【感想・ネタバレ】日本人はなぜキツネにだまされなくなったのかのレビュー

あらすじ

ターニングポイントは1965年だった! 私たちの自然観、死生観にそのときどんな地殻変動がおきたか? 「キツネにだまされていた時代」の歴史をいまどう語りうるのか? まったく新しい歴史哲学講義。(講談社現代新書)

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かつての日本にありふれていたキツネにだまされるという話が1965年頃を境に発生しなくなったということに著者は着目する。そこから1965年の革命とは何だったかを論じる。
なぜ人はこの頃からキツネにだまされなくなったのか。
様々な人々からの聞き書きの体裁をとりながら著者は6つプラス2つの仮説を提示する。
まず、人間の方が変わったとする仮説群。
①高度成長期に経済的な価値があらゆるものに優先するという方向に人間が変わった。
②科学、技術が尊ばれるようになり、人間が科学では捉えられない世界をつかむことができなくなった。
③情報、コミュニケーションのあり方が変わり、伝統的なコミュニケーションが衰退した。
④教育のあり方の変化。偏差値を上げるための合理主義に支配されるようになり、伝統教育が弱体化した。
⑤死生観の変化。自然や神仏、村の共同体に包まれてあった個人の生と死が、個人のものとして剥き出しになった。
⑥自然観の変化。自分自身が還っていく場所であり、自然に帰りたいという祈りをとおしてつかみとられていた自然が、客観的な人間の外にあるものになった。
そしてさらに、キツネの方が変わったとする仮説。
①人工林の拡大で森が変化し、老ギツネが暮らせない環境になってしまったこと。
②人間の目的のためにキツネが森に放たれるようになり、野生のキツネの能力が低下した。
戦後史の中で日本人が失ったものについて、深く考えさせられる好著である。

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2023年02月09日

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とても面白かった。
20世紀終盤に生まれた私は、キツネなんかについぞ騙されたことはない。しかし読んでみると、騙されたことがないということもまた寂しいというか面白くないというか、「深みのある」いのちの在り方ではないことを痛感させられた。

1965年を境にキツネに騙されなくなっていった日本人。問題は人間の世界の見方が変わってことであった。タイトルの命題から歴史哲学まで議論を深め、「知性」にとらわれた世界の在り方に対する考察を展開している。
また機会があればぜひとも読みたい。

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2021年02月16日

Posted by ブクログ

自然とともに、自然を恐れ敬いながら生きてきた日本人が、何故自然を自己の利益のための道具としてしか見られたくなってしまったのか…。そんな問いに本書は答えてくれる。

地球の資源は人間のためだけにあるように考える人が大多数を占め、そして自然を支配することを続ければ、詰まる所、自分の首を絞めることになることに早く気づいて欲しい。

キツネに騙されていた頃の日本人の精神に少しでも戻ることができれば、子供たちが未来に希望を持って生きられる世の中になるのだろう。

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2018年07月25日

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ネタバレ

いやぁおもしろかった!
著者の内山節氏の講演会に行きたくなった。

後半のベルクソンらの知性の話や歴史哲学もおもしろかったけれど、私には前半部分がたまらなくおもしろかった。
以下おもしろかったこと。

1.なんといっても問いの立て方が最高!
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」 これは「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」と並ぶ新書タイトルの最高峰だと感じた。

2.安倍晴明の逸話
説話として残っている晴明の活動を見ると、「式神」が鳥や動物に降臨するときにすぐれた能力を発揮していた。しかし江戸時代に入ると、晴明は母がキツネだったから能力があると変化する。つまり能力のあるものが「式神」から「キツネ」に変化している。p.13−14

3.オオサキ
オオサキは食べ物の「ミ」を食べる。この「ミ」は「魂」あるいは「霊」と書いてもよいが生命の根本的なものである。日本の伝統的な食事の考え方としては、食事とはミをいただくことで、いわば生き物の生命をいただくから、その生命が自分の生命になると考えられていて、その意味では食事とは他の生命を摂取することである。だから、自分のために犠牲になる生命への感謝が必要となる。日本では、神が人に与えた糧ではなく、生命的世界、霊的世界からいただく糧である。日本の伝統的な食事のマナーは、静かに、厳粛に食べることを基本にしているが、食事の時の祈りの対象は神ではなく、霊的世界になる。またこのオオサキは秤好きで、ときにオオサキ祓いの儀式が執り行われることもある。p.18-22

4.次元の裂け目
村の世界は様々な神々の世界であり、次元の裂け目のようなものが所々にあり、その裂け目の先には異次元の世界が広がっていると考える人も多かった。「あの世」を見る人もいた。ときにはオオカミはこの裂け目を通って、ふたつの世界を移動しながら生きていると考える人もいた。

5.問いと答え
キツネにだまされていたという話が事実だったかどうかにかかわらず、なぜだまされなくなったのかを問いかけると、そこから多くの事実が浮かび上がるということである。出発点が事実かどうかにかかわらず、その考察過程では幾つもの事実が見つけだされる。p.69

6.山上がり
いよいよ生活が立ちいかなくなったと感じたとき、村人の中には「山上がり」を宣言するものがいた。「山上がり」は宣言し、公開しておこなうものなのである。宣言した者は言葉どおり山に上がる。つまり森に入って暮らすということである。そのとき共同体には幾つかの取り決めがあった。誰の山で暮らしても良いし、必要な木は誰の山から切っても良いし、同じ集落に暮らす者や親戚の者たちは山上がりを宣言した者に対して、十分な味噌を持たせなければならないという取り決めがあった。p.73-74

7.馬頭観音
旅の途中で馬は山の中で時空の裂け目のようなものを見つける。この世とあの世を継ぐ裂け目、霊界と結ぶ裂け目、神の世界をのぞく裂け目、異次元と結ぶ裂け目である。この裂け目は人間には見えないが、動物にはわかる。そしてこの裂け目は誰かが命を投げ出さないと埋まらない。埋まらないかぎりは永遠に口を開けていて、その裂け目に陥ちた者は命を落とす。いまに陥ちそうな先を行く飼い主をを救うために自らが犠牲となって裂け目に飛び込む…。だから人間たちは馬に感謝し、その霊を弔って馬頭観音を建てた。p.78−79

8.山林修行
日本の人々は自然の世界に清浄な世界を見出していた。自然の生命には自己主張からくる作為がないからである。ところが人間は自己を主張し、しかもその主張を知性で合理化するから、次第に本当にことがわからなくなっていく。霊が穢れていくのである。この穢れは死後に自然の力を借りながら霊の清浄化をとげていく、そのことにより自然に帰り、永遠の生命を得ていくと考えられていたけれど、この霊の穢れに耐えられなくなった人々は生きているうちに「山林修行」を目指した。

山に入ることは、人間的なものを捨てる、文明を捨てるということを意味していた。家族も、村も、共同体も、社会も、つまり人間的なものが作り上げたすべてのものを捨てて山に入る。その意味で死んでいくときのたった一人の人間になるのである。古代の習慣では、道具も持たずに山に入ったらしい。道具もまた文明であるからだ。山では木の実を食べ、根を食べる。厳密には火も使わない。自然は火で料理はしないからである。そうやって動物のように暮らしながら荒行を重ね、お経を読み続ける。穢れた霊の持ち主である自己を死へと追い込むのである。そして文明の中で生きてきた現実の自己に死が訪れた時「我(われ)」は山の神と一体となり、清浄な例として再生する。p.85−89

9.間引き
自然の生き物は、自分に都合の悪い育ちが良くないものを、あらかじめ間引くようなことはしない。間引きとは、あくまで人間だけがする行為である。しかもこれは、育ちが良くないものは生きる価値がない、という思想に貫かれている。p.96-97

10.出口なお
例えば大本教を見れば、出口なおが神がかりしてはじまる。その出口なおは以前から地域社会で一目置かれていた人ではない。貧しく、苦労の多い、学問もない、その意味で社会の底辺で生きていた人である。そのなおが神がかりし、「訳のわからないこと」を言いはじめる。この時周りの人々が、「あのばあさんも気がふれた」で終りにしていたら、大本教は生まれなかった。状況をみるかぎり、それでもよかったはずなのである。ところが神がかりをして語り続ける言葉に「心理」を感じた人たちがいた。その人たちが、なおを教祖とした結びつきをもちはじめる。そこに大本教の母体が芽生えた。この場合、大本教を開いた人は出口なおであるのか。それともなおの言葉に「真理」を感じた人の方だったのか。必要だったのは両者の共鳴だろう。p.100

11.通過儀礼
かつて一九七〇年代に、姫田直義が『秩父の通過儀礼』問いうドキュメンタリーフィルムを撮っている。このフィルムをみて感じることは、一人の人間の生命に対する感じ方の今日との違いである。現在の私たちは、生命というものを個体性によって捉える。しかしそれは、特に村においては、近代の産物だったのではないかと私には思えてくるもちろんいつの時代においても、生命は一面では個体性を持っている。だから個人の誕生であり、個人の死である。あが伝統的な精神世界の中で生きた人々にとっては、それがすべてではなかった。もう一つ、生命とは全体の結びつきの中で、その一つの役割を演じている、という生命観があった。個体としての生命と全体としての生命というふたつの生命観が重なり合って展開してきたのが、日本の伝統社会だったのではないかと私は思っている。p.108−110

12.外国人技師
かつて山奥のある村でこんな話を聞いたことがある。明治時代に入ると日本は欧米の近代技術を導入するために、多くの外国人技師を招いた。そのなかには土木系の技師として山間地に滞在する者もいた。この山奥の村にも外国人がしばらく暮らした。「ところが」、と伝承がこの村には残っている。「当時の村人は、キツネやタヌキやムジナにだまされながら暮らしていた。それが村のありふれた日常だった。それなのに外国人たちは、決して動物にだまされることはなかった」今なら動物にだまされた方が不思議に思われるかもしれないが、当時のこの村の人たちにとっては、だまされない方が不思議だったのである。だから「外国人はだまされなかった」という「事件」が不思議な話としてその後も語りづがれた。

なんだかまだまだ書き足りない。p.52−53など丸写ししたくなる。しかし、この本を読んでいて出口なお現象ではないが、この本を読んでいると、「これまで私が無意識に感じていた思想と共鳴し」帰依したくなるような思いに捉われた。

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2016年05月19日

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ネタバレ

キツネの話からはじまり、最後には歴史とは何かを語る、構成おもしろ本。
キツネの話をしているときは正直なんかつまらなそ〜と思っていましたが、途中からアクセルベタ踏みで思ってもない方向に話が進んでいきます。
直線的で発展的に語られる歴史はナショナリズムの隆盛にも寄与していて、その歴史はほとんど無意識的に我々のスタンダードになっています。
ただ、この切り口からみる歴史のみに注目してしまうと、かつてのキツネに騙されていたようなタイプの歴史が見えにくくなっていきます。
それがよいことなのか、わるいことなのか、私には分かりませんが、歴史の普遍性のなさ、みたいなものをよく感じることができたのが本書で最も印象的でした。
たとえば明治維新は、日本の歴史に燦然と輝く出来事で、現代に繋がる最重要の革命であるというような語られ方をしますが、それによって当時には衰退した陣営もいたわけで全員に良いことが起きているわけではもちろんありません。。
というような話はよく聞くわけですが、本書ではもう少し進みます。
その先にあるのは、当時の都から大きく外れたような田舎の村では、比較的長い間、明治維新の影響はなかったのではないかということです。
当たり前といえば当たり前なんですが、でも、その歴史は語られないですよね。
そして、個人単位でも、こういったような構造で見逃している歴史、つまり記憶があるのではないでしょうか(自分自身のアイデンティティに繋がるように解釈されて保全されている記憶があり、不利益な記憶は見逃すようにできている)。
それを見逃させているのは、知性や理性であり、それらを稼働し続けている現代社会のあり方をも考えさせられましたね。
長くなりすぎたので感想終わりです。
おすすめ!!

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2025年10月18日

Posted by ブクログ

タイトルだけ見るとオカルト系かな?と思ったものの、実際読んでみるとキツネに騙された話のある土地に住む人間たちの証言や感覚をきっかけに歴史というものを見つめる視点やその歴史などについて多岐にわたる角度から面白く切り込む本でした

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2025年08月30日

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軽い気持ちで読み始めたら結構深淵な世界だった

前半はだまされなくなった理由を、経済や科学、環境などから考察して、後半では現代人の歴史の捉え方にまでスケールアップする。

言われてみると僕も歴史を一元的に見てたなぁ

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2025年05月26日

Posted by ブクログ

私は自然が好きで、これまで各地の秘境を巡ってきたが、いくら深い山の中に身を置いても、何峰か大山を越えていけば普段見慣れた、自然の加入する余地のない街が確実にあるんだよなっていう諦念に近い感覚が拭えない。たしかに深夜に鬱蒼とした山々を眺めるときなんかは、一時的に神的な恐怖を感じることはある。だけど、この感覚がある限りこれから先もキツネに化かされることはできないと思う。

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2025年05月23日

Posted by ブクログ

タイトルに惹かれて購入。現代は歴史や物事を知性を通して知覚することが重要視されており、その文脈においてはキツネに騙されるような、高度経済成長期以前の自然と人間のコミュニケーションや自然に霊性を見出していたような精神世界は見えざるものとなっている。
この主張自体は面白いけどスピ系に悪用されそうな理論だなと思った(笑)

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2025年01月11日

Posted by ブクログ

1965年頃を境に、日本人はキツネにだまされなくなったんだって!?

キツネにだまされるということが、本当にあるか否かについては敢えて問わず、ただその現象を考えてみて、こうして本にしちゃうところが面白い。

昔は高度成長で、今ならインターネットやSNSで、知りうる世界がとても拡がったように思うけど、一方で、知らず失っている世界もとても多いのかもしれない、と思う。

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2024年07月19日

Posted by ブクログ

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか。前半部は上野村をはじめとした自然に思いを馳せる程度だったが、中盤部以降、今まで自分が触れることのなかった思考体系をなぞり、脳が興奮した。今まで触れることはなかったけれど、でも感覚的に理解できる思考体系で、自分の中からスルスルと何かが引き出された、そんな気分

"事実(だと思っていたこと)"は、全て現在の社会が持つ尺度によって規定されているもので、その尺度からこぼれ落ちた物事は見えなくなってしまう。現在は「知性」という存在が大きな力を持っていて、だから「知性」では説明できない「何か」を、私は見ていない。時間と共に「知性」は発展していくというのが基本的な考え方であるから、社会は、個人は、時間と共に発展していくという考え方が当たり前に受け入れられている。しかしながら、本当にそうなのか?内山節さんは「発展」ではなく「循環」だと言っている。

私は最近、人生が底見えしてきたという感覚に襲われた。その理由は以下のようなものである。
中学生くらいから生きづらさを感じていたが、新たな経験を重ねることで一歩一歩生きづらさを解消し、完璧、もしくは納得に近づいていく感覚があった。人生は毎年、着実に良くなっていくものだと思っていたのだ。しかしながら20歳を超えたあたりから自分の現状に納得できるようになってきて、もう上限まで来てしまった感覚を得た。それが、人生が底見えしてきたという感覚の正体。
本書を読んだ今考えると、以上の考えは、「知性」や「発展」という尺度で測られたものであることがわかる。自分が今まで抱いてきた悩みというものは、目的意識ありきの、人生を直線、すなわち「発展」で捉えた際に生じるものだったのだ!!しかしながら、人生とは本来円形なのではないだろうか?いや、むしろ円ですらない点であり、その形が決まるのはその時代の尺度なのだ!

何かの出来事に対して成功だの失敗だの引き分けだのが存在してくるわけだが、それはどの視点から見た成功でどの視点から見た失敗なのか?人間は画一的な物差しでしか物を図ることができない。今は資本主義の物差し。発展の物差し。

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2024年01月02日

Posted by ブクログ

内山節氏の文章は身近な問題を哲学的に説明してくれてわかりやすい。
この本を読んだきっかけは「おこんじょうるり」を読んだからだ。イタコのばば様とキツネのおこんの心の交流のおかしくも悲しい物語だ。
我々日本人は昔話を読んで育ってくる中で、人と動物が心を通じ合わせたり喧嘩したりという、日常生活を共にするのが自然に感じてきた。これらの動物は人間の言葉を話しお隣さん的に助け合ったりしてきた。そのことに全く違和感を感じなかった。それくらい身近にいて共生していたのだ。それだけ人が自然の中で生きていたのだ。しかし、科学の進歩や経済の発展によって人間は変わり、自然との距離を隔ててしまっただけでなく、自然の領域まで侵略している。自然との共生が叫ばれるが、現実はその逆に進んでいる。この先、人間はどこまで変わって行くのだろうかと不安が募った。

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2023年08月10日

Posted by ブクログ

「現代人」の視点から眺める景色は合理的思考や科学的思考によっては知覚されないナニカを排除する。
歴史も同様に意味を与えられない出来事を排除して直線的に「歴史」を作り出す。
意味を超えてそこに存在したナニカを知覚できなくなったことにより「キツネにだまされる」ことができなくなってしまったのではないだろうか。

非常に面白い内容でした。
次は 「里」という思考 を読んでみようと思います。

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2022年02月09日

Posted by ブクログ

○目次
まえがき
第1章:キツネと人
第2章:1965年の革命
第3章:キツネにだまされる能力
第4章:歴史と「みえない歴史」
第5章:歴史哲学とキツネの物語
第6章:人はなげキツネにだまされなくなったのか
あとがき

○感想
本書のタイトル「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という命題から、1965年を境に現出した日本人の変化を問うている。

日本の社会には制度としての歴史と、自然や生命と循環的に息づいた「みえない歴史」があった。筆者は、この「みえない歴史」に対して、古来日本人は「知性の歴史」「身体性の歴史」「生命性の歴史」という3つの見方・能力を通じて捉えてきたと考える。キツネにだまされるというお話も、こうした見方の中で、神や霊を仮託したものと考えられる。
しかし。明治以降、近代化の波は西洋的学問を絶対視し、知性偏重の色は強くなっていく。殊に、戦後高度経済成長期には、知性絶対視の流れは加速化し、元来日本人の持っていた3つの能力も知性偏重というパワーバランスが崩れていくことになった。

上記のように、タイトルの命題から近代化した人々の心性の変化というダイナミックな仮説を導きだしており、近代化論、日本人論として読んでも面白い一冊である。

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2020年01月14日

Posted by ブクログ

「日本人はなぜキツネに騙されなくなったのか?」という問いを発端に、自然に対する日本人の精神的変化を考察する一冊。一年の半分を群馬県の山村で生活する著者の経験をまじえながら、歴史の本質に迫る議論が展開されている。
本書によれば、日本の伝統的社会では自然と人間の関係において「知性・身体性・生命性」それぞれの歴史が存在していたという。人間は個人ではなく、全体性の一部であった。オノズカラ(ありのまま)の自然に属する一方で、人間は「我」を捨て去ることのできない存在であることを自覚し、そのことが自然への畏敬を作り上げていたと著者は指摘する。
そうした《自然-人間》の生命世界は、1965年前後を堺に崩壊しはじめる。経済成長と共に近代的科学主義が蔓延したことやコミュニケーションの変化、焼畑農業の衰退や教育制度の転換など、さまざまな要因が重なったことで、現代人は「みえない歴史(身体性・生命性の循環)」をつかみ取ることができなくなった。「キツネに騙された」という逸話はかつて日本人が生命性の歴史をとらえるために仮託していた物語の一つであり、今日の我々にはもはやみえなくなった歴史である……と著者は結んでいる。
キツネや山村にまつわるエピソードを紹介しつつ、哲学者としての立場から理論的に「歴史学」を分析している点も面白い。

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2019年08月28日

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 日本では、1965年を境にキツネに騙された、という人がいなくなったのだそうだ。
 それはなぜか?
 私が最初に思ったのはテレビ放映が始まり、情報が人づてではなくなったからとかそういうこと。
 この新書では、誰もが思うような理由や、その観点はなかったが納得という理由、さらにそれらを組み合わせて見せてくれる「キツネにだまされなくなった日本」の姿が、なんとも美しい。
 面白かった。再読したい。

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2018年12月13日

Posted by ブクログ

震災前のうっちーの著作を読んだのは初めてかも。
日本人の身体性、生命性、知性の歴史の物語でした。
「感想」を述べるには自分の中で諒解していないことが多くってそこまでには至っていないのだけれど、
これまで言葉にできていなかった『何か』を説明してくれているような気がした。
伊坂幸太郎が「人生は要約できない」と言っていたことと近しいものがある気がする。
過去の人達はどういう『世界』の中で生きていたのか。
それを読み解くことで現代人がどういう『世界』の中で生きたいのか。また求めていくべきなのか。
ということがわかるのかもしれない。

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2017年01月13日

Posted by ブクログ

この薄い書籍にこれほどの情報量、文句なし!天晴れ!

本書で言う狐に騙されるとは、ただそこで生きている木や花や水を何気なく美しいと思える無垢さであり、抑揚のない物語に趣を見出す感じやすさであり、与えられた秩序の中でだれもが楽しむ柔軟さだ。
すなわち、「狐が人を騙すわけない」と言いたい諸君はそもそも前提が誤っているので議論に値しない。
スピリチュアルなニュアンスを多分に含んだタイトルながら、かなり現実的かつ社会的な内容で構成されているのだ。
戦後史、教育史、そして「科学的な知」への問題提起。
なお極端な善悪の基準としてではなく、問題あらゆる社会問題の原因についての一考察としてお勧めしたい。
もっと詳しく聞きたいと思わせられる書き方は、まさに入門書としてあるべき形だと思う。

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2015年12月01日

Posted by ブクログ

そう言えば最近キツネにだまされなくなったよね(昔はちょいちょいだまされてたみたいな言い方!)

びっくりしました
民俗学の本だと思って読んだら哲学の本でした
最終的に歴史とは何かみたいな考察にも行く
まぁ、民俗学的要素も多分にあったけども
そしてもっとびっくりしたのはクマさんも読んでたってこと
うん、このタイトルは惹かれるよね
クマさんの場合ワンチャンだましてた側の可能性も…(ないわ!)

筆者によると、1965年頃を境に「キツネにだまされた」という話が消滅したというのです
そしてそれは様々な理由により、人間が「キツネにだまされる能力を失ってしまったから」なのだそう
まるでだまされる方が優れてるみたいな言い方
いや実際優れてるのか?

大きな転換点として挙げられるのが、日本人と自然との付き合い方の変化によるものとのことなんだけど、ちょっと待って、これわいは近年問題になっている地球温暖化にも繋がってく話なんじゃね?とも思いましたよ

間違いなくこの本の主旨とは大幅にずれてると思うんだけど、「キツネにだまされる能力」って「自然に宿る神様たちの声を聞く」能力でもあると思うんよ

まぁ地球温暖化って世界的な話なんで、日本人的アプローチだけでどうこう言える話でもないと思うんだけど、「キツネにだまされる」って現象は形を変えて世界中にありそうな気もするんよ

つまりもう一度キツネにだまされるようになることが地球温暖化問題の解決に繋がっているってことなんよ!

ってそんなわけあるか!( ゚д゚ )クワッ!!

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2025年08月22日

Posted by ブクログ

「かつてキツネは本当に騙していたのかどうか」は論証しようがなく、また論証の対象ではないとして、「どうして『キツネに騙された』という話が聞かれなくなったか」だけを論点に絞って筆を進めているのが面白い視点だった。科学的方法だけではつかみとれない真理というものがある、という主張を立脚点にしている。
高度経済成長期真っ盛りの1965年を境にどうしてキツネ(やタヌキ等の山の獣)に人間が騙される話を聞かなくなったか、そこにはいくつかの社会の変化、価値観の変化が要因としてある…と多くのページを割いて説明してくれている。それ自体は分かりやすい説明で説得力もあったのだけど、帯やまえがきで「ターニングポイントは1965年。この年に何があったのか⁈」と煽っているわりには、戦後〜1960年代を通じて緩やかな変化があり、最後にそういう騙されたエピソードが確認できたのが1965年というだけだったのだろう。特に1965年に決定的な事件があったわけではなさそうだ。なので、これは少し煽り過ぎだと思った。
それはそれとして、農村部での伝統的価値観から近代的価値観への変化の説明は非常に内容が豊かで面白かった。特に第三章『キツネにだまされる能力』が良かった。

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2025年05月11日

Posted by ブクログ

表題の疑問、気になって読んでみた。

1965年を境に、日本人はキツネに騙されなくなるらしい。
その理由は本書に任せるとして、
ジブリの「平成狸合戦ぽんぽこ」はいつの時代の話なんだろう?と調べたら昭和40年代。
昭和40年は1965年なのでまさにその年。
ジブリがその境の時期を知っていたのか分からないけど、
時代設定としてはまさに、だったわけだ。

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2024年05月16日

Posted by ブクログ

ネタバレ

1965年、確かに日本が本格的に経済活動に舵を切った時期に重なる。
1964年東京オリンピック西川東海道新幹線開業、1970年大阪万博。
私の故郷枚方も田畑に囲まれた環境から、田畑が住宅地に変わり、新しくできたバイパス道路の周辺には多くの工場ができた時期に重なる。
田畑に囲まれた時代は毎日が自然の中で遊んでいた懐かしい時代だったと記憶している。
人が自然と会話しなくなり、できなくなった。私もそう感じる。

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2024年02月04日

Posted by ブクログ

地元の定有堂書店で購入。
読み始めてから期間経ったので例の如く前半の記憶は曖昧。南無。

眉唾トンデモ本かと思ったら、
歴史哲学本でした。

キツネが馴染みづらいなら、
ガンニバルはなぜ都市部では成立しないのか?
と言い換えてもいい。

ガンニバル一巻しか読んでないので見当違いかもしれないけどまぁそこはそれ。。。

結論から言うと、
高度経済成長期に入った65年らへんから西洋思想が流入し、日本全土に伝播。
日本古来の思想、仏教をベースにした土地土地にカスタマイズされた民間信仰、自然と一体化していたクローズドコミュニティの共通思想が廃れていき、キツネに化かされることもなくなった。

ということです。
(西洋思想なんてもっと前から来てただろ。
とか色々ツッコミどころあると思いますが、
正直うろ覚えです。詳しくは本書読まれたし。)

西洋思想とは知性、理性、合理性に偏った思想だとするなら、
日本古来の思想は、身体性、自然性に偏った思想で、自然を神聖視(非合理的なことが起こってもおかしくない)していた。

だからキツネに化かされることがありふれた日常の一コマだった。
という論旨。ざっくり言うと。

そしてそっから思想の話は発展し、
じゃあ西洋思想は進んでいて、
日本古来の思想は遅れてたのかって話になり、
西洋思想の歴史発展視は、
マルクスが社会主義を唱える際、
資本主義を発展した思想だとした上で自分の説をさらに発展させたものだという言説から、
歴史は常に発展しているという幻想が跋扈している。らしい。

西洋思想の合理的思想だけが正解なのか?
それには NOだと幾人もの哲学者は言う。

「我々は自分の存在が無であること、あるいは大したものではないことを知っているのに、この我々の知が本当に知であるのかどうかは、もはや知ることができない。」レヴィ・ストロース
といった具合に。

まぁディストピア映画を想像してもらえば容易いだろう。

そもそも歴史なんて絶対ではない。

各々の記憶の中で保持されている事実という、
曖昧なものの集合体でしかない。

例えば、
あなたはあなたが生きてきた時間、個人史の中の、10年前の14時23分58秒に何してましたか?
と小学生みたいな質問をぶつけたら、
答えられない人が大半だろう。

ショーペンハウエルの「世界はわが表象である」的に言えば、
僕たちは主観からしかこの世界を捉えられない、外側の世界には内側の世界からしか介入できない故に、客観的事実というものは存在しない。

ならば主観に上がってこない歴史というのは、
無いのと同じでないか?

1259年には何が起こりましたか?
その時ポルトガルだったところは何が起こってましたか?
その当時の人々は何を食べて何を着ていましたか?
どんな思想をしていましたか?

と意地の悪い質問をしても、
答えが返ってくることもあれば、
返ってこないこともある。

歴史というのは、
それぐらい曖昧なものなのかもしれない。

歴史が曖昧なものなのであれば、
現代は過去より進んでいる。
とするのは疑問符が浮かぶ。

とはいえ、過去の方が進んでいた、豊かだった、とする懐古主義的な向きも違う。

私見だが、
結局は個人思想の在り方じゃん。
という身も蓋もない結論に着地。
とするのはあまりに西洋思想寄り過ぎかもですね。

あれー、単にキツネの民間伝承的な事を知りたかっただけなのに、変な方向に話が向いちゃったなー。

こりゃ、ばかされちゃったのかもな。

なーんて。


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2023年04月20日

Posted by ブクログ

難しい内容だけど、日本人が昔から持っている価値観がどのように変わってきたのか?について丁寧に考察されている。とても読みやすい文章、展開であるところにも惚れ惚れとした。出発点が事実ではないところから、考察を深め事実が見つけ出される、という話はとても面白い。

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2022年10月08日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 『国語教育は文学をどう扱ってきたのか」という本で、いわゆる「キツネ読本」が定番教材として扱われている背景に、ごんぎつねの話が昔と今では違ったという話があった。その話は面白いけど、そこで、なぜ変わったのか、それは「生命性の歴史の衰退」、という話が出てきて、その部分がよく分からなかった。そして、その引用文献になっていたのがこの新書だったので、読んでみよう、という。さらにこの著者は、高校教材としての評論文の定番の著者ということだから、なおさら興味が湧き、読んでみた。
 分量はそんなにないが、読みごたえがある。というか、『国語教育は~』で指摘されているように、著者独自の視点で事象を切り取り、「歴史とは何か」を分析し、そして程良く難解(少なくともスラスラ分かるという感じではなかった。かと言ってチンプンカンプンでもなく。)、という部分が、現代文で重宝されているんだろうなあ、ということがよく分かった。
 1965年頃を境にして、日本人の自然の捉え方が大きく変わった、というのがメインの話で、1965年以前、「現代の私たちとは大きく異なる精神世界で生きていた人々にとっては、キツネはどのようなものとして私たちの横に存在していたのか。今日の私たちの精神では到達できないものがそこにあった」(p.107)、ということを示し、「人間は客観的世界の中で生きているのではない」(p.117)ということを説き、キツネに騙されたかどうかという真偽の判定よりは、その物語が語られなくなることに、「私」を取り巻く世界がいかに変容したか、いかに合理性を求める知性を肥大化させ、その知性を通して歴史を認識するようになったか、ということが語られる。見えなくなってしまった「私」の記憶、身体に蓄積された記憶、ユング的な集合的無意識のようなもの、これが最初に述べた「生命性の歴史」ということらしい。
 うーん、分かったような、単に言葉をつなげただけのような。なんとなくは分かるんだけど。「本書は私自身の企画としては、『歴史哲学序説』という副題のもとに書かれている」(p.4)ということだから、そういう話に興味がある人は面白いと思う。あとは面白かった部分のメモ。natureの訳語が、ヨーロッパのような客体としての体系が日本には存在しないことから、自我、我執のない世界を、オノズカラシカリ(=自然)と呼ぶ世界、という意味で、最もジネンなもの、シゼン、ということらしい。仏教の発想らしいが、そう考えるとこっちのジネンを英訳するのが難しいだろうなあと思う。それとも、ヨガとかが流行るオリエンタルブームの文脈では簡単なのかな。「自然保護などという言葉を平気で使えるほどに、私たちの自然観は変わった」(p.59)という部分は言い得て妙だなと思った。あと日本の伝統的な信仰を理解することは、教義を研究することではない、という話(p.106)があって、例えば修験道は「この信仰の核心が教義ではなく修行にある」(p.84)、「自然のなかでの修行がこの信仰のすべて」(同)なんだそうだ。民衆のなかに根付いた仏教、というものがあるなら、それと同じく民衆の中に根付いたキリスト教、というのも西洋にはあるはずだし、西洋の宗教学でも教義の研究ではない宗教の研究ってあるんだろうか、って思った。あとは「近代的な自由とは、社会が認めた自由を自由だと思い込む自由しかない」(p.121)というシュティルナーという人の言葉は面白いと思ったり、「生命のほんの一部でしかない知性」(p.147)によって歴史を捉えることで、逆にその歴史が誤ったものになりうる、というところが何となく分かった気がする。と言っても、歴史のコペルニクス的転回というか、そういうことをしないと何を歴史として捉えていいのか分からないという、一体ここで勉強している歴史って何なのだろうかとか、そういう想いを持った。(22/03/18)

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2022年03月18日

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日本人がキツネに騙された事件が、
なぜ、1965年以降に発生しなくなったのかを問う本。

作者の住んでいる村を中心に書かれていたが、
もっと全国的な事例も知りたかった。

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2022年01月16日

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「キツネに化かされる」という視点から日本を読み解く、挑戦的なテーマ。
やや無理がある気もするが面白かったです。

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2021年12月31日

Posted by ブクログ

【背景】
①なぜ読むか
日本人の意識から、妖怪なども消えていることを不思議に思っていた。その疑問に関連すると思い本書を手に取った。
②何を得たいか
狐に騙されなくなった背景や、その結果を学びたい。
③読後の目標
抽象化して、日本人の心と科学、自然との関係について考察する。
【著者】内山節(哲学者)
【出版社】講談社現代新書
【重要語句】
1965年、オオサキ、キツネ、高度経済成長、科学的真理、想像力、霊、自然、仏教、知性の歴史、身体性の歴史、生命性の歴史
【要約】
説1 「高度経済成長期の人間の変化」
説2 「科学の時代における人間の変化」
説3 「情報・コミュニケーションの変化」
説4 「進学率」
説5 「死生観の変化」
説6 「自然観の変化(ジネン→シゼン)」
説7 「キツネの側の変化」
→日本人の価値観の変化(欧米化)


【メモ】
p12「(キツネにだまされたというような)山のような物語が存在し、その物語が1965年ごろを境にして発生しなくなるという事実は証明できても、そのもガタリが事実かどうかは証明不可能、あるいは論証という方法では到達できない事実として存在している」→科学的ではないとのことわり。そりゃそうだ。

【感想】
かつての日本人コミュニティでは、人間同士の関係が険悪にならないように、キツネなどの仕業としていたように思う。
ある意味で、自然と人間とを区別しない世界を日本人は生きていたのであろう。
キツネにだまされなくなった話から、歴史認識の話へと進み、日本人観の変化へと論理が展開されていく。その中で、近代化現代化への意見が表れてゆき、読者はより大きな疑問へと引き込まれていく。
少々、内容の理解に私は難しさを覚えたが、新たな視点を得ることができたと実感している。

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2021年11月07日

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20170925 生命性の歴史。理解が追いつかないところに今があるのだと思う。地域レベルでは生活できなくなって国のレベルで統一されてしまったところから話としての歴史の理解しかできなくなったのかも知れない。キツネに騙されたと言って済まされていた社会も有りだと思うが騙され方に注意する必要が出て来たのも理由の一つではないだろうか。

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2017年09月25日

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1965年付近を境として日本からキツネにだまされる話が身近になくなった。という命題を立てその原因を考察する。それなりに面白く読める本ではある。
1965年を境にして、身体性や生命性と結びついてとらえられてきた歴史が衰弱した。その結果、知性によってとらえられた歴史が肥大化した。広大な歴史が見えない歴史になっていった。
話には納得できるものの、何となく違和感を感じるのは、元々が都会の生まれで著者の描く歴史が元々自分たちのものではない。自分たちの感じてきた歴史が否定的に語られるとことが釈然としないのである。
キツネにだまされる日本人が本来の日本人であったというような語り口がハナに付くのかもしれないのである。

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2016年08月23日

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