小林秀雄のレビュー一覧
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「〔岡〕昔の(日本の)国家主義や軍国主義は、それ自体は、間違っていても教育としては自我を抑止していました。だから今の個人主義が間違っている。自己中心に考えるということを個人の尊厳だなどと教えないで、そこを直してほしい。
《中略》 神風の恐しさは見たものでなければわからない《中略》ものすごい死に方をしている。」(p.119)
「〔岡〕私は日本人の長所の一つは、《中略》神風のごとく死ねることだと思います。《中略》 あれができる民族でなければ、世界の滅亡を防ぎ止めることはできないとまで思うのです。」(p.139)
「〔小林〕特攻隊というと、批評家はたいへん観念的に批判しますね。悪い政治の犠牲者という公式を使って。特攻隊で飛び立つときの青年の心持になってみるという想像力は省略するのです。」(p.140)
批評家・小林秀雄と数学者・岡潔の対談。
話題が広範に渡り、無限の知の泉が2つ湧いているかの如く。
岡氏の専門である数学と物理学との関係、ベルクソンと時間概念に焦点を当てた哲学議論、ピカソやゴッホなどの絵画芸術 、ドストエフスキーとトルストイに関するキリスト教とロシア文学論、など。
哲学史や美術史から物理学の簡単な解説まであり、登場人物も多いので、手元に置いておくと、ちょっとした「大人の百科事典」のように使えそうだ。
その中で特に印象的だったものを、ここの冒頭に引用した。
戦後の個人主義とそれを基礎とした教育制度についての問題提議である。
個人主義の反対概念として、特攻のような「自己を捧げる」行動については、バーリンやラインホールド・ニーバーが主張した「(宗教道徳に基づく)自己犠牲の精神」と通ずるものがある。
また、「特攻ができる日本人でなければ、世界の滅亡を防ぐことはできない」という岡氏の言葉は、タルコフスキー監督の映画『ノスタルジア』を想起させた。
世界を救うために自らの命を擲つ2人の男性の物語だ。
近代思想のメインストリームである単純な個人主義礼賛・全体主義批判では、特攻とは若者の未来を奪う許されざる戦法と批判される。
現代の日本では、自分も含めて、そういうパターンがどこかに染みついているが、それは思考停止でもある。
それをずばり指摘した小林氏の、「悪い政治の犠牲者という公式を使って」と言う言葉は、あまりに核心をついている。
この対談の当時、両氏のように問題提議する賢人がいたことは、社会の財産であったと感じた。
「自己犠牲」というテーマは今後さらに掘り下げたい。
この本はたまたま飲みつつ読んだが、知的な肴のおかげで大変良い時間を過ごせた。
茂木健一郎は解説で、本書について、「声に出して読みたい対話」「音楽に似ている」と語っていたが、飲酒で程よく脱力した脳にすっと吸収するような読み方も悪くなかった。
そのような体験を提供してくれる読書は素晴らしい。
酒の肴になるような、知性溢れる本が他にも無いものか、と探してみたくなった。
蛇足であるが読書メモとして、
去年読んだ小林秀雄の『本居宣長』は「失敗作」という評判であることを読後に知ったのだが、本著で小林氏が『本居宣長』執筆のくだりから、
「この頃、仕事をしていて、とんでもない失敗をするかもしれないなと、いつでも思う」
と自ら予告しているのには思わず吹いた。
作家の永井龍男と小林秀雄が友人同士、ということも知り、洒落た2人にもほのぼのした。 -
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ネタバレ友人に勧められて。
小林
…誰でもめいめいがみんな自分の歴史をもっている。オギャアと生れてからの歴史は、どうしたって背負っているのです。伝統を否定しようと、民族を否定しようとかまわない。やっぱり記憶がよみがえるということがあるのです。記憶が勝手によみがえるのですからね、これはどうしようもないのです。これが私になんらかの感動を与えたりするということもまた、私の意志ではないのです、記憶がやるんです。記憶が幼時のなつかしさに連れていくのです。言葉が発生する原始状態は、誰の心のなかにも、どんな文明人の精神のなかにも持続している。そこに立ちかえることを、芭蕉は不易と読んだのではないかと思います。(p.133)
ベルクソンの「物質と記憶」にその後言及。 -
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知や意思はいかに説明しても、情は納得しない。直観(感情の満足・不満足)なしに情熱は持てない。裏打ちのないのを抽象的という。しばらくはできても、足が大地をはなれて飛び上がっているようなもので、第二歩を出すことができない。
欧米人の指導層には小我をもって自己と考える欠点がある。日本人の長所の一つは神風のごとく死ねること。あれができる民族でなければ、世界の滅亡を防ぎとめることはできない。無明がはたらいているから、真の無差別智、つまり純粋直観がはたらかない。欧米人の特徴は目は見えないが、からだを使うことができる。目を閉じて、からだはむやみに動きまわっている。いつ谷底に落ちるかわからない。日本がすべきことはからだを動かさず、じっと坐りこんで、目を開いて何もしないこと。
奈良の博物館。正倉院。破れたきれの展示を丹念に長い間見た後に、外へ出てみると、どの松を見てもいい枝ぶりをしている。自然は何を見ても美しい。
自然科学の世界(例:相対性理論の時間・空間)は自然言語では説明できない。言葉にならない。数学言語が必要になる。
数学は印象でやるもので記憶はかえって邪魔になる。
おか・きよし 岡潔
『人間の建設』1965 -
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読んでみたいと思いながら、後回しにしていた小林秀雄。
没後40年にあたり、初めて手にした。
学生時代に中原中也を好んで読んでいた頃の印象で、小林秀雄を「中也と女性を奪い合った」というエピソードでのみ歴史に登場する人物、と長らく思っていたが、違った。
さて、本書『本居宣長』だが、そのスコープは、本居宣長が信じた「学ぶ力」「もののあはれ」「やまとごころ」にあると見える。
江戸初期の林羅山から始まる当時の官学=朱子学=漢学をメインストリーム或いは「実用」とするならば、宣長はそこへ「理想」というコンセプトを持って学を提案する。
儒教のような「海外の教え」を重宝がるばかりで、何故日本の心を学ばないのか、と宣長は問う。
和歌の名作の含蓄を真似て作るのは容易であるが、言葉を真似る方が難しい。
古典の解釈ばかりでなく、今の心をそのまま表すことが肝要、、
彼はひたすら、長いものに巻かれることを拒否しているようだ。
本居宣長という人は、歌人という肩書でありながら、現代にも通じる政治思想を形成した人物だと聞く。
下巻の展開が楽しみだ。
一つ自分自身へのメモとして。
小林秀雄の主張は時折非常に観念的で、かつ詳細にわたり、どちらとも取れるような解釈や、そうとは言い切れないようなことなど、細い糸の上すれすれを歩くような感覚になる。
勿論名著に違いはないのだが、この一冊だけを読んでいる間に、その深度故に、やや視界が狭まる感覚を覚えた。
西洋思想に比較すると、言葉への拘りは日本独特のものと思われる。
自国の思想史を学ぶことは尊いものだが、一方他国に広くある視点から離れすぎることには、やや危機感がある。
自分は特定分野の研究者などではないため、同時に二冊以上の本を並行して読むなどして視点のバランスを保っていくことは必要だと、改めて認識した。
勿論名著には違いないが。 -
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小林秀雄は、ちょっとわかりづらいというか、難しいと感じました。
何度も目をとおしたのですが、なかなか、頭にはいってこない。
書きおろしっぽくて、並びも、自由というか、話の一つ一つが、中で完結していて、連携が薄いと感じました。
気になったことは以下です。
・常識を守ることは難しいのである。文明がやたらに専門家を要求しているからだ。私たち常識人は、専門的知識に、おどかされ通して、気が弱くなっている。私のように、常識の健全性を、専門家に確かめてもうらうというような面白くない事にもなる。
・常識がなければ、私たちは一日も生きられない。だから、みんな常識は働かせているわけだ。併し、その常識の働きが利く範囲なり世界なりが、現代ではどういう事になっているかを考えてみるのがよい。常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。
・政治は普通思われているように、思想の関係で成り立つものではない。力の関係で成り立つ。
・政治の地獄をつぶさに経験したプラトンは、政治への関心とは言葉への関心とは違うと繰り返しいうだろう。政治とは、巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではありえない。
・戦後、文段というものが崩壊して、分子という民主的職業人が、氾濫するに至った。
・嘘をつく、つかぬということは、良心の複雑な働きの中のほんの一つの働きにすぎない。嘘はつかなくても、悪いことはできる。
・現代の合理主義的風潮に乗じて、物を考える人々の考え方を観察していると、どうやら、能率的に考えることが、合理的に考えることだと思い違いしているように思われる。
・本居宣長に、「姿ハ似セガタク、意ハ似セヤスシ」という言葉がある。言葉は真似し難いが、意味は真似しやすいというのである。
・宣長は、「歌は言辞の道なり」という。歌は言葉の働きの根本の法則をおのずから明らかにしている。という意味である。
・宣長は、理より情を重んじ、人為より自然を重んじた。
・大衆が、信じられないほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返されなければならない。それも、紋切型の文句で耳にたこができるほど言わねばならない。ただし、大衆の眼を、特定の敵に集中させておいての上だ。
・いまでも「平家物語」は折に触れて読むが、「源氏物語」となるとどうも億劫である。名作には違いないが、「源氏物語」のあの綿密な心理の世界には、何か私を息苦しくするものがある。
・ブルタルコスによれば、クレオパトラという女は決してパスカルが心配した意味での美人ではななかったそうである。その代わり、語学の天才で、土俗の言葉に至るまで自由に操り、非常な美声でその言葉には抗しがたい魅力があったという。
・歴史を鏡とよぶ発想は、鏡の発明とともに古いように想像される。歴史の鏡に映る見ず知らずの幾多の人間たちに、己の姿を観ずることができなければ、どうして歴史が私たちに親しかろう。
・ペリクレスの観察によれば、アテネが豊になればなるほど、人心の腐敗も豊になるということだった。
・「学問のすゝめ」の中に、「怨望の人間に害あるを論ず」という一昌があるが、福沢の鋭い分析的な観察はよく現れている。人間品性の不徳を語る言葉の種類は、実に沢山あるが、その内容をなす人心の動きに着目すれば、その強弱、方向に由って、間髪を入れず徳を語る言葉に転ずる
日本の古い舞踊は、すべて、文学的なもの、あるいは、戯曲的なものの重荷を負いすぎている。と感じている。
目次
考えるヒント
常識
プラトンの「国家」
井伏君の「貸間あり」
読者
漫画
良心
歴史
言葉
役者
ヒットラーと悪魔
平家物語
ブルターク英雄伝
福沢諭吉
四季
人形
樅の木
天の橋立
お月見
李
踊り
スランプ
さくら
批評
見物人
青年と老年
花見
ネヴァ河
ソヴェットの旅
ISBN:9784167107017
出版社:文藝春秋
判型:文庫
ページ数:224ページ
定価:429円(本体)
発行年月日:1974年06月25日第1刷
発行年月日:2001年10月20日第44刷 -
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剣道で何回打ち込んでも軽く否され、鮮やかな一本を返される、そんな心境だ。この本を読んだのが3回目か4回目、正確には何度目か覚えていない。いつも、ドフトエスキーが新婚旅行で癲癇を起こしながら借金に追われて博打に狂う場面で「そうだそうだ、こんな酷い無茶苦茶な奴だったんだドフトエスキーは」と前に読んだことを思い出す。回を重ねる毎に彼の小説を書くことへの拘りと創作の経緯が伝わってくる。初めの頃は、何が何だかわからず、遠くて寒いロシアの活劇でも見させられているような気持ちになり、途中で読むのをやめた覚えがある。彼の人生の振幅の激しさと小林の難しい解説に自分の思考力と気持ちがついていけず否された、そして読み続けることを諦めた、そんなことが何度かあった。今回はじっくり読んでドフトエスキーの根暗で弱い生き様と強靭な創作への意志に少しの納得と親しみが湧いてきた。読む度に評論家小林を経た小説家ドフトエスキーへの理解が深まっているような気がする。その間いろいろなものを読んできた自分の眼が本物の評論家が描く文章や表現により不世出の作家の本質に迫り共感できるようになってきたと思いたい。ドフトエスキーの創造欲の核心発掘に‥‥。監獄や流刑地での恐怖と焦燥・諦念・苦悩、借金と賭博そして癲癇と恋愛、濃密な描写の分析が正鵠を得ている、表現も無駄なく視点や切り口が斬新で創り上げる世界の凄さには息をのむ、相変わらずだ。偉大な小説家に評論で戦いを挑む捨て身の覚悟が滲む、評論というのはこれ程迫力のあるものか。ドフトエスキーの人生の軌跡を辿りそこに仮託して己れの透徹した思考で生きることの意味を究明する、それを読者に焼き付けていく、流石に小林秀雄である。
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印象に残ったこと
・歴史について
現在の学校教育では、何年に何が起きたかを暗記することで点数が得られる形式をとっていると思う。
私自身も歴史は暗記するものであるという認識があったが、小林秀雄が述べた「歴史とは上手に思い出すこと」という言葉に感銘を受けた。出来事を客観的に追っていくだけでなく、当事者の立場に立ち、彼らが感じたことや思ったことを自らのことのように想像することで、彼らの喜びや悲しみに共鳴することに趣があるのかと納得した。
これは過去の人物に対してだけでなく、実在の他人に対しても、同様に想像することが重要であると感じた。
また、クラシック音楽を嗜む身としては、音から作曲者のまざまざとした人間像までを想像できるよう取り組もうと思った。
・科学について
私は学生時代に物理をやり、一般的かつ論理的に考えることこそが正義だという固定観念に縛られていた。
そのため、根拠のない超常現象や迷信の類には全くの無関心であった。
しかし、個々人が実際に経験した具体的実体験にも目を向けることが重要であることを学んだ。
なぜなら、科学はある単位系の中で、客観的な事実を扱っているだけである、つまりは狭い定義の中で現実の事象を記述しているに過ぎないということだ。
限定的なものさしだけで世界を見て、わかった気でいることは恥ずかしいことだなと思った。
どんなに信じられなくても、根拠が見当たらないとしても、各々が経験した事実としてまずは受け取ろうと思った。
・近現代の教育について
「先生が隠した答えを見つけさせるのが現在の教育」、深く共感した。
現実を生き抜く上で問いを見つけることの重要さと難しさは、社会人になり強く実感している。
うまく問うことを心に留め、自問自答や対話を大切にし、現実と向き合っていきたい。
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本書の奥付を見ると昭和48年3月発行、49年かかって読み終えた。それほど小林秀雄という山は険しいのだ。しかし、「Xへの手紙」は面白い。人間論、政治論、そして恋愛論、若き小林の生の声を聞くようだ。長谷川泰子との凄まじい恋愛がベースにあると仄聞するが、こんなところに表出している。「俺の考えによれば一般に女が自分を女だと思っている程、男は自分を男だとは思っていない。この事情は様々の形で現れるがあらゆる男女関係の核心に存する。惚れるというのは言わばこの世の人間の代りに男と女とがいるという事を了解する事だ。女は俺にただ男でいろと要求する、俺はこの要求にどきんとする。」
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初めて小林秀雄の著作を読み、勝手に想像していたより内容がとっつきやすいことに驚いた。少し調べると、彼の評論の姿勢・内容に対する批判を見たが、そう言いたくなるのも理解できると思った。一方で、そうだそうだ!と私がならないのは、読んでいて彼の文章に「友達らしさ」を感じてしまったからだと思う。
坂口安吾の「教祖の文学-小林秀雄論-」を青空文庫で読んだ。小林秀雄に対する批判は真っ当だなと思う笑
いくつか、そうだなと思ったところを抜粋する。
・私は然しかういふ気の利いたやうな言ひ方は好きでない。本当は言葉の遊びぢやないか。....美しい「花」がある。「花」の美しさといふものはない、といふ表現は、人は多いが人は少いとは違つて、これはこれで意味に即してもゐるのだけれども、然し小林に曖昧さを弄ぶ性癖があり、気のきいた表現に自ら思ひこんで取り澄してゐる態度が根柢にある
・あげくの果に、小林はちかごろ奥義を極めてしまつたから...小林秀雄も教祖になつた
・人間は何をやりだすか分らんから、文学があるのぢやないか。歴史の必然などといふ、人間の必然、そんなもので割り切れたり、鑑賞に堪へたりできるものなら、文学などの必要はないのだ。だから小林はその魂の根本に於いて、文学とは完全に縁が切れてゐる。そのくせ文学の奥義をあみだし、一宗の教祖となる、これ実に邪教である
・彼はもう文学を鑑賞し詩人を解するだけだ。歴史の必然とか人間の必然といふ自分勝手な角度によつて、彼はもう文学や詩人と争ひ、格闘することがないのである。争ふとか格闘するといふことは、自分を偶然の方へ賭けることだから、彼はもう偶然などは俺にはいらないといふ悟りをひらいてゐるのだ
・思想や意見によつて動かされるといふことのない見えすぎる目。そんな目は節穴みたいなもので物の死相しか見てゐやしない。つまり小林の必然といふ化け物だけしか見えやしない。平家物語の作者が見たといふ月、ボンクラの目に見えやしないと小林がいふそんな月が一体そんなステキな月か。平家物語なんてものが第一級の文学だなんて、バカも休み休み言ひたまへ。あんなものに心の動かぬ我々が罰が当つてゐるのだとは阿呆らしい
・文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるといふことは必ずしも行ふといふことでなくともよいかも知れぬ。書斎の中に閉ぢこもつてゐてもよい。然し作家はともかく生きる人間の退ッ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚づつはぎとつて行く苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌ひだすのでなければダメだ。生きる人間を締めだした文学などがあるものではない
・人間孤独の相などとは、きまりきつたこと、当りまへすぎる事、そんなものは屁でもない。そんなものこそ特別意識する必要はない。さうにきまりきつてゐるのだから。仮面をぬぎ裸になつた近代が毒に当てられて罰が当つてゐるのではなく、人間孤独の相などといふものをほじくりだして深刻めかしてゐる小林秀雄の方が毒にあてられ罰が当つてゐるのだ。自分といふ人間は他にかけがへのない人間であり、死ねばなくなる人間なのだから、自分の人生を精いつぱい、より良く、工夫をこらして生きなければならぬ。人間一般、永遠なる人間、そんなものゝ肖像によつて間に合はせたり、まぎらしたりはできないもので、単純明快、より良く生きるほかに、何物もありやしない
・文学も思想も宗教も文化一般、根はそれだけのものであり、人生の主題眼目は常にたゞ自分が生きるといふことだけだ。良く見える目、そして良く人間が見え、見えすぎたといふ兼好法師はどんな人間を見たといふのだ。自分といふ人間が見えなければ、人間がどんなに見えすぎたつて何も見てゐやしないのだ。自分の人生への理想と悲願と努力といふものが見えなければ
・人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ。なぜなら、死んでなくなつてしまふのだから。自分一人だけがさうなんだから。銘々がさういふ自分を背負つてゐるのだから、これはもう、人間同志の関係に幸福などありやしない。それでも、とにかく、生きるほかに手はない。生きる以上は、悪くより、良く生きなければならぬ
抜粋という量ではないが、どれもこれも私に刺さった。そうだな、そうだよな、と思いながら、やはり一方で小林秀雄に対する共感は消えない。坂口安吾の考えも心の底から賛同するが、私にはこれは生まれ持った性質の違いであって、どこまでも平行線で続くもの、同じ人間だからと同じ到達点に至らないところだと感じている。(これは全く持って私の感想なのだけれど)
坂口安吾のような人を私はとても好きだし、そういう言葉に救われることもあるのだけど、そのようになれるかというと別で、生来の考え方・捉え方は小林秀雄的な曖昧さに近い。
世の中はそのように曖昧に存在すると思っているし、言語化できないニュアンスを小林秀雄と共有していると私は感じてしまった。論理的に云々ではなく、直感でそう感じたというところが大きい。必ずしもすべての評論に納得するわけでもなく、小林秀雄先生万歳!となるほど心の底から納得しているわけでもないんだけど、なんとなく君の言いたいことはわかるよと思いながら読んでいたというのが近いかな。急に絵や音楽を思い出したり、自分の心がこういう風に動いたと書きまとめることを自分もやるからだろう。
特に好きだったのは「西行」の「いかにすべきか我心」が問題であった、という評論。
西行も、小林秀雄も、そして私もあまりにも自分の心を過剰に捉えているのかもしれないが、どうしてかそういう風になって生きているので、それを認識し変えようとしながらもどうしてもそうなる心というのを持て余しているのだ。
高校生の時に「行方無く月に心の澄み澄みて果ては如何にか為らんとすらむ」という一首に出会った時の衝撃を、小さいころからの自分と同じ状態を詠った歌人への同朋意識を、私はいまだに持ち続けている。
モオツァルトがかなしいか、いや全てがかなしいのである。
そういう心は浮世を離れてしまうので、坂口安吾的な人からの叱咤はいつも私を引き戻してくれるのだ。
もう少し小林秀雄を読みつつ、坂口安吾も読みたくなってきた。 -
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小林秀雄 「 作家の顔 」 作家論〜批判あり、尊敬あり、友情あり、感傷ありの作家論。打ち消し文や 難解な言葉が多くて 読んでいて 疲れるが、たしかに 面白い。
作家の実生活から 思想や著作の主題を抽出して 作家論に展開している感じ。
面白くて 興味を持ったのは 菊池寛、林房雄、イプセン「ヘッダガブラー」、パスカル「パンセ」、チェーホフ、ニーチェ。
ランボオ、富永太郎、中原中也 の批評は 感傷的。興奮や哀しみの中で一気に書いた感じ
顔の意味(解説 江藤淳 )
*顔=心眼に映った精神の相貌
*他人=自分を映す鏡→作家の顔=小林秀雄自身の顔
正宗白鳥 との 思想と実生活 論争
*人間とは何物でもない、作品が総て
*作家とは人心をむしばむ仕事
*あらゆる思想は 実生活から生まれる
*社会秩序とは 実生活が思想に払った犠牲
チェーホフ論「人生は 海苔巻きみたいなもの〜海苔は 思想とか...文士の好きな物質で出来ていて、人生は こいつにぐるりと巻かれている」 -
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小林秀雄 「 モオツァルト 無常という事 」 表題のほか、中世文学、日本美術、骨董に通じる美意識を捉えた随筆。美意識を 耳で捉えている印象を受ける。逆説的な表現も とても面白い
表題の「モオツァルト」はモーツァルトの愚劣な生活と完璧な芸術の不調和に目付けした名随筆。肖像画と実生活からモーツァルト像にアプローチする方法も斬新
「モーツァルト」で 語られた「美というものは、現実にある一つの抗し難い力であって〜普通一般に考えられているより遥かに美しくもなく愉快でもない」が、他の随筆の美意識にも つながっているように思う
「モーツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」について、モーツァルトの音楽に 疾走感はあると思うが「かなしさ」とは何か。レクイエム、ミサ、オペラなど作品の悲しさ? モーツァルトの天才ゆえの孤独の悲しさ?掲載時(昭和21年の敗戦直後)における聞き手の悲しさ?
著者らしい逆説的な名言の数々
天賦の才というモーツァルトの重荷
「才能があるおかげで仕事が楽なのは凡才に限る〜凡才が容易と見る処に〜天才は難問を見る〜強い精神は容易な事を嫌う」
「努力は困難や障がいの発明による自己改変の長い道だ。いつも与えられた困難だけを、どうにか切り抜けて来た苦労人は、発育不全な自己を持っている」
モーツァルト作品
*世間の愚劣な要求に応じ、あわただしい心労のうちに成ったもの。制作とはその場その場の取引であり〜熟慮専念する時間はなかった
*即興は彼の命〜外部からの不意打ちに対する決意の目覚め〜彼のこの世に処する覚悟
*モーツァルトは何も狙いはしなかった〜モーツァルトは目的地を定めない。歩き方が目的地を作り出した〜他人の歌を上手に模倣するほど、自身のかけがえのない歌を模倣するに至る
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小林秀雄 「 ドストエフスキイの生活 」 人物評価的な略伝のカテゴリーに入ると思う
著者のドストエフスキー像は逆説的な表現が多い
*人間は作品の原因なのでない〜むしろ、人間は作品の結果なのである
*事件は彼にふりかかったのでなく、彼の運命が事件を希望したのである
キーワードは、生活、病者の光学、パウロの回心
「本居宣長」など他の作品とは方法論が異なるように思う
生活者は 労働(芸術)のために生きている人とのこと。小林秀雄は、労働を奪われたら生きていけない人を生活者と呼び、ドストエフスキーを生活者とみている
病者の光学とは、死から復活した人間として対象を捉えること。小林秀雄のドストエフスキーを見る病者の光学としての目線は、本居宣長になって宣長の目で見ようとする小林秀雄の態度とは方法論が異なる
回心や復活を、プネウマティコン(神から人に吹く作用)という言葉で捉えている。「罪と罰」を ラスコーリニコフ(=罪を犯す資格を失っている人間)が、プラウマティコンにより、ムイシュキンとして復活する物語としている
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小林秀雄という名前は聞いたことがあったが、初めて読んでみた。
生の経験や対話を重視する言葉がいくつも出てくる。
科学を否定するように聞こえる言葉もあるが、科学という一つの物差しで測れない人とのつながりや生きる意味など、そういうものにまで科学を取り入れようとする(また測れないから無用だとする)風潮を否定するように感じられた。
で、科学的な手続きによらないひらめきのようなものも人間には確かにある。
何年に何が起こって、その証拠がこれで…という考古学も必要だが、歴史上の人物の思想や信念に身を委ねるうちに、自分の思いや信じることに気づくこともできる、まるで鏡に写したように。
そういう、自分というものを自分の手応えで築いていく力強さを感じた。
ただ急いで付け加えると、自分一人で考えた自分本位なものではなく、徹底的に古典にあたり、人との交わりから自分を研ぎ澄ます、対話によって作り上げるものなのだ。
良い質問が作れればもう答えは必要ではない、
上手な質問とは、自分にとって切実なことを尋ねたものである、
答えばかりを探し求める風潮に対し、質問が大事だと小林秀雄が言い切っている。
いい質問を、自分なりに作り、対話をしたい、そう思った。 -
購入済み
小林秀雄の集大成というべき作品だと思います。毎回批評の切り口が斬新で、読者に新たな気づきをもたらしてくれます。難しい内容もありますが、教養として知っておくべき知識が盛り込まれているので、人生観を豊かにしてくれる作品でもあると思います。