内山節のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
今日、世間では、コミュニティビジネス、ソーシャルビジネス、里山資本主義などなど、社会的な課題解決の対処の仕方として色々なアプローチがあり、それぞれに一応納得できるような提案がなされている。
この本は、「半市場経済」という概念を提起し、序章にあるのだが、ひとつの時代の終わり、前提が崩れた、神話の終焉、新しい経済デザインと鞘木デザインを、新しい価値の創造と経済学 ということで、一定整理し第1章から最終章までそれぞれの専門家が理論整理された本である。
内容は
第1章 経済とは何だったのか。あるいは、労働の意味を
問いなおす
―経済・コミュニティ・社会
・内山 節
第2章 エシカル・ビジネス
―「縁」を結ぶ、「縁」を紡ぐ働き方―
・細川 あつし
第3章 存在感のある時間を求めて
―「時間による支配」から「時間の創造」へ―
・杉原 学
第4章 ソーシャル・イノベーション
―経済活動を通じて社会変革をもたらす
「産霊(むすび)の力」―
・梅田 一見
最終章 現代社会と市場経済、非市場経済、半市場経済
・内山 節
副題にある成長だけでない「共創社会」の時代を目指して、第2章から第4章において、違った観点からのアプローチがあり、読者としては新たな触発があり満足いく新書でありました(感謝)。 -
Posted by ブクログ
ネタバレいやぁおもしろかった!
著者の内山節氏の講演会に行きたくなった。
後半のベルクソンらの知性の話や歴史哲学もおもしろかったけれど、私には前半部分がたまらなくおもしろかった。
以下おもしろかったこと。
1.なんといっても問いの立て方が最高!
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」 これは「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」と並ぶ新書タイトルの最高峰だと感じた。
2.安倍晴明の逸話
説話として残っている晴明の活動を見ると、「式神」が鳥や動物に降臨するときにすぐれた能力を発揮していた。しかし江戸時代に入ると、晴明は母がキツネだったから能力があると変化する。つまり能力のあるものが「式神」から「キツネ」に変化している。p.13−14
3.オオサキ
オオサキは食べ物の「ミ」を食べる。この「ミ」は「魂」あるいは「霊」と書いてもよいが生命の根本的なものである。日本の伝統的な食事の考え方としては、食事とはミをいただくことで、いわば生き物の生命をいただくから、その生命が自分の生命になると考えられていて、その意味では食事とは他の生命を摂取することである。だから、自分のために犠牲になる生命への感謝が必要となる。日本では、神が人に与えた糧ではなく、生命的世界、霊的世界からいただく糧である。日本の伝統的な食事のマナーは、静かに、厳粛に食べることを基本にしているが、食事の時の祈りの対象は神ではなく、霊的世界になる。またこのオオサキは秤好きで、ときにオオサキ祓いの儀式が執り行われることもある。p.18-22
4.次元の裂け目
村の世界は様々な神々の世界であり、次元の裂け目のようなものが所々にあり、その裂け目の先には異次元の世界が広がっていると考える人も多かった。「あの世」を見る人もいた。ときにはオオカミはこの裂け目を通って、ふたつの世界を移動しながら生きていると考える人もいた。
5.問いと答え
キツネにだまされていたという話が事実だったかどうかにかかわらず、なぜだまされなくなったのかを問いかけると、そこから多くの事実が浮かび上がるということである。出発点が事実かどうかにかかわらず、その考察過程では幾つもの事実が見つけだされる。p.69
6.山上がり
いよいよ生活が立ちいかなくなったと感じたとき、村人の中には「山上がり」を宣言するものがいた。「山上がり」は宣言し、公開しておこなうものなのである。宣言した者は言葉どおり山に上がる。つまり森に入って暮らすということである。そのとき共同体には幾つかの取り決めがあった。誰の山で暮らしても良いし、必要な木は誰の山から切っても良いし、同じ集落に暮らす者や親戚の者たちは山上がりを宣言した者に対して、十分な味噌を持たせなければならないという取り決めがあった。p.73-74
7.馬頭観音
旅の途中で馬は山の中で時空の裂け目のようなものを見つける。この世とあの世を継ぐ裂け目、霊界と結ぶ裂け目、神の世界をのぞく裂け目、異次元と結ぶ裂け目である。この裂け目は人間には見えないが、動物にはわかる。そしてこの裂け目は誰かが命を投げ出さないと埋まらない。埋まらないかぎりは永遠に口を開けていて、その裂け目に陥ちた者は命を落とす。いまに陥ちそうな先を行く飼い主をを救うために自らが犠牲となって裂け目に飛び込む…。だから人間たちは馬に感謝し、その霊を弔って馬頭観音を建てた。p.78−79
8.山林修行
日本の人々は自然の世界に清浄な世界を見出していた。自然の生命には自己主張からくる作為がないからである。ところが人間は自己を主張し、しかもその主張を知性で合理化するから、次第に本当にことがわからなくなっていく。霊が穢れていくのである。この穢れは死後に自然の力を借りながら霊の清浄化をとげていく、そのことにより自然に帰り、永遠の生命を得ていくと考えられていたけれど、この霊の穢れに耐えられなくなった人々は生きているうちに「山林修行」を目指した。
山に入ることは、人間的なものを捨てる、文明を捨てるということを意味していた。家族も、村も、共同体も、社会も、つまり人間的なものが作り上げたすべてのものを捨てて山に入る。その意味で死んでいくときのたった一人の人間になるのである。古代の習慣では、道具も持たずに山に入ったらしい。道具もまた文明であるからだ。山では木の実を食べ、根を食べる。厳密には火も使わない。自然は火で料理はしないからである。そうやって動物のように暮らしながら荒行を重ね、お経を読み続ける。穢れた霊の持ち主である自己を死へと追い込むのである。そして文明の中で生きてきた現実の自己に死が訪れた時「我(われ)」は山の神と一体となり、清浄な例として再生する。p.85−89
9.間引き
自然の生き物は、自分に都合の悪い育ちが良くないものを、あらかじめ間引くようなことはしない。間引きとは、あくまで人間だけがする行為である。しかもこれは、育ちが良くないものは生きる価値がない、という思想に貫かれている。p.96-97
10.出口なお
例えば大本教を見れば、出口なおが神がかりしてはじまる。その出口なおは以前から地域社会で一目置かれていた人ではない。貧しく、苦労の多い、学問もない、その意味で社会の底辺で生きていた人である。そのなおが神がかりし、「訳のわからないこと」を言いはじめる。この時周りの人々が、「あのばあさんも気がふれた」で終りにしていたら、大本教は生まれなかった。状況をみるかぎり、それでもよかったはずなのである。ところが神がかりをして語り続ける言葉に「心理」を感じた人たちがいた。その人たちが、なおを教祖とした結びつきをもちはじめる。そこに大本教の母体が芽生えた。この場合、大本教を開いた人は出口なおであるのか。それともなおの言葉に「真理」を感じた人の方だったのか。必要だったのは両者の共鳴だろう。p.100
11.通過儀礼
かつて一九七〇年代に、姫田直義が『秩父の通過儀礼』問いうドキュメンタリーフィルムを撮っている。このフィルムをみて感じることは、一人の人間の生命に対する感じ方の今日との違いである。現在の私たちは、生命というものを個体性によって捉える。しかしそれは、特に村においては、近代の産物だったのではないかと私には思えてくるもちろんいつの時代においても、生命は一面では個体性を持っている。だから個人の誕生であり、個人の死である。あが伝統的な精神世界の中で生きた人々にとっては、それがすべてではなかった。もう一つ、生命とは全体の結びつきの中で、その一つの役割を演じている、という生命観があった。個体としての生命と全体としての生命というふたつの生命観が重なり合って展開してきたのが、日本の伝統社会だったのではないかと私は思っている。p.108−110
12.外国人技師
かつて山奥のある村でこんな話を聞いたことがある。明治時代に入ると日本は欧米の近代技術を導入するために、多くの外国人技師を招いた。そのなかには土木系の技師として山間地に滞在する者もいた。この山奥の村にも外国人がしばらく暮らした。「ところが」、と伝承がこの村には残っている。「当時の村人は、キツネやタヌキやムジナにだまされながら暮らしていた。それが村のありふれた日常だった。それなのに外国人たちは、決して動物にだまされることはなかった」今なら動物にだまされた方が不思議に思われるかもしれないが、当時のこの村の人たちにとっては、だまされない方が不思議だったのである。だから「外国人はだまされなかった」という「事件」が不思議な話としてその後も語りづがれた。
なんだかまだまだ書き足りない。p.52−53など丸写ししたくなる。しかし、この本を読んでいて出口なお現象ではないが、この本を読んでいると、「これまで私が無意識に感じていた思想と共鳴し」帰依したくなるような思いに捉われた。 -
Posted by ブクログ
内田樹先生と藤田一照老師の対談の中で、行という取り組み方の説明があった。その中で、人間のあらゆる行動は、行となりうるという説明の中で、科学という探究活動も行となり得るという発言があった。
自我を去り、比較や被査定の次元を離れて、未知に向かって道をあゆむこと。歩み方としては、言葉やテクニックから入るのではなく、五感を使って身体的に、呼吸も含めて、師匠を真似て肉薄するという、修行をすること。それにより、調い、人ならざる大悟や強さにつながる。
そんな話があった。
全てが行として実践し調え得るのであれば、人と人の関係や、チームビルディング、商売などの営利活動、ひいては自然と共存する社会のあり方にも、行としての活動の仕方があるのではなかろうか。
行として、
ネイティブ・アメリカンや里山、先住民の自然観、それらを守るセイフガードなどの社会のあり方、
個人として自然と向き合い調和する山伏の生活、禅的自然の生き方、
をもっと深めていきたいとおもう。
この本も、上の様な意識から読んだ。
対談を通してわかりやすく歴史や態度について、学ぶことができる -
Posted by ブクログ
ネタバレキツネの話からはじまり、最後には歴史とは何かを語る、構成おもしろ本。
キツネの話をしているときは正直なんかつまらなそ〜と思っていましたが、途中からアクセルベタ踏みで思ってもない方向に話が進んでいきます。
直線的で発展的に語られる歴史はナショナリズムの隆盛にも寄与していて、その歴史はほとんど無意識的に我々のスタンダードになっています。
ただ、この切り口からみる歴史のみに注目してしまうと、かつてのキツネに騙されていたようなタイプの歴史が見えにくくなっていきます。
それがよいことなのか、わるいことなのか、私には分かりませんが、歴史の普遍性のなさ、みたいなものをよく感じることができたのが本書で最も印象的でした。
たとえば明治維新は、日本の歴史に燦然と輝く出来事で、現代に繋がる最重要の革命であるというような語られ方をしますが、それによって当時には衰退した陣営もいたわけで全員に良いことが起きているわけではもちろんありません。。
というような話はよく聞くわけですが、本書ではもう少し進みます。
その先にあるのは、当時の都から大きく外れたような田舎の村では、比較的長い間、明治維新の影響はなかったのではないかということです。
当たり前といえば当たり前なんですが、でも、その歴史は語られないですよね。
そして、個人単位でも、こういったような構造で見逃している歴史、つまり記憶があるのではないでしょうか(自分自身のアイデンティティに繋がるように解釈されて保全されている記憶があり、不利益な記憶は見逃すようにできている)。
それを見逃させているのは、知性や理性であり、それらを稼働し続けている現代社会のあり方をも考えさせられましたね。
長くなりすぎたので感想終わりです。
おすすめ!! -
Posted by ブクログ
ネタバレ戦後の変革による思想の変遷がまとめられている。特に社会主義の説明は非常にわかりやすい。
現代でも多くの人が抱き社会的な問題として指摘される空虚さや孤独の問題が、すでに1960年代から議論が始まっていた問題だったとは。
結局、世界はこれらの問題に対する明確な対処ができないまま、今日を迎えているということになる。経済成長も鈍り、環境問題が先延ばしできない段階になった今、これらの問題はより切実になっている気がする。
昔は○○だった、というけれど、昔から状況が変わっていないことも事実。状況を変えられるのはいつだって現在の自分なのだと、強く感じた。
「大きな繁栄とともに大きな何かを失った」とあるけれど、実際、技術革新で、あらゆることが人間の身体感覚を超えてしまっているのだと思う。社会も生活も、あらゆる面で、ヒューマンスケールを取り戻した方が良いのではと思った。
消費者から創造者へ。大きなものに飲み込まれ消費者となった空虚な個が、充実した自己を感じられるようになるヒントが、この考察にはある気がする。 -
Posted by ブクログ
日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか。前半部は上野村をはじめとした自然に思いを馳せる程度だったが、中盤部以降、今まで自分が触れることのなかった思考体系をなぞり、脳が興奮した。今まで触れることはなかったけれど、でも感覚的に理解できる思考体系で、自分の中からスルスルと何かが引き出された、そんな気分。
"事実(だと思っていたこと)"は、全て現在の社会が持つ尺度によって規定されているもので、その尺度からこぼれ落ちた物事は見えなくなってしまう。現在は「知性」という存在が大きな力を持っていて、だから「知性」では説明できない「何か」を、私は見ていない。時間と共に「知性」は発展していくというのが基本的な考え方であるから、社会は、個人は、時間と共に発展していくという考え方が当たり前に受け入れられている。しかしながら、本当にそうなのか?内山節さんは「発展」ではなく「循環」だと言っている。
私は最近、人生が底見えしてきたという感覚に襲われた。その理由は以下のようなものである。
中学生くらいから生きづらさを感じていたが、新たな経験を重ねることで一歩一歩生きづらさを解消し、完璧、もしくは納得に近づいていく感覚があった。人生は毎年、着実に良くなっていくものだと思っていたのだ。しかしながら20歳を超えたあたりから自分の現状に納得できるようになってきて、もう上限まで来てしまった感覚を得た。それが、人生が底見えしてきたという感覚の正体。
本書を読んだ今考えると、以上の考えは、「知性」や「発展」という尺度で測られたものであることがわかる。自分が今まで抱いてきた悩みというものは、目的意識ありきの、人生を直線、すなわち「発展」で捉えた際に生じるものだったのだ!!しかしながら、人生とは本来円形なのではないだろうか?いや、むしろ円ですらない点であり、その形が決まるのはその時代の尺度なのだ!
何かの出来事に対して成功だの失敗だの引き分けだのが存在してくるわけだが、それはどの視点から見た成功でどの視点から見た失敗なのか?人間は画一的な物差しでしか物を図ることができない。今は資本主義の物差し。発展の物差し。 -
Posted by ブクログ
内山節氏の文章は身近な問題を哲学的に説明してくれてわかりやすい。
この本を読んだきっかけは「おこんじょうるり」を読んだからだ。イタコのばば様とキツネのおこんの心の交流のおかしくも悲しい物語だ。
我々日本人は昔話を読んで育ってくる中で、人と動物が心を通じ合わせたり喧嘩したりという、日常生活を共にするのが自然に感じてきた。これらの動物は人間の言葉を話しお隣さん的に助け合ったりしてきた。そのことに全く違和感を感じなかった。それくらい身近にいて共生していたのだ。それだけ人が自然の中で生きていたのだ。しかし、科学の進歩や経済の発展によって人間は変わり、自然との距離を隔ててしまっただけでなく、自然の領域まで侵略している。自然との共生が叫ばれるが、現実はその逆に進んでいる。この先、人間はどこまで変わって行くのだろうかと不安が募った。