内山節のレビュー一覧
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ネタバレ「共同体」という日本語は、明治時代になってから生まれた言葉だ。
この共同体なるものの基盤として、華厳経は「人間関係」を挙げている。大乗仏教ではそもそも自己も、真理も「空」だとされている。つまり、私たちが見ている現象には全て実体がなく、関係に本質を見出しているためである。関係自体も実体があるわけではないので、「空」とされる(p.77)。
そこで華厳経では、「一即一切」という考えを大事にしている。宇宙の全真理はホコリくらいの世界にあり、一と全ては同じ、という考えだ。つまり、真理はひとつの小さな世界にあり、それはすべてが関係で結びあっているためだからだ(p.79)。また、華厳経は利他も重要視している。
自分の考えとかなり親和性があるな。。。
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ネタバレポランニーが主張するように「共同体の慣習」によって地域内経済は等価交換ではない。これは地域外経済にも作用する(p.19)。しかし、資本主義化の過程で、様々なものがシステム化していくなかで、この共同体的慣習による経済への作用は効果を薄めていく。
資本主義の原理として、「カネがカネを殖やす」ことが目的になっており、これが行き過ぎると最終的には資本主義が自信を食い尽くしてしまう。そのアンカーとして、社会主義という対になるイデオロギーがあったが、1991年のソ連崩壊によってそのアンカーが外されたことにより、資本主義は暴走を初めて行くこととなる。
ケインズは資本主義を「資本主義以上に優れた経済システムを私はみたことがない」と言っており、現状資本主義に勝る経済システムはないように思われる(p.65)。彼は、不況下において、政府が民間の代わりに有効需要を創出する必要性を説き、それがニューディール政策に繋がるので、これをケインズ政策の全てだと思われがちだが、これは彼の理論の半分を理解していることでしかない(p.62)。最も重要視したことは「貨幣愛の社会になってしまうことを食い止めること」にあった(p.63)。そのため、ロシア革命が起こったすぐに、彼はソ連に行きリアルを観察してきた。この時、「必要だったら援助もふくめて温かく見守るべきだ」と述べた。ソ連が目指した社会は「貨幣愛のない社会」だったので、この点においてケインズの思想と合致しているところがあったのだろう(p.67)。
ポランニー読も。 -
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○目次
まえがき
第1章:キツネと人
第2章:1965年の革命
第3章:キツネにだまされる能力
第4章:歴史と「みえない歴史」
第5章:歴史哲学とキツネの物語
第6章:人はなげキツネにだまされなくなったのか
あとがき
○感想
本書のタイトル「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という命題から、1965年を境に現出した日本人の変化を問うている。
日本の社会には制度としての歴史と、自然や生命と循環的に息づいた「みえない歴史」があった。筆者は、この「みえない歴史」に対して、古来日本人は「知性の歴史」「身体性の歴史」「生命性の歴史」という3つの見方・能力を通じて捉えてきたと考える。キツネにだまされるというお話も、こうした見方の中で、神や霊を仮託したものと考えられる。
しかし。明治以降、近代化の波は西洋的学問を絶対視し、知性偏重の色は強くなっていく。殊に、戦後高度経済成長期には、知性絶対視の流れは加速化し、元来日本人の持っていた3つの能力も知性偏重というパワーバランスが崩れていくことになった。
上記のように、タイトルの命題から近代化した人々の心性の変化というダイナミックな仮説を導きだしており、近代化論、日本人論として読んでも面白い一冊である。 -
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「日本人はなぜキツネに騙されなくなったのか?」という問いを発端に、自然に対する日本人の精神的変化を考察する一冊。一年の半分を群馬県の山村で生活する著者の経験をまじえながら、歴史の本質に迫る議論が展開されている。
本書によれば、日本の伝統的社会では自然と人間の関係において「知性・身体性・生命性」それぞれの歴史が存在していたという。人間は個人ではなく、全体性の一部であった。オノズカラ(ありのまま)の自然に属する一方で、人間は「我」を捨て去ることのできない存在であることを自覚し、そのことが自然への畏敬を作り上げていたと著者は指摘する。
そうした《自然-人間》の生命世界は、1965年前後を堺に崩壊しはじめる。経済成長と共に近代的科学主義が蔓延したことやコミュニケーションの変化、焼畑農業の衰退や教育制度の転換など、さまざまな要因が重なったことで、現代人は「みえない歴史(身体性・生命性の循環)」をつかみ取ることができなくなった。「キツネに騙された」という逸話はかつて日本人が生命性の歴史をとらえるために仮託していた物語の一つであり、今日の我々にはもはやみえなくなった歴史である……と著者は結んでいる。
キツネや山村にまつわるエピソードを紹介しつつ、哲学者としての立場から理論的に「歴史学」を分析している点も面白い。 -
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某所読書会の課題図書.気になる言葉が頻出.供養(p15),大量の情報を受け取ると,不思議なことに私たちの判断能力を弱体化させる(p62),確かなもの,確かな実体は私たちにはとらえられないものとして存在しているのだろうか(p83),人間の営みが未来の時間を破壊した(p101),創造なき破壊(102),専門性という名の下におこなわれる暴力(p113),働く人たちの生活を犠牲にした経済発展だけを考えるような体制(p136),伝統社会から継承してきた現代文明とは異なる文明を私たちは基層的文明として持ち続けてきた(p159).最後の方に出てくる 利他と自利は重要な視点だと感じた.
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好き嫌いがそこそこ分かれそうな内容です。非現実的・理想論と評価される可能性は高いかも。
要点は市場の発達により社会と乖離した市場経済になんとか社会性(人々の生活的な価値のことだと思う)を取り戻していく時代になってきたのではないか、という主張。
課題解決の効率化のためにある程度レイヤーを制限せざるを得ない(国の財政とか、地域の財政とか、家計とか)状況が分断を生むのは仕方ないし、解決策をスケールするために最大公約数的な評価軸である貨幣に単純化されるのも仕方ないのかな、とは思う。それ故に個人の生活からは乖離していくけど。
主な対策としては市場経済だけではない様々な経済を成立させることや社会的価値に基づく活動を広げることを目指しているようでした。
面白かったのは、時計が導入されて「自分の時間」を認識したことにより、逆に取引可能なものとなり、賃労働として搾取されるようになった、という指摘です。皮肉。 -
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内山節の著作をまともに読んだのは初めてなんじゃないかと思う。
学生の時に講演を聞いた時から思っていたが、
時代に対する感覚がとても鋭い。
まだ『時代の走り』ぐらいのものを的確に捉えて、
見事に言語化してしまう。
今回の半市場経済も、まさにっ!!といった感じだった。
市場経済や非市場経済一辺倒なわけではなく、“適度に”市場経済と関わる人が増えているという指摘は腑に落ちるものがあった。
この流れはたぶん時代を作っていくだろうと思う。
旧態依然の時代にしがみつく人たちとそこから脱したい人たち。
その2つの大きな流れが現在のアンビバレントの状況を作り出してるのだなーと実感した。 -
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この薄い書籍にこれほどの情報量、文句なし!天晴れ!
本書で言う狐に騙されるとは、ただそこで生きている木や花や水を何気なく美しいと思える無垢さであり、抑揚のない物語に趣を見出す感じやすさであり、与えられた秩序の中でだれもが楽しむ柔軟さだ。
すなわち、「狐が人を騙すわけない」と言いたい諸君はそもそも前提が誤っているので議論に値しない。
スピリチュアルなニュアンスを多分に含んだタイトルながら、かなり現実的かつ社会的な内容で構成されているのだ。
戦後史、教育史、そして「科学的な知」への問題提起。
なお極端な善悪の基準としてではなく、問題あらゆる社会問題の原因についての一考察としてお勧めしたい。
もっと詳しく聞きたいと思わせられる書き方は、まさに入門書としてあるべき形だと思う。 -
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毎日中学生新聞の中学生のための哲学の連載の文庫化
というだけあって、読みやすかった。
おすすめだ。
目次
第一章 哲学の中へ
一 未来への迷い
二 美しく生きるために哲学をーエピクロス
三 人は誰でも、いま生きているように未来をつくっていくー三木 清
四 哲学は自分自身の勇気を信頼するところから始まるーへーゲル
五 世界の成り行きに驚嘆する能力から新しい文化は生まれるーウェーバー
六 人はつねに過渡期の人間として生きているー梅本克己
七 不完全な人間が哲学をつくりだすー親鸞
八 哲学はこれからも不完全な学問でありつづけるーディドロ
第二章 現代哲学の発見
一 あらゆるものは動き続けているーヘラクレイトス
二 歴史の発達は、一面では人間を退化させたールソー
三 私は考える、それ故に私は在るーデカルト
四 ある時代には、その歴史段階特有の精神的態度があるーウェーバー
五 現代の戦争や悲惨は、私有財産からつくられるールソー
六 近代産業の中には、人間に対する侮辱が生まれているーアダムスミス
七 死に至る病とは絶望のことであるーキェルケゴール
八 我々の共同社会をー近代革命の担い手たち
九 人間は実現可能なことのみを考えるーマルクス
第三章 未来への冒険
一 人間たちの幸せと不幸
二 自由の研究
三 生きることの意味を探して
人名注
日本にもたらされた主要哲学とその歴史
あとがき -
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2011年3月11日の東日本大震災。
地震・津波による被害を自然の災禍、福島原発事故を文明の災禍とし、
震災以降の日本の目指すべき、あるべき姿を述べた本。
電力はじめ人間にはどうにもできない大きなシステム基盤に
依存した日本に対して警鐘を鳴らしている。
哲学者らしく、着眼点がとてもユニーク。
復興には自然と死者の役割が必要のように、
一般的な見方や切り口とは別のとらえ方をしているのも面白い。
専門家集団の暴走が現在の日本を形成したという考えも納得。
改めてリスク管理の重要性を感じるとともに、
専門家集団の暴走をおさえるためにも、
素人による管理・検証体制の必要性も感じた。 -
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東日本大震災における自然の災禍と、それとともに起きた福島原発の人災という文明の災禍とが起きた後に、自然と人間、そして人と人の関係をどのように編み直して生きうるのかを、文明に対する根本的な反省にもとづいて探究しようとする論考。その議論が死者の「供養」を出発点としていることは、印象的である。死者を置き去りにした空々しい「復興」の未来に血道を上げるのではなく、まず死者を弔い、その死を引き受けながら、生死が隣り合う現実に向き合うのでなければ、一歩も前に進むことはできないという。その地点から著者は、原発の人災に立ち至った文明そのものの問題へ踏み込んでいく。その議論によると、自然のなかに生きる身体を遊離した知性は、知を「専門家」に独占させたうえに、神話的なイメージとしての情報が飽和した空間を作り出し、そのなかでみずから機能不全に陥ってしまう。その果てに文明は、人が住めなくなった原発周辺の地域が象徴するような、いかなる創造ももたらさない破壊と化したのだ。未来の破壊。これまでの生の営みが根こそぎにされ、後に何も生まれない世界が、もしかすると生きもの自体の内部から産み出されつつあるのかもしれない。そのような状況を、生きることをつなぐ方向へ転換する可能性を、著者は「存在の諒解」のうちに求めようとする。それは自然の生きもののあいだに、他人たちのあいだに生きている、さらに言えばそこで生かされているという感覚を取り戻して、今一度「風土」に根を下ろすことであるという。それによって関係を再構築することが「復興」の前提というのが著者の結論のようである。それゆえ「復興」は、まず「地域の復興」でなければならないというのだ。たしかに、自然と人間、人間と人間の関係の再構築は必要だろう。しかし、それは「風土」に根づくことなのか。「風土」を語ること自体のうちに、あまりにも特殊なものの普遍化が忍び込んではいないだろうか。そして、著者の考える人間に、根を失って日本列島を漂いつつある人々は含まれていないように思えてならない。文明の災禍によって根を下ろしてきた場所を失った後、漂って生きること、漂着した人とともに生きること。その可能性を、共有するものをもたない者たちの関係のうちに探ることのほうが先だろう。さらに、漂着した場所で、身体的に生き方を変えてでも生きうる、生体の可塑性が根底から脅かされていることを、まずは問わなければならないはずだ。