Posted by ブクログ
2009年10月04日
美しい文章という定義付けは難しいだろう。
たとえばノーベル文学賞に輝くアーネスト・ヘミングウェイの骨太ながらも。危いまでに繊細な心の陰影をのぞかせる文脈とか、妖しく美しくあることが、まるで運命づけられたようにしなやかに律動する川端康成の筆のすさびなどは、その最右翼と目してもよいだろう。
この本の表...続きを読む題にあるモオツァルトとは、あの18世紀に登場した天才的作曲家のことである。僕はミロス・フォアマンの映画でしか知らないが、この小林の書き残した評伝には間違いなくあの映画で描かれた天才が息づいている。それよりも並々ならぬ著者の洞察力と、その見識の水準のとてつもない高さに、ただただ脱帽するしかないという面持ちにさせられるのだ。
あとがきを見ると著者は太平洋戦争の賛同者であったらしい、この小論が書かれたのが昭和二十一年
なにかにとりつかれた如く、この西洋の悪魔的魅力を持った天才児について、愛していたというよりは
土砂降りの雨中、裏切られた親友を殴るような勢いで書き連ねていくのだ。あたかも、それは彼の魂を悪魔と引き換えにやり遂げたといった風情なのだ。
全編読み終えると、まったくシンフォニーについて知らなくても、この文が長い時間をかけ刻苦の末に創造し完成た賜物であるのではなかろうかと感じる。
読み返すと、今度はモオツァルトが歌劇にて指揮する姿を想像し18世紀の世界に誘ってくれるのだ。そう、この不世出の天才音楽家と邂逅するような錯覚におちいるのだ。
全編美しい旋律を奏でるが如く、耳の心地よい、
これは掛け値なしに、日本の生んだ昭和の英知によるたぐい稀な美しい文だと思えるのだ。
思い出したが、開高健のエッセイでモオツァルトが過度のスカトロジーであったということをきいたことがある。さすがにこの評伝ではそのことには触れていない。
このことを、モオツァルトに関する遺存する膨大な資料を原文で読み下した小林秀雄が知らなかいわけはなかっただろう。これは蛇足でした。