安藤優一郎のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
「歴史は苦手だけど、大河ドラマは好き。」
そんな人にこそ読んでほしい一冊でした。
私は蔦屋重三郎といえば、「浮世絵を広めた出版人」という程度の知識しかありませんでした。でも本書を読むと、その姿はまるで現代のプロデューサーであり、起業家であり、インフルエンサーのように見えてきます。
本書が描くのは、蔦屋重三郎と田沼意次という、江戸時代を代表する二人の「成り上がり」です。家柄ではなく実力で道を切り開き、才能ある人を見つけ、新しい文化を世の中へ送り出していく。その背景には、田沼意次による商業を重視した時代の空気がありました。
特に面白かったのは、重三郎のプロデュース力です。歌麿の美人大首絵のように、誰もやっていない切り口を生み出したり、自ら狂歌のコミュニティに飛び込んで作家や絵師との信頼関係を築いたりする姿は、今のクリエイターやベンチャー企業にも通じるものを感じました。
しかし時代が変わり、松平定信による寛政の改革が始まると状況は一変します。自由な表現は規制され、重三郎も処罰を受けます。それでも彼は表現をあきらめませんでした。
読みながら感じたのは、歴史とは昔話ではなく、「変化にどう向き合うか」の記録なのだということです。ルールが変わる時代に何を守り、何を変えるのか。その問いは、変化の激しい現代を生きる私たちにもそのまま重なります。
歴史が苦手でも大丈夫。この本は人物を通して江戸を見る本であり、同時に現代のビジネスやクリエイティブの原点を見せてくれる一冊でした。 -
Posted by ブクログ
明治維新後、城の存亡を賭けた知られざる攻防戦・・・
先般の熊本地震で損壊した熊本城を泣きながら見つめる熊本の人たちのように、現代の人たちは自分の地元の城を誇らしい気持ちで見上げている。
幕末から明治にかけての城って、城主にとって、藩士にとって、藩民にとって、どんな存在だったんだろうか?
その「思い」が知りたかったのだが、史実や思惑は丁寧に書かれていたのだけれど、本当に知りたかった部分が知れなかったのは残念。
・「城址公園」が多いのは、明治政府が西洋列国へ西洋化のアピールのために公園を沢山作ろうとしたため
・名古屋城は空襲で燃えてしまった後、国宝ではなくなっているのでは??(当時の話のみをしているのか??) -
Posted by ブクログ
窮民救済として効果的な制度は天明の大飢饉で
打ちこわしが政変を呼び「御救米制度」が誕生
飢饉や大地震・感染症蔓延時に弱者を対象に支
給される
その基準は
①70才以上独り者で自立困難者
②孤児
③長患い
その後拡大していく
④家族も対象
⑤その日稼ぎとなり以下のとおり実施
1802年288,441人(インフル)
1803年 41,020人(麻疹)
1821年296,987人(インフル)
1831年278,353人(米価高騰)
1832年306,038人(インフル)
1833年318,420人
319,359人(米価高騰)
1834年333,827人(米価高騰)
1836年350,355人
409,164人(米価高騰)
1837年、年貢米から御救米(大塩平八郎の乱)
1851年381,740人(米価高騰・インフル)
1854年381,200人(安政の大地震)
1858年523,076人(コレラ)
このエイドは運用が重要で、制度があるのにも
関わらず慶応期に打ちこわしがある
程度を甘く見て範囲と給付水準を下げたため
しかも米価高騰の理由は長州征伐・・・政府の
失政後の対応が拙かった(´・ω・`) -
Posted by ブクログ
徳川幕府は15代将軍・250年以上も続きました。武力で日本を統一した徳川家ですが、時代が経過するにつれて、資金繰りが苦しくなってきたようです。
中学や高校の頃、江戸時代の後半にもなると、金の含有量を減らした価値の低い貨幣を発行したと習って、これは良くないことだと思っていましたが、現代の政府も「量的緩和」と称して同じことをやっているのではないでしょうか。
更に貨幣価値を戻した政策は素晴らしいと当時は思っていましたが、言い換えれば貨幣流通量を減らして緊縮財政をして景気を悪い方向へ持っていたことになったことも今になって理解できてきました。江戸時代も中盤以降になると資金繰りは色々と苦労していた様子がこの本を通して少し理解ができたと思います。
以下は気になったポイントです。
・約250万石にも及んだ徳川家の所領のうち、その財源となる直轄領は100万石ほどで残りは家臣たちに分け与えられた。全国トップの所領を誇ったわけだが、天下人たる秀吉の直轄領はこの数値を上回る(220万石)当時の全国の石高は約1850万石なので12%にあたる。さらに全国の金山、銀山を支配下においていた(p11)
・関ヶ原の戦いにおいて豊臣家直轄領の削減分を含めると、家康に没収された所領は約780万石に及んだ、これは40%に相当する。このうち徳川家の直轄領に135万石を組み入れた、5代将軍の元禄期には約400万石に達した(p12)
・幕府直轄都市は、日光・下田・駿府・山田(伊勢)・京都・伏見・奈良・堺・大坂・長崎、鉱山は、院内銀山(秋田)・佐渡相川金銀山・足尾銅山・伊豆土肥金山・駿河安倍金山・但馬生野銀山・石見大森銀山(p16)
・幕府は地方行政官たる代官(役高150俵)あるいは郡代(400俵)を現地に派遣することで幕領の80%以上を支配した、郡代は関東・飛騨・美濃・西国郡代で、大半の幕僚支配は代官が行った(p34)
・幕府は金貨・銀貨・銭貨という3種類の通貨を鋳造することで経費を差し引いた分を歳入(財源)にあてた(p42)元禄13年(1700)幕府は金1両=銀60匁=銭4貫(4000文)の相場を公定したが実際の相場は変動していた、幕府が鋳造した通貨は、江戸城・大阪城・二条城・駿府城・甲府城・佐渡奉行所などに蓄えられた(p50)
・幕府は鎖国という形で制限をした、外様大名が貿易で利益を挙げて富強化するのを恐れた、例外として対馬藩を介した朝鮮との貿易、薩摩藩を介した琉球との貿易は容認した(p56)
・赤字財政に転落した(4代将軍頃)ことで勘定所は新たな財源を通貨の改鋳に求めた(p59)明暦の大火(1657正月)では、本丸と天守が焼け落ち、二の丸・三の丸もほとんど消失、西の丸呑みが焼け残った。江戸の6割が消失、焼死者も10万人を超えた。この理由として江戸の気象環境がある、春先は南西風・冬は北西風、11月から5月は乾燥する(p63)
・改鋳差益により増収(出目)できたが、6代将軍家宣を補佐した儒学者・新井白石は金銀の含有率を元に戻す政策を断行する、金銀貨の質を落とすことは鋳造者たる幕府の威信を低下させるという考え方を持っていた(p172)しかし文政元年幕府は再び質を落とす改鋳を行う、水野忠成である、質を落とした二分金を新たに登場させた(p173)これにより財政破綻の危機からは脱したが、インフレが江戸を襲った(p174)
・下関戦争の賠償金、長州藩は75万両(1両=4ドルとして約750億円)を約束したが、幕府が支払う羽目になった。幕府が朝廷に約束した攘夷の実行に従っただけという長州藩の言い分が通ったので・幕府は6回に分けて支払うが支払い延期を認める代わりにイギリスは1866年5月に関税率を20%から5%に引き下げる改税約書に締結させた。関税収入が1864年の174万両から100万両を超える大金を失ったことになった(p204)
・第二次長州征伐において出陣した旗本や御家人は大阪城で1年間足止めされた格好であったが、滞在中の手当だけで毎月18万両かかった、開戦前に300万両支出していたが、長州再征で最終的には437万両に及んだ(p208)
2022年5月5日作成