内山節のレビュー一覧
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著者は書く。
自分とは何者なのかを一人自分自身のなかで探そうとしたのが1970年代の動きであったとすれば、今日(1990年前後)のそれは確かな関係を築くことによって、その関係の中にいる自己を目にみえるかたちでつくりだそうとしている。〜中略〜近代の歴史は、一面では、人間の生から直接的な関係性を喪失させていく歴史であった。自然と人間との直接的な結びつき、地域社会や労働集団のなかでの、そして生産者と消費者の間での、人間と人間との直接的なつながり、そういったものが希薄になり、かわって経済システムや社会システムが私たちの生をとりしきるようになった。いつの間にか私たちは、社会システムの前に立たされた裸の個人に、直接的な関係性を失って自分とは何者なのかさえわからない不安な個人になっていた。今日、直接的な関係、確かな関係を築くことによって、新しい自己をつくりだしていこうとする試みは、近代史のなかで失っていった人間直接的な関係の世界を回復しようとする思想のあらわれなのではないか。日本の戦後思想は、ようやく西欧思想の翻訳の段階を超えはじめたように思える、と。
戦後という時代を誠実に生き、自らの頭で思索することを貫いてきた著者の言葉は、身に染みる。 -
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内山節の三十代前半の著作。若年にしてすでに老成している面と、若々しくひたむきな面とが、生き生きと表出されている好著である。
日本と西洋の伝統的な考え方の違いをフランス人の友人に問われて、日本には「自然」という言葉がなかったことを著者が指摘するところがある。西洋の自然は、人間に対立する概念である。日本人は人間に対立する「自然」という考え方を持たずにやってきた。
「古来日本で自然といえば生き物の世界の因果的な必然をあらわす言葉であった。それが明治以降、『人間の手の加えられてないもの』という意味で西洋語の訳語として使われ始めたのである」と。
目からウロコの指摘である。 -
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自分から進んで読んだ、はじめての哲学書。
森美術館のストアのインスタで紹介されていたのを見て、興味をもって購入した。
「時間」について、なんとなくピンと来たのである。私たちが生きているこの時間の流れとは別の時間の流れというものが存在している…というような紹介の仕方だったのだけど、なんかそれが「わかるかも」と思ったのだ。
本書は哲学書といいながらも、半分エッセイのような語り口でとても読みやすく「何を書いているのか全くわからない!」という箇所はほとんどない。ときどき、あれ、この話何回目?と同じ話を何回もされているように感じることがあり、そのときに「私は何かを読み取れていないのかもしれない…」と感じる程度の難易度。
私たちが今生きている世界は、資本主義を背景とした直線的な時間。いつか終りがくる、効率性や成果が重要視されている時間。対して、里山に流れている時間は、春が来て夏が来て秋が来てまた冬がくる円環の時間。その時間は自分が死してもなお続いていくことを前提にしたずっと続いていく時間。
それぞれの時間を背景にすると、「仕事」の意味も、そこに対する人間の向き合い方も全然ちがってくる。
自分たちが辛くなることの原因はこの「直線的な時間」の捉え方(そして資本主義)にあるのかもしれないと思わされた。
読んでいる間、付箋をたくさん貼ってしまった。
これは自分の本棚にずっとおいておいて、折に触れて読み返したい本である。 -
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私たちは、おカネに対して、愛憎半ばする複雑な感情を持っている。
この本からは、経済学の勃興期には、フランソワ・ケネーにせよアダム・スミスにせよ、この「貨幣に対する両価的な眼差し」が存在していた、ということを教えられる。人間にとっての生きた有用性としての使用価値と、市場での道具としての交換価値との関係性をどう考えるかという難問の形でこの両価性は表現されていた。
リカード、ケインズらにより、使用価値の問題が捨象されることで、経済学は自立した学問になった、ということが、よく分かった。
国家と企業体は、生きる主体ではないから、モノの有用性=使用価値は必要ない。
そうして、貨幣の自立した増殖運動だけを語る学問が成立する。
著者の優れた視点は、資本主義において、私たちの労働の意味がどう変わったのか、について深く省察することで、私たち現代人の不安と虚しさの淵源を照射し、そこから抜け出す道を模索するところにあると思う。
本編の内容も秀抜だが、最後に付されている新聞と雑誌に掲載された小篇群の内容がまた素晴らしい。
かくも平易な言葉で、ここまで深い思索ができるものかと、唸らされ、頷かされ、そして癒される。 -
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弱冠26歳で、すでに内山節は内山節であったということを、鮮烈に印象づけるデビュー作。
資本主義というシステムを労働者の外なる経済構造としてその論理と法則を解明したマルクスの資本論に依拠しながら、主体としての労働者を核に資本主義システムとは何なのかを明らかにしようとする試み。
そのために内山が着目するのは、本来の労働とは労働者の労働能力にもとづく行為であるのに対して、資本主義的生産様式のもとでは、生産とは労働力「商品」を使っての資本の生産過程であるということ、そこに労働と生産の分離−二重化という資本主義の特殊性が生じるということである。
自分の労働が自分の労働ではないかのような「労働力」を通して人間が支配されていく過程。
人間を人間にしたのはその労働であるという視点からは、資本主義とは人間の根源を剥奪するシステムということになる。
豊かさと引き換えに私たちが何を失ったのかを根本から考えさせる書物である。 -
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かつての日本にありふれていたキツネにだまされるという話が1965年頃を境に発生しなくなったということに著者は着目する。そこから1965年の革命とは何だったかを論じる。
なぜ人はこの頃からキツネにだまされなくなったのか。
様々な人々からの聞き書きの体裁をとりながら著者は6つプラス2つの仮説を提示する。
まず、人間の方が変わったとする仮説群。
①高度成長期に経済的な価値があらゆるものに優先するという方向に人間が変わった。
②科学、技術が尊ばれるようになり、人間が科学では捉えられない世界をつかむことができなくなった。
③情報、コミュニケーションのあり方が変わり、伝統的なコミュニケーションが衰退した。
④教育のあり方の変化。偏差値を上げるための合理主義に支配されるようになり、伝統教育が弱体化した。
⑤死生観の変化。自然や神仏、村の共同体に包まれてあった個人の生と死が、個人のものとして剥き出しになった。
⑥自然観の変化。自分自身が還っていく場所であり、自然に帰りたいという祈りをとおしてつかみとられていた自然が、客観的な人間の外にあるものになった。
そしてさらに、キツネの方が変わったとする仮説。
①人工林の拡大で森が変化し、老ギツネが暮らせない環境になってしまったこと。
②人間の目的のためにキツネが森に放たれるようになり、野生のキツネの能力が低下した。
戦後史の中で日本人が失ったものについて、深く考えさせられる好著である。 -
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内山は、人間が人間になった本質的な契機を労働であるとする。ここで労働とは広い意味で用いられており、人間の自然への働きかけの全体を意味する。
動物と異なり人間は、自然を改変し、また自然によって変容していく。
したがって自然と人間との交通のあり方が変われば、自然が変わり、人間も変わる。
近代以降、貨幣経済が人間社会を席巻することで、自然と人間との交通が根本的に変わってしまった、と内山は言う。
労働の観点からは、使用価値を作る労働から、交換価値(商品)を作る労働へ。
その時何が起きるか。
自然と人間とが截然と分かたれずに、人間が自然に主体的に関わる世界から、人間も自然も生産システムの手段に成り下がる世界へと決定的に移行する。
近代以降、私たちが何を失い、どのように変容してしまったのかを考える上で、必読の文献だと思われる。 -
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ネタバレ哲学をほとんど知らない自分でも理解しやすい内容だった。以下は読書メモ。
エピクロス
・哲学を学ぶのに年齢は関係ない。
・なぜ哲学を学ぶのか。それは、未来を恐れないため。人間が美しく生きるため。
三木清
・人間は環境によって考え方が決まる。
・未来の自分は現在の自分の延長線上。
小さなことを気にしない。
自分の哲学に勇気を持て。
人はずっと成長する生き物。学びを放棄してはいけない。
実存主義
→ただ存在するだけでは人間の自由は生まれない。なぜなら、いろいろなものに縛られているから。したがって、抵抗し続けていくことにより自由を獲得していこうという考え。
科学的社会主義→マルクス・エンゲルス
→人々の悲しみまでも考慮しなかった。
存在論的社会主義→初期社会主義者
・自由であることが幸せ 縛られながら生きていくことは不幸
・自由とは→現代を超えようという精神力。偶然性と必然性のすきまを埋める
・生きることの意味→何かを作り出していくこと。労働をもっとクリエイティブなものにしなければならない。 -
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西洋と東洋思想の比較をしながら、共同体に対する姿勢を論じる。
西洋では実体を軸にして、東洋(主として仏教)では、関係を軸としているよう。
例えば、死者がいるかいないかであれば、西洋では死者の魂というのが現実にあるかないかという論になるが、東洋では関係に主を置くので、いると思えば、いるというスタンスをとる。関係があればそれはあるということだと。
また関係が大事なので、「一は全で、全は一」だとする、それは正確には大乗仏教という仏教の一つの言説のようだが、その一個体はある意味あらゆるものに関係しているので、その個体は全をすら表すという考え。なので、利他的につながるのだと。自分という個体が悟るには、つながりのある他を悟らせる必要がある(他が悟ると自分も悟ってるということ)ので。ハガレンの最後は恋人に献身的になっていたのだと思うけど、まさにそういう意味だったんだ、仏教的だったんだ。
関係がすべてであれば、その状態が正しい(そういう人もおっていいとか、多様性だとか言論の自由とかになる)が、それでもいろんなところに問題はある。
関係がすべてでそのままにしておきたいけど、そんなこと言ってられない問題が目の前にあるから仕方なく取り組むみたいなスタンスが仏教的な対決理論だとしている。この辺の感覚はすごくわかるな。ほっておいておけばいいというのとどうにかせなあかんがブレンドされている。
そのブレンドの中でどういうスタンスをとるのか。
それは、役割を自認することだと。問題があるとすれば、それはある種自分のせいだともいえる。一は全なので。
じゃあそれが起こらないように少し心がけるとか。結局そういうことなんだろうな。その想像力の範囲が共同体だと。
要は Man in the mirror
共同体に対する想像を広げて、自分がやれることやっていく。それだけなんだろうなあ。 -
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父:アップすればまた自慢話みたいになって、ひんしゅくを買うだけだから、やめた方がいいと思うけどな・・・
私:・・・だって、そんなこと言ったって、何か書けば正直に全部さらけ出すのが私の性分だから、しょうがないじゃない!
それはともかく・・・
内山節は、わが三浦雅士もそうですが、私が好んで注目して全著作を読んできた人で、彼もどこの大学へも行かず独学で学び思索を続けて著書を上梓し続けている著作家です。
彼は前後左右の同時代人のなかでは人一倍 啓蒙的な姿勢の人で、孤高の三浦雅士とは一味違う親しみの持てる方だと、最初に読んだ本『存在からの哲学 新しい哲学の時代にむかって』(毎日新聞社 1980年)で感じました。
そして、今まさに出たこの本です。
・・・もし彼の挙げる本の中で未読のものがあったらどうしよう
・・・と、ドキドキして蓋を開けましたが・・・なんと、偶然にも、すべて読んでいました。そして一冊も漏らさず蔵書のなかにありました。
よかった、好きな人と同じ本を奇しくも読んでいました、ホッとしました・・・でもなんというミーハーなのでしょう・・・
■目次■
はじめに
いま、どのような姿勢で古典を読むか
I 哲学・思想
『シュルレアリスム宣言』アンドレ・ブルトン
『自殺について』ショーペンハウエル
『自由からの逃走』エーリッヒ・フロム
『歴史とは何ぞや』エルンスト・ベルンハイム
『遠近の回想』レヴィ=ストロース/ディディエ・エリボン
「フォイエルバハについてのマルクス」カール・マルクス
『過渡期の意識』梅本克己
『革命か反抗か』カミュ=サルトル論争
『科学と近代世界』A・N・ホワイトヘッド
『ユダヤ人問題によせて』カール・マルクス
『革命論集』オーギュスト・ブランキ
『老子』
『風土』和辻哲郎
『古い医術について』ヒポクラテス
『経済学哲学草稿』カール・マルクス
II 政治・経済・社会
『政治算術』ウィリアム・ペティ
『アメリカの民主政治』アレクシ・ド・トクヴィル
『戦争論』K ・V・クラウゼヴィツ
『経済表』フランソワ・ケネー
『職業としての政治』マックス・ヴェーバー
『共産党宣言』カール・マルクス/フリードリヒ・エンゲルス
『西欧中世の自然経済と貨幣経済』マルク・ブロック
『コミュニティ』R・M・マッキーヴァー
『農業の基本的価値』大内力
『自由地と自由貨幣による自然的経済秩序』シルヴィオ・ゲゼル
『コモン・センス』トーマス・ペイン
『恐慌論』宇野弘藏
III 科学論・技術論・労働論
『技術論』武谷三男
『科学的管理法』F・W・テーラー
『人間と労働の未来』中岡哲郎
『洪水と治水の河川史』大熊孝
『自然保護を問いなおす』鬼頭秀一
『労働と労働者の歴史』ジョルジュ・ルフラン
『技術の誕生』ヘンリー・ホッジス
『トヨタ生産方式』大野耐一
IV 文学・紀行・評伝など
『近代日本人の発想の諸形式』伊藤整
『武蔵野』国木田独歩
『利根川図志』赤松宗旦
『日本の民家』今和次郎
『信長公記』太田牛一
『秩父事件 自由民権期の農民蜂起』井上幸治
『日本唱歌全集』井上武士編
『日暮硯』
V 宗教・信仰
『歎異抄』唯円
『チベットの死者の書』
『日本霊異記』景戒
『一遍上人語録』
『往生要集』源信
『選択本願念仏集』法然
『般若心経』
『維摩経』
『華厳経』
おわりに