小林秀雄のレビュー一覧
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新潮文庫は、中身はいい本を出すのに、外濠というか脇というか、周辺部分が雑すぎるやろ。
まず帯文。
「すれ違いの雑談か、歴史に残る対話か。~」とあるが、表面的に見ても実際的に見てもすれ違い要素ゼロやろ。
不誠実じゃのう。
あと、背表紙の紹介文。なにが「主題は激しく転回する」だよ。ずっと同じことについて話してたろ。
茂木健一郎の文章も、間違ったことを書かないよう、理解できていないのを指摘されないよう、根っこで怯えてるのが透けてる。
こんな眠たい文章なら、ない方がましやろ。
二人の、経験に基づいた洞察及びそれらを互いに引き出し、相違点を超えて収束していく様は、対話の究極的な理想系のように映じた。
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Posted by ブクログ
大変愉しく面白い本だった。
ちょうどソーシャルワークの倫理綱領を勉強しているときに読んだ。
そのタイミングで読めたことも大変面白かった。
言語が違えども言っていることの本質を捉えながら、私たちは話すことができる。
なんとなく像は見える。目指すものは見える。設定ができる。ただそれを明確に捉えることはできない。それは像として設定することに意味があり、明確に指定することに意味がない。
人間は、非常に複雑で面白い。いや、この世の全ては非常に複雑で面白い。理想は掲げるものであり、理想を体現し創り出すことではない。ただ向かう方向を指す。
複雑で難解な問いがこんなに目の前にある。
難しければ難しいほど -
Posted by ブクログ
あとがき(?)に茂木健一郎氏が書いておられた「声に出して読みたい対話」という表現に深く同意します。
思索のつながりが言葉となって浮かび上がり、それがお二人の対話という形で表されている、何とも贅沢な一冊でした。使われている言葉が体や情緒とつながっている感じがするのも、読みやすく感じる一因かもしれません。人間というものの成り立ちや日本人として自然とそうなってしまうことについてもわかりやすく表現されているように感じました。
今の時代を生きる上での生きづらさはどこにあるのか。日本で暮らす人たちがかつて大切にしてきたことと「今」の間にはどのような違いがあるのかを考察するためのヒントに満ちた対話集でし -
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40年以上ぶりの再読。
熊野純彦を含め、近年の本居本に飽き足らず、小林に回帰。
二十代で初読したときには、何ひとつ理解できていなかったことを痛感した。
晩年の小林は、ここでも相変わらず、対象を語りながら自分自身を語ってしまうといういつものスタイルのように一見見える。しかし、よく読むとそうではない。
あの自信たっぷりに断定口調でものを言う小林が、逡巡に逡巡を重ね、思索に思索を重ねながら、少しずつ本居に肉迫しようとするその執拗さが読むものに深い感銘を与える。この上巻では、22章における宣長の歌論をめぐる小林の語り口は実にためらいがちだ。もっとも、宣長自身が自分の見解の説明に苦労しているわけだが。
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ものを考えるということ、ほんとうに知を愛し、表現する存在を愛しているのだと思わずにはいられない。
驚き、考え、疑い、そして信じるということに出会う。そしてまた疑う。上手に質問するということは、答えを出すことではなく、その問い自体を問い続けること。生きること死ぬこと、そこから出発しなくて何を問うというのか。信じることと疑うことはいつも表と裏の関係である。
歴史とは、よく思い出すこと、これは大森先生がことばの論理で考えた通り、記憶とはことばによるより他ない。歴史的な事実、考古学的な事実といった唯物的な論理を持ち出さなくてもよく思い出せることこそ歴史家の力だと
それが本居宣長であり、さまざまなひとの -
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小林秀雄氏は、やはりとっつきにくい、何度も目を通すも、本書は流れがあってまだましであった。
文芸春秋に記載されたエッセイであるが、各項目は、流れをもっていて「考えるヒント」よりは、分かりやすかった。
気になったのは、次です。
・喧嘩という言葉は、大石内蔵助の使っている言葉で、たかが喧嘩に過ぎぬ。と彼は、「浅野内匠頭家来口上」で明言している。
・切腹という封建的処刑の方式は、今日の絞首刑より、それほど、野蛮なわけはなかった。内匠頭は首を討たれたのであって、腹をきったのではない。
・内匠頭の処分は、裁決に将軍綱吉が口をきいたが為に、喧嘩両成敗という当時の法の情k式を全く無視した異例の仕儀となっ -
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本文は、モーツァルト・美を求める心と題して、noteで投稿したものです。
水曜日の朝、ぼくはモーツァルトのシンフォニー第40番第1楽章を聴いて、泣きそうになったのを思いだす。その日は、いつもより早く起きていたから丁度良いと思い、かけていた。
しかし、何故モーツァルトは、シンフォニーで何役にも転じたのか、語り部であり、聴者であり、忘れ河である。
彼は、自らの楽曲の中で自問自答を繰り返していたのか。
ふとそんなことを思い、狂った感覚が襲った。
しかし、ぼくは音楽に詳しい訳では無い。空き時間に未開の地に足を踏み入れんとする者である。
しかし、不思議だ。あの時に感じたものはいまでは、やはり偽り