小林秀雄のレビュー一覧
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普段使ってない脳みそを使って読んだ感じ、まさに筋トレというか脳トレ…!教育分野に関しても言及されていて、とくに素読教育の是非はわたしも賛成。初等教育の時点では子供たちはスポンジのように知識をスイスイ吸収していくので、九九だけと言わず、国語分野でも素読を入れるのは良いかもしれない。ちなみに教育に携わる者の給料が薄給なのはこの時代からだったのか…
p.115
小林 言葉と言うものを、主人はそれくらい信用していると言う、そのことなのです。言葉の組み合わせとか、発明とか、そういうことで新しい言葉の世界をまた作り出している。それがある新しい意味を持つことが価値ですね。それと同じように、数学者は、数というものが、言葉では無いのですか。詩人が言葉に対するような態度で数と言うものを持っているわけですね。
岡 言葉が五十音に基づいてあるとすれば、それに相当するものが数ですね。それから作られたものが言葉ですね。
小林 新しい数を作っていくわけですね。
岡 数というものがあるから、数字の言葉というものが作れるわけですね。
《読みたい本》
小林秀雄 ドストエフスキイの生活、本居宣長
プラトンの本
ドストエフスキー カラマーゾフの兄弟、罪と罰、白痴 -
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上巻に続く下巻。
「物学び」「やまとごころ」「もののあはれ」をキーワードとして、形式的な当時の学問世界や、中国から輸入された儒学への傾倒を批判。
師匠である賀茂真淵や、同時代の学者である上田秋成との論争についても触れられている。
ひとえに自分自身の経験不足からであるが、古事記や書紀(宣長は『日本書紀』という言い方を嫌う)にある神話世界が非常に重要であるということが、どうしてもはっきりとした納得性を持ってこない。
「文字」を持たなかった時代に人々によって「口伝」として語り継がれた神話こそ重く見るべき物語、というのは何となく理解できる。
しかしそれでもやはり文字の力は覆せない、と若輩者は思ってしまう。
また、ものごとをそのまま感じる「自然主義」よりも、科学や現実と言った「理屈」に偏るのは、いつの時代も変わらない課題のようだが、現代は特にそうだと思う。
その中で、ありのままを見て信じることは難しいことだと感じた。
一神教と多神教、日本と西洋における自然主義の違い、言葉と文字、信じる力など、色々頭に去来する読書体験であった。
小林秀雄の書き方が、私にはいただけない。
「そう言っていいと思う」、「そう考えるしかない」など、自分自身を無理やり納得させているような語尾。
押しも押されもせぬ歴史的な批評家に何を言えるものでもないが、残念ながら今の自分の年齢にはまだ感じとれぬものがあるようであった。 -
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2015年の著作。日経BP社の「ITPro」に連載されていた「新人D太と先輩M子のITのビジネス日誌」を再構成したもの。
01.IoT
02.磁気テープ
03.センサー
04.CDO
05.データサイエンティスト
06.DMBOK
07.ドローン
08.BI/BA
09.予防保守
10.量子コンピュータ
11.顔認証
12.クラウド型セキュリティソリューション
13.CSMS/EDSA
14.CSIRT
15.シャドーIT
16.水飲み場型攻撃
17.BYOD/CYOD
18.リスト型攻撃
19.インターネットバンキング
20.ウエアラブル端末
21.オンラインストレージ
22.O2O
23.SDN
24.M2M
25.SIMフリー
26.デジタルサイネージ
27.テレビ会議
28.ネットワークカメラ
29.BLEビーコン
30.無線LAN
31.OpenStack
32.仮想デスクトップ
33.拡張現実
34.クラウド型PBX
35.データ仮想化
36.DaaS
37.ユニファイドコミュニケーション
38.クラウドファウンディング
39.健康経営
40.コード・フォーX
41.CITP
42.ストレスチェック制度
43.オープンデータ
44.スマートシティ
45.テレワーク
46.農業クラウド
47.ハッカソン
48.マイナンバー -
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高校生の頃買った本.小林秀雄は教科書にものっていたし,大学入試でも定番だったから,読もうとしたのだろう.その当時の私には読めなかっただろうと思うが.
さて,長い年月を経て「モオツァルト」「徒然草」「無常という事」「骨董」「真贋」を読む.
さすがに「モオツァルト」はいいたい事はよくわかる.しかしなんとも音楽の聞こえてこない評論.音楽そのものではなく音楽から引き起こされる文学的な感興を文章にしたような感じ.むしろ小林秀雄の興味は音楽そのものよりも,モオツァルトという人間にあるといった方がよいかも.
また,読みながら始終,もっとわかりやすい表現があるだろ,とか思ってしまう.つねに伝えたい内容に対して,文章が過剰なように私には思える.こういうのを知的でカッコいいと思う人もいるんだろうが.
「無常という事」は残念ながら私には初めの古文の意味が完全にはわからない.全体の意味も正直なところはっきりわかったとは言いがたい.こういうのが大学入試に出るとホントに困る.
「骨董」「真贋」はエッセイ.わたしにはちょっとペダンティックにすぎ,まったく楽しめなかった.
読み残したものたちは,古典,日本美術の教養のない私にはちょっと近寄りがたい. -
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小林秀雄の「本居宣長」、やっと上下巻を読み終える。とは云っても、新潮文庫のこの下巻のうち、付録としてついていた「補記Ⅰ」、「補記Ⅱ」はパスした上でのことだが・・・・。なんせ少し古文体を読むのに疲れてしまったというのが理由。情けないね。
さて、この「本居宣長」、小林秀雄が11年半をかけて書いた、まさに畢生の大作と云っていいのだろう。若い時分に宣長の「古事記伝」を読んだ感動をずっと暖め、30年後にこうした成果で結実したということのよう。古事記や万葉集はもちろんのこと、契沖、賀茂真淵、荻生徂徠、中江藤樹、上田秋成ら古学者の古典、書き物にはほとんど眼を通した上での執筆というから、その膨大な裾野の上にこの本ができているということには感嘆以外のなにものでもない。彼らの書からの引用が多々引かれているわけだが、いわば本書における登場人物のような役割を演じており、それらの人物を通じて宣長の人物像、思想が浮かび上がっているというところだろうか。
「よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也 -わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」(紫文要領)と。そしてその極め付けが、かの「源氏物語」だという。宣長、これを評して曰く「やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみはあらじとぞおぼゆる」のだと。宣長は、源氏物語にせよ古事記にせよ、「さかしら(今の世に一般的な定見や理屈)」で観たり読んだりするのではなく、その古代の時代に生きた人々と同じ眼の高さで、自然そのままに、その書いてあるところを読む、これが大事なのだということを強く主張する。だからこそ世の学者からは異端視されてしまうのだが、孤高とも云うべき姿勢を決して崩すことはなかったのだという。このあたりの小林秀雄の書きっぷりは、静かに淡々と続くのだが、その言葉の連なりの中には宣長への熱い気持ちが息づいているとも云える。著者の晩年をかけた熱い思いが滲み出た作品と云っていいのだろう。それにしても古典をこうして読みこなし書をものにできる情熱が素晴らしい。
ほとんど偶然なのだが、ずっと以前に予約していた現代語訳の「古事記」が借りれることになり、明日から頁を開くことになるのが、不思議な縁とでも云えようか。リンボウ先生の「謹訳源氏物語」もそうだが、現代語訳版というところが、小林秀雄とは月とスッポンであることを証明してしまったことにはなるのだが・・・・・。 -
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星三つというのはきちんとした評価ではない。
時系列に沿って読もうと『Xへの手紙〜』から手に取ったのだが、さっぱりで終わった(笑)
で、こちらは何とか読みきれたと言うに相応しい。
共感を得られたならば『人間の建設』を読んで欲しい。こちらは対談集なのに、シンプルな筋が通っていて「面白い」まで達することができるはず。
芸術という括りで文学に留まらず音楽、絵画、骨董、建築……幅広く伸びる腕が羨ましい。
とにかく、頭を使う。言葉としては分かるけれど、相手を理解したことにならなかった。
小林秀雄の批評のスタンスから言えば、舞台にも立っていないことになるのだろう。
それは時代の相違と言ってしまえば簡単だ、けれどそこまでの苦悩や孤独を得ない人間には分かっても分からない何かが在るように思う。
モーツァルトの感じた美と、それを受容する肉体の哀しさ・限界がそれだ。
その摩擦に耐えられず、人間は破壊をもたらすのならば、我々はそうしたものを捨てなければ安全には生きていけない。
けれどまた憧れ、崇拝する自然な心も存在する。
大きな意味では宗教を失った現代日本において、解釈のない美を我々は受容し易くなったのかもしれない。
けれどまた、受容するだけで意味を為さない鈍さにも囚われてしまっているのではないか。
アンテナを磨く為の一冊になった。 -
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批評家、文筆家として有名な小林秀雄と、
歴史に名を残す数学者・岡潔の対談本です。
昭和40年(1965年)のものだということです。
冒頭から、ピカソやアインシュタインを引き合いに出しながら
話は進んでいきます。
「無明」をちゃんと分かっている方が良いんだという流れになります。
無明って、僕は「救いのない」ことなのだろうと読んでいたのですが、
言葉の意味を間違えていたようで、パソコンの広辞苑を開くと、
「一切の迷妄・煩悩ぼんのうの根源。三惑の一つ。」などと書かれていたりする。
となると、話は全然違ってくる。
自分の愚かしさを知っておいた方が良いというような意味にとらえられますね、
彼らの、とくに岡さんの主張は。
そういったところから、
今度は「情緒」とか「情」とか呼ぶもののことについて
話は進んでいきます。
面白いですよね、文士の小林さんと数学者の岡さんの話がまじわるところというのが、
そういう部分になるんですよ。つまり「心」ですね。
分野は違えど、心というものに対する考え方は似通っていて、
そして、互いに自身の人生の中で心を磨いてきていた。
そして、その「心」関する考察や、彼らの心のあり方っていうのは、
十全に現代に通じるのです。
古いとか新しいとかではない、不易(真理)がここにあるのかもしれない。
とかなんとか、なかなか感想が書きにくい本ではあります。
なにせ、難しいです。
ただ、解説に茂木健一郎さんが書いているように、
読んでいると、自分の頭が良くなるような感じもしますね。
クリアになることもあるし、ヴィジョンが開けるところもある。
じっくりと思索したい人、思索が好きな人には
おすすめの本です。 -
Posted by ブクログ
批評って元々よくわからないんだけど、ますますわからない。
突き放したような書きぶりだと思ったら、急に個人的な印象の話になる。そうかと思えばまた一般論に戻る。
そういう、立ち位置やテーマとの距離感が次々と変わっていくようでどんなスタンスで読み進めていいのかわからない。そんな書きぶりに振り回されているううちになんだかわからないまま終わってしまった。
正直、小林秀雄がどれだけすごいのかわからなかった。これだけ評価されているのだから間違いなく何かがあって、それを読み取れなかったんだろうな、とは思うんだけど。もっと知ってもっと考えないといかん、てことだろうか。