内山節のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレポランニーが主張するように「共同体の慣習」によって地域内経済は等価交換ではない。これは地域外経済にも作用する(p.19)。しかし、資本主義化の過程で、様々なものがシステム化していくなかで、この共同体的慣習による経済への作用は効果を薄めていく。
資本主義の原理として、「カネがカネを殖やす」ことが目的になっており、これが行き過ぎると最終的には資本主義が自信を食い尽くしてしまう。そのアンカーとして、社会主義という対になるイデオロギーがあったが、1991年のソ連崩壊によってそのアンカーが外されたことにより、資本主義は暴走を初めて行くこととなる。
ケインズは資本主義を「資本主義以上に優れた経済システ -
Posted by ブクログ
○目次
まえがき
第1章:キツネと人
第2章:1965年の革命
第3章:キツネにだまされる能力
第4章:歴史と「みえない歴史」
第5章:歴史哲学とキツネの物語
第6章:人はなげキツネにだまされなくなったのか
あとがき
○感想
本書のタイトル「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という命題から、1965年を境に現出した日本人の変化を問うている。
日本の社会には制度としての歴史と、自然や生命と循環的に息づいた「みえない歴史」があった。筆者は、この「みえない歴史」に対して、古来日本人は「知性の歴史」「身体性の歴史」「生命性の歴史」という3つの見方・能力を通じて捉えてきたと考える。キツネに -
Posted by ブクログ
「日本人はなぜキツネに騙されなくなったのか?」という問いを発端に、自然に対する日本人の精神的変化を考察する一冊。一年の半分を群馬県の山村で生活する著者の経験をまじえながら、歴史の本質に迫る議論が展開されている。
本書によれば、日本の伝統的社会では自然と人間の関係において「知性・身体性・生命性」それぞれの歴史が存在していたという。人間は個人ではなく、全体性の一部であった。オノズカラ(ありのまま)の自然に属する一方で、人間は「我」を捨て去ることのできない存在であることを自覚し、そのことが自然への畏敬を作り上げていたと著者は指摘する。
そうした《自然-人間》の生命世界は、1965年前後を堺に崩壊しは -
Posted by ブクログ
某所読書会の課題図書.気になる言葉が頻出.供養(p15),大量の情報を受け取ると,不思議なことに私たちの判断能力を弱体化させる(p62),確かなもの,確かな実体は私たちにはとらえられないものとして存在しているのだろうか(p83),人間の営みが未来の時間を破壊した(p101),創造なき破壊(102),専門性という名の下におこなわれる暴力(p113),働く人たちの生活を犠牲にした経済発展だけを考えるような体制(p136),伝統社会から継承してきた現代文明とは異なる文明を私たちは基層的文明として持ち続けてきた(p159).最後の方に出てくる 利他と自利は重要な視点だと感じた.
-
Posted by ブクログ
好き嫌いがそこそこ分かれそうな内容です。非現実的・理想論と評価される可能性は高いかも。
要点は市場の発達により社会と乖離した市場経済になんとか社会性(人々の生活的な価値のことだと思う)を取り戻していく時代になってきたのではないか、という主張。
課題解決の効率化のためにある程度レイヤーを制限せざるを得ない(国の財政とか、地域の財政とか、家計とか)状況が分断を生むのは仕方ないし、解決策をスケールするために最大公約数的な評価軸である貨幣に単純化されるのも仕方ないのかな、とは思う。それ故に個人の生活からは乖離していくけど。
主な対策としては市場経済だけではない様々な経済を成立させることや社会的価 -
Posted by ブクログ
内山節の著作をまともに読んだのは初めてなんじゃないかと思う。
学生の時に講演を聞いた時から思っていたが、
時代に対する感覚がとても鋭い。
まだ『時代の走り』ぐらいのものを的確に捉えて、
見事に言語化してしまう。
今回の半市場経済も、まさにっ!!といった感じだった。
市場経済や非市場経済一辺倒なわけではなく、“適度に”市場経済と関わる人が増えているという指摘は腑に落ちるものがあった。
この流れはたぶん時代を作っていくだろうと思う。
旧態依然の時代にしがみつく人たちとそこから脱したい人たち。
その2つの大きな流れが現在のアンビバレントの状況を作り出してるのだなーと実感した。 -
Posted by ブクログ
この薄い書籍にこれほどの情報量、文句なし!天晴れ!
本書で言う狐に騙されるとは、ただそこで生きている木や花や水を何気なく美しいと思える無垢さであり、抑揚のない物語に趣を見出す感じやすさであり、与えられた秩序の中でだれもが楽しむ柔軟さだ。
すなわち、「狐が人を騙すわけない」と言いたい諸君はそもそも前提が誤っているので議論に値しない。
スピリチュアルなニュアンスを多分に含んだタイトルながら、かなり現実的かつ社会的な内容で構成されているのだ。
戦後史、教育史、そして「科学的な知」への問題提起。
なお極端な善悪の基準としてではなく、問題あらゆる社会問題の原因についての一考察としてお勧めしたい。
もっ -
Posted by ブクログ
毎日中学生新聞の中学生のための哲学の連載の文庫化
というだけあって、読みやすかった。
おすすめだ。
目次
第一章 哲学の中へ
一 未来への迷い
二 美しく生きるために哲学をーエピクロス
三 人は誰でも、いま生きているように未来をつくっていくー三木 清
四 哲学は自分自身の勇気を信頼するところから始まるーへーゲル
五 世界の成り行きに驚嘆する能力から新しい文化は生まれるーウェーバー
六 人はつねに過渡期の人間として生きているー梅本克己
七 不完全な人間が哲学をつくりだすー親鸞
八 哲学はこれからも不完全な学問でありつづけるーディドロ
第二章 現代哲学の発見
一 あらゆるもの -
Posted by ブクログ
2011年3月11日の東日本大震災。
地震・津波による被害を自然の災禍、福島原発事故を文明の災禍とし、
震災以降の日本の目指すべき、あるべき姿を述べた本。
電力はじめ人間にはどうにもできない大きなシステム基盤に
依存した日本に対して警鐘を鳴らしている。
哲学者らしく、着眼点がとてもユニーク。
復興には自然と死者の役割が必要のように、
一般的な見方や切り口とは別のとらえ方をしているのも面白い。
専門家集団の暴走が現在の日本を形成したという考えも納得。
改めてリスク管理の重要性を感じるとともに、
専門家集団の暴走をおさえるためにも、
素人による管理・検証体制の必要性も感じた。 -
Posted by ブクログ
東日本大震災における自然の災禍と、それとともに起きた福島原発の人災という文明の災禍とが起きた後に、自然と人間、そして人と人の関係をどのように編み直して生きうるのかを、文明に対する根本的な反省にもとづいて探究しようとする論考。その議論が死者の「供養」を出発点としていることは、印象的である。死者を置き去りにした空々しい「復興」の未来に血道を上げるのではなく、まず死者を弔い、その死を引き受けながら、生死が隣り合う現実に向き合うのでなければ、一歩も前に進むことはできないという。その地点から著者は、原発の人災に立ち至った文明そのものの問題へ踏み込んでいく。その議論によると、自然のなかに生きる身体を遊離
-
Posted by ブクログ
内山さんは哲学者という肩書き。写真とみると、農家のおじさんのような風貌。
この本は、石原都知事の本とならんで、しつこく職場の本屋に平積みされていたので、ついに購入。
全体の感想としては、もっともなことを言っていると思うが、その文脈がよくわからない。
哲学者としてこれをいいたいということを、ぽつぽつ言っている感じ。哲学と論理性ってあんまり関係ないのかな。
①20世紀の哲学は知性中心主義を批判し、身体のもつ役割を再認識する流れをもつくりだしてきたが、東日本大震災は知性の限界をも暴露してしまったのである。(p91)
知性の限界というより、技術の不十分さを露呈したということではない