小林秀雄のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
美しい文章という定義付けは難しいだろう。
たとえばノーベル文学賞に輝くアーネスト・ヘミングウェイの骨太ながらも。危いまでに繊細な心の陰影をのぞかせる文脈とか、妖しく美しくあることが、まるで運命づけられたようにしなやかに律動する川端康成の筆のすさびなどは、その最右翼と目してもよいだろう。
この本の表題にあるモオツァルトとは、あの18世紀に登場した天才的作曲家のことである。僕はミロス・フォアマンの映画でしか知らないが、この小林の書き残した評伝には間違いなくあの映画で描かれた天才が息づいている。それよりも並々ならぬ著者の洞察力と、その見識の水準のとてつもない高さに、ただただ脱帽するしかないという面持ちにさせられるのだ。
あとがきを見ると著者は太平洋戦争の賛同者であったらしい、この小論が書かれたのが昭和二十一年
なにかにとりつかれた如く、この西洋の悪魔的魅力を持った天才児について、愛していたというよりは
土砂降りの雨中、裏切られた親友を殴るような勢いで書き連ねていくのだ。あたかも、それは彼の魂を悪魔と引き換えにやり遂げたといった風情なのだ。
全編読み終えると、まったくシンフォニーについて知らなくても、この文が長い時間をかけ刻苦の末に創造し完成た賜物であるのではなかろうかと感じる。
読み返すと、今度はモオツァルトが歌劇にて指揮する姿を想像し18世紀の世界に誘ってくれるのだ。そう、この不世出の天才音楽家と邂逅するような錯覚におちいるのだ。
全編美しい旋律を奏でるが如く、耳の心地よい、
これは掛け値なしに、日本の生んだ昭和の英知によるたぐい稀な美しい文だと思えるのだ。
思い出したが、開高健のエッセイでモオツァルトが過度のスカトロジーであったということをきいたことがある。さすがにこの評伝ではそのことには触れていない。
このことを、モオツァルトに関する遺存する膨大な資料を原文で読み下した小林秀雄が知らなかいわけはなかっただろう。これは蛇足でした。
-
Posted by ブクログ
小林秀雄は多くの作家の作品を読み、毎月雑誌に文芸時評を出稿していたが、「30歳にして隠居した」と宣言し「時評家」であることをやめた。
これは彼のその頃の批評家論である。
自分の「書評を書く」ことについて、これほど基本から原理・原則・応用までを教えられたことはない。
20年前から濫読を始め、数年前から書評を書く。
その数年間の無手勝流の試行で溜まった問題意識に存分に応えてくれる。この論考はこうした行為を確信させ鼓舞するものと読めた。
小林秀雄は以前からよく読んだ。
本質を抉る思考の深さと文体の潔さに痺れる。
予期しない角度から覚醒させる表現の連なりと、
バッサリ論断する鮮やかな文章に脳が解される。
どこからこんな空気を生み出すのか‥‥。
しかし、それは既存の情調レベルの話だ。
この『批評家失格』という初期論考集は、更に
そもそもの言語や言葉や文章、小説や文章を読むことと批評を書くこと、作者や作品と読む自分との決着の付け方、批評と評論・・・・切実な諸々を思考し惜しみなく吐露する。
読むことは書くことだ、書くならこんな深度で書け、自分に詰め寄り、電流となって脳を穿つ。
「批評とは人をほめる技術だ、‥‥その人をその人たらしめている所以、平たく言えばその人の持って生まれた星や気質を素早く見ぬき、熟視することを言うのである。‥‥なぜ相手をほめたのか。自分を知るためにである、自分を知って自分の生き方を模索するためにである。」
当時小林秀雄はマルクス思想が日本に上陸し多くの文学者がプロレタリア文学に靡くなか、受容はするがそれには一線を画して冷静に文学のあり方を求めた。
群れることなく一人で考え、その姿勢を貫いた。
「社会的立場から小説を読んで、左翼であるか右翼であるかばかりしか見えぬならば、読まぬ方がましである。文学的立場から小説を読んで心理派か理知派かと心配になるようなら、読むだけ無益である。
どんな立場から文学を眺めようが、立場を意識しなければものがいえない以上、眼前には依然たる文学という仮面だけがある。重要な事は、立場を捨てる事だ。捨て切れた時、はじめて理想が人を捕らえるであろう。そして確かに理想に捕らえられるものは人間ならば、人間を捕らえた理想は、各人の独創となって現れるはずではないか。」
-
Posted by ブクログ
小林秀雄の『Xへの手紙』『私小説論』を読んだ。私小説論の方は、マルクス主義文学批評の時代背景がかなり色濃く出ていて、それへの反論として読むことももちろんできるが、いわゆる純文学というものが結局は民衆から乖離しては存立し得ないこと、またジイドによる試みが文学の客観性への疑いから次第に文学の成立過程そのものを自己言及的に題材とすることで延命を図ったが、それが次第にどん詰まりに陥ったこと、また通俗小説と純文学との関係など、文学を取り巻く状況はこの時代からあまり進歩していないように感じる。マルクス主義がポストコロニアリズムとなりフェミニズムとなり変わっても、結局他者と個人主義、社会と個人をめぐる問題の変装が繰り返されているように思う。そもそも現代においての私小説とはなんなのだろう。芥川賞に載るようなものは、形式として新たなものを発明できているようには見えないが、むしろライトノベルなどの大衆小説の側にこそ一種の革新性が見られるように思う。ドストエフスキーのリアリズムについても示唆的だった。単一の価値観による解釈としての事件ではなく、多元的な価値観の相の下に析出されるものとしての事件という言葉は、そのままバフチンの言葉と言っても疑いえないほどの達見のように思える。
-
Posted by ブクログ
ランボウの詩集ですね。
訳は、小林秀雄さん。
初版は1938年。復刻版です。
ランボウの代表作であり、最後の作品ですね。
散文詩が主です。
「錯乱 Ⅱ 」
夏、朝の四時、
愛の睡りはまださめぬ、
小立には、
祭の夜の臭いが立ちまよう。
向こうの、広い仕事場で、
エスペリードの陽をうけて、
もう『大工ら』は
肌着一枚で働いている。
苔むした『無人の境』に、黙りこくって、
勿体ぶった邸宅を、大工らは組んでいる、
街はやがてその上を、
偽の空で塗り潰そう。
ヴィナスよ、可愛い『職人ども』のために、
バビロンの王の家来たちのために、
暫くは心驕った『愛人たち』を、
離れて来てはくれまいか。
ああ、『殺人たちの女王様』、
大工の強い腕節が、真昼の海の水浴を、
心静かに待つようにと、
酒をはこんで来てくれまいか。
『出 発』
見飽きた。夢は、どんな風にでも在る。
持ち飽きた。開けても暮れても、いつみても、
街々の喧噪だ。
知り飽きた。差し押さえをくらった命。
ーーああ、『たわ言』と『まぼろし』の群れ。
出発だ。新しい情と響きとへ。
「海 景」
銀(しろがね)と銅(あかがね)の車ーー
鋼と銀の船首がーー
泡を打ち、ーー
茨を根元から掘り起す。
曠野の潮流と
引潮の巨大な轍は、
ぐるぐる廻り、流れ去る、東の方へ、
森の列柱の方へ、ーー
波止場の幹材の方へ、
その角は光の旋風に衝突する。
周知のように、この作品はランボウの文学への絶縁状であり、若き天才の圧縮された文学的生涯のすべてが結晶されています。
小林秀雄さんの名訳で、堪能しました(=゚ω゚=) -
Posted by ブクログ
藍色の海峡からオシアンの海にまで、葡萄酒色の空に薄くいろどられた薔薇色とオレンジ色の砂のうえに、幾筋もの水晶の大通りが高まり交叉すると、時を移さず年若く貧しい家族が住みついて、果物屋で命を保つ。豊かなものは何ひとつない。
詩集にはランボオの生い立ち、人生についての記載が沢山あり、解説者もランボオの人生と織り交ぜながら詩を解説しているのに最後のページで村上龍がランボオの人生とこの作品は全く関係ない。暇な日本人が作品と作者の生き方を重ねるというセンチメンタルな愚を犯すのが大好きなだけ。と書いてあって笑ってしまった、きっと深い意味はなくその通りなんだろうな。