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ターニングポイントは1965年だった! 私たちの自然観、死生観にそのときどんな地殻変動がおきたか? 「キツネにだまされていた時代」の歴史をいまどう語りうるのか? まったく新しい歴史哲学講義。(講談社現代新書)
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Posted by ブクログ
かつての日本にありふれていたキツネにだまされるという話が1965年頃を境に発生しなくなったということに著者は着目する。そこから1965年の革命とは何だったかを論じる。 なぜ人はこの頃からキツネにだまされなくなったのか。 様々な人々からの聞き書きの体裁をとりながら著者は6つプラス2つの仮説を提示する。...続きを読む まず、人間の方が変わったとする仮説群。 ①高度成長期に経済的な価値があらゆるものに優先するという方向に人間が変わった。 ②科学、技術が尊ばれるようになり、人間が科学では捉えられない世界をつかむことができなくなった。 ③情報、コミュニケーションのあり方が変わり、伝統的なコミュニケーションが衰退した。 ④教育のあり方の変化。偏差値を上げるための合理主義に支配されるようになり、伝統教育が弱体化した。 ⑤死生観の変化。自然や神仏、村の共同体に包まれてあった個人の生と死が、個人のものとして剥き出しになった。 ⑥自然観の変化。自分自身が還っていく場所であり、自然に帰りたいという祈りをとおしてつかみとられていた自然が、客観的な人間の外にあるものになった。 そしてさらに、キツネの方が変わったとする仮説。 ①人工林の拡大で森が変化し、老ギツネが暮らせない環境になってしまったこと。 ②人間の目的のためにキツネが森に放たれるようになり、野生のキツネの能力が低下した。 戦後史の中で日本人が失ったものについて、深く考えさせられる好著である。
とても面白かった。 20世紀終盤に生まれた私は、キツネなんかについぞ騙されたことはない。しかし読んでみると、騙されたことがないということもまた寂しいというか面白くないというか、「深みのある」いのちの在り方ではないことを痛感させられた。 1965年を境にキツネに騙されなくなっていった日本人。問題は人...続きを読む間の世界の見方が変わってことであった。タイトルの命題から歴史哲学まで議論を深め、「知性」にとらわれた世界の在り方に対する考察を展開している。 また機会があればぜひとも読みたい。
自然とともに、自然を恐れ敬いながら生きてきた日本人が、何故自然を自己の利益のための道具としてしか見られたくなってしまったのか…。そんな問いに本書は答えてくれる。 地球の資源は人間のためだけにあるように考える人が大多数を占め、そして自然を支配することを続ければ、詰まる所、自分の首を絞めることになるこ...続きを読むとに早く気づいて欲しい。 キツネに騙されていた頃の日本人の精神に少しでも戻ることができれば、子供たちが未来に希望を持って生きられる世の中になるのだろう。
タイトルだけ見るとオカルト系かな?と思ったものの、実際読んでみるとキツネに騙された話のある土地に住む人間たちの証言や感覚をきっかけに歴史というものを見つめる視点やその歴史などについて多岐にわたる角度から面白く切り込む本でした
軽い気持ちで読み始めたら結構深淵な世界だった 前半はだまされなくなった理由を、経済や科学、環境などから考察して、後半では現代人の歴史の捉え方にまでスケールアップする。 言われてみると僕も歴史を一元的に見てたなぁ
私は自然が好きで、これまで各地の秘境を巡ってきたが、いくら深い山の中に身を置いても、何峰か大山を越えていけば普段見慣れた、自然の加入する余地のない街が確実にあるんだよなっていう諦念に近い感覚が拭えない。たしかに深夜に鬱蒼とした山々を眺めるときなんかは、一時的に神的な恐怖を感じることはある。だけど、こ...続きを読むの感覚がある限りこれから先もキツネに化かされることはできないと思う。
タイトルに惹かれて購入。現代は歴史や物事を知性を通して知覚することが重要視されており、その文脈においてはキツネに騙されるような、高度経済成長期以前の自然と人間のコミュニケーションや自然に霊性を見出していたような精神世界は見えざるものとなっている。 この主張自体は面白いけどスピ系に悪用されそうな理論だ...続きを読むなと思った(笑)
1965年頃を境に、日本人はキツネにだまされなくなったんだって!? キツネにだまされるということが、本当にあるか否かについては敢えて問わず、ただその現象を考えてみて、こうして本にしちゃうところが面白い。 昔は高度成長で、今ならインターネットやSNSで、知りうる世界がとても拡がったように思うけど、...続きを読む一方で、知らず失っている世界もとても多いのかもしれない、と思う。
日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか。前半部は上野村をはじめとした自然に思いを馳せる程度だったが、中盤部以降、今まで自分が触れることのなかった思考体系をなぞり、脳が興奮した。今まで触れることはなかったけれど、でも感覚的に理解できる思考体系で、自分の中からスルスルと何かが引き出された、そんな気分...続きを読む。 "事実(だと思っていたこと)"は、全て現在の社会が持つ尺度によって規定されているもので、その尺度からこぼれ落ちた物事は見えなくなってしまう。現在は「知性」という存在が大きな力を持っていて、だから「知性」では説明できない「何か」を、私は見ていない。時間と共に「知性」は発展していくというのが基本的な考え方であるから、社会は、個人は、時間と共に発展していくという考え方が当たり前に受け入れられている。しかしながら、本当にそうなのか?内山節さんは「発展」ではなく「循環」だと言っている。 私は最近、人生が底見えしてきたという感覚に襲われた。その理由は以下のようなものである。 中学生くらいから生きづらさを感じていたが、新たな経験を重ねることで一歩一歩生きづらさを解消し、完璧、もしくは納得に近づいていく感覚があった。人生は毎年、着実に良くなっていくものだと思っていたのだ。しかしながら20歳を超えたあたりから自分の現状に納得できるようになってきて、もう上限まで来てしまった感覚を得た。それが、人生が底見えしてきたという感覚の正体。 本書を読んだ今考えると、以上の考えは、「知性」や「発展」という尺度で測られたものであることがわかる。自分が今まで抱いてきた悩みというものは、目的意識ありきの、人生を直線、すなわち「発展」で捉えた際に生じるものだったのだ!!しかしながら、人生とは本来円形なのではないだろうか?いや、むしろ円ですらない点であり、その形が決まるのはその時代の尺度なのだ! 何かの出来事に対して成功だの失敗だの引き分けだのが存在してくるわけだが、それはどの視点から見た成功でどの視点から見た失敗なのか?人間は画一的な物差しでしか物を図ることができない。今は資本主義の物差し。発展の物差し。
内山節氏の文章は身近な問題を哲学的に説明してくれてわかりやすい。 この本を読んだきっかけは「おこんじょうるり」を読んだからだ。イタコのばば様とキツネのおこんの心の交流のおかしくも悲しい物語だ。 我々日本人は昔話を読んで育ってくる中で、人と動物が心を通じ合わせたり喧嘩したりという、日常生活を共にするの...続きを読むが自然に感じてきた。これらの動物は人間の言葉を話しお隣さん的に助け合ったりしてきた。そのことに全く違和感を感じなかった。それくらい身近にいて共生していたのだ。それだけ人が自然の中で生きていたのだ。しかし、科学の進歩や経済の発展によって人間は変わり、自然との距離を隔ててしまっただけでなく、自然の領域まで侵略している。自然との共生が叫ばれるが、現実はその逆に進んでいる。この先、人間はどこまで変わって行くのだろうかと不安が募った。
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