市場経済って何? って思ったけど、意外といいことが書かれていた。ほんまに、いまの時代によくあるような、いわゆる自由な働き方とか、自分でつくる商い。現代の人々は、仕事において他者との関係性を重視する傾向にあることとか、経済とか一人ひとりの日常生活が同時に成り立つ仕事だとか、考えたいことのヒントを与えられたような気がした。

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    2015年10月25日
  • 新・幸福論―「近現代」の次に来るもの―

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    20150125 すごく大切な事が書かれていると思うが理解するのに時間がかかりそう。少し時間を置いて再読してみたい。

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    2015年01月25日
  • 哲学の冒険

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    毎日中学生新聞の中学生のための哲学の連載の文庫化

    というだけあって、読みやすかった。

    おすすめだ。


    目次
    第一章 哲学の中へ
    一 未来への迷い
    二 美しく生きるために哲学をーエピクロス
    三 人は誰でも、いま生きているように未来をつくっていくー三木 清
    四 哲学は自分自身の勇気を信頼するところから始まるーへーゲル
    五 世界の成り行きに驚嘆する能力から新しい文化は生まれるーウェーバー
    六 人はつねに過渡期の人間として生きているー梅本克己
    七 不完全な人間が哲学をつくりだすー親鸞
    八 哲学はこれからも不完全な学問でありつづけるーディドロ

    第二章 現代哲学の発見
    一 あらゆるもの

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    2012年04月13日
  • 文明の災禍

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    2011年3月11日の東日本大震災。
    地震・津波による被害を自然の災禍、福島原発事故を文明の災禍とし、
    震災以降の日本の目指すべき、あるべき姿を述べた本。

    電力はじめ人間にはどうにもできない大きなシステム基盤に
    依存した日本に対して警鐘を鳴らしている。

    哲学者らしく、着眼点がとてもユニーク。
    復興には自然と死者の役割が必要のように、
    一般的な見方や切り口とは別のとらえ方をしているのも面白い。
    専門家集団の暴走が現在の日本を形成したという考えも納得。

    改めてリスク管理の重要性を感じるとともに、
    専門家集団の暴走をおさえるためにも、
    素人による管理・検証体制の必要性も感じた。

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    2012年02月23日
  • 文明の災禍

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    内山先生のお話を伺う機会があり、早速購入。3.11以降、腑に落ちないことが多い中、ひとつの考え方を示してくれています。多様な関係(自然との関係も含めて)を作ることが人間の本質。確かにそうですね。とても参考になりました。

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    2011年10月31日
  • 文明の災禍

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     東日本大震災における自然の災禍と、それとともに起きた福島原発の人災という文明の災禍とが起きた後に、自然と人間、そして人と人の関係をどのように編み直して生きうるのかを、文明に対する根本的な反省にもとづいて探究しようとする論考。その議論が死者の「供養」を出発点としていることは、印象的である。死者を置き去りにした空々しい「復興」の未来に血道を上げるのではなく、まず死者を弔い、その死を引き受けながら、生死が隣り合う現実に向き合うのでなければ、一歩も前に進むことはできないという。その地点から著者は、原発の人災に立ち至った文明そのものの問題へ踏み込んでいく。その議論によると、自然のなかに生きる身体を遊離

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    2011年10月14日
  • 文明の災禍

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     内山さんは哲学者という肩書き。写真とみると、農家のおじさんのような風貌。

     この本は、石原都知事の本とならんで、しつこく職場の本屋に平積みされていたので、ついに購入。

     全体の感想としては、もっともなことを言っていると思うが、その文脈がよくわからない。

     哲学者としてこれをいいたいということを、ぽつぽつ言っている感じ。哲学と論理性ってあんまり関係ないのかな。

    ①20世紀の哲学は知性中心主義を批判し、身体のもつ役割を再認識する流れをもつくりだしてきたが、東日本大震災は知性の限界をも暴露してしまったのである。(p91)

     知性の限界というより、技術の不十分さを露呈したということではない

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    2011年10月05日