田村隆一のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ老嬢は欺けない。
寄宿学校で共に過ごしたルースに頼まれて、ミス・マープルはルースの妹であり同じく旧友のキャリィを訪ねる。彼女は未成年犯罪者の更生教育にその身を捧げる夫と共に少年院を営む彼女の屋敷を訪ねた。そこにはセロコールド夫妻の他に、キャリィの娘ミルドレッド、キャリィの養女の娘ジーナ、その夫ウォルター、キャリィの二番目の夫の息子アレックスとスティーヴン、キャリィの付き添い人ミス・ベルエヴァー、使用人エドガー、精神医学者のマヴェリック博士、そして施設に入っている少年たちがいた。突然訪ねてきたキャリィの最初の夫の息子クリスチャンの用件はなんだったのか。エドガーは頭がおかしいのか。ミス・セロコールドは命を狙われているのか。ミス・マープルの推理は——。
嫌な予感がするというルースを否定しないミス・マープル。悪意を認識しないキャリィは何を見ているのか。心配したキャリィは殺されず、死ぬのはクリスチャンであり、トリックに気づいたアレックスであり、誰かを見たと吹聴した少年である。頭がおかしいような描写をされたエドガーは、実は演技であった。不満を抱いていたウウォルターと、アレックスやスティーヴンといい感じに見えたジーナは、依を戻してアメリカに帰る。美しい養女ピパとの扱いに差をつけられていたと感じている実の娘ミルドレッドの隠されていた愛情。すべてキャリィには最初から見えていた。決して惑わされないキャリィ。その本質が学校の頃から変わっていないことを思い返すミス・マープルに、思わず彼女たちの女学生時代のエピソードがあれば、それもまた面白かったであろうと夢想する。
罪を犯した少年を教育するという発想から、善と悪について。悪は生来のものなのか、悪は遺伝するのか。少年たちの更生を望んでいたルイスは、その少年たちが生きる新天地を得るために不正な手段でお金を稼ごうとした。そして殺人まで犯した。しかし彼は共犯者に選んだエドガー(おそらく息子)を救うために命を捨てたのだ。キャリィのことばにあるように「とびぬけた善人になれることのできる人間は、やっぱり極悪人にもなれる」のである。これは面白いことばだ。他の作品で、犯人はとても人間的ということばもあった。善人だけである人もいなければ、極悪人だけである人もいない。では、罪を犯すのは何のせいなのか。環境のせいなのか。
ルイスの夢であり、キャリィの語るところによると、罪を繰り返してしまう一部の成長しない性質をもつ者にとって、現代社会は複雑すぎるのである。だから、流刑者がより単純な新世界で新しいスタートをきるのはある意味で道理なのだと。思わずケーキの切れない少年たちの話を思い浮かべた。ルイスとキャリィが想定している少年たちとは、彼らなのだろうか。この物語が出版された1952年から70年あまり経ち、罪を犯す少年への見方は前に進んでいるのか、足踏みなのか、違う方向へ舵を切ったのか。考えさせるテーマである。 -
Posted by ブクログ
ミス・マープルもの。
旧友・ルースから、彼女の妹・キャリイの家の様子を見てきてほしいと頼まれた、ミス・マープル。訪れたその邸は、敷地内に民間の少年院のような施設があり、本宅の方もキャリイの親族やら居候やら、複雑な関係の老若男女が共に暮らしている状況です。
そんな中、妄想癖のある青年が、キャリイの夫・ルイスに襲いかかるというハプニングと同時に別の人物が実際に殺されてしまうという事件が勃発します。さらに、キャリイの命も狙われているかも?と、いう疑惑まで出てきて・・。
まるで魔術のトリックのような事件の真相に、ミス・マープルの人間観察力を絡めた推理が冴えわたります。
ミステリとしての構成もさることながら、人間ドラマとしても興味深い展開となっているのが、流石クリスティーですね。 -
Posted by ブクログ
20台半ばごろ、つまり30年以上前に読んでいる。
その三十余年前は、一人旅の山陰本線の車内で、タムラさんのように堺港から隠岐に渡ろうか、出雲に行こうか考えていたりもした。
僕の記憶では、タムラさんが鎌倉の自宅か散歩中にふと思い立って、西脇順三郎の詩集だけを手にして、旅に出る場面があったはずなのだが。
タムラさんは何処に行っても、酒が欠かせないし、その文章は軽々して柔らかい。この文章を丸谷才一が名文とした「文章読本」も読んだことある。確かにクダケテいるのに何とも品がある。
最近、タムラさんのエッセイを本屋で見ることが少なくなった。復刻して欲しいとおもう。 -
Posted by ブクログ
「荒地派」と呼ばれる現代詩の一大潮流を築き上げた詩人、田村隆一が日本各地を酒(特にウイスキー)を片手に巡り歩く旅行記。
私が最も好きな作曲家の一人が武満徹であるのだが、彼の「My way of Life」という作品では、田村隆一の「私の生活作法」というエッセイがテクストとして利用されている。
その中で特に次の一節が記憶に残っている。
”「時が過ぎるのではない 人が過ぎるのだ」
とぼくは書いたことがあったっけ
その過ぎてゆく人を何人も見た
ぼくも
やがては過ぎて行くだろう”
このテクストからも明らかな通り、田村隆一の文章は平易な言葉で綴られている。本書では旅行記、という性質もあるのかもしれないが、気の置けない仲間たちと日本各地を歩く楽しさに満ち溢れている。今となっては一部の特別車両でしか楽しめない食堂車における痛飲の描写が多いのも、昭和の良き時代を想起させる。 -
Posted by 読むコレ
Yの時点で60越えのおじいちゃん主人公だったドルリー・レーンに、心ならずも温かい眼差しを送っていたものですが・・まさか、本作がその10年後になっていようとは(笑) もう、温かいを通り越して介護の視線でした。
ついでに相棒のサム警部も定年となっては、さしものクイーンも読者の視線を気にしたのか、突如サム警部の娘というにはいささか苦しいハタチの女の子、パットが現れ、しかも何と物語がパットの可愛らしい一人称で進むという・・もう、大変なことになってます。80年前の本ですよ・・これ。
肝心な物語。クイーンに老人をいたわろうなどという気持ちはないのか、物語の80%は追い詰められて苦しんでました。それを推理一本で切り込んで逆転していくところは流石。
が、前作までのような驚きがなかったのは残念でした。 -
Posted by 読むコレ
自分は正直言うと、古典ミステリは苦手です。特に、殺人事件を、関係者のインタビューによって解決していくタイプは苦手で、とてもページをめくらせる力があると思えない。クリスティもヴァン・ダインも、イマイチ積読から抜け出せないのはそういう理由からです。
本書も、スタートはその臭いが漂っていましたが、途中の裁判のシーンから劇的に変化し、指に力が込められるようになりました。ドルリー・レーンが痛快と思える推理を見せ始めたところからです。
結果として、自分的上位に入る本とはなりませんでしたが、古典を読むきっかけにはなりそうな気がしました。すでにYも積読済み。頑張ろう! -
Posted by 読むコレ
Xのときもそうですが、我慢して我慢して、ある種修行のような前半の黙読を経て辿り着いた後半戦の勢いと言ったらなんでしょう、この作家の特徴なんでしょうか。。しかも最後の結末と言ったら!偉そうに予想していた結末を完全に覆されて、ただただ唖然とするばかりでした・・面白かったです。
ただ、ここからはネタバレになりますが、このトリックはちょっとズルい気もしました。これを使えば、大抵の人は犯人をできてしまうでしょ。
また、この展開なら、もっと「Y」が犯人と思わせるギミックが多くあっても良かったのでは?あれ、死んだはずなのに・・まさか・・?的な疑心が生まれたら、もっと面白かったような気がします。
・・クイーンに向かって、何様だ、俺は。 -
Posted by ブクログ
朝刊に殺人をお知らせ申し上げます、という衝撃的な広告が載る。何かのパーティーだと思った村の人は、広告に載っていた家に実際に向かうが、その場で本物の殺人が起こる。大胆不敵な事件にミス・マープルが挑む。
さりげない会話の中に巧みに伏線をしのばせるのはクリスティーの得意技ではあるのですが、今回はそのさりげない会話が中盤に多すぎたようにも感じます。そのためにちょっと中だるみ感を感じてしまいました。
でもやっぱりそのしのばせ方は巧いの一言に尽きます。途中違和感を感じたところがあったのですが、それが最後のマープルの推理披露できっちりとそのモヤモヤが明かされた時の快感は、やはりクリスティー作品だから味わえるものなのだと思います。
もう一回問題のところを読み返してみると、ああなんでもっと深く考えなかったのか、と歯噛みしてしまうんだろうなあ。それが本格ミステリーを読む醍醐味でもあると思います。 -
Posted by ブクログ
ずいぶん前に読みかけたまま放っておいたので、前半部分はほぼ内容を忘れてしまった。
それでも、最初の3編(「味」「おとなしい兇器」「南から来た男」)はその饒舌な語り口とともに、なんとなくその内容を覚えている。特に「南から来た男」はその上手さに舌を巻き、なんとまぁ恐ろしい話だろう、と思うと同時になぜだか愉快になった記憶がある。
対して、中盤あたりに収録されている話はどうにも印象が薄く、語り口だけで引っ張っていたような気がする。
ダールの語りは上手い。しかしそれはいわゆる、淡々とした、いろいろなものをそぎ落としたタイプの上手さではないと、私は思う。
どちらかというと、ダールは「饒舌」に、「掻き立てる」ように書く作家という印象だ。「でしょう?」「まったくねぇ」「そうなんですよ」と身振り手振りを加えながら、的確に相槌を打ってくるイメージ。
だからといってわずらわしい感じはしないのだが、中盤ではどうもその「語り」だけで引っ張りすぎたような気がして、やや強引な印象ばかりが残っている。
この本を訳された田村さんの解説で、ダールを評した都築道夫さんの文章の引用がある。その中で都築さんは、ダールについて「アメリカ人にしては珍しくフェミニストではない」と書いている。
これに私は大いに「確かに」と思った。ダールの女性の書き方はは、なるほど辛辣なのだ。『オズワイルド叔父さん』などを読んでもそう思った。
都築さんはそれに対して「ダールという作家を女性はどう思うか、ちょっとうかがってみたいような気がする」と言われている。
私個人で言わせてもらうと、ダールはかなり好きな作家だ。クセがあって、いかがわしげで、それでいて鋭い。饒舌なのに油断も隙もない。この本も、タイトルからして皮肉たっぷりである。
で、私はダールのそういうところが好きなのである。笑。