内山節のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
内田樹先生と藤田一照老師の対談の中で、行という取り組み方の説明があった。その中で、人間のあらゆる行動は、行となりうるという説明の中で、科学という探究活動も行となり得るという発言があった。
自我を去り、比較や被査定の次元を離れて、未知に向かって道をあゆむこと。歩み方としては、言葉やテクニックから入るのではなく、五感を使って身体的に、呼吸も含めて、師匠を真似て肉薄するという、修行をすること。それにより、調い、人ならざる大悟や強さにつながる。
そんな話があった。
全てが行として実践し調え得るのであれば、人と人の関係や、チームビルディング、商売などの営利活動、ひいては自然と共存する社会のあり方にも -
Posted by ブクログ
ネタバレキツネの話からはじまり、最後には歴史とは何かを語る、構成おもしろ本。
キツネの話をしているときは正直なんかつまらなそ〜と思っていましたが、途中からアクセルベタ踏みで思ってもない方向に話が進んでいきます。
直線的で発展的に語られる歴史はナショナリズムの隆盛にも寄与していて、その歴史はほとんど無意識的に我々のスタンダードになっています。
ただ、この切り口からみる歴史のみに注目してしまうと、かつてのキツネに騙されていたようなタイプの歴史が見えにくくなっていきます。
それがよいことなのか、わるいことなのか、私には分かりませんが、歴史の普遍性のなさ、みたいなものをよく感じることができたのが本書で最も印象 -
Posted by ブクログ
ネタバレ戦後の変革による思想の変遷がまとめられている。特に社会主義の説明は非常にわかりやすい。
現代でも多くの人が抱き社会的な問題として指摘される空虚さや孤独の問題が、すでに1960年代から議論が始まっていた問題だったとは。
結局、世界はこれらの問題に対する明確な対処ができないまま、今日を迎えているということになる。経済成長も鈍り、環境問題が先延ばしできない段階になった今、これらの問題はより切実になっている気がする。
昔は○○だった、というけれど、昔から状況が変わっていないことも事実。状況を変えられるのはいつだって現在の自分なのだと、強く感じた。
「大きな繁栄とともに大きな何かを失った」とあるけれど -
Posted by ブクログ
日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか。前半部は上野村をはじめとした自然に思いを馳せる程度だったが、中盤部以降、今まで自分が触れることのなかった思考体系をなぞり、脳が興奮した。今まで触れることはなかったけれど、でも感覚的に理解できる思考体系で、自分の中からスルスルと何かが引き出された、そんな気分。
"事実(だと思っていたこと)"は、全て現在の社会が持つ尺度によって規定されているもので、その尺度からこぼれ落ちた物事は見えなくなってしまう。現在は「知性」という存在が大きな力を持っていて、だから「知性」では説明できない「何か」を、私は見ていない。時間と共に「知性」は発展して -
Posted by ブクログ
内山節氏の文章は身近な問題を哲学的に説明してくれてわかりやすい。
この本を読んだきっかけは「おこんじょうるり」を読んだからだ。イタコのばば様とキツネのおこんの心の交流のおかしくも悲しい物語だ。
我々日本人は昔話を読んで育ってくる中で、人と動物が心を通じ合わせたり喧嘩したりという、日常生活を共にするのが自然に感じてきた。これらの動物は人間の言葉を話しお隣さん的に助け合ったりしてきた。そのことに全く違和感を感じなかった。それくらい身近にいて共生していたのだ。それだけ人が自然の中で生きていたのだ。しかし、科学の進歩や経済の発展によって人間は変わり、自然との距離を隔ててしまっただけでなく、自然の領域ま -
Posted by ブクログ
ネタバレ「共同体」という日本語は、明治時代になってから生まれた言葉だ。
この共同体なるものの基盤として、華厳経は「人間関係」を挙げている。大乗仏教ではそもそも自己も、真理も「空」だとされている。つまり、私たちが見ている現象には全て実体がなく、関係に本質を見出しているためである。関係自体も実体があるわけではないので、「空」とされる(p.77)。
そこで華厳経では、「一即一切」という考えを大事にしている。宇宙の全真理はホコリくらいの世界にあり、一と全ては同じ、という考えだ。つまり、真理はひとつの小さな世界にあり、それはすべてが関係で結びあっているためだからだ(p.79)。また、華厳経は利他も重要視して