あらすじ
いつも辞令は突然! 時間も金もない!
大名たちは幕府(将軍)の命ずる「人事」という難関を、あの手この手でクリアした。
江戸時代は、お国替えという名の大名の異動が繰り返された時代。御家騒動や刃傷沙汰、世継断絶から、職務の怠慢、色恋沙汰に酒席の狼藉に至るまで、その理由は多岐にわたる。大名や家臣たちはその都度、多大な苦労を強いられ、特に転封では長距離の移動、費用など、負担もただならぬものがあった。大名は幕府(将軍)からの異動命令を拒むことは許されず、いつ命令が出るのか、国替えを噂される藩の江戸詰め藩士は、必死で情報の収集に努めていた。国替えは突然に命じられることが大半であり、当事者の大名や家臣は大混乱に陥るが、幕府からすると人事権を行使することで自己の求心力を高められる効果があった。
転封だけではない。大老や老中、奉行など幕閣の要職を誰が占めるのかも大名にとっては重大問題。将軍の人事権が威力を発揮するのは花形の要職だが、その裏では嫉妬と誤算が渦巻いていた。将軍家斉の信任を得ていた老中松平定信は辞表を提出し続けることで権力基盤を強化したが、最後は辞表が命取りとなり失脚した。辣腕ぶりで江戸庶民に人気が高かった火盗改長谷川平蔵は、それゆえ上司や同僚の嫉妬を浴び町奉行に就任できないまま終わったのだ。
本書は、将軍が大名に行使した国替えという人事権、そして幕府要職者にまつわる人事異動の泣き笑いを通して、江戸時代を読み解く歴史読み物。権力の象徴としての人事とそれをめぐる悲喜こもごものドラマは、江戸期の政策や各地の国づくりを浮き彫りにすると共に、現代の企業社会にも通じるものがある。嫉妬、忖度、ごますり、足の引っ張り合い――お殿様たちの様々なエピソードは、身近にいる誰かを連想させてくれるかもしれない。
感情タグBEST3
お殿様も大変だったんだなあ
大名や幕府中枢にいた人物の人事評価について、楽しみながら知ることができました。
特に大名の領地替えの話が興味深く、印象に残っています。
Posted by ブクログ
勉強になりました。
三方領知替は、大変ですね。
天保11年の三方領知替が撤回されたのも、
時代の流れというか、幕府の力が衰えていたことを
表しているのですね。
大岡越前や鬼平こと長谷川平蔵の話も面白かった。
明治維新後の徳川家臣団も大変だった。
静岡への無禄移住による窮乏生活は本当に悲惨だったと思う。
大政奉還、廃藩置県は、武士社会を大きく変えた本当の革命だったと思う。
Posted by ブクログ
封建社会である江戸時代は、将軍から国替えを命じられれば大名といえども藩士ともども領地を移らなければならなかった。人事異動というよりも、転勤に近い感じで、移動には相当の費用がかかるし、新旧の領民との関係も大きく変化した。
本書では、そのような国替えの具体的事例における様々なエピソードのほか、大名や旗本・御家人の出世・登用の話として、松平定信、水野忠邦、大岡忠助、長谷川平蔵という有名人のエピソードも紹介されていて面白い。
Posted by ブクログ
江戸期大名たちの国替えに係る引き交々が赤裸々に描かれている。実務は大変そうだと思っていたが、このようなおおわらわが各地で起こっていたかと思うと、味わい深い。
Posted by ブクログ
江戸時代における幕府を中心とした武家の人事制度について、国替えの制度をもとに説明している。江戸時代は、幕府が強大な権力を保持していたことを再認識した。参勤交代もそうだが、大名に対する土地の所有権や人事権を、徳川幕府が一手に握っていたことが大きく、その基盤がしっかりしていたからこそ政権が260年も続いたのだと思う。トピック的な事項が多く、論理的な流れとはなっていないが、面白く読み進められた。
「(家康の関東への国替え)家康の旧領は信長の次男で織田家当主の尾張国の清州城主織田信雄に与えられたが、尾張や伊勢国などの所領を取り上げた上での国替えであった。信雄は父祖よりの所領である尾張を取り上げられることを嫌がり、転封命令を拒否してしまう。よって、秀吉の怒りを買い、改易に処せられた。所領をすべて没収され、大名としての地位を失った。国替えを拒否して改易された最初で最後の大名となる」p20
「家康入城前の江戸については、葦原が茂り、家が点在する寂れた漁村だったという言い伝えが残されているが、それは事実でない。家康が居城に定める前から、江戸は城下町として発展を遂げていた。家が点在する寂れた漁村どころではなかった。諸国からの商船が港へ頻繁に出入りした。城下には商人が群集し、市も毎日開かれ、人家も密集していた。太田道灌により江戸城が築かれたのは、応仁の乱の少し前にあたる1457年のことだが、道灌が江戸に城を築いたのは陸上や海上交通の要衝であったからだ。だからこそ、江戸は賑わいをみせていた」p23
「(寛政の改革)当時、幕府財政は逼迫していた。定信が寛政改革を決意した動機にもなったが、その最大のターゲットこそ、年間20万両といわれた大奥の経費であった。定信は聖域とされた大奥の経費にメスを入れ、1/3にまで切り詰めることに成功する。だが、人事などへの発言権を封じ込められた上、経費削減を強要された大奥側は激しく反発する。定信の失脚そして改革政治が頓挫する遠因になるのであった」p72
「(水野忠邦による大奥改革の失敗(大奥御年寄 姉小路に言いくるめられる))天保の改革政治は約2年半で挫折し、水野忠邦も老中の座を追われるが、早々に大奥の改革は挫折していた」p76